聖書日課 デボーションノート
聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。




タイに派遣されている知り合いの日本人の宣教師から、メールで近況を知らせて頂きました。被害の多くは、南部の海岸沿いの地方で、ニュースで報道されている通り、世界的にも有名な観光地などに集中しているようです。
そのため、多くのヨーローッパ人も被害にあわれたようで、精神的ケアのために、多くの宣教師たちが現地に出向いてフォローをはじめているようです。
しかし、イエス様の御降誕をお祝いするクリスマスの時期に、バカンスで旅行に出かけていた方々に、どんな慰めの言葉がかけられるのだろうか、と考えてしまいました。
きっと被災された人たちは、自分たちを責め、休暇で楽しんでいたことを後悔するのでは・・・と心配してしまいます。
でも、きっと、主に用いられる働き人たちは、主の霊に導かれて、被災された方々に必要な慰めの言葉を投げかけてあげられることと期待しています。

ヨエル3:1 その後わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し老人は夢を見、若者は幻を見る。
3:2 その日、わたしは奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ。
3:3 天と地に、しるしを示す。それは、血と火と煙の柱である。
3:4 主の日、大いなる恐るべき日が来る前に太陽は闇に、月は血に変わる。
3:5 しかし、主の御名を呼ぶ者は皆、救われる。主が言われたようにシオンの山、エルサレムには逃れ場があり主が呼ばれる残りの者はそこにいる。

慰めに満ちた神様の慰めの御言葉が、災害を免れた方々の上にありますように。
そして、被災された多くの方々に、主の恵が豊かにありますように。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




ここ数日、毎日のように、インドネシア・スマトラ島沖で起こった地震による津波の被害の様子が報道されています。
このような大きな災害が起こるたび、やはり、確実に主の再臨の時が近づいているのだろうと思わされます。
だからこそ、私たちも心を込めて主の救いの良き知らせをお伝えしなければなりません。
そして、神の御言葉を聞く者も、悔い改めて神に立ち返ることを拒まないで頂きたいのです。

本日、一人のお年寄りの方が洗礼を受ける決心をされました。長年、人一倍努力をして生き抜いてこられた方ですから、そういうお方が悔い改めて神を信じるようになるということは、本当に素晴らしい事であり、大きな決断であったろうと思います。
しかし、そのような素直な心を神様はお求めになっておられるのです。

ヨエル2:12 主は言われる。「今こそ、心からわたしに立ち帰れ 断食し、泣き悲しんで。
2:13 衣を裂くのではなく お前たちの心を引き裂け。」あなたたちの神、主に立ち帰れ。主は恵みに満ち、憐れみ深く 忍耐強く、慈しみに富み くだした災いを悔いられるからだ。
2:14 あるいは、主が思い直され その後に祝福を残し あなたたちの神、主にささげる穀物とぶどう酒を 残してくださるかもしれない。

真の神、主イエス・キリストの神様は、あわれみ豊かなお方ですから、素直に悔い改めて神に立ち返る者を決して見放したりはしません。仮に、かつて、神様に裁かれても仕方のないような人生を歩んでいたとしても、それらの裁きを、一切思いなおしてくださり、それどころか、これ以上ないほどの祝福で満たして下さるのです。
どうか、そのような憐れみ豊かな神を、あなたも受け入れてみてはいかがでしょうか。
きっと、豊かな豊かな祝福が、あなたの上にも注がれる事でしょうから。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




早いもので、2004年も、もうあと4日を残すところとなりました。
町の景色も、クリスマスを過ぎれば、あっという間に、お正月の飾りつけへと変わっていきます。
クリスマスの浮かれ気分をキリッと引き締めるためにも、クリスマスツリーを、サッと門松に変えるのも悪くはないかなあと思います。でも、結局は、おとそ気分には変わりないわけで、相変わらず、浮かれ気分のままで過ごしている人も多いかもしれませんね。

ヨエル1:5 酔いしれる者よ、目を覚ませ、泣け。酒におぼれる者よ、皆泣き叫べ。泡立つ酒はお前たちの口から断たれた。

ヨエル(酔える?)書ですが、この書では、酔っていないで、主の日の到来に備えて目を覚ましていなさいと戒められています。
平和で豊かな国に暮らす者として、信仰の目を覚まし、何が大切で、何が重要なことであるのか、常に心に留めつつ、主の新しい年をお迎えしたいものです。

新しい年、主の御旨に適う歩みが出来ますように。
古い肉の生き方を改め、新しい命の約束を頂いた者として歩む事ができますように。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




イザヤ52:7 いかに美しいことか山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え救いを告げあなたの神は王となられた、とシオンに向かって呼ばわる。
52:8 その声に、あなたの見張りは声をあげ皆共に、喜び歌う。彼らは目の当たりに見る主がシオンに帰られるのを。
52:9 歓声をあげ、共に喜び歌え、エルサレムの廃虚よ。主はその民を慰め、エルサレムを贖われた。
52:10 主は聖なる御腕の力を国々の民の目にあらわにされた。地の果てまで、すべての人がわたしたちの神の救いを仰ぐ。

クリスマスおめでとうございます。
この世界に、主なる神ご自身が人となってお生まれになられたことは、私たちの想像をはるかに超えた、不思議な神様の御業です。
なぜなら、この世界は、聖なるお方の住まわれるような麗しい場所ではないからです。
この私もしかり。

しかし、神様は、そんな私たちの世界に来られたのです。
そして、そのことを通して、私たちを聖なる神の御国へと招き入れようとしてくださったのであり、私たちは、その約束として、救いの恵を頂きました。

世に来られた神の御子イエス様。それが、どんなに人の目にみすぼらしいものに見えても、私たちには、実に麗しいお方。世間の誰もが見向きもしようとしなくても、馬小屋でお生まれになられた小さな幼子を、私の主、私の救い主としてあがめます。

どうか、新しい年、イエス様の御救いが一人でも多くの方に真実として明らかにされますように。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




ルカ2:10 天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。
2:11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。
2:12 あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」

クリスマスおめでとうございます。
世界中の全ての民のために、神ご自身がお与え下さった大きな喜びの知らせ、救い主イエス様のお誕生を心から感謝申し上げます。
そして、全ての栄光は、このお方の御手にあり、私たちの上には真の平和があります。

ルカ2:13 すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。
2:14 「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」

主の新しい年も、大きな喜びに満たされる年となりますように。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




この箇所は「マリアの賛歌」と呼ばれる箇所です。
マリアの賛歌は、実に素晴らしい賛美の歌であり、祈りの言葉であるといえます。

まず、「わがたましいは主をあがめ・・・」と、私のたましいが主を褒め称えようとしていることを率直に告げ、続いて、その理由として、主が私に対して大きな事をして下さったということを賛美しています。
どんな賛美でも、この二つの要素は大切です。なぜなら、賛美とは、神様が私を祝福して下さったことに対する感謝の歌でもあるわけですから、神様の御業と何の関係もない賛美はありえないし、同様に、私自身と何の関わりもない賛美もありえないからです。
マリアの賛歌は、このあと、神のあわれみは、私だけに留まらず、代々にわたって続き、高ぶる者を追い散らし、さげすまれている者を高められると言う風に、人間の手によっては決して成しえない御業を現すことによって、その御業の素晴らしさが歌われています。そして、その御業は永遠であると。

今の時代に生きる者にとっては、我々は単に「代々にわたって」の一部に過ぎないのかもしれませんが、それでも良いような気がします。なぜなら、この賛美の歌は、マリアを祝福された神様の永遠に続く祝福の御業が私たちにも及ぶということなのですから、等しい恵みに与ることができるという約束が含まれているからです。
ならば、私は私として、私に与えられた祝福を感謝し、私にできる最高の賛美を捧げる事で生きて行きたいものです。

私のたましいも主をあがまめます。こんな小さな者をも尊いイエス様の命の代価で救って下さったからです。この恵みは、いつまでも永遠に全ての人間に約束されたものだからです。アーメン。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




ハバクク1章には、神を畏れぬ民が、己の強欲にかられ、勝手気ままにふるまい、地上において、暴虐の限りを尽くしていく様子が語られています。
これに対し、預言者ハバククは、神が何とお応えになるか、伺いを立てます。
2章では、この伺いに対する主なる神様の応えが告げられます。

ハバクク2:2 主はわたしに答えて、言われた。「幻を書き記せ。走りながらでも読めるように板の上にはっきりと記せ。
2:3 定められた時のためにもうひとつの幻があるからだ。それは終わりの時に向かって急ぐ。人を欺くことはない。たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない。
2:4 見よ、高慢な者を。彼の心は正しくありえない。しかし、神に従う人は信仰によって生きる。」

主なる神様は、預言者ハバククに対し、「定められた時、終わりの時は必ず来る。そして、その時のために幻を書き記すように。」と告げられ、たとえその時が遅くなろうとも、必ずやってくる、その時を待つようにと命じられました。

世界の各地で戦乱が深刻化し、経済的な要因によって軍事力が行使されるような時代にあって、もはやかつてのような平和な時代は期待できないかもしれません。
しかし、だからこそ、そんな時代だからこそ、主の定められた時を待つということ、主なる神様が正しい裁きをを持って神を畏れる者たちを「生きる者」としてくださる事を強く心に留めておきたいものです。
それが、私たちの信仰であり、「神に従う人は信仰によって生きる。」という御言葉の意味なのでしょう。




コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




ルカ1:45 主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」

この言葉は、天使からの受胎告知を受けて、祭司ザカリヤ夫妻のもとにやってきたマリアに対して、ザカリヤの妻エリサベツが語った言葉です。
エリサベツも、天使からの告知を受けて、バプテスマのヨハネを身ごもったばかりの身でした。
二人とも、信じられないような状況の中、静かに、主なる神様が告げられた言葉に信頼を寄せ、神の御心に従おうとする人生を歩んでいました。

ルカ1:38 マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。

立場は違うかもしれませんが、この言葉は、主イエス様を信じる全ての者が取るべき態度であると言えるでしょう。

わたしも主の僕の一人として、主の御言葉通りに従うことができますように。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




ルカ1:28 天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」

マリアのもとに使わされた天使ガブリエルは、最初に「おめでとう、恵まれた方。主があなたたとともにおられる。」と告げました。
このことは、もちろん、その直後に語られている、イエス様の誕生のことを告げているわけですが、「主がともにおられる」という言い方をしていることに、大きな慰めを感じます。

実際、マリアの胎の中には、まだ生まれてもいない、胎児の状態のイエス様が宿っておられ、確かに、主ご自身がマリアとともにおられたのです。
もちろん、私たちは、マリアと全く同じとはいかないかもしれませんが、聖書の御言葉を頂き、あるいは、見える御言葉の約束である、聖餐のパンとぶどう酒を頂くことによって、主御自身が、私たちの中におられることを味わわせていただくことができます。
私たちのうちに住まわれる主ご自身は、小さな小さな、からし種ほどで良いのです。とにかく、その主御自身がともにおられるという約束自体が大切なのですから。

今日も、主ご自身が私たちと共にいて下さることを感謝しつつ、平安のうちに歩めますように。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




ルカ1:13 天使は言った。「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。
1:14 その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。
1:15 彼は主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒や強い酒を飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、
1:16 イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。
1:17 彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する。」

ここには、救い主イエス・キリストの到来に先立って「前ぶれ」としての働きを担ったヨハネは、旧約聖書の偉大な預言者エリヤの霊と力を持って、イスラエルの子らを神である主のもとに立ち返らせる働きをすると語られています。
エリヤと言えば、列王記において、その活躍が記されていますが、それ以外の箇所では、旧約聖書の最後の預言書であるマラキ書に、その名が記されています。

マラキ3:23 見よ、わたしは 大いなる恐るべき主の日が来る前に 預言者エリヤをあなたたちに遣わす。
3:24 彼は父の心を子に 子の心を父に向けさせる。わたしが来て、破滅をもって この地を撃つことがないように。

この御言葉は、明らかに、ルカ1章において引用されている表現と言えるでしょう。
「父の心を子に、子の心を父に向けさせる。それは、この地の民が破滅することのないために。」
エリヤの到来の目的は、あくまで、人類の救済のため、滅びへと突き進んで行く事のないためです。
救い主をお迎えするために、悔い改めは必要ですが、滅び行く事の無いための悔い改めであることを覚え、神の聖なる御言葉の御前に、自分自身の内にある罪をざんげし、神の赦しを頂く者とならせていただきたいものです。
そうすることによって、はじめて、父なる神と、神の子供とされた私たちとの交流が実現するのですから。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )



« 前ページ