聖書日課 デボーションノート
聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。




マルコ15:1 夜が明けるとすぐ、祭司長たちは、長老や律法学者たちと共に、つまり最高法院全体で相談した後、イエスを縛って引いて行き、ピラトに渡した。
15:2 ピラトがイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」と答えられた。
15:3 そこで祭司長たちが、いろいろとイエスを訴えた。
15:4 ピラトが再び尋問した。「何も答えないのか。彼らがあのようにお前を訴えているのに。」
15:5 しかし、イエスがもはや何もお答えにならなかったので、ピラトは不思議に思った。

祭司長たちの手によって捕らえられたイエス様は、最高法院に引きずり出され、そこで「お前がユダヤ人の王なのか」と問いただされます。
縄で縛られたイエス様、そして、そのイエス様に向かって「あなたは王か」と問う人たち。
いかにも嫌味な問いかけであります。
しかし、彼らも真剣だったのです。
本当にわれらの王ならば、なぜそこから抜け出さないのか。

昨夜、ユースキャンプのメッセージで、メッセンジャーの先生が「イエス様は私たちの身代わりとなって囚われの身となってくださった」ということが語られました。
それは、罪と死と悪魔の奴隷となっている私たちを解放し、救うためであります。
そして、そのような縄目から私たちを解放してくださることのできる唯一のお方、イエス様こそが、真の王の王、主の主なのです。

イエスは主、私の救い主。
賛美を受けるにふさわしいお方。

今日も恵まれた一日となりますように。

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マルコ14:66 ペトロが下の中庭にいたとき、大祭司に仕える女中の一人が来て、
14:67 ペトロが火にあたっているのを目にすると、じっと見つめて言った。「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた。」
14:68 しかし、ペトロは打ち消して、「あなたが何のことを言っているのか、わたしには分からないし、見当もつかない」と言った。そして、出口の方へ出て行くと、鶏が鳴いた。
14:69 女中はペトロを見て、周りの人々に、「この人は、あの人たちの仲間です」とまた言いだした。
14:70 ペトロは、再び打ち消した。しばらくして、今度は、居合わせた人々がペトロに言った。「確かに、お前はあの連中の仲間だ。ガリラヤの者だから。」
14:71 すると、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「あなたがたの言っているそんな人は知らない」と誓い始めた。
14:72 するとすぐ、鶏が再び鳴いた。ペトロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」とイエスが言われた言葉を思い出して、いきなり泣きだした。

イエス様のことを3度も知らないと言ったペトロの気持ちは、おそらく、誰もが痛く感じるところだろう。
イエス様に従いたい。
しかし、自分の身に危機が迫ってくると、その気持ちはどこかへ消えてしまい、イエス様など知らないと言ってしまう。

自分の家では熱心なクリスチャンであっても、家を一歩外に出れば、イエス様のことは一切知らない人であるかのように振舞ってしまう。
それはもはや、クリスチャンではない。
クリスチャンとは、常にイエス様と共にあり、イエス様と共に生きるもの。
しかし、イエス様、それすらできない私たちを赦してくださる。
ご自分の命をもって。

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マルコ14:53 人々は、イエスを大祭司のところへ連れて行った。祭司長、長老、律法学者たちが皆、集まって来た。
14:54 ペトロは遠く離れてイエスに従い、大祭司の屋敷の中庭まで入って、下役たちと一緒に座って、火にあたっていた。
14:55 祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にするためイエスにとって不利な証言を求めたが、得られなかった。
14:56 多くの者がイエスに不利な偽証をしたが、その証言は食い違っていたからである。
14:57 すると、数人の者が立ち上がって、イエスに不利な偽証をした。
14:58 「この男が、『わたしは人間の手で造ったこの神殿を打ち倒し、三日あれば、手で造らない別の神殿を建ててみせる』と言うのを、わたしたちは聞きました。」
14:59 しかし、この場合も、彼らの証言は食い違った。
14:60 そこで、大祭司は立ち上がり、真ん中に進み出て、イエスに尋ねた。「何も答えないのか、この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか。」
14:61 しかし、イエスは黙り続け何もお答えにならなかった。そこで、重ねて大祭司は尋ね、「お前はほむべき方の子、メシアなのか」と言った。
14:62 イエスは言われた。「そうです。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る。」
14:63 大祭司は、衣を引き裂きながら言った。「これでもまだ証人が必要だろうか。
14:64 諸君は冒涜の言葉を聞いた。どう考えるか。」一同は、死刑にすべきだと決議した。
14:65 それから、ある者はイエスに唾を吐きかけ、目隠しをしてこぶしで殴りつけ、「言い当ててみろ」と言い始めた。また、下役たちは、イエスを平手で打った。

イエス様は、ご自分に対して不利な証言に対しては、一切、反論されることなく、むしろ、ますます反感を買うかのように、御自分が神の子メシアであることをはっきりと告げられるのである。
イエス様は御自分では自分のことを弁護することはなさらない。
それをなさるのは聖霊である。
そしてその聖霊による弁護は、イエス様こそが真の神の子メシアであることを告げるばかりである。

私たちも証をするとき、このような明確な立場、意図を持って臨んでいるだろうか。
自分の利益になるような弁護を自分で考え、そして、イエス様が神の子メシアであることを告げていないなら、私のうちに聖霊は働いてはいない。
自分の利益を求めず、イエス様が真の神の御子キリストであることを、もっともっと大胆に語り告いでいく者となりたいものである。

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マルコ14:51 一人の若者が、素肌に亜麻布をまとってイエスについて来ていた。人々が捕らえようとすると、
14:52 亜麻布を捨てて裸で逃げてしまった。

この青年が誰であったかという説はいろいろあると思う。
しかし、聖書に名前が記録されていない以上、断定することはできない。
しかし、この青年が、亜麻布をかぶってイエス様のあとをつけてきたことだけは事実であり、いかにも異様な姿であったのだろう。
本人は、自分が誰であるかわからないようにするために布をかぶっていたのかもしれない。しかし、かえって目立ってしまい、怪しいものと思われてしまう。

私たちも、つい、このような姿をしてしまうことがある。
罪の自分を隠そうと、かえって不自然な格好をし、怪しまれてしまう。
心のどこかに、罪を犯している自覚や、裁きに対する恐れがあるからなのだ。
このような罪意識や恐れから解放することのできる力は、ただただ、イエス様の救いの恵みによるものであることを覚えたい。
そのとき、私たちは、心の亜麻布を取り払い、イエス様に賛美の歌を持ってお従いすることであろう。

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マルコ14:43 さて、イエスがまだ話しておられると、十二人の一人であるユダが進み寄って来た。祭司長、律法学者、長老たちの遣わした群衆も、剣や棒を持って一緒に来た。
14:44 イエスを裏切ろうとしていたユダは、「わたしが接吻するのが、その人だ。捕まえて、逃がさないように連れて行け」と、前もって合図を決めていた。
14:45 ユダはやって来るとすぐに、イエスに近寄り、「先生」と言って接吻した。
14:46 人々は、イエスに手をかけて捕らえた。
14:47 居合わせた人々のうちのある者が、剣を抜いて大祭司の手下に打ってかかり、片方の耳を切り落とした。
14:48 そこで、イエスは彼らに言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。
14:49 わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいて教えていたのに、あなたたちはわたしを捕らえなかった。しかし、これは聖書の言葉が実現するためである。」
14:50 弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。

イエス様は、剣や棒を持ってイエス様を捕らえにきた者たちに、まるで強盗にでも向かうような姿勢で捕らえに来たのかと告げている。
もちろん、それは、祭司長らが使わした群集たちに対して語られているものであろう。
しかし、そこにはユダもいた。
ユダは、親愛のしるしである接吻を持って、どの人物がイエス様であるか群集に知らせるために付いて来ていたのである。
そのような裏切りの姿勢こそ、強盗にでも向かうような態度だったのかもしれない。

一見したところ、誠実で親愛の心を示すような態度であっても、その実は裏切りと強欲に満ちたものであるならば、そのような態度のほうこそ、卑劣で悪質極まりない。
そう思うとき「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいて教えていたのに、あなたたちはわたしを捕らえなかった。しかし、これは聖書の言葉が実現するためである。」とのイエス様の御言葉がいかにも卑劣な罪人である私の心に響いてくる。
私の心はどのような態度でイエス様に向かっているだろうか。
感謝と信頼、純粋な心で向かうことができますように。

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1テモテ信心の秘められた真理は確かに偉大です。すなわち、キリストは肉において現れ、“霊”において義とされ、天使たちに見られ、異邦人の間で宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた。

日本人が使う「神」という言葉は、何か、人より少し優れた能力や特質を持ったものを表現する場合に、いとも簡単に用いられてしまう。
しかし、それは、あまりにも安っぽいものとなりうる危険性があるのではないだろうか。
そして、何もかも、誰でもが神になりうる。
しかし、神は唯一、最高のお方でなければならない。
ならば、お一人でなければならない。
そして、その方は、私たちと同じ人間の姿をとり、全人類の救いを成し遂げられた主イエス様をおいて他にはいない。
世界中で、褒め称えられるのは、このお方のみである。
そして、そのような賛美を受けるにふさわしいイエス様を、私の神と信じている。

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マルコ14:32 一同がゲツセマネという所に来ると、イエスは弟子たちに、「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。
14:33 そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、
14:34 彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」
14:35 少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、
14:36 こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」
14:37 それから、戻って御覧になると、弟子たちは眠っていたので、ペトロに言われた。「シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。
14:38 誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」
14:39 更に、向こうへ行って、同じ言葉で祈られた。
14:40 再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。彼らは、イエスにどう言えばよいのか、分からなかった。
14:41 イエスは三度目に戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。
14:42 立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」

いよいよイエス様が十字架にかけられる時が近づいていた。
イエス様の悲しみは、イエス様を愛し慕いまつる弟子たちからさえも見捨てられることよりも、父なる神様ご自身から見捨てられることのほうが大きなものであったことだろう。
しかし、それらの悲しみも、全て、私たちの悲しみを担うため、担ってくださったことの証。
なぜなら、イエス様は私たちの身代わりとなって私たちのために十字架の裁きを受けられたからである。
しかし、そのおかげで私たちは、神様に愛された御子イエス様の祝福をイエス様の身代わりに頂くのである。
イエス様の悲しまれたお姿に、私たちの救いと平安が裏打ちされているのである。

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マルコ14:27 イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう』と書いてあるからだ。
14:28 しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」
14:29 するとペトロが、「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と言った。
14:30 イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」
14:31 ペトロは力を込めて言い張った。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」皆の者も同じように言った。

イエス様を慕い、命の限りイエス様に従う決心をしていた(はずの)弟子たちにとって、「あたなたがたは皆わたしにつまづく」との言葉は、とても辛く、受け入れがたい言葉であったことでしょう。
そして、事実、イエス様が捕らえられたとき、弟子たちは皆、イエス様を捨てて逃げ去ってしまうのです。
しかし、イエス様ご自身は、そうなることをご存知であられ、むしろ、それで良いかのようにおおせられているのです。

使徒8:1 サウロは、ステファノの殺害に賛成していた。その日、エルサレムの教会に対して大迫害が起こり、使徒たちのほかは皆、ユダヤとサマリアの地方に散って行った。
8:2 しかし、信仰深い人々がステファノを葬り、彼のことを思って大変悲しんだ。
8:3 一方、サウロは家から家へと押し入って教会を荒らし、男女を問わず引き出して牢に送っていた。
8:4 さて、散って行った人々は、福音を告げ知らせながら巡り歩いた。
8:5 フィリポはサマリアの町に下って、人々にキリストを宣べ伝えた。

イエス様の弟子たちが散らされていくことは、一見、力が分散され、教会が弱体化するように見える。しかし、それが単にバラバラになってしまうのではなく、新たな宣教の広がりへとつながっていることを覚えたい。

今日、私も自分が遣わされたところで、福音を宣べ伝えることができますように。

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マルコ14:10 十二人の一人イスカリオテのユダは、イエスを引き渡そうとして、祭司長たちのところへ出かけて行った。
14:11 彼らはそれを聞いて喜び、金を与える約束をした。そこでユダは、どうすれば折よくイエスを引き渡せるかとねらっていた。

イエス様を裏切ろうとしていたユダは、祭司長たちから金を受け取る約束をし、それ以来、どうすれば折りよくイエス様を引き渡せるかと考えをめぐらしていた。
どういう仕方が最も好都合か考えたことだろう。
しかし、おそらく渡される金額はあらかじめ聞かされていたであろうから、どのようにすれば、その後、自分が責められなくて済み、祭司長らのご機嫌を伺って、あわよくば、地位を確保しようと考えたのかもしれない。
ユダがどのような思いをめぐらしていたのかは、今となってはわからないことだが、同じ罪人の考えることだから、それほど私が思うこととは遠く離れていないだろうと思う。
そんな風に考えていたら、自分もイエス様を裏切ったユダと何ら変わらない罪人であることを思わされる。
私もイエス様を裏切っている。
自分の身を守ろうとして。
しかしその先に一体どんな祝福があるというのか。
たかだか銀貨三十枚のために命を損なうことになってしまっては、まさしく「たとい全世界を手にいれても、命を損じたら何の得になろうか」との主の御言葉の通りである。
目先の利益ばかりを追い求めるのではなく、主が与えてくださる救いと命、十字架に捧げられたイエス様の尊い贖いの代価による恵みを感謝しつつ、何よりも大切にしていきたいものである。

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マルコ14:3 イエスがベタニアで思い皮膚病の人シモンの家にいて、食事の席に着いておられたとき、一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。
14:4 そこにいた人の何人かが、憤慨して互いに言った。「なぜ、こんなに香油を無駄使いしたのか。
14:5 この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。」そして、彼女を厳しくとがめた。
14:6 イエスは言われた。「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。
14:7 貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない。
14:8 この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。
14:9 はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」

イエス様に高価な香油を注いだ女性の行為は、そこにいた人々の目に、なんとも無駄で無意味な行為として映ったようで、そのようなことをするくらいなら、その香油を売って、貧しい人に施すべきではないかと言っている。
しかし、実は、そのようなことを言う人に限って、普段、ほとんど貧しい人々に施しをしたりすることはしないのだ。
つまり、イエス様は、そのようなこともお見通しで「貧しい人々はいつもあたなたがたと一緒にいる」と仰せられたのであろう。
普段できないようなことは、なおさら、イエス様に対してできるはずはない。

マタイ25:31 「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。
25:32 そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、
25:33 羊を右に、山羊を左に置く。
25:34 そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。
25:35 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、
25:36 裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』
25:37 すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。
25:38 いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。
25:39 いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』
25:40 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』

日ごろの私たちの態度は、いつでも、イエス様に対するものであることを覚えたいものである。

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