歩行記録 H27-9-4(金)
歩行時間:4時間40分 休憩時間:2時間00分 延時間:6時間40分
出発時刻:8時25分 到着時刻:15時05分
歩 数: 30、793歩(推定距離23.1km) GPS距離22.6km
行程表
太田川駅 0:10> 83番 0:35> 86番 0:20> 85番 0:20> 84番 0:40> 5番 0:25> 88番 0:45> 87番 1:00>
桶狭間公園 0:25> 競輪場前駅
桶狭間
大高駅から東海道線沿いを南東に進み、丸根砦から桶狭間公園へ向かう比較的わかりやすい道を桶狭間に向かって歩いた。
桶狭間神明神社
地図に記載のあった桶狭間公園に着いたが、何となく公園のある雰囲気ではない。公園というより神社と思うが、ともかく地図に出
入口とある所から登ってみると、案の定そこは桶狭間神明社という神社だった。
仕方なく次に向かったのは桶狭間古戦場公園だが、途中に長福寺の案内があり “血刀濯ぎ(ちがたなすすぎ)の池” などの説明を
見て、興味を覚えて寄ることにした。
義元首検証の跡 血刀濯ぎの池 桶狭間合戦供養塔
長福寺の境内に入りまず目についたのが 「今川義元公首検証の跡」 の石碑。
最初に石碑を見たときは、義元の切られた首をここで調べたのかと思ったが、横のあった案内板には
「林阿弥が、織田方に捕らえられて、今川方武将の首検証をしたと伝えられる場所」 とある。
これを最初に読んだときは、捕らえて生きている武将の人物を確認するのも “首検め” と言うのかと思ったが、再度読み直してみると
今川方の林という人物が捕らえれ、今川の武将の首検めをした事のようだった。
“て” と “た” の違いで内容が変わってしまうのだから日本語は難しい。
「血刀濯ぎの池」 は、捕らえた今川の武将の処刑した刀を洗ったのではなく、合戦で血糊の付いた刀を洗ったようだ。
野田大坊には源美朝を切った刀を洗った “血の池” があり、その池の水が赤くなると国家の一大事が発生するとあったが、この池には
そんな言い伝えは無かった
今川義元・織田信長像
どうやら 「桶狭間古戦場公園」 が桶狭間のメインの公園らしく、石碑や銅像、案内板なども立っていて、中でも一番金が掛かって
いそうなのが、今川義元と織田信長の銅像だった。その信長像は鎧も粗末で手にした槍も何か一兵卒の雰囲気を出していた。
一方床几に腰かけた義元像は鎧も被っている烏帽子もいかにも武将らしく見える。
桶狭間の義元は太った体で馬に乗れずに輿で移動したとの説もあるので、デブの義元かと思ったがそんなこともなく良かった。
「近世の曙」 とあるのは、桶狭間の戦いのあと日本統一が行われ、戦国時代の幕が閉じたとをいっているのだろう。
義元公戦士の地 今川義元公 駿公墓碣
アレー?ここにも義元の戦死の場所や墓がある。そうなると東海道を歩いたときに見た、国指定の 「桶狭間古戦場」 にある義元の
倒れた場所に建つ墓はどうなるんだか??
写真右の 「駿公墓碣(すんこうぼけつ)」 は昭和28年に発掘された物だが、案内には ”当時の村人がひっそり供養したのではないか”
と説明されていたが、どうだろう。当時のこの辺りは織田と今川の争いが頻発していて、一番迷惑をこうむっていた村人が、敵の大将を
“ひっそり供養” をするものなのか、疑問だ。しかも墓を掘り出した場所が違うとなると、更にこの地を義元戦死の地とするのは嫌だな。
この公園には他にも 「義元公首洗いの泉」 と銘打った、石で囲まれた小さな水溜りがあったがどうなんだろう。
歴史上実際あった事象を、何の根拠もなくあたかも本当のように紹介するのは如何なものか。
そういえば東海道岡部宿に 「小野小町姿見の橋」 なるものがあるが、あれも好きではない。
どうやら私はこの種の話をユーモアとして納める度量がないようだ。
義元本陣跡
公園から住宅地の中を上った高台に 「今川義元本陣跡」 があった。その案内文が面白いので一部を紹介します。
「信長公記に 「今川義元は、おけはざま山に人馬の息を休めこれあり」 とある山は、この地で、合戦当時は、現在より8m程高い
山であった。戦当日の午後1時頃は、大雷雨で前記の公記に、この雷雨を 「余りの事に熱田大明神の神軍かと申候なり」 と記し
ている。
高地に着陣していた今川軍は、落雷により大混乱となっていた。武路の低地に侵入、攻撃の機を窺っていた織田軍は、好機となり
今川軍の右翼に突入した。槍を手から離して落雷を避けていた今川軍は武器を捨て、逃走した。追撃した織田軍は義元の塗輿を
発見、信長は大音声直ちに本陣攻撃を命じた。
今川軍は旗本三百余名、義元を中に円陣体形で退却中、士気上る織田軍は果敢な攻撃を繰返した。
今川軍は四散、義元は田楽坪に追い込まれて討死。午後4時ごろ、織田軍の勝鬨、狭間に谺していた。」
義元本陣跡 香川景樹歌碑
古戦場公園や桶狭間山のあった場所は名古屋市緑区で、これから行く桶狭間古戦場は豊明市に属している。この桶狭間の地名は
一部地域を指すのではなく 「漠とした広がりを持った地名語」なのらしい。よって古戦場や義元戦死の地も幾つか現れてしまった。
古戦場公園から2km程北にある名鉄中京競馬場前駅の近くにある、義元の本陣跡と義元の墓のある高徳院を尋ねた。
高台にある高徳院の新しい仁王門を潜った先に本陣跡はあった。特に案内するものは無かったが、香川景樹の歌碑があり、そこには
「あととへば 昔の時のこゑたてて 松にこたふるかぜの悲しさ 景樹」 とあった。
この歌碑が高徳院下の古戦場史跡の中にも立っていたが、若干書いてある漢字が違っていた。
「あと問へば 昔のときのこゑたてて 松に答ふる風のかなしさ 景樹」 となっていた。これを素人の私が漢字をいれるならこうなる
「跡 訪へば 昔の鬨のこゑたてて 松にこたふるかぜの悲しさ 景樹」 となるのだが。
石仏群 三頭石仏
境内の林の中の石仏群。ここで多くの駿河人が戦死したのだから、このような石仏は嬉しかった(その慰霊のためではないかもしれ
ないが)。その中に初めて見る頭が三つある石仏があった。双胎なら道祖神でよく見かけるが、このように同じくらいの頭が三つもある
石仏は初めて見た。何か意味があるのだろうか。
徳本名号 義元公仏式の墓 阿闍梨諦念墓
高台にある広徳寺の法面の竹林に三基の石碑があった。
徳本名号とは江戸時代の木食僧で、全国各地に “南無阿弥陀仏” 六文字の残している。ここでは戦死者の霊を弔うために建てた
ようだ。
次の墓は義元の墓だガ刻まれている文字は 「天澤寺殿四品前礼部侍郎秀峯哲公大居士」 とあるが、何のことか分からない。
実はこれは義元の戒名とかで、 “天澤寺秀峯哲公(てんたくじしゅうほうてつきん)” とは “秀でた峯は、奥深い道理を知る人、天
(ありのまま)の恩沢(めぐみ)” だとか。何だか全然分からないが注意する点は、この墓が江戸時代の万延元年に建てられたことが
はっきりしていることで、その当時から桶狭間古戦場はここで、義元はここで戦死したとされている点だ。
阿闍梨諦念墓には何の説明もないが “悟りを開いた阿闍梨の地位の高僧の墓” なのだろう。
史跡桶狭間古戦場碑 今川治部大輔義元墓
広徳寺のすぐ下に国指定の史跡桶狭間古戦場がある。その中で一番に気になったのは 「今川治部大輔義元墓」 である。
今までの義元の墓の中で一番大きいが、この墓にもこんなことが書かれていた。
「以前ここは塚であったが、明治9年に地元の人が、この墓を建てた」 とか 「通りかかった旅人が塚を義元の墓と間違えて、香華を
手向けていたので義元の墓碑を作った」 とある。となるとこの墓も義元の戦死した地とは言えない。
一体義元は桶狭間のどこで討死したのだろう。今日はその場所だという所を二か所回ったが良く分からない。
気分はこの豊明市の古戦場跡で討死したと思いたいのだが、理由は桶狭間古戦場公園には血刀濯ぎの池とか眉唾の物もあるし、
一番尤もらしい駿公墓碣も他所で発掘した物を展示しているに過ぎない。
その点ここは江戸時代の墓や歌碑などあり、しかも国指定の史跡でもある。
駅前のモニュメント 使った青春18切符
古戦場前を通る東海道を渡れば名鉄中京競馬場前駅だった。余りに近くて氷結を売っている店は無かったが、競馬場前の駅だから
きっと構内で売っていると思った。しかし残念当てが外れた。せっかく結願を迎えたのだから何としてでも乾杯をしたく、途中の乗換駅で
ホームを出てやっと買うことができた。こうなると執念です。
以上で知多四国の観歩記は終わります。
87番長寿寺から桶狭間への道
こんな長丁場なブログは初めてで疲れましたが、何とか年内に終わりました。
明日の元旦は初日の出が見られそうなので、満観峰の山頂は大賑わいでしょう。勿論私もその中の一員になるつもりです。
それでは良いお年をお迎えください。
歩行時間:4時間40分 休憩時間:2時間00分 延時間:6時間40分
出発時刻:8時25分 到着時刻:15時05分
歩 数: 30、793歩(推定距離23.1km) GPS距離22.6km
行程表
太田川駅 0:10> 83番 0:35> 86番 0:20> 85番 0:20> 84番 0:40> 5番 0:25> 88番 0:45> 87番 1:00>
桶狭間公園 0:25> 競輪場前駅
桶狭間
大高駅から東海道線沿いを南東に進み、丸根砦から桶狭間公園へ向かう比較的わかりやすい道を桶狭間に向かって歩いた。
桶狭間神明神社
地図に記載のあった桶狭間公園に着いたが、何となく公園のある雰囲気ではない。公園というより神社と思うが、ともかく地図に出
入口とある所から登ってみると、案の定そこは桶狭間神明社という神社だった。
仕方なく次に向かったのは桶狭間古戦場公園だが、途中に長福寺の案内があり “血刀濯ぎ(ちがたなすすぎ)の池” などの説明を
見て、興味を覚えて寄ることにした。
義元首検証の跡 血刀濯ぎの池 桶狭間合戦供養塔
長福寺の境内に入りまず目についたのが 「今川義元公首検証の跡」 の石碑。
最初に石碑を見たときは、義元の切られた首をここで調べたのかと思ったが、横のあった案内板には
「林阿弥が、織田方に捕らえられて、今川方武将の首検証をしたと伝えられる場所」 とある。
これを最初に読んだときは、捕らえて生きている武将の人物を確認するのも “首検め” と言うのかと思ったが、再度読み直してみると
今川方の林という人物が捕らえれ、今川の武将の首検めをした事のようだった。
“て” と “た” の違いで内容が変わってしまうのだから日本語は難しい。
「血刀濯ぎの池」 は、捕らえた今川の武将の処刑した刀を洗ったのではなく、合戦で血糊の付いた刀を洗ったようだ。
野田大坊には源美朝を切った刀を洗った “血の池” があり、その池の水が赤くなると国家の一大事が発生するとあったが、この池には
そんな言い伝えは無かった
今川義元・織田信長像
どうやら 「桶狭間古戦場公園」 が桶狭間のメインの公園らしく、石碑や銅像、案内板なども立っていて、中でも一番金が掛かって
いそうなのが、今川義元と織田信長の銅像だった。その信長像は鎧も粗末で手にした槍も何か一兵卒の雰囲気を出していた。
一方床几に腰かけた義元像は鎧も被っている烏帽子もいかにも武将らしく見える。
桶狭間の義元は太った体で馬に乗れずに輿で移動したとの説もあるので、デブの義元かと思ったがそんなこともなく良かった。
「近世の曙」 とあるのは、桶狭間の戦いのあと日本統一が行われ、戦国時代の幕が閉じたとをいっているのだろう。
義元公戦士の地 今川義元公 駿公墓碣
アレー?ここにも義元の戦死の場所や墓がある。そうなると東海道を歩いたときに見た、国指定の 「桶狭間古戦場」 にある義元の
倒れた場所に建つ墓はどうなるんだか??
写真右の 「駿公墓碣(すんこうぼけつ)」 は昭和28年に発掘された物だが、案内には ”当時の村人がひっそり供養したのではないか”
と説明されていたが、どうだろう。当時のこの辺りは織田と今川の争いが頻発していて、一番迷惑をこうむっていた村人が、敵の大将を
“ひっそり供養” をするものなのか、疑問だ。しかも墓を掘り出した場所が違うとなると、更にこの地を義元戦死の地とするのは嫌だな。
この公園には他にも 「義元公首洗いの泉」 と銘打った、石で囲まれた小さな水溜りがあったがどうなんだろう。
歴史上実際あった事象を、何の根拠もなくあたかも本当のように紹介するのは如何なものか。
そういえば東海道岡部宿に 「小野小町姿見の橋」 なるものがあるが、あれも好きではない。
どうやら私はこの種の話をユーモアとして納める度量がないようだ。
義元本陣跡
公園から住宅地の中を上った高台に 「今川義元本陣跡」 があった。その案内文が面白いので一部を紹介します。
「信長公記に 「今川義元は、おけはざま山に人馬の息を休めこれあり」 とある山は、この地で、合戦当時は、現在より8m程高い
山であった。戦当日の午後1時頃は、大雷雨で前記の公記に、この雷雨を 「余りの事に熱田大明神の神軍かと申候なり」 と記し
ている。
高地に着陣していた今川軍は、落雷により大混乱となっていた。武路の低地に侵入、攻撃の機を窺っていた織田軍は、好機となり
今川軍の右翼に突入した。槍を手から離して落雷を避けていた今川軍は武器を捨て、逃走した。追撃した織田軍は義元の塗輿を
発見、信長は大音声直ちに本陣攻撃を命じた。
今川軍は旗本三百余名、義元を中に円陣体形で退却中、士気上る織田軍は果敢な攻撃を繰返した。
今川軍は四散、義元は田楽坪に追い込まれて討死。午後4時ごろ、織田軍の勝鬨、狭間に谺していた。」
義元本陣跡 香川景樹歌碑
古戦場公園や桶狭間山のあった場所は名古屋市緑区で、これから行く桶狭間古戦場は豊明市に属している。この桶狭間の地名は
一部地域を指すのではなく 「漠とした広がりを持った地名語」なのらしい。よって古戦場や義元戦死の地も幾つか現れてしまった。
古戦場公園から2km程北にある名鉄中京競馬場前駅の近くにある、義元の本陣跡と義元の墓のある高徳院を尋ねた。
高台にある高徳院の新しい仁王門を潜った先に本陣跡はあった。特に案内するものは無かったが、香川景樹の歌碑があり、そこには
「あととへば 昔の時のこゑたてて 松にこたふるかぜの悲しさ 景樹」 とあった。
この歌碑が高徳院下の古戦場史跡の中にも立っていたが、若干書いてある漢字が違っていた。
「あと問へば 昔のときのこゑたてて 松に答ふる風のかなしさ 景樹」 となっていた。これを素人の私が漢字をいれるならこうなる
「跡 訪へば 昔の鬨のこゑたてて 松にこたふるかぜの悲しさ 景樹」 となるのだが。
石仏群 三頭石仏
境内の林の中の石仏群。ここで多くの駿河人が戦死したのだから、このような石仏は嬉しかった(その慰霊のためではないかもしれ
ないが)。その中に初めて見る頭が三つある石仏があった。双胎なら道祖神でよく見かけるが、このように同じくらいの頭が三つもある
石仏は初めて見た。何か意味があるのだろうか。
徳本名号 義元公仏式の墓 阿闍梨諦念墓
高台にある広徳寺の法面の竹林に三基の石碑があった。
徳本名号とは江戸時代の木食僧で、全国各地に “南無阿弥陀仏” 六文字の残している。ここでは戦死者の霊を弔うために建てた
ようだ。
次の墓は義元の墓だガ刻まれている文字は 「天澤寺殿四品前礼部侍郎秀峯哲公大居士」 とあるが、何のことか分からない。
実はこれは義元の戒名とかで、 “天澤寺秀峯哲公(てんたくじしゅうほうてつきん)” とは “秀でた峯は、奥深い道理を知る人、天
(ありのまま)の恩沢(めぐみ)” だとか。何だか全然分からないが注意する点は、この墓が江戸時代の万延元年に建てられたことが
はっきりしていることで、その当時から桶狭間古戦場はここで、義元はここで戦死したとされている点だ。
阿闍梨諦念墓には何の説明もないが “悟りを開いた阿闍梨の地位の高僧の墓” なのだろう。
史跡桶狭間古戦場碑 今川治部大輔義元墓
広徳寺のすぐ下に国指定の史跡桶狭間古戦場がある。その中で一番に気になったのは 「今川治部大輔義元墓」 である。
今までの義元の墓の中で一番大きいが、この墓にもこんなことが書かれていた。
「以前ここは塚であったが、明治9年に地元の人が、この墓を建てた」 とか 「通りかかった旅人が塚を義元の墓と間違えて、香華を
手向けていたので義元の墓碑を作った」 とある。となるとこの墓も義元の戦死した地とは言えない。
一体義元は桶狭間のどこで討死したのだろう。今日はその場所だという所を二か所回ったが良く分からない。
気分はこの豊明市の古戦場跡で討死したと思いたいのだが、理由は桶狭間古戦場公園には血刀濯ぎの池とか眉唾の物もあるし、
一番尤もらしい駿公墓碣も他所で発掘した物を展示しているに過ぎない。
その点ここは江戸時代の墓や歌碑などあり、しかも国指定の史跡でもある。
駅前のモニュメント 使った青春18切符
古戦場前を通る東海道を渡れば名鉄中京競馬場前駅だった。余りに近くて氷結を売っている店は無かったが、競馬場前の駅だから
きっと構内で売っていると思った。しかし残念当てが外れた。せっかく結願を迎えたのだから何としてでも乾杯をしたく、途中の乗換駅で
ホームを出てやっと買うことができた。こうなると執念です。
以上で知多四国の観歩記は終わります。
87番長寿寺から桶狭間への道
こんな長丁場なブログは初めてで疲れましたが、何とか年内に終わりました。
明日の元旦は初日の出が見られそうなので、満観峰の山頂は大賑わいでしょう。勿論私もその中の一員になるつもりです。
それでは良いお年をお迎えください。
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