歩行記録 H28-4-15(土)
歩行時間:6時間45分 休憩時間:2時間15分 延時間:9時間00分
出発時刻:6時40分 到着時刻:15時40分
歩 数: 43、739歩(推定距離30.62km) GPS距離31.3km
行程
はばたき橋 1:40> 登山口 0:45> 高根山 0:50> 県道出合 0:50> 勝間田公園 1:10> 勝間田城址 1:30>
諏訪原城址 1:00> 金谷駅
諏訪原城址
県道出合(地図表示) 三面六臂馬頭観音
車の停まっている場所が県道合流地点です。正面に見える採石場は高根山と県道を挟んだ北側の採石場です。
県道脇に二体の馬頭観音が祀られていました。その内の一体は三面六臂(さんめんろっぴ)の座像の馬頭観音です。
馬頭観音の石仏自体は珍しくないが、このように三面六臂の馬頭観音は、この辺りでは中々お目にかかれません。
「おん あみりと どはんば うんはった そわか」
勝間田公園入口 勝間田公園入口
面白みのない車道を勝間田公園に向かう。つつじ祭りは既に終わったのか駐車場に止まっている車は少ない。
勝間田公園 勝間田公園
途中にあった公園の案内板には 「みやまつつじ」 とあったが、公園内の案内板には 「コバノミツバツツジ(小葉の三葉躑躅)」 と
なっていた。そこでネットの植物図鑑で “ミヤマツツジ” を調べたが、その名で記載されたツツジはなかった。
どうやら “ミヤマツツジ” は通称らしいので、案内板は “ミツバツツジ” としてほしいところだ。
そのツツジは既に盛りを過ぎていて、花の色は薄く葉が目立つようになっていた。山頂の広場にも家族連れが1組いただけの
静かな勝間田公園を早々に引き上げ、次の勝間田城址に向かう事にした。
錆び始めた陳列列車 三葉つつじ
写真で見れば普通に展示された列車のように見えるが、実際は塗装が剥がれだしてボロボロしているし、窓は割れているのか
新聞紙を張ってある。すでに見学はできない状態で立入禁止のロープを張ってある。
屋根も無く、雨ざらし日晒しの状態なので、例え頑丈な鉄製の列車も経年劣化で錆びてボロボロになるだろう。
道路脇の花壇の中に歌碑があったので読んでみた。
遠足 ちなつ
えんそくは 久し振りに行ったよ
あの頃とは ちがって 今の私は 車椅子
だれかに押してもらわなければ どこにも行けれない
くたくたになるまで あるけたら どんなにか幸せだろうと思う
私は両方やったから 幸せだね
おかあさん ありがと
咲いていたミツバツツジは勝間田公園のツツジより色も濃くきれいだった。
それにしても勝間田城址に中々着かない。前回は勝間田川左岸沿いの県道を南に下ったが、今日は右岸の旧道を歩いている。
若干の登り勾配だが大したことが無いのに前回より疲れを感じるのは、気温が高くなったせいだろうか。
勝間田城址案内板 勝間田城址入口
やっと勝間田城址の入口に到着。低くしゃがまないで済む場所を探して、今日初めて腰を下ろして休憩をした。
ここでの目的は前回見落とした “南曲輪” の見学だが、見たって別にどうと云う事が無いのは分っている。しかし見残しがあると
気分が良くないので、それを解消するだけの目的だ。
勝間田城へは新芽の伸びた茶畑の中の登城路を歩くので気分が良い。かってここに城があった時はどういう状態だったのだろう。
詰城だった勝間田城なので、城主をはじめ家臣たちの屋敷がこの辺りに建っていたのかもしれない。
そんな空想をしながら写真を撮ると、シャッターを押すと同時にレンズが自動的に収まってしまって 「電池を交換してください」 と
表示されてしまった。アーア 昨夜充電するのを忘れてしまったのだ。
で、以後は写真はありません。
南曲輪と腰曲輪は東尾根曲輪(多分)から細い道で通じていた。だが曲輪自体は狭く、兵が10人入れるかどうかだ。
位置は本丸の横なので、敵が来襲した時は本丸と曲輪で敵を挟み撃ちにはできるだろう。
とは云え、ここまで敵兵が侵略してしまえば最早落城は間違いないだろう。この手の城は籠城が目的なので、いったん敵が
城内に入ってしまえば為す術はなかったろう。
本丸の後ろから “一騎駆” の道を通り裏山に出る。前回ここを下った時は急な斜面で驚いたが、登りに歩けば左程のことはなく
上の駐車場に着いてしまった。この道は勝間田城落城の際、落武者となった城兵達が同盟軍の横地城を目指して落ち延びた道か、
それとも勝間田城を攻撃した今川勢が密かに忍び込んだ道なのだろうか。どっちにしても正しく強者どもの夢の跡だ。
勝間田城址から金谷の諏訪原城まで牧の原台地の上の道も長い。茶畑はそこかしこにあるが平地の茶畑は見栄えがしない。
吉野の桜が一目千本と云われるのは、丘陵の上から見るからであって、平地ではそれこそ一目百本に過ぎないだろう。
茶畑も同じで斜面にウネウネとした茶の畝が見えなければ価値は半減する。
平地の茶畑の “一目千本” は茶の木ではなく防霜ファンを指す言葉とも言えるだろう。それにしてもお茶屋が多いのにも感心
する。それも製茶工場を持った製造販売が多く、通信販売で有名なお茶の荒畑園もあった。
諏訪原城縄張図
諏訪原城は武田勝頼が遠江侵攻の拠点とするため遠州の入口の牧ノ原台地に築いた城で、城内に諏訪大明神を祀ったことから
諏訪原城の名になったと云われている。
遠州拠点の城、高天神城を攻略するための陣城として築城したが、攻略後は兵站基地としての重要な役割を担っていた。
1575年5月、徳川家康は長篠の戦で勝頼を敗走させると、その勢いをもって諏訪原城を攻撃し1ヶ月の攻防の末に落城させた。
高天神城の兵站基地であった諏訪原城が落城すると、補給路を封じられた高天神城の士気は弱まり、1581年落城した。
そんな歴史のある諏訪原城の特徴は
・武田流築城術が随所にあり、特に三日月堀や丸馬出残っている。
(三日月堀=三日月のように半円形の堀。 丸馬出=半円形の城の戦闘用出入口)
・城の後方は断崖絶壁で当時はその下を大井川が流れていた。
(“天正の瀬替” により大井川の流れが東に移動した。)
・城域内を東海道が通過し、物資の調達が容易だった。
などが挙げられるが、私のような城音痴が見ても、その堀の深さには驚きます。一般に山城の堀は空堀で浅く、余り防御には
役立たないような物が多いが、ここの堀は如何にも堀と云った感じがし、一ヶ月の長い籠城戦を戦えたのも頷けます。
徳川の城となった諏訪原城はさらに強固に改修されて、今度は駿河を守る城となったが、家康が江戸に移るとあっけなく
廃城されてしまった。
狸親父の家康は江戸を守るために経費が掛かる城より、大井川に橋を架けさせない方を選んだのだろう。
(以後の写真は昨年暮の歩き納めの時の写真です)
三号堀 最近掘り出された堀
三号堀は二の曲輪の馬出部分の三日月堀の堀で、丸みを帯びた堀が分かります。長さは70m、巾14.5m
三号堀の先では年末に行った時は発掘調査中だったが、今は整備も終わり散策路もできていた。
本曲輪馬出 本曲輪(天守台)
本曲輪・本丸・天守台など表示されたこの城の主要部分。
「本丸跡:城主の居住するところで 軍政を司る所」
「天守台地:この城は山城であり天守閣はなく 二層からなる矢倉(櫓)があり 物見が常駐しており 敵の動きを監視していた。」
オヤ? どっちの表現が正しいのだろう。物見櫓かそれとも城主の住まいか? 余りケチはつけず両方あったとしておこう。
城の名称は難しい。ここにも曲輪や本丸、櫓などの表現があるが、いわゆる曲輪とは、
「城の内外を土塁、石垣、堀などで区画した区域の名称。」で、要は曲輪とは建造物ではなく区域を指している。
一方本丸とは 「城の中核となる曲輪の名称。一の曲輪・本曲輪・一の丸とも称する。」 と曲輪なのだ。
さらに櫓は 「防御や物見のために建てられた建築物」 で、昔は “矢倉” と云う字を使っていたように、武器の収納庫でもあった。
本曲輪から カンカン井戸
本曲輪は平らな平地で如何にも城の中枢部があった場所のように見える。ここにあった物見櫓がどちらの方向を監視していたか
分からないが、現在は北東の方向が開け、金谷と島田の町を分断する大井川。さらにその遠くには富士山も見える場所だった。
今日はカンカン井戸からメインの散策路ではないが 「水の手廓」 に下りてみた。
水の手曲輪とはその名の通り 「当城で使用される水の水源地である。現在は地域の簡易水道の水源地となっている。」 そうです。
しかし矢印の付いた標識に従い下ったものの、水源だったと思われる桝から溢れ出した水が辺りに溜まっていて、山の格好だから
良いようなもので、街着の見学者は止めた方がよさそうな散策路だった。
この散策路を下れば旧国道1号線に出るのだが、今日は途中の分岐を上に登る道を辿って城の何処に出るのか調べてみた。
するとその道は城から離れ送電線の鉄塔の下に通じていた。更に上に行くと城と金谷石畳に通じる車道に出た。
こんな道を歩く見学者はいないだろうが、入口の標識があるのだから分岐にも標識を付けるべきだろう。
サーここからどうしよう。大井川の河川敷を歩いて家まで帰るか。それともこのまま金谷駅ゴールとすべきか。
時間は15時で距離は29km。もう少し歩いても支障の無い時間と距離だと随分迷ったが金谷駅ゴールとした。
昨日の蕨採りの屈伸運動で足腰も痛いので 「無理」 は止めて、歩き納めで知った金谷の酒屋で氷結を買って乾杯しよう。
実はこの酒屋で前回賞味期限が近い氷結を1本75円で買う事ができた。勿論飲んでも何の支障も無いし味も変わっていない。
まだあの氷結があるかなと若干期待をして酒屋に向かった。
だが店は開いているもの何度声を掛けても応答がない。諦めかけて棚の上を見ると 「試供品です。ご自由にお持ちください」 と
書かれた紙の上に氷結が3本置いてあった。賞味期限を見るとまだ1年以上もある。何故それが試供品なのか?
理解できなままここでもまた悩む。貰っていい物なのか悪い物か。サーどうしよう。
100円おいていこうかと思ったが、それでは前回より高くなってしまう。エイ! 試供品だ。貰っていこう。
格別に美味しい乾杯でした。
歩行時間:6時間45分 休憩時間:2時間15分 延時間:9時間00分
出発時刻:6時40分 到着時刻:15時40分
歩 数: 43、739歩(推定距離30.62km) GPS距離31.3km
行程
はばたき橋 1:40> 登山口 0:45> 高根山 0:50> 県道出合 0:50> 勝間田公園 1:10> 勝間田城址 1:30>
諏訪原城址 1:00> 金谷駅
諏訪原城址
県道出合(地図表示) 三面六臂馬頭観音
車の停まっている場所が県道合流地点です。正面に見える採石場は高根山と県道を挟んだ北側の採石場です。
県道脇に二体の馬頭観音が祀られていました。その内の一体は三面六臂(さんめんろっぴ)の座像の馬頭観音です。
馬頭観音の石仏自体は珍しくないが、このように三面六臂の馬頭観音は、この辺りでは中々お目にかかれません。
「おん あみりと どはんば うんはった そわか」
勝間田公園入口 勝間田公園入口
面白みのない車道を勝間田公園に向かう。つつじ祭りは既に終わったのか駐車場に止まっている車は少ない。
勝間田公園 勝間田公園
途中にあった公園の案内板には 「みやまつつじ」 とあったが、公園内の案内板には 「コバノミツバツツジ(小葉の三葉躑躅)」 と
なっていた。そこでネットの植物図鑑で “ミヤマツツジ” を調べたが、その名で記載されたツツジはなかった。
どうやら “ミヤマツツジ” は通称らしいので、案内板は “ミツバツツジ” としてほしいところだ。
そのツツジは既に盛りを過ぎていて、花の色は薄く葉が目立つようになっていた。山頂の広場にも家族連れが1組いただけの
静かな勝間田公園を早々に引き上げ、次の勝間田城址に向かう事にした。
錆び始めた陳列列車 三葉つつじ
写真で見れば普通に展示された列車のように見えるが、実際は塗装が剥がれだしてボロボロしているし、窓は割れているのか
新聞紙を張ってある。すでに見学はできない状態で立入禁止のロープを張ってある。
屋根も無く、雨ざらし日晒しの状態なので、例え頑丈な鉄製の列車も経年劣化で錆びてボロボロになるだろう。
道路脇の花壇の中に歌碑があったので読んでみた。
遠足 ちなつ
えんそくは 久し振りに行ったよ
あの頃とは ちがって 今の私は 車椅子
だれかに押してもらわなければ どこにも行けれない
くたくたになるまで あるけたら どんなにか幸せだろうと思う
私は両方やったから 幸せだね
おかあさん ありがと
咲いていたミツバツツジは勝間田公園のツツジより色も濃くきれいだった。
それにしても勝間田城址に中々着かない。前回は勝間田川左岸沿いの県道を南に下ったが、今日は右岸の旧道を歩いている。
若干の登り勾配だが大したことが無いのに前回より疲れを感じるのは、気温が高くなったせいだろうか。
勝間田城址案内板 勝間田城址入口
やっと勝間田城址の入口に到着。低くしゃがまないで済む場所を探して、今日初めて腰を下ろして休憩をした。
ここでの目的は前回見落とした “南曲輪” の見学だが、見たって別にどうと云う事が無いのは分っている。しかし見残しがあると
気分が良くないので、それを解消するだけの目的だ。
勝間田城へは新芽の伸びた茶畑の中の登城路を歩くので気分が良い。かってここに城があった時はどういう状態だったのだろう。
詰城だった勝間田城なので、城主をはじめ家臣たちの屋敷がこの辺りに建っていたのかもしれない。
そんな空想をしながら写真を撮ると、シャッターを押すと同時にレンズが自動的に収まってしまって 「電池を交換してください」 と
表示されてしまった。アーア 昨夜充電するのを忘れてしまったのだ。
で、以後は写真はありません。
南曲輪と腰曲輪は東尾根曲輪(多分)から細い道で通じていた。だが曲輪自体は狭く、兵が10人入れるかどうかだ。
位置は本丸の横なので、敵が来襲した時は本丸と曲輪で敵を挟み撃ちにはできるだろう。
とは云え、ここまで敵兵が侵略してしまえば最早落城は間違いないだろう。この手の城は籠城が目的なので、いったん敵が
城内に入ってしまえば為す術はなかったろう。
本丸の後ろから “一騎駆” の道を通り裏山に出る。前回ここを下った時は急な斜面で驚いたが、登りに歩けば左程のことはなく
上の駐車場に着いてしまった。この道は勝間田城落城の際、落武者となった城兵達が同盟軍の横地城を目指して落ち延びた道か、
それとも勝間田城を攻撃した今川勢が密かに忍び込んだ道なのだろうか。どっちにしても正しく強者どもの夢の跡だ。
勝間田城址から金谷の諏訪原城まで牧の原台地の上の道も長い。茶畑はそこかしこにあるが平地の茶畑は見栄えがしない。
吉野の桜が一目千本と云われるのは、丘陵の上から見るからであって、平地ではそれこそ一目百本に過ぎないだろう。
茶畑も同じで斜面にウネウネとした茶の畝が見えなければ価値は半減する。
平地の茶畑の “一目千本” は茶の木ではなく防霜ファンを指す言葉とも言えるだろう。それにしてもお茶屋が多いのにも感心
する。それも製茶工場を持った製造販売が多く、通信販売で有名なお茶の荒畑園もあった。
諏訪原城縄張図
諏訪原城は武田勝頼が遠江侵攻の拠点とするため遠州の入口の牧ノ原台地に築いた城で、城内に諏訪大明神を祀ったことから
諏訪原城の名になったと云われている。
遠州拠点の城、高天神城を攻略するための陣城として築城したが、攻略後は兵站基地としての重要な役割を担っていた。
1575年5月、徳川家康は長篠の戦で勝頼を敗走させると、その勢いをもって諏訪原城を攻撃し1ヶ月の攻防の末に落城させた。
高天神城の兵站基地であった諏訪原城が落城すると、補給路を封じられた高天神城の士気は弱まり、1581年落城した。
そんな歴史のある諏訪原城の特徴は
・武田流築城術が随所にあり、特に三日月堀や丸馬出残っている。
(三日月堀=三日月のように半円形の堀。 丸馬出=半円形の城の戦闘用出入口)
・城の後方は断崖絶壁で当時はその下を大井川が流れていた。
(“天正の瀬替” により大井川の流れが東に移動した。)
・城域内を東海道が通過し、物資の調達が容易だった。
などが挙げられるが、私のような城音痴が見ても、その堀の深さには驚きます。一般に山城の堀は空堀で浅く、余り防御には
役立たないような物が多いが、ここの堀は如何にも堀と云った感じがし、一ヶ月の長い籠城戦を戦えたのも頷けます。
徳川の城となった諏訪原城はさらに強固に改修されて、今度は駿河を守る城となったが、家康が江戸に移るとあっけなく
廃城されてしまった。
狸親父の家康は江戸を守るために経費が掛かる城より、大井川に橋を架けさせない方を選んだのだろう。
(以後の写真は昨年暮の歩き納めの時の写真です)
三号堀 最近掘り出された堀
三号堀は二の曲輪の馬出部分の三日月堀の堀で、丸みを帯びた堀が分かります。長さは70m、巾14.5m
三号堀の先では年末に行った時は発掘調査中だったが、今は整備も終わり散策路もできていた。
本曲輪馬出 本曲輪(天守台)
本曲輪・本丸・天守台など表示されたこの城の主要部分。
「本丸跡:城主の居住するところで 軍政を司る所」
「天守台地:この城は山城であり天守閣はなく 二層からなる矢倉(櫓)があり 物見が常駐しており 敵の動きを監視していた。」
オヤ? どっちの表現が正しいのだろう。物見櫓かそれとも城主の住まいか? 余りケチはつけず両方あったとしておこう。
城の名称は難しい。ここにも曲輪や本丸、櫓などの表現があるが、いわゆる曲輪とは、
「城の内外を土塁、石垣、堀などで区画した区域の名称。」で、要は曲輪とは建造物ではなく区域を指している。
一方本丸とは 「城の中核となる曲輪の名称。一の曲輪・本曲輪・一の丸とも称する。」 と曲輪なのだ。
さらに櫓は 「防御や物見のために建てられた建築物」 で、昔は “矢倉” と云う字を使っていたように、武器の収納庫でもあった。
本曲輪から カンカン井戸
本曲輪は平らな平地で如何にも城の中枢部があった場所のように見える。ここにあった物見櫓がどちらの方向を監視していたか
分からないが、現在は北東の方向が開け、金谷と島田の町を分断する大井川。さらにその遠くには富士山も見える場所だった。
今日はカンカン井戸からメインの散策路ではないが 「水の手廓」 に下りてみた。
水の手曲輪とはその名の通り 「当城で使用される水の水源地である。現在は地域の簡易水道の水源地となっている。」 そうです。
しかし矢印の付いた標識に従い下ったものの、水源だったと思われる桝から溢れ出した水が辺りに溜まっていて、山の格好だから
良いようなもので、街着の見学者は止めた方がよさそうな散策路だった。
この散策路を下れば旧国道1号線に出るのだが、今日は途中の分岐を上に登る道を辿って城の何処に出るのか調べてみた。
するとその道は城から離れ送電線の鉄塔の下に通じていた。更に上に行くと城と金谷石畳に通じる車道に出た。
こんな道を歩く見学者はいないだろうが、入口の標識があるのだから分岐にも標識を付けるべきだろう。
サーここからどうしよう。大井川の河川敷を歩いて家まで帰るか。それともこのまま金谷駅ゴールとすべきか。
時間は15時で距離は29km。もう少し歩いても支障の無い時間と距離だと随分迷ったが金谷駅ゴールとした。
昨日の蕨採りの屈伸運動で足腰も痛いので 「無理」 は止めて、歩き納めで知った金谷の酒屋で氷結を買って乾杯しよう。
実はこの酒屋で前回賞味期限が近い氷結を1本75円で買う事ができた。勿論飲んでも何の支障も無いし味も変わっていない。
まだあの氷結があるかなと若干期待をして酒屋に向かった。
だが店は開いているもの何度声を掛けても応答がない。諦めかけて棚の上を見ると 「試供品です。ご自由にお持ちください」 と
書かれた紙の上に氷結が3本置いてあった。賞味期限を見るとまだ1年以上もある。何故それが試供品なのか?
理解できなままここでもまた悩む。貰っていい物なのか悪い物か。サーどうしよう。
100円おいていこうかと思ったが、それでは前回より高くなってしまう。エイ! 試供品だ。貰っていこう。
格別に美味しい乾杯でした。
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