はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

城ロマンの3城跡廻り

2012-03-02 17:05:55 | ウォーキング
場   所:静岡県袋井市・掛川市
歩行月日:2012/02/04(土)
歩行データ: コースタイム
  愛野駅-0:40-原川城跡-0:10-各和城跡-0:20-菅ヶ谷横穴群-0:40-久野城跡-1:00-愛野駅
  -2:20-180度展望台-0:50-掛川駅

 歩行時間:6時間00分 休憩時間:1時間15分 延時間:7時間15分
 出発時間:9時15分  到着時間:16時30分
 歩数:32,900歩 歩幅推測:0,77m 距離推測:25.3km (GPS距離 23.3km)

愛野駅~掛川駅

 新聞に「城ロマン!城跡廻り」久野城・各和城・原川城の三つの城跡を廻るウオーキングの案内が載っていた。静岡県の城跡にはあちこち行っているが、お城の知識が無いので具体的に建造物が無いと想像が湧いてこない。
それならこのウオーキングに参加すれば基礎的な話が出るかもしれないと参加することにした。

 冷たい西風の中、集合場所の愛野駅に集まったのは20人程度で初参加は私を含めて4名だった。掛川歩こう会なら会長挨拶があってコース説明、初参加者の自己紹介、そしてストレッチで体をほぐしてから出発になるのだが、今日はうやむやのまま歩き出した。
愛野駅北口を出て原野谷川を渡り、川沿いに進んでいくと見た事のある景色が出てきた。そうだここは夏に歩いた旧東海道の同心橋付近だ。ここより少し掛川宿寄りに松並木があって、江戸と京の真ん中だと言う「仲道寺」があった。
少し地理的感覚が戻ってきた。何しろ人の後を歩いていると道を覚えられない。一人なら全神経を道や景色に使うのに、列の中に入るとツイツイ他人の事が気になって、道への意識が薄れてしまう。今も同心橋を過ぎると、またどの道を歩いたのか分からなくなってしまった。

  
  原川城跡の説明版                       城跡近くにあった古木

 どこをどう歩いた分からないまま原川城跡に到着。
エッ!これが原川城跡?あったのは看板1枚だけで城跡らしい堀跡など何もなかった。
看板には「この原川城跡は徳川家康が今川氏真を掛川城に攻めたさい、原川城主は城を捨て掛川城に入った。家康はこの城を焼払い廃城にした」とあった。
看板の近くに古色蒼然とした木があったが、城とは関係あるのだろうか?説明するものは無かった。
 
 「宇佐八幡宮」の名の付いた神社の前を通る。宇佐八幡宮と言えば九州大分県宇佐市にある八幡神社の総元締めと思っていたが、このように同じ名前の八幡宮がある事を初めて知った。となると石清水八幡宮とか鶴岡八幡宮も探せばあるのかな。

 神社を過ぎ墓の所で一緒に歩いていた人が「あのお墓は大岡越前守のお祖父さんのお墓だ」と教えてくれた。
「エッ!大岡越前は紀州の人ではないですか?」と早速突っ込みを入れると
「大岡越前の母方の祖父で名前を○○といった」(名前を聞いたが忘れた)半信半疑で聞いていて家に帰り検索してみると
「後北条の氏勝は小田原の役後も生き延び大名として存続します。男子がいなかった氏勝は徳川家康の甥を養子(氏重)に迎え、その娘の一人が、後に大岡越前守忠相の母になっています」と書かれたものを見つけた。
となるとこの墓は家康の甥で、しかも大名という事になる。だがとてもそんな感じの墓ではないし、その人の墓がここにある必然性もない。
果たしてどちらが正論か、それともどちらも間違いなのか。

 永源寺というお寺に到着。トイレを済まし出発の時ここが各和城跡だと聞く。しかし寺の縁起書を見ても「各和城」の名前は書いてない。城の遺構も見ることができない。これで城跡廻り????

 金網のゲートからゴルフ場の中に入っていく。これから「菅ヶ谷(すげがや)横穴古墳」に向かうと言う。
菅ヶ谷横穴古墳は「しずおかKさん」のブログで紹介されていたので一度見たいと思っていた。
案内板によると菅ヶ谷横穴古墳とは「今から約1400年前、聖徳太子が活躍していた時代の共同墓地と考えられ、遠江の横穴群は1200基確認されている。そのうち菅ヶ谷横穴群は16群94基が確認されている」
私も最近、共同墓地の永代供養を申し込んだが、古墳時代にも共同墓地があったとは思っていなかった。どちらかと言えば権力者は立派な墳に葬られるが、一般庶民は無縁仏として穴の中にでも放り投げ込まれるのかと思っていた。だが遠江で1200基だけとなると、この横穴墓に入れる人も限られてくる。高級庶民はこの墓に入れても、やはり一般庶民は無縁仏になるしかなかったのか。
でも考えてみれば古墳も横穴も縦穴も同じようなものだ。大金を使って古墳やこの横穴墓に入っても、いつかは親類縁者は居なくなり、そのうえ墓は暴かれて見世物になってしまう。所詮人は死ねば無縁仏になるしかない。

  
  菅ヶ谷(すげがや)横穴古墳                          横穴内部

 今日は団体だったのでゆっくり見学できなかったので次回は一人で来てみよう。と思っていると役員の人がこんな事を言った。
「ここの見学は事前に袋井市役所に連絡して、金網のゲートを開けてもらわなければならない」
何とも面倒なことを。この道は公道ではないのか?マーいい 申し込みはしないで来て、もし金網のゲートが開いていたら入って、開いてなければ諦めればいい。

 ゴルフ場から久野(くの)城跡に行く途中、見慣れた景色が出てきた。そうだ今年初詣で油山寺に行くとき歩いた道だ。これなら横穴墓も久野城への道も覚えられる。
久野城跡は原川・各和城跡と違い、遠目からも城があったような感じがした。台地の崎を利用した段丘になった高台の地形は、敵が攻めにくそうに見える。これで周りに堀でもあれば更に攻撃方は手こずるだろう。
城の案内板を紹介すると
「久野城は、駿河に本拠を持っていた今川氏が遠江を侵攻する拠点として築城。歴代城主には久野宗隆-○○-△△-北条氏重で天保元年廃城になった。城の周囲に水堀を備えていたようである」
さてさてここで聞いた事のある名前が出てきた。徳川家康の甥っ子で後北条氏に婿入りした「北条氏重」さんが再登場だ。更に氏重を詳しく調べると、氏重は久野城主の後に駿河国藤枝の田中藩主となり最後に何と遠江国掛川藩主になっていた。
何か遠江と関係が深くなってきた。そして氏重の墓の所在地は「袋井市上嶽寺」となっている。更に詳しく寺の住所を調べ場所を確認すると、間違いなく宇佐八幡宮の近くの寺だった。

 大岡越前忠相の祖父の墓だと聞いたとき「家康の甥で、しかも大名が入る墓でなく、その必然性もない」と啖呵を切った私ですが、どうやら間違っていたようだ。あの墓は「家康の甥っ子で久野城、田中城、掛川城の藩主であって、大岡越前忠相の祖父の墓」に間違いないようだ。
いつになるか分からないか、あの墓の近くに行ったら「氏重」の名前を確認しよう。

 話を久野城に戻す。やはり城の周りは水堀で囲まれていたのか。別の説明板には「東国第一の要害にして、たとえ何万騎を差し向けても、落つべくも見えず」と書いてある。キット難攻不落の城だったのだろう。
その証拠には、甲斐の武田信玄が遠江侵攻のとき各和城を落城させ久野城も攻めたが、すぐ諦めて攻略せずに軍を西へ進めていた。きっとここで手間暇かけ犠牲者を出すより、先に家康のいる浜松城を攻め落とした方が有利と判断したのでろう。

  
  久野城跡                           久野城跡

  
  久野城跡                           久野城跡

 久野城で昼食をとり、愛野駅にゴールしたのが13時15分。距離はたったの14km程度。これで終わりでは電車賃や昼飯を買ってきた甲斐が無い。
どこか歩いて帰ろうと思うが、愛野から掛川間は昨年暮れ小笠山の帰りに歩いたばかりだ。それにその道は特に気を引くようなものは無かった。ではどこを歩こう? 思いついたのが前回歩いた小笠丘陵を逆に歩くこと。
エコパから山に入り-三峰-腹摺峠-138度展望台-富士見霊園-掛川駅 これでだいたい3時間前後で掛川に着く。時間は遅くても4時半前。ヨシ!歩こうと愛野駅を出発した。本当に物好きだよね、自分でも感心してしまう。

 去年の歩き納めで歩いたときは恐怖心に取りつかれてしまって、この尾根を歩いても怖かった。だが今日は幸いなことにそれほどの恐怖心は湧かない。やはり一度恐怖を味合うとその恐怖感から中々抜けることができないのだ。とは言え恐怖を味合わない今日も谷底を覗き込むには勇気が必要だった。
この尾根を麓から見たら、こんな絶壁があるとは思えない低山なのに不思議なものだ。
腹摺り峠で腹を摺るぐらいの狭い大岩を探したかったが時間か気になり今回も不明のまま。138度展望台も景色は今三程度で、もちろん富士山は見えなかった。そんな状態だが掛川駅に戻れば満足感一杯で一人乾杯をする私でした。


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