はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

静岡県の東海道3-1

2011-03-01 10:42:32 | ウォーキング
駅からウォーク 「静岡の東海道」3回目-1  2011/2/22

蒲原駅 ― 由比宿 ― 薩埵峠 ― 興津宿 ― 江尻宿 ― 草薙一里塚 ― 府中宿
 6:30      6:50     8:05     9:20     10:35      11:40      13:25
         1.8k     6.7k     11.4k     17.1k       20.8k      29.4k
 
― 安倍川 ― 丸子宿 ― 宇津ノ谷峠 ― 岡部宿 ― 藤枝宿 ― 藤枝駅
   14:00     15:03      16:00      16:50     18:30    19:00
   32.2k     36.3k      41.5k      44.9k     51.0k    54.0k

                3回目 歩行ルート


2回目の東海道は三島から蒲原で、途中に難所も無い平坦な道のため46kmの
長丁場を完歩することが出来た。
然し今日の3回目の行程は、東海道では難所といわれている、薩埵峠と宇津ノ谷峠が
控えている。
当初は府中の静岡駅をゴールと思っていたが、そうなると残りが、あと3回必要になる。
これを宇津ノ谷を越えて藤枝まで頑張れば、あと2回で静岡県の東海道は終りそうだ。
そうなるとどうしても負けん気が起きてしまい、出来れば藤枝までと始発の電車で出発
した。無理なら静岡で止めて、余裕があったら藤枝まで。そんな作戦で行く事にした。

                  薩埵峠へ(地滑り)



まだ少し夜の勢いが残っていて仄かに暗い。それにしても寒い朝だ。
ここは静岡県の中部地方で、温暖の地と言われいる所だが、吐く息が白く見える。
夜明け前の寒さが一番厳しい時間帯か、それともすぐ南の海から冷たい空気が流れて
きているのか。

新蒲原駅から由比駅までの間は、旧東海道と東海道線が隣り合って走っているのだが、
面白いことに駅と宿場が少しづつ離れている。
新蒲原と蒲原駅の間に蒲原宿があり、蒲原と由比駅の間に由比宿がある。
これは明治に入り鉄道が敷かれるとき、汽車に乗って疫病神も入ると地元の人達が
嫌ったせいだろう。
一般的にはこの様な場所は、駅から離れている所が寂れてくるものだが、ここは違う。
逆に宿場が駅から離れているのを利用し、観光客を駅を出発地にさせ、途中の街道を
歩かせてメインの宿場に向かわさせる。そこの見学が終れば、また次の駅にとなる。
この様にすれば途中の店も、観光客が立寄ってお金を落としてくれる。
頭の良い人がいたものだ。

蒲原駅をでて西に向かい、1.5kmもあるかないうちに由比宿の一里塚に着いた。
こんな標識でも無いよりましだ。一里塚の先には枡形がみえる。
もうそこが由比宿の入口の東木戸だった。



コンクリート塀に「御七里役所之趾」と書かれたプレートがあった。
江戸時代の諸藩は、領国と江戸屋敷との連絡に、七里飛脚という藩直属の通信機関を
作っていた。これは領国から約七里毎の宿場に中継ぎ役所を置いて、5人の飛脚を
待機させ、国許との連絡に使っていた。
このプレートは紀州藩のもので、江戸から紀州まで約580kmを月3回、8日で手紙の
やり取りをしていたという。また緊急の時は4日足らずで届いたとあった。

580km÷28≒20で20ヶ所の役所が必要になる。そうなると各役所に5人としても合計
100人の連絡要員が待機していたのだから大変なものだ。
それが各藩ともなると一体何ヶ所の七里役所が必要だったろう。
それともこの様な連絡手段を準備していたのは、紀州などの御三家とかの大藩だけ
だったのだろうか。



由比の本陣跡は本陣公園になり、中には東海道広重美術館がある。
復元された入口は立派な物で、本当にこれが本陣の入口なのかと疑問になった。
また塀の前にある馬の水飲み場は、馬の足より低い位置にあるので馬はは水を
飲みにくかったのではないか。
だが門は既に閉まっていて中には入る事が出ず、疑問を解消することが出来なかった。

本陣公園の前には由比正雪の生家とされる正雪紺屋がある。
由比正雪は江戸幕府を転覆させようと、丸橋忠弥などの浪人達とクーデターを計画し
たが、途中で露見して処刑された人物だ。
静岡県人は現状満足派で覇気が無く、著名人も少ないといわれるなか、この由比正雪は
異色の存在だと思う。まして時の体制に挑むなど誇りたくもなるのだが、その計画の
杜撰さなどを考えると、やはり現代の静岡県人と同じ気質を持っていたように感じる。



由比は漁師町でもある。街道沿いには由比特産の桜海老やシラス、ハンペンなどを
売っている店が多い。中でも桜海老は、ここ駿河湾でしか獲れず、特に由比の桜海老は
有名だ。サクサクとした歯ざわりの桜海老の天ぷらは、人気があり桜海老の時季になる
と漁協の直売所は行列になるとTVのニュースでやっていた。
この桜海老は収獲後、釜茹でしたのち天日干しをする。その干す場所が富士川の河原で、
その季節になると富士山、新幹線、富士川そしてピンクの桜海老の絨毯の写真が風物詩
として毎年新聞に掲載される。

道の脇に昭和5年と書かれたレトロな時計台があった。



薩埵峠の手前に倉沢の間の宿がある。この宿は空襲の被害を受けなかったのか、
古い格子の入った民家が多く残されていてた。
写真左の民家の軒下には、天台宗の元三大師の厄除けの札が貼られていた。
また右の写真は名主の館と看板のある小池邸。



この倉沢の間の宿は前は海、後ろは山の狭い場所にあり、民家の途絶える場所から
見える山の斜面は急勾配で、今にも崩れてこないか心配になるほどだ。
実はこの付近は過去何度も地滑りを起していて、特に昭和36年に発生した寺尾の地滑りは
甚大な被害を出した。海側を走る国道1号線と東海道本線が土砂により埋没してしまい
東西の大動脈が分断されてしまった。国は緊急工事を地すべりの続くなか行い、復旧させ
たが、その後もこの地域の土砂被害は治まっていない。
昭和49年の静岡県を襲った七夕豪雨でも、土砂崩れが発生して、またもや国道も鉄道も
埋没する被害が出ている。

時折前方の小高いところに神社の青い屋根が見える。
看板があったので呼んでみると面白いことが書いてあった。
「日本武尊が東征のおり、賊の焼き討ちにあい、その火で鞍が焼失してしまった。
それ故この地の事を鞍去と言ったが、それが訛って倉沢になった」とある。
待てよ、日本武尊はこれより西の草薙や焼津にも同じような話が残っていて、矢張り
賊に火をかけられている。
そのときは草薙の剣で草をなぎ払い、迎え火をつけて助かっている。ここでも同じような
焼き討ちにあったのかしら?
看板には草薙の剣のことは書いてないので、神話とは関係ない焼き討ちなのか。
それにしても日本武尊はよく賊に襲われる人だ。いやそれだけこの地は賊(蝦夷)の住む
世界だったということだろう。



感じの良い街道だった。江戸時代からだろうと思われる広さの道の両脇に民家が続く。
格子戸のある民家は何時の時代の物だろうか? 確か格子戸には参勤交代の大名行列を
盗み見させない意味もあると聞いた事がある。すると江戸時代からの建物なのか。
右の写真は倉沢間の宿の本陣です。



薩埵峠の登りが始まる始まる頃から、道の両側はミカン畑になった。良く見ると枇杷も
植わっている。坂を大分登ったところから下を覗きこむと道路が良く見えた。
立体交差した上は東名高速道路で、下の道路は国道1号線だ。その横にはJRの東海道線も
見えている。確かに、ここがやられれば日本の東西の動脈は分断されそうだ。
だが寺尾の地すべりの教訓か、その後で完成した東名高速は海上に高架で作ってあるので
一応は安心できそうだ。だがトンネルの出口が地滑りになったら----

現在は東海道新幹線や第2東名は、ここより北側の山の中をトンネルで通過しているので
東西の物流が完全に遮断される事はない。



江戸時代の石碑がある所が当時の峠だったのかもしれないが景色は余り良くない。
そこより少し先には駐車場のある現代の薩埵峠がある。ここにはトイレや付近で取れた
ミカンなど置いてある無人販売のスタンドある。だがここも景色が今一だ。



写真を撮るなら更に山道を西に行った所にある展望台からの方が眺めが良い。
どうですか広重の浮世絵と似ているでしょう。
今日は富士山が霞んでいて、はっきり見えないのが残念だが、見えたことだけでも感謝
しないと。
更に西に行くと今度は清水市の設置した峠の石碑がある。ここからの景色も中々の物で
今日も長いレンズのカメラを覗いている人がいた。
それにしてもこの峠の本当の場所はどこだろう? 初めて歩いたときは3ヶ所もある
峠の石碑にアホたれてしまったが、今では慣れてしまって何も感じなくなってしまった。

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