はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

大崩・方ノ上城址

2014-01-26 12:06:49 | 低山歩き
                           方ノ上城跡              歩行月日 H25-1-19(日)
 富士見峠に初めてきた時、峠なのに先に道が無いのは、峠ではなく富士見台だ。などと悪態をついてしまった。
だが今日廻沢林道から富士見峠を歩いて、その認識が間違ていたことが分かったので、当時のブログかHPで
文句を行った事を誤ります。
 昔、廻沢から花沢や焼津湊に行くには高草山と満観峰の間の廻沢峠を抜ければよい。また岡部方面に
行くには山の西側を迂回して岡部川沿いの東海道がある。だが岡部と焼津湊の中間点にある三輪や関方地区は
どちらの道も大回りになってしまう。そこで高草山の西の尾根の鞍部を通る道があってもおかしくはない。
今は送電線の点検路になっているが、この道は昔からあった道だとすれば富士見峠の名称は正しい事になる。
それにしても急登な道だったが。

 今日の予定では富士見峠から池の平に行き、下りの道に目印を付ける予定だったが、足は自然に下りの
潮見平に向かっていた。途中で気が付いたが最早登り返す気も起きず、まして今日は目印のテープを忘れて
きて持っていないのだから行っても仕方ない。と、簡単に妥協してそのまま下り続ける。

 富士見峠から潮見平までは、岡部の三輪と焼津の関方へ下る道と同じで、この潮見平で分かれている。
農道を横断し直進する山道が関方への道で、農道を右(北)に曲り、30mも下った所の階段を降りて行くのが
三輪への道になっている。そのため三輪へ下る予定だった人が、いつの間にか関方へ下ってしまった話を
よく聞いたことがある。。
 その潮見平に旧岡部町で建てたと思われる「ここは白帆見平」の石碑が最近建ったが、これも三輪方向を
表示してないので、間違える人は相変わらず出そうだ。
 それが今回来てみると今度は焼津側で建てた道標もあった。こちらは山道方面を指して「関方バス停」
書いてあるので、増々関方側へ下ってしまう人が増えてしまいそうだ。
 何故岡部側が中途半端な石碑を建てたのか想像するに、岡部三輪にあるハイキングコースの案内板には
美和-時石-潮見平-富士見峠-高草山を登山道とし、高草山-富士見峠-池の平-時石-三輪を下山道と
紹介してある。そのため途中に建っている道標は、一方通行の方向の案内しかしていないヶ所が多くなっている。
ここ潮見平にも一方通行の先の富士見峠を指す標識はあるので、下りは必要ないと判断したのだろう。
今日目印を付ける予定だった池の平-時石間は、下山道のため、登りの時の山道の入口が分かりにくいので
目印を付けようと思っていたのだ。
 それと私はこの場所を潮見平と書いているが、岡部側で最近建てた石碑には白帆見平となっている。
これについて以前から潮見平にある岡部側の案内板には
潮見平(シラミ平) 三輪地区から登ると最初に海が見える平らな所と言うことで潮見平と云われている。
焼津関方地区では、海に浮かぶ船の白帆が見えるので白帆見平と云い、それが訛ってシラミ平と通称言われて
います。 潮見平、白帆見平、シラミ平など、いろいろな呼び名がありますが、おそらく海が見える平らな所として
潮見平があっているのではないかと思います。」
 と紹介している。
それなのに岡部側で建てた新しい石碑は「白帆見平」になっているは理解できない。
因みに麓の三輪地区にある大きな案内板は「潮見平」。焼津関方の案内板は「しらみ平(潮見平)」となっている。
シオミにしろシラミにしろ漢字表記は「潮見平」が正しいような気がするが。

 潮見平には他にも最近焼津側で付けた「高草山」への標識も付いていたが、方ノ上城への標識は無かった。
だが昨夜地図で調べた限りでは、この農道を南に下って行けば城址の入口に着きそうだった。だだ地図には
城址の場所が表示されていないので若干の不安はあったが。

 
                 潮見平                 方の城跡と思われる山
           潮見平の地図
 潮見平から農道を10分も下ってい行くと、方ノ上城跡の案内板の場所に出た。
方ノ上城址・狼煙台 方ノ上城は狼煙台を備えた山城で、南北朝の初期に阿部城主・狩野介貞長により築城
されたと伝えられています。明応2(1493)年今川氏親により改修され、今川軍の遠江国へ進撃する連絡拠点と
して、監視や警備を行っていたといわれています。山頂付近には曲輪、堀切、土塁など当時の遺構を見る事が
出来ます。(以下略)」


 方ノ上城は前回紹介した今川家の相続争いだった「花倉の乱」に登場した城です。
ここの案内板にも名前が出ている今川氏親は、相続争いをした今川義元と玄広恵探の父親で、氏親亡きあと
後を継いだ嫡男の氏輝が若くして死んだため、義元の異母兄の恵探が家督相続を狙って乱を起こした。その恵探が
花倉城以外に方ノ上城も支配したが、この城が落城することにより勢いを失くし花倉城も落城したといわれている。

 城跡に入り最初にあるのが「幻の池」。一見したところ池にも沼にも見えないようなただの水溜り。この辺りは
回りが高くなった平地で城の本丸でもあったのか、そしてこの幻の池は井戸の跡っだたりして----
 幻の池から高台に上ると細い道になる。花倉城の土橋に当たる部分なのか。その一部が掘られた場所に
「掘割」の表示がある。してみると、掘割とは進入路の一部を掘り下げて敵が通りにくくするものか。そして
普段は仮橋を設けていて、いざという時はその橋を外したのかもしれないな。
その掘割の左右はかなり深く削られているが、これも人工的に削ったものなのか、自然を利用したのか。
分からない事ばかりだが一番分からないのは本丸の場所だ。さっき幻の池があった地点はこの掘割より低い
場所にあるのだから、敵の攻撃には守りにくいと思うのだが。それともこの先が本丸だったのか。

           
                    幻の池                           掘割
          方ノ上城跡入口の地図
 掘割の表示の次は「曲輪(くるわ)」だった。曲輪とは「城の防御陣地・建造物を建てる敷地・兵の駐屯施設
として城郭の最重要施設である。」
 それならこちらが本丸側だとなると、幻の池は井戸ではない事になる。
だって敵が攻めてきたとき、堀の外側に水源があったら、すぐ占領され城内は水不足に陥るのだから。
しかし兵の駐屯施設にしては余りにも狭すぎるし、斜面なので建物など建っていた形跡もない。

 曲輪から少し行くと木が伐採された高台に「方ノ上城跡 石合山頂上(230m)」の標識が建っていた。
しかしここに本丸なり何なりの建物が建っていたなら、もっと平らで広いはずなのに、平地は狭かった。
こんな狭い山城が花倉城の命運を分けた城だったとは情けない。花倉城主の玄広恵探は所詮は今川家の
家督を相続する器ではなかったのだろう。

 
           高台にあった標識                       高台から焼津市街

高台の標識の建つ場所には石で周りを囲んだ「経塚」がある。高台の一番上の平らな部分にあるので、この
経塚は方ノ上城が落城してから戦死者を悼んで造ったのか。
 高台から西の斜面を10mも下った所に狼煙台があった。自然石を組み合わせたような、自然のままのような
どちらともとれる感じがする岩場で、狼煙台と言っても高さはなく、岩と岩の間の穴の中で火を燃した感じがする。
この狼煙台が方ノ上城跡の中で一番ハッキリして遺物だった、というか狼煙台だけだった気がする。
そこで妄想が湧きだした。この方ノ上城跡と云われている場所は山城ではなく見張所を兼ねた狼煙台だったのだ。
花倉の乱で落城した方ノ上城は、この麓の平地にあったに違いない。花倉の乱では今川勢と戦い玄広恵探側の
敗戦の端緒になったのだから、少なくとも100名か200名以上の兵はいただろう。となれば兵の駐屯地は狭い山の
上には造れず麓に建てるしかない。どうですか今回の妄想的歴史観は。

 
           経塚跡                           狼煙台

 さて今日の目的も最後の方ノ上城跡から関方までの山道を探すだけになった。探す根拠は前回城址に
来た帰り道で地元の人に「昔は狼煙台から関方への山道があった」と聞いただけなので、更々探せる自信は
無かった。それでも時間はまだ3時なので余裕はある。それが狼煙台を下り始めると、すぐに林の入口の木に
目印が付いているのが見えた。これでやる気にスイッチが入って林の中に入って行った。
ここの林も明るい感じで石部峠のような感じではない。それに入口から少し下っただけで「古墳」の標識が
建っていたので気分も明るい。マー古墳と言っても岩がずれて出来たような穴だけだったが。
マテヨ!さっきの狼煙台も若しかして古墳の後だったのではないか。古墳の岩を利用して狼煙台にした。
そう考えられないか。妄想的歴史観は増々快調だ。

 林の中には目印のテープが所々に付いていて迷う事はなくミカン畑の横に出た。そこには「方ノ上城跡・
狼煙台」
の標識が建っていた。なーんだ。この道は方ノ上城跡に行くハイキングコースだったのだ。
しかしそれならこの標識の書き方は余り良くない。お世話になったのにチョビチョビが始まってしまった。
イエ!文句ではなく、ここまでの標識を建ててくれた「山の手未来の会」の方に提案です。

 現在潮見平には高草山とバス停への標識が2枚設置されていますが、ここに「方ノ上城址 10分」の標識を
付けてください。いや時間は書かず「方ノ上城跡・関方バス停」とした方が良いかな。
次に城址入口の案内板の横に、城址からバス停に道があると分かるように「方ノ上城跡・関方バス停」も必要です。
狼煙台の下の林の入口には「関方バス停」の標識があれば安心します。この3枚の案内板を付ければ方ノ上城跡に
寄る人は倍増するでしょう。未来の会さん如何でしょうか。

 
          狼煙台跡の下の林に目印が                   古墳跡

 ミカン畑の横の急な道を下りきれば緩やかな道になり農道に出合う。山道の入口の斜面には標識が建って
いるので下から登って来ても迷う事はないだろう。
さてこの農道は何処に出るのか楽しみにして歩いて行くと、農道が出た場所は見知った所だった。
そこは古墳から「六鈴鏡」が発見された「猪の谷神社」の下の道だった。
ところがここの建っている標識の意味が分からない。今下って来た道を指して「狼煙台」。神社側の道を指して
「方ノ上城跡」 この違いは何なんだ? マーいい。その合流部を神社と反対側に左折すると関本バス停だった。

 狼煙台からバス停まで約25分で関方バス停に着いた。前回は方ノ上城跡の入口から農道経由でバス停まで
35分だったので随分近道になっていた。
 潮見平から直接関方に下っても、途中には見所も無くただ下るだけの道だ。それなら少し時間が掛かるが
方ノ上城経由で下った方が変化もあり楽しいと思う。若干下りの急な所もあるが遊歩道ではなくハイキングと
思えば何ともない。是非一度歩いてみてください。

  
           猪の谷神社の下の合流部                    関方バス停の案内板

 関方バス停から朝比奈川の堤防を目指して歩いていると前方に見慣れない景色が。
アッ!あれはロータリー式交差点だ。
イエイエこの呼び名は間違いで正式には「ラウンドアバウト(円形交差点)」と呼ぶらしい。
その交差点がこんな場所に出来たとは知らなかった。まだ新しく交差点でガードマン2名が指導している。
この形式の交差点は、以前ニュージーランドをドライブ旅行をしたとき何度も走っていたのでルールは知っていた。
自分の右側にいる車が優先、つまり円形部分を走っている車が優先なので、交差点に入るには円形部分の右側に
車が居ない事を確認して侵入し、円形部分から出るときは左のウインカーを出して出る。だから例え直進する
場合でも円形部分から出るときは左の信号を出す事になる。
 見ていると殆どの車のウインカーの出し方は出鱈目で、直進する車は信号を出さず、右折する車は最初から
右の信号を、左折も同じく最初から左の信号を出している。なのにガードマンはその種の指導はしておらず、
ただ一旦停止を促すだけだった。
交差点の近くに色々案内板は建っていたが、ウインカーの出し方を説明したものは見当たらない、不思議に思い
家でこの交差点を調べてみたら焼津市HPでこんな説明が載っていた。
 ・車両は交差点に進入する前に必ず一時停止をします。
 ・交差点内を走行する車両が優先です。交差点内へ入る前に安全確認を十分行ってください。
 ・交差点内は時計回り(右回り)の一方通行です。反対回りや駐車・停車、バックはできません。

矢張りウインカーの事には触れていない。これでいいのかな? 右側の円形の中を走っている車が交差点を出るとき
信号を出さないと-------  アッそうかウインカーが出ていなければ、待っている車は交差点の中には入らない。
若干交差点の中に入るのが遅くなるが安全度は増す。また円形部分を回っているとき、前の車が交差点を出るとき
信号を出さなくても特に支障はないのか。それでウインカーの事は書いてないのだろう。
だが、それにしても右折や左折の車が、従来のようにウインカーを出すのは良くないと思うが。

この円形交差点は、車がいないのに赤信号で待つイライラが生じないので、慣れてくればメリットがありますね。

         
                      ラウンドアバウト(円形交差点)

 朝比奈川堤防の早咲きの河津桜は、蕾も硬く当分は咲きそうもなかった。

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2 コメント

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Unknown (松理)
2014-01-26 20:40:47
 「富士見峠が峠になっていた。」という解釈は,なるほどでした。
 『安倍山系』の下巻では,「峠にはなっていない。」と書く予定でしたが,書き換えるかもしれません。
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 (はぐれ)
2014-01-28 09:33:47
名前と実態に合わない峠は、他にも丸子川右岸から朝鮮岩に抜ける「芹ヶ谷峠」もありました。
しかしそこも小野薬師寺から鉄塔経由の道があり、何とか納得しました。
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