はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

八高山

2014-05-12 18:08:14 | 低山歩き
 歩行記録      歩行月日2014年5月10日
歩行時間:6時間55分 休憩時間:1時間20分 延時間:8時間15分
出発時間:7時10分   到着時間:15時25分
歩 数: 29、185歩   GPS距離:19.0km
行程表
 福用駅 1:30> 馬王(まおう)平 0:35> 白光神社 0:10> 八高山 0:30> 大垂(おおだる)滝 0:35>
 風倒(カザンタオ)峠 0:45> 天狗の座敷 1:10> 川近(かわちか)神社 0:05> 泉集落 1:35> 丹間バス停

観歩記
 大井川鉄道の新金谷駅に6時30分に到着。駅の入口は開いていたが切符の販売機も停止していて駅員もいない。
ほどなく駅員がきて開業の準備を始めたが、一向に切符の自動販売機を動かさない。余り急かせてもと思い黙って
いたが、電車の発車時間が迫ってきたので 「切符はどこで買うのですか?」 と聞くと 「こちらでどうぞ。お客さんは
6時39分の家山行に乗るのでした急いでください。すぐ出発しますよ。」 
だって。
自分が後から来て、客が待合室にいるのに挨拶もせずいて、何が急いでくださいだ。腹が立ってきた。
出発のアナウンスも合図も無く、電車は私が乗ったと同時にドアが閉まり動き出した。

 何となくスイスを感じさせるような福用駅の建物は、大井川鉄道がスイスの「ブリェンッ・ロートホルン鉄道」
姉妹鉄道だからのようだ。ブリェンッ・ロートホルン鉄道とは、小さな機関車が前のめりの格好で急峻な草原を
登っている事で有名ですよね。
そこで思い出した、ヨーロッパの鉄道は発車のアナウンスやベルもなく、突然静かに動き出すとか。大鉄もそれを
採用しているのかしら。客の自主性を尊重して・・・・

 
               大井川鉄道                           福用駅

 駅の掲示物の中に「福用」の謂れが書いてあった。
「福用とは榛原郡誌によれば、初倉を拓いた帰化人「秦氏」ゆかりの「福与氏」がこの地に移住し、川を納め、
集落を形成したと伝えられている。」
 成程福与が福用に変化したのか。
そういえば焼津近辺には福与姓が多いが、これも秦氏のゆかりの名字なのだろうか。
福の字を服に置き換えれば「服与・服用」になる。こうなると何となく織物関係の渡来人のイメージが湧いてくる。

 駅前を右に曲がりの県道を北に向かうと直に八高山の案内があった。この調子で案内が続けば、今日は道で
悩むことは無いだろう。
茶の新芽の緑、山の椎の木の緑、常緑樹の緑と、この時季の緑は変幻自在に何種類もの緑を見せてくれる。
今日もその緑の中を白光神社を目指して歩く。

 白光神社で写真を写していると何となく違和感を感じた。何だろう?
そうかこ白光神社は神社なのに鐘突堂があるんだ。寺に鳥居があるのは良く見かけるが、神社に鐘突堂は初め
てのような気がする。この風景も明治の廃仏毀釈の前の、神仏混淆時代には当り前の風景だったのだろう。
ところでこの神社の「白光」と山の「八高」の違いがあったので、気になって調べて見たが分からなかった。
同じような感じで「二荒」「日光」もあるが、これは弘法大師が「二荒」に「日光」の文字を当て地名にしたとか。

 では何故 「はっこう」に2種類の漢字が付けられたかと言うと・・・・・・久し振りの妄想的歴史観が湧いてきた。
まず「八」とう字を考えてみると、四方八方や八里四方、八百八町、八方塞りなど「八」は辺り一面とか多い事を
意味する言葉です。すなわち「八高」とは、この辺りで一番高い山と解釈できます。それが証拠には八高山のある
掛川市や旧金谷町では一番標高の高い山だし、更にここから海までの中でも一番高い山だ。
 では「白光」はというと。白光神社には水分神(みくまりのかみ)が祭神として祀られています。この神は読んで
字の如しで、水の分配を司る神で水源地や水路の分水点などに祀られています。(大崩山塊の日本坂峠と満観峰の
間の頂にも祀られている) また水に関わる神ということで祈雨(雨乞い)の神でもありました。
ある時、八高山で福用の住民が雨乞いの儀式をしていると、空は晴れているのに白い稲妻が走り、雷が鳴り
響き福用のだけに雨が振りました。これを感謝して福用の村人は白光神社に水分神を祀り、神社の名前を白い
稲妻から白光神社としました。だが雨の降らなかった他のは白光神社を祀りませんでした。
そのため白光神社があるのは、ここ福用だけなのです。
どうですか今回の妄想的歴史観は、誰です嘘八百だと言っているのは。

 
               茶畑の緑と山の緑                        白光神社

 登山道の取っ付きは急斜面で驚いたが、少し登ると遍路道でよく見かける切通しとも沢ともいえるような道になった。
その道には赤い目印の杭が数m置き位に差さっている。場所によっては道の両側に差さっていて、目印にしては
多すぎる気がしたので、近寄って見てみると杭には「地籍調査」と刻印されていた。
地籍調査はわが家も去年行ったが、その刻印は隣家の境に取り付けられた。要は境界を表示する物だから、こんなに
頻繁にあるのはおかしい。きっとこれは余った地籍調査杭を、登山道の目印に流用したのだろう。これはこれで良いが
もう少し間隔を開けて差していかないと最後までもつか心配な感じもした。

 
               朱い目印のある登山道                     地籍調査となっている

 神社から40分ほど歩くと南の方角が開けていて近くに経塚山が見えた。その場所から少し行くと道は平坦な杉林に
入り分岐点があった。案内板には今来た道は「急斜面コース福用駅1.5m」とあり、もう一方には「なだらかコース
福用駅2.2km」
とあった。どうりで傾斜が急なはずだ。帰りはこのなだらかコースを歩くのも良さそうだ。
 今日のコースの予定は福用駅から馬王平経由で八高山へ登り、そのまま尾根を風倒峠まで縦走する。
そこで一転して尾根の中腹にある林道を引返して、途中にある大垂滝を見て馬王平に戻る予定だ。
そこから先はその時の雰囲気で決める積りだったので丁度よかった。
 
 杉林の中には時折モミの大木がある。モミの木と云えばクリスマスツリーを思い浮かべるが、ここのあるモミの木は
下枝が無く上の方に枝があるだけなのでクリスマスツリーには使えそうもない。気になり調べてみると
「樹幹は通直で、太い枝が下部では水平に近く張り出し、梢に近い枝はやや斜め上向きに立つ。若い時の樹冠は
整った美しい形の円錐形で、老木になると、やや拡がった広卵状円錐形となる。」
とネット木の図鑑にあった。
では、ここの樅の木は周りの杉の木と同じように下枝刈をしているのだろうか。

 林道に合流する所に案内板があった。だがこの案内板は福用駅に行く案内で八高山の案内にはならなかった。
その林道を10mも行った左側に目印のテープが2本付いていて、いかにもここが山道の入口だと誘っている。
確認のため中に入ると薄い踏み跡はあるが、明らかに今まで歩いて来たハイキングコースとは違いすぎる。それに
さっきまで多すぎるくらいあった赤い杭の目印も無かった。多分この踏み跡は林道が出来るまでの山道で、林道が
出来てからは利用されていないのだろうと判断した。
その林道を5分も行った左側に「経塚山へ」の標識が出てきた。これを見てさっきの踏み跡はこの道に通じていたの
だと一人納得した。

         
                  経塚山                         林の中の登山道

 林道が広々とした所に出た。そこが馬王平だった。馬王平とは案内板によると、
「修験者が里からの帰り道に、ここでウトウト眠ってしまった。すると夢枕に白馬に跨がった王様が現れ修験者に
「お前は何の為に修行をしているのだ。怠らず精進せよ」と言った。我に返った修験者は、聖なる山を仰ぐこの
場所を「馬王平」と名付けました。」

確かに馬が走ってもおかしくない広い場所だが聖なる山の八高山は見えなかった。

馬王平は林道が交差していて、真っ直ぐ行く林道は大垂滝を通り風倒峠に通じていて帰りに歩く予定でいる。
左に行く林道は掛川の「ならここの湯」を通り天浜線の原田駅に行く道だ。
この道も歩いてみたい気もしているが、すべてその時の雰囲気にしよう。

 馬王平は東側が開けていて富士山も見えるらしい。だが今日も空は霞んでいて富士山は見えなかった。
景色はこの馬王平より急な斜面の登山道を登ってからの方が良かった。そこからは南東の方向には海も見え
高草山らしい山頂に鉄塔のある山も見えていたが、その右にある筈の花沢山や虚空蔵山が見えていない。
では高草山では無いのか?次回は双眼鏡を持ってこよう。
この馬王平の斜面にはタラの木が沢山ある。もう一ヶ月も前だったら土産ができただろう。

 
              馬王平                            馬王平の眺め

 馬王平の急斜面を登りきり、林の中の道になると2基の反射板があった。案内板には「昭和37年静岡放送が
日本平から浜松の電波の中継基地として取付けた。」
とある。
反射板は花沢山と同じような作りだが、こちらは反射板の周りは金網を張り巡らせていて中々厳重だ。しかも
案内板まであるのだから気配りもある。JRさんんも花沢山に案内板でも建ててくれないかしら。尤もここの
案内板はSBSが立てたのではなく、金谷町観光協会が立ててくれた物だが。

 白光神社奥の院に9時20分に到着。麓の神社から2時間5分掛かった。
戦時中には、武運長久を祈る人々の信仰を集め、白光神社の奥の院に祈願登山する人も多かったと云われる。
先月登った竜爪山の穂積神社も、戦時中は弾除けとか徴兵逃れの祈願登山が多かったとあったが、山頂に
寺ではなく神社があると、このようは祈願登山が盛んに行われたのだろうか?
マテヨここで閃いた。白光、八高と並んで八紘もはっこうだ。だとすれば戦争中は「八紘神社・八紘山」としても
信仰を集めたに違いない。
その割に奥の院は粗末な建物だったが、太い杉の社叢は当時の隆盛を示しているように見えた。

 
              SBSの反射板                        白光神社奥の院

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2 コメント

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Unknown (あや)
2014-05-13 20:16:49
行って来たのですね。
以前に比べ、電車の本数が減ったので、下山してからが大変だったでしょう?

ん?はぐれさんのことだから、家山に下りて東海自然歩道を藤枝のお高根さんまで歩いちゃったとか???
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Unknown (はぐれ)
2014-05-14 17:39:38
そう、あやさんのブログに誘われて行ってきました。
おかげで富士山も見る事が出来て最高でした。
帰りは、ん?高根山? 私はトレランの愛好者ではありませんよ~
八高山の坂道に驚く古稀を迎えた年寄りに過ぎません。
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