以下は前章の続きである。
百済が新羅に滅ぼされた。
何とかしてくれと朝鮮人が頼みに来た。
しょうがない。
新羅に反省させようと出かけていったら唐の大群が待っていた。
日本は大敗した。
世に言う白村江の戦いだが、それがハクソンコウとか歯垢みたいに今はいうらしい。
もっと酷いのはペクソンガンとか、もはや日本語でもなくなっている。
おかしいだろう。
中大兄皇子の時代からそういい、江戸の寺子屋でもそう教えたのを一体誰に遠慮してヘンな読み方に変えたのか。
そしたら今度は「隠れキリシタン」がおかしくなった。
世界遺産に登録した途端に「潜伏キリシタン」が正しい言い方になったと新聞にあった。
これもおかしい。
だいたい潜伏というのは徳田球一とか犯罪人が逃げ潜むときに遣う言葉だ。
いやいや潜伏が正しいんですよとまた馬鹿な朝日新聞が断りを付けていた。
「潜伏」も「隠れ」も江戸時代の禁教下でひっそり信仰してきたが、その一部が幕末に建てられた大浦天主堂に名乗り出て、それ以降、教会に来るようになった。
それが「潜伏」になる。
犯罪者と同じで何の改心もしていない。
だから潜伏になる。
対して「隠れ」は「日本支配の尖兵」(平川新『戦国日本と大航海時代』)とされた初期の切支丹から大きく変質していた。
偏狭なキリスト教から偏狭さを清め落として信仰を続けてきた。
カソリック教会が戻ってきても見向きもしなかった。
バチカンはだから彼らを許せぬ異端と見なした。
戻ってきた「潜伏キリシタン」はいいが戻らぬ「隠れ」は許さない。今のフランシスコ法王は昔の伴天連と同じくらいに心が狭い。
そういえば気に食わないトランプを「キリスト教徒じゃあない」とも言った。
そんな狭量な言い分にへつらい「潜伏」と書く新聞は豆腐の角に頭をぶっつけて死ぬがいい。