以下は前章の続きである。
没落・文藝春秋の三流役者
間もなく九本の対談を一冊にまとめた『渡部昇一・西尾幹二全対談』(ビジネス社)が刊行される。
一冊の巻頭に『諸君!』廃刊を機に『WILL』(2009年5月号)で二人が交した『文藝春秋』の行方を心配した対談が載っている。
行方を心配したというより、『文藝春秋』の今日の自滅を予言していた対談、といった方がいいかもしれない。
2018年前半に文藝春秋が社長の人事をめぐる内紛で例のない醜態をさらしたことは知れ渡っていよう。
しかし『諸君!』という背骨をなす言論誌をやめた瞬間から自滅にも近い今日の衰退は予想されていたともいえる。
文藝朝日やNHKの公的意見にジャブを入れる在野の精神の伸び伸びした自由が持ち味の会社だったが、バランスをとることの難しい時代に入った。
朝日やNHKは硬直したイデオロギー集団と化し、『諸君!』はそれと戦う姿勢をみせた。
会社は両方から逃げようとした。
かくて何かに遠慮するような言論、ビクビクしていて中性的で衛生無害な雑誌しか作れなくなり、部数を落した。
対談で私が「このままだと文藝春秋は危ないですね。」「文藝春秋は朝日新聞に吸い込まれたんですよ。」等と言えば、渡部氏が反共の仕事は終っても思想の敵は相変わらずあったはずである、日本国家を自立させる目的の邪魔になるものは敵だ、といい、「その対立構図が見えなくなった人が、文藝春秋の主流になったのではないか」「いまの文藝春秋が半藤一利氏の色が強いのは確かです。半藤氏は辞めてからのほうが文藝春秋に影響力をもっているのはなぜか、不思議です」「半藤氏は特別に部数を伸ばした編集長でもないのに、それがどうしていまの文藝春秋に影響力をもっているのかは謎ですね。」などと「不思議です」「謎です」を連発して、疑問を提出した。
朝日やNHKを牛耳るメディア内の権力(左)に対抗した『諸君!』『正論』『Voice』『WiLL』等のレジスタンス、左右両方の圧力の壁から文藝春秋はひたすら逃げようとして、社内に空っぽの精神空間をつくり出した。
そこに左から半藤一利といううってつけの悪魔の使者が送り込まれて来たのである。
そう、半藤は九条の会や週刊金曜日ではもう戦う限界が来た集合意志の代役として、慰安婦強制連行説の失敗を目の当たりに、突如姿を現した三流役者である。
中島健藏、加藤周一の先述の二人は、とまれ進歩主義や西洋主義といった文化人の仮面をつけていた。
一応は文学者でもあり、思想家でもあった。
半藤一利は何者でもない。
何の専門家でもない。
半藤の歴史観について最後にひとこと言っておく。
戦争は相手あっての話なのに、彼は日本が何をやったかだけを問題にして、国際的な観点から物事を見ようとはしない。
他国がどうだったかをほとんどつねに無視している。
近現代史を越えた長い尺度で歴史を見ようともしない。
自国史の欠点がいくら反省的に述べ立てられても、これでは自国中心史観を読まされている観がある。
ある人が半藤の歴史は皇国史観の裏返しだと言っていたが、この痛烈な皮肉が彼の知性に届くことは恐らくないであろう。