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以下は前章の続きである。
経営者は民間人業者
高地俊介(95)は同中の20回生。
卒業後の昭和14年、平壌医専へと進む。
高地が入学したときの医専は1学年の定員70人のうち、朝鮮人が25人、日本人が45人。
教授陣は外科が東大系、内科・小児科は九大系で、レベルが高かったという。
高地は17年秋に卒業、陸軍の短期現役軍医試験を受けて合格した。
短い教育期間を経て、翌18年1月には、中支・漢口(現中国武漢市の一部)近くの陸軍第39師団へ軍医として派遣される。
「戦争が激しくなるにつれ軍医も不足し、私たちはインスタント養成され、すぐに前線へやられた。戦死したら補う“消耗軍医”だったわけですよ」
軍医少尉となった高地はまだ20歳、同師団野砲兵第39連隊に配属となり、4人の軍医で兵士の健康ケアや、前線で負傷者の治療にあたった。
19年3月には中尉に昇進、戦死した軍医の後任として歩兵連隊へと移っている。
高地によれば、「慰安所」は、各部隊ごとに設置されていた。
軍がつくったのではない。
「女衒のような年配の日本人が経営していました。日本人、朝鮮人、中国人の慰安婦がいたが、連れてきたのはその経営者。民間人の業者が仕切り商売でやったということです。軍が関与したのは性病の蔓延を防ぐために、軍医が定期的に慰安婦の検診を行うことだけです」 初めて検診に訪れたとき、高地は、朝鮮人慰安婦から明るい調子で誘われたことを覚えている。
「遊びに来てえ、タダでいいから!」。
20代半ばの慰安婦の方が高地よりも年上で、からかわれたことに心穏やかでなかったが、若い高地には婦人科検診のやり方すら分からない。
平壌医専の先輩だった高級軍医に頼み込んで初回のみ手ほどきを受け、手順を覚えるのに懸命だった。
検診は週に1回。
病気の発生が分かれば、程度によって営業停止を命じるケースもあったという。
この稿続く。