以下は前章の続きである。
「科学、芸術、神学、文化においてアングロサクソンが45歳だとすれば、ドイツ人も同程度に成熟していた。日本人はまだわれわれの45歳に対して12歳の少年のようである」。ただ、この発言の前後で「学びの段階に新しい思考様式を取り入れるのも柔軟だ。日本人は新しい思考に対して非常に弾力性に富み、受容力がある」とも述べている。
「日本人の柔軟性」をよい意味で少年に例えたといえなくもない。
日本人は大戦で勇猛に戦い、米軍を震撼させながら、敗戦後は驚くほど従順でマッカーサーの治世を称賛した。 マッカーサーにはその姿が「12歳の少年」に映ったのではないか。
1952年7月の共和党大会で、かつての部下で欧州戦線の最高司令官を務めたドワイト・アイゼンハワーが指名され、53年に第34代大統領に就任した。
マッカーサーは引退し、ニューヨークのホテル・ウオルドーフ・アストリアのスイートルームで愛妻ジーンと余生を過ごした。
平(時代と同じく常に居間を歩き回り、昼寝を欠かさない規則正しい生活を送った。
マッカーサーを尊敬するニクソンは、GHQ民政言長だったコートニー・ホイットニーを通じてホテルの自室に招かれ、その後何度も教えを請うた。ただ、欠点も見抜いていた。「マッカーサーの最大の過誤は政治的野心を公然と示し、軍事的声望を政治的資産に転じようとしたことだった…」
64年4月5日午後2時30分、マッカーサーはワシントン近郊のウォルター・リード陸軍病院で84年の生涯を閉じた。ポトマック川岸は桜が満開だった。
元首相、吉田茂は産経新聞に「天皇制守った恩人」と題した追悼文を寄せた。
昭和天皇も米大統領宛てに弔電を打った。葬儀は8日に米議会議事堂で営まれ、吉田も参列した。
毀誉褒貶の激しい人生だった。
マッカーサーの評価は日本でもなお定まらない。
ただ、上院聴聞会での証言は軍人マッカーサーの偽らざる思いであり、一種の懺悔だったのかもしれない。
その遺体はバージニア州ノーフォークのマッカーサー記念館にジーンとともに葬られている。