もずの独り言・goo版

半蔵ともず、gooでも独り言です。『もずの独り言』はこれからも戦い続けます。

【みんな生きている】古川了子さん/産経新聞

2013-12-24 05:48:37 | 日記
「北朝鮮人権侵害問題啓発週間」(12月10~16日)に合わせ、千葉市中央区のJR千葉駅前で14日、昭和48年に千葉県内で失踪し、北朝鮮による「拉致濃厚」とされている特定失踪者の古川了子(のりこ)さん(失踪当時18歳)の家族たちが、拉致問題の早期解決を訴える街頭活動を行った。
啓発週間中は拉致被害者の救出を求める全国の団体が、各地で署名活動やパネル展示等の一斉活動に取り組んでいる。
「北朝鮮に拉致された日本人を救出する千葉の会(救う会千葉)」では、古川さんの姉の竹下珠路さん(69歳)たちが街頭活動に参加。拉致問題についての理解を呼びかけると、多くの通行人が国に拉致被害者の救出を求める署名に協力していた。
古川さんが失踪して今年で40年になるといい、竹下さんは

「北朝鮮の情勢は不安定で、拉致被害者の命も危険にさらされているかも知れない。一日も早い救出を訴えていきたい」

と話した。

《特定失踪者・古川了子さんについて》
◆氏名:古川 了子
(ふるかわのりこ)
◆失踪年月日:昭和48(1973)年7月7日
◆生年月日:昭和30(1955)年1月1日
◆性別:女性
◆当時の年齢:18歳
◆身長:157cmくらい
◆当時の身分:三井造船社員
◆特徴:
1)中学時代水泳部、高校では卓球部部長。
2)簿記、珠算和文タイプ等資格持っている
3)書き初めで入選したことあり、文字を書くのは左右同じに使える
◆失踪場所:千葉県

【失踪状況】
午前中に美容院へ行き、午後から母親と浴衣を買いに行く予定をしていた。
朝早く家を出て、美容院に「今日の美容院はキャンセルしたい。出かけるところができた。母親にも浴衣を買いに行けなくなったと伝えて下さい」と言った。
母親は美容院からの電話で、友達にでも会うことになったのだろうと気にしなかったが、それから何の音沙汰もなくなった。
7月に初めて貰ったボーナスは手付かず、預金通帳も置いたまま。持って出たのは財布とハンカチくらいしか入らない、いつも持っている小さなバッグ1つだけだった。
その後、家にも勤め先にも全く連絡なし。中学や高校の友人も心あたりはなかった。
元北朝鮮工作員の安明進(アン・ミョンジン)氏が、「1991年に平壌市内の病院にいた女性と似ている」と証言している。
平成16年1月29日、千葉県警に告発状提出。
平成17年4月13日政府に対し拉致認定を求め東京地裁に提訴。

《特定失踪者・加瀬テル子さんについて》
◆氏名:加瀬 テル子
(かせてるこ)
◆失踪年月日:昭和37(1962)年4月
◆生年月日:昭和19(1944)年5月4日
◆性別:女性
◆当時の年齢:17歳
◆身長:158cm
◆当時の身分:家事手伝い
◆特徴:細面
◆失踪場所:千葉県海上郡海上町

【失踪状況】
午後、自宅からパーマに出かけてそのまま行方不明。
所持金はパーマ代のみ。
翌日に新宿コマ劇場へ観劇に行く約束を叔母としていた。
脱北者が北朝鮮から持ちだしたとされる写真が、鑑定の結果、加瀬テル子さんである可能性が極めて高いことが判明。
また同じ脱北者が「同一の人物」とするもう一枚の写真も、加瀬テル子さんである可能性がある。
※のちに写真は加瀬さんとは別人であることが判明。
平成16年12月17日、千葉県警に告発状提出。

《千葉県警公開特定失踪者・鵜浦礼子さんについて》
◆名前:鵜浦 礼子
(うのうられいこ)
◆身長:158cm
◆血液型:A型?
◆当時の年齢:20歳(昭和47年当時)
◆当時の住所:東京都目黒区碑文谷
◆当時の身分:無職

【不明の状況】
昭和47年7月6日、都内の実兄方に同居し「職探しに行く。錦糸町の叔母の所に行く」と言って出掛けた。
その後、北海道稚内にいる旨の電報が届いたものの行方不明となっています。

《千葉県警公開特定失踪者・秋本 弘さんについて》
◆名前:秋本 弘
(あきもとひろし)
◆身長:170cm
◆血液型:A型
◆当時の年齢:23歳(昭和44年当時)
◆当時の住所:千葉市花見川区検見川町
◆特徴:左右何れかの足に骨折痕有り
◆当時の身分:会社員

【不明の状況】
昭和44年1月4日朝、いつもの様に自宅から会社に「行って来ます」と言って出掛けたが、会社には出勤しないまま行方不明となっています。

《千葉県警公開特定失踪者・小林敏孝さんについて》
◆名前:小林 敏孝
(こばやしとしたか)
◆身長:170cm
◆血液型:O型
◆当時の年齢:33歳(昭和56年当時)
◆当時の住所:千葉県山武郡大網白里町
◆特徴:
1)近視
2)がに股大工

【不明の状況】
昭和56年7月3日午後、仕事先から帰社し、着替えのため会社から徒歩2~3分の自宅アパートに向かったまま行方不明となっています。

《千葉県警公開特定失踪者・古賀 守さんについて》
◆名前:古賀 守
(こがまもる)
◆身長:170cm
◆血液型:不明
◆当時の年齢:19歳(昭和43年当時)
◆当時の住所:佐賀県佐賀郡久保田町
◆当時の身分:会社員

【不明の状況】
昭和43年6月20日頃、家族と同居していたが、姉の結婚式を3日後に控えたころから帰宅せず、そのまま行方不明となっています。

《千葉県警公開特定失踪者・東條 薫さんについて》
◆名前:東條 薫
(とうじょうかおる)
◆身長:160cm
◆血液型:A型
◆当時の年齢:25歳(平成4年当時)
◆当時の住所:千葉市若葉区都賀の台
◆特徴:色白
◆当時の身分:無職

【不明の状況】
平成4年5月6日午前、自宅から軽装でポーチ様のバックを持ち、徒歩で外出したまま行方不明となっています。

《千葉県警公開特定失踪者・高松日出子さんについて》
◆名前:高松 日出子
(たかまつひでこ)
◆身長:155cm
◆血液型:不明
◆当時の年齢:20歳(昭和41年当時)
◆当時の住所:栃木県那須塩原市塩原
◆特徴:左肩胛骨付近におでき痕
◆当時の身分:洋品店員

【不明の状況】
昭和41年5月初旬頃、千葉県市川市内の従姉夫婦方に同居していたが、「友達と旅行に行って来ます。」と言って出掛けたまま行方不明となっています。

《千葉県警公開特定失踪者・新野博行さんについて》
◆名前:新野 博行
(にいのひろゆき)
◆身長:165cm
◆血液型:A型
◆当時の年齢:21歳(昭和62年当時)
◆当時の住所:大阪府南河内郡太子町
◆特徴:眼鏡使用
◆当時の身分:大学生

【不明の状況】
昭和62年12月末頃、大学の下宿先(大阪府南河内郡)から行方不明となっています。

《千葉県警公開特定失踪者・水村真紀子さんについて》
◆名前:水村 真紀子
(みずむらまきこ)
◆身長:164cm
◆血液型:B型
◆31歳:(平成12年当時)
◆当時の住所:東京都大田区大森西
◆特徴:天然パーマ
◆当時の身分:無職

【不明の状況】
平成12年9月9日、旭市内の入院先から、行方不明となっています。

《千葉県警公開特定失踪者・渡邉弘美さんについて》
◆名前:渡邉 弘美
(わたなべひろみ)
◆身長:150cm
◆血液型:不明
◆当時の年齢:16歳(昭和53年当時)
◆当時の住所:千葉県茂原市本納
◆特徴:左足太腿にひっかき傷ような痕あり
◆当時の身分:無職

【不明の状況】
昭和53年12月23日夕、自宅から着替え入りのチェック柄のバックを持って出掛けたまま行方不明となっています。



【拉致事件、捜査の現状】
北朝鮮による拉致事件を巡り、日本の警察はこれまで実行犯や指示役として北朝鮮の元工作員たち合わせて11人を国際手配しています。
拉致には金正日(キム・ジョンイル)総書記が掌握していた対外情報調査部と呼ばれる工作機関が組織的に関わっていた疑いが強いと見て捜査を続けています。
このうち、福井県の地村保志さん・富貴恵さん夫妻を拉致した実行犯として元工作員の辛光洙(シン・グァンス)容疑者が手配されています。
また、大阪府の原 敕晁さんが拉致された事件では、辛容疑者とともに金吉旭(キム・キルウク)容疑者も共犯者として手配されています。
この他、東京都の久米 裕さん拉致事件では金世鎬(キム・セホ)容疑者が、新潟県の曽我ひとみさん拉致事件にはキム・ミョンスク容疑者がそれぞれ関わったとして手配されています。
北海道出身の渡辺秀子さんの子供2人の拉致事件では、工作員グループのリーダー格で北朝鮮にいると見られる洪寿恵(ホン・スヘ)こと木下陽子容疑者が手配されています。
新潟県の蓮池 薫さん・祐木子さん夫妻の拉致事件ではチェ・スンチョル容疑者が実行犯として手配されている他、金総書記が掌握していた対外報調査部と呼ばれる北朝鮮の工作機関の幹部であるハン・クムニョン容疑者とキム・ナンジン容疑者が拉致の実行を指示したとして手配されています。
ハン容疑者たちは工作機関で「指導員」と呼ばれる立場で、辛光洙容疑者たちもこの組織の一員だったことがわかっており、警察は北朝鮮が組織的に拉致を実行した疑いが強いと見て捜査を続けています。
よど号ハイジャック事件のメンバーたちも1980年代にヨーロッパで相次いだ3人の日本人拉致に関わった疑いで国際手配されています。
このうち、有本恵子さん拉致事件では魚本公博(安部公博)容疑者が、石岡 亨さんと松木 薫さん拉致事件ではよど号メンバーの妻の森 順子・若林佐喜子両容疑者がそれぞれ手配されています。

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【みんな生きている】愛媛県庁編/愛媛新聞

2013-12-24 05:44:55 | 日記
北朝鮮による拉致問題を考える研修会(愛媛県主催)が12月18日に県庁であり、講演した拉致被害者・松本京子さんの兄の孟さん(66歳)=鳥取県米子市=が「国民の力がないと助からない。一歩踏み出してほしい」と集まった自治体職員ら約300人に訴えた。
松本さんは昨年亡くなった母に触れ

「(京子さんが)好きだったたくあんを漬けてずっと待ち続けていた」

と無念な心境を吐露。

「北朝鮮では生きていくことで精いっぱいだろう。問題を正しく認識し一日も早い問題解決を」

と力を込めた。
続いて登壇した政府拉致問題対策本部の三谷秀史事務局長は、北朝鮮の張成沢(チャン・ソンテク)元国防副委員長の失脚を取り上げ

「いかなる影響があるか冷静に観察している」

と説明。拉致問題の解決へ、制裁等8項目の施策を紹介し

「私たちはまだ怒ってますと示すことが重要」

と述べた。

◆昭和52(1977)年10月21日
女性拉致容疑事案
被害者:松本京子さん(拉致被害時29歳)
自宅近くの編み物教室に向かったまま失踪。
平成14年10月にクアラルンプールで行われた日朝国交正常化交渉第12回本会談及び平成16年に計3回行われた日朝実務者協議において、我が方から北朝鮮側に情報提供を求めたが、第3回協議において、北朝鮮側より、北朝鮮に入境したことは確認できなかった旨回答があった。
平成18年11月に松本京子さんが拉致認定されて以降政府は北朝鮮側に対し即時帰国及び事案に関する真相究明を求めてきているが、これまでに回答はない。

《特定失踪者・二宮喜一さんについて》
◆氏名:二宮 喜一
(にのみやよしかず)
◆失踪年月日:昭和37(1962)年9月頃
◆生年月日:昭和13(1938)年1月15日
◆性別:男
◆当時の年齢:24歳
◆身長:156cm~157cm
◆体重:52kg
◆当時の身分:会社員。夜は専門学校生
◆当時の住所:東京都品川区小山
◆愛媛県西宇和郡保内町出身
◆特徴:
1)やせ形
2)面長
◆失踪場所:東京都品川区

【失踪状況】
「ちょっと頭を冷やしに十和田湖に行ってくる」とメモを残して失踪。
1ヶ月位後に下宿先から「帰ってこないが、実家に帰っていないか」と家族に連絡が来た。
将来は無線通信士を目指していた。

《特定失踪者・山下綾子さんについて》
◆氏名:山下 綾子
(やましたあやこ)
◆失踪年月日:昭和46(1971)年4月
◆生年月日:昭和17(1942)年9月20日
◆性別:女性
◆当時の年齢:28歳
◆当時の身分:看護師
◆当時の住所:愛媛県今治市石井町
◆失踪場所:愛媛県今治市

【失踪状況】
4月のある日、自宅から出たまま行方不明となった。
翌日、国鉄今治駅(当時)に自転車が置いたままになっているのが発見される。
自宅から勤務先の病院には自転車で通勤しており、鉄道は使っていなかった。
また、その病院も失踪一週間前に自ら辞めていたことがあとからわかった。
自転車の前カゴに桜の小枝が一本入っていた。
普段着のままの外出で、家には預金通帳・印鑑などがそのまま残っていた。

《特定失踪者・大政由美さんについて》
◆氏名:大政 由美
(おおまさゆみ)
◆失踪年月日:平成3(1991)年3月28日
◆生年月日:昭和42(1967)年4月5日
◆性別:女
◆当時の年齢:23歳
◆身長:150cm
◆当時の身分:三重大学研究生
◆愛媛県伊予市出身
◆特徴:下唇の下に縫合跡(2歳6カ月の時に5針くらい)
◆失踪場所:韓国慶州市

【失踪状況】
同年3月に三重大を卒業。考古学専攻。
3月27日夜、慶州ユースホステルにチェックインし、翌朝10時に荷物を置いたまま外出し、その後消息不明。
現地、慶州警察署で捜索。
1991年3月~1994年10月の間に数回無言電話。
正確な日付は不明だが、午後から夕方にかけてがほとんど。
受話器を取ると人の息、生活音も聞こえず受話器を置くまで一言も話さなかった。
北朝鮮にいるとの複数の不確定情報がある。

《愛媛県警公開特定失踪者・槙野國貞さんについて》
◆氏名:槙野 國貞
(まきのくにさだ)
◆当時の年齢:19歳(昭和38年当時)
◆当時の住所:大阪府大阪市
◆職業:会社員(運送業)
◆身長:155cmくらい

【失踪状況】
昭和38年12月6日の午後6時30分頃、大阪市内で運送の仕事を終え、同市内の道路上に自動車を放置したまま、行方不明になっています。

《愛媛県警公開特定失踪者・仙波照男さんについて》
◆氏名:仙波 照男
(せんば てるお)
◆当時の年齢:38歳(行方不明当時)
◆当時の住所:愛媛県新居浜市宮原町
◆当時の職業:工員(製作所勤務)
◆身長:170cmくらい
◆特徴:
1)右鼻横にホクロ
2)眼鏡使用

【失踪状況】
昭和43年1月12日、家族に黙って新居浜市の自宅から出て行ったまま行方不明になっています。

《愛媛県警公開特定失踪者・兼井仲由さんについて》
◆氏名:兼井 仲由
(かねいなかよし)
◆当時の年齢:30歳(行方不明当時)
◆当時の住所:大阪府大阪市西成区
◆愛媛県西条市丹原町出身
◆職業:理容師
◆身長:165cmくらい
◆特徴:
1)面長顔
2)浅黒

【失踪状況】
昭和42年頃から大阪市内の理髪店で勤務していましたが、昭和53年4月初旬、荷物をまとめて当時の自宅を出て以来、そのまま行方不明になっています。



【拉致事件、捜査の現状】
北朝鮮による拉致事件を巡り、日本の警察はこれまで実行犯や指示役として北朝鮮の元工作員たち合わせて11人を国際手配しています。
拉致には金正日(キム・ジョンイル)総書記が掌握していた対外情報調査部と呼ばれる工作機関が組織的に関わっていた疑いが強いと見て捜査を続けています。
このうち、福井県の地村保志さん・富貴恵さん夫妻を拉致した実行犯として元工作員の辛光洙(シン・グァンス)容疑者が手配されています。
また、大阪府の原 敕晁さんが拉致された事件では、辛容疑者とともに金吉旭(キム・キルウク)容疑者も共犯者として手配されています。
この他、東京都の久米 裕さん拉致事件では金世鎬(キム・セホ)容疑者が、新潟県の曽我ひとみさん拉致事件にはキム・ミョンスク容疑者がそれぞれ関わったとして手配されています。
北海道出身の渡辺秀子さんの子供2人の拉致事件では、工作員グループのリーダー格で北朝鮮にいると見られる洪寿恵(ホン・スヘ)こと木下陽子容疑者が手配されています。
新潟県の蓮池 薫さん・祐木子さん夫妻の拉致事件ではチェ・スンチョル容疑者が実行犯として手配されている他、金総書記が掌握していた対外報調査部と呼ばれる北朝鮮の工作機関の幹部であるハン・クムニョン容疑者とキム・ナンジン容疑者が拉致の実行を指示したとして手配されています。
ハン容疑者たちは工作機関で「指導員」と呼ばれる立場で、辛光洙容疑者たちもこの組織の一員だったことがわかっており、警察は北朝鮮が組織的に拉致を実行した疑いが強いと見て捜査を続けています。
よど号ハイジャック事件のメンバーたちも1980年代にヨーロッパで相次いだ3人の日本人拉致に関わった疑いで国際手配されています。
このうち、有本恵子さん拉致事件では魚本公博(安部公博)容疑者が、石岡 亨さんと松木 薫さん拉致事件ではよど号メンバーの妻の森 順子・若林佐喜子両容疑者がそれぞれ手配されています。

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【みんな生きている】松本京子さん/産経新聞

2013-12-24 05:40:46 | 日記
北朝鮮による日本人拉致問題に理解を深めてもらおうと、愛媛県は12月18日、県庁第2別館で「拉致問題を考える研修会」を開いた。
拉致被害者・松本京子さんの兄、孟(はじめ)さんたちが講演を行い、県民たち約300人が熱心に聞き入った。
鳥取県米子市出身の松本京子さん(拉致被害時29歳)は、昭和52年に自宅近くの編み物教室に出かけたまま行方が分からなくなり、平成18年に拉致被害者に認定された。
講演で孟さんは、

「妹を救い出すためには一生懸命、講演や署名活動を行い訴えていくしかない」

と説明。
昨年から鳥取県内の小学校でも講演活動を行っていることや、高校生たちが応援してくれていることなどを報告し、

「国民の力がなければ拉致被害者は助からない。一歩踏み出してほしい」

と訴えた。
続いて、政府拉致問題対策本部の三谷秀史事務局長が

「認定の有無にかかわらず、全ての拉致被害者の安全確保及び即時帰国のために全力を尽くす」

等とする方針について説明。拉致問題を風化させないために、教育現場や自治体等で啓発活動を積極的に行っていることなどを強調した上で、

「拉致問題を話題にし、講演や署名活動に何度でも参加してほしい」

と力を込めた。
また、拉致問題についての映画やDVD、講師の派遣等さまざまな啓発ツールの用意があるとし、

「学校現場や自治体、団体で活用してほしい」

と呼びかけた。

◆昭和52(1977)年10月21日
女性拉致容疑事案
被害者:松本京子さん(拉致被害時29歳)
自宅近くの編み物教室に向かったまま失踪。
平成14年10月にクアラルンプールで行われた日朝国交正常化交渉第12回本会談及び平成16年に計3回行われた日朝実務者協議において、我が方から北朝鮮側に情報提供を求めたが、第3回協議において、北朝鮮側より、北朝鮮に入境したことは確認できなかった旨回答があった。
平成18年11月に松本京子さんが拉致認定されて以降政府は北朝鮮側に対し即時帰国及び事案に関する真相究明を求めてきているが、これまでに回答はない。

◆昭和53(1978)年6月頃
元飲食店店員拉致容疑事案
被害者:田中 実さん(拉致被害時28歳)
欧州に向け出国したあと失踪。
平成14年10月にクアラルンプールで行われた日・朝国交正常化交渉第12回本会談及び平成16年に計3回行われた日・朝実務者協議において我が方から北朝鮮側に情報提供を求めたが、第3回協議において北朝鮮側より北朝鮮に入境したことは確認できなかった旨回答があった。
平成17年4月に田中 実さんが拉致認定されて以降、政府は北朝鮮側に対し即時帰国及び事案に関する真相究明を求めてきているが、これまでに回答はない。

《特定失踪者・金田竜光さんについて》
◆氏名:金田 竜光
(かねだたつみつ)
◆失踪年月日:昭和54(1979)年ごろ
◆生年月日:昭和27(1952)年
◆性別:男
◆当時の年齢:26歳
◆身長:180cm
◆当時の身分:ラーメン店店員
◆当時の住所:兵庫県神戸市東灘区青木
◆失踪場所:神戸市東灘区

【失踪状況】
金田さんは韓国籍。
田中 実さん(昭和53年に拉致)と同じ施設で育った。
昭和52年ごろ、田中 実さん拉致実行犯・韓竜大(ハン・ヨンデ)が経営するラーメン店「来大」に就職。昭和53年に田中 実さんを「来大」に紹介し、ともに働く。同年、韓竜大の誘いにより、田中 実さんがオーストリア・ウィーンに出国。
半年ほどして、田中 実さんが差出人になっているオーストリアからの国際郵便を受け取る。その内容は「オーストリアはいいところであり、仕事もあるのでこちらに来ないか」との誘いであった。
田中さんの誘いを受け、打ちあわせと言って東京に向かったが、以後一切連絡がなく、行方不明となる。
連絡がないことを不思議に思った友人が、この間の事情を知る韓竜大に再三説明を求めたが、「知らない」と繰り返す。
その後失踪した2人を知る友人たちの間で「2人は北朝鮮にいる」との噂が広まり、韓竜大に近づく者がいなかった。
「救う会兵庫」は平成14年10月に韓竜大、15年7月にその共犯である曹廷楽(チョ・ジョンガリ)についての告発状を兵庫県警に提出している。

《特定失踪者・藤田 進さんについて》
※国連人権理事会が調査要請を受理した事案
◆氏名:藤田 進
(ふじたすすむ)
◆失踪年月日:昭和51(1976)年2月7日
◆生年月日:昭和31(1956)年6月16日
◆性別:男
◆当時の年齢:19歳
◆当時の身分:東京学芸大学教育学部1年生
◆当時の住所:埼玉県川口市南町
◆特徴:
1)家ではあまりしゃべらないタイプ
2)ギターがうまかった
◆失踪場所:埼玉県川口市の自宅

【失踪状況】
失踪当日6:30~7:00頃、以前から言っていた新宿のガードマンのバイトに行くといって服を持って家を出たまま帰らず。
後に新宿にある全ての警備会社に電話で問い合わせたが該当者はいなかった。
脱北者が北朝鮮から持ち出した写真が鑑定の結果、藤田 進さんである可能性が極めて高いことが判明。
平成16年1月28日、埼玉県警に告発状提出。



【拉致事件、捜査の現状】
北朝鮮による拉致事件を巡り、日本の警察はこれまで実行犯や指示役として北朝鮮の元工作員たち合わせて11人を国際手配しています。
拉致には金正日(キム・ジョンイル)総書記が掌握していた対外情報調査部と呼ばれる工作機関が組織的に関わっていた疑いが強いと見て捜査を続けています。
このうち、福井県の地村保志さん・富貴恵さん夫妻を拉致した実行犯として元工作員の辛光洙(シン・グァンス)容疑者が手配されています。
また、大阪府の原 敕晁さんが拉致された事件では、辛容疑者とともに金吉旭(キム・キルウク)容疑者も共犯者として手配されています。
この他、東京都の久米 裕さん拉致事件では金世鎬(キム・セホ)容疑者が、新潟県の曽我ひとみさん拉致事件にはキム・ミョンスク容疑者がそれぞれ関わったとして手配されています。
北海道出身の渡辺秀子さんの子供2人の拉致事件では、工作員グループのリーダー格で北朝鮮にいると見られる洪寿恵(ホン・スヘ)こと木下陽子容疑者が手配されています。
新潟県の蓮池 薫さん・祐木子さん夫妻の拉致事件ではチェ・スンチョル容疑者が実行犯として手配されている他、金総書記が掌握していた対外報調査部と呼ばれる北朝鮮の工作機関の幹部であるハン・クムニョン容疑者とキム・ナンジン容疑者が拉致の実行を指示したとして手配されています。
ハン容疑者たちは工作機関で「指導員」と呼ばれる立場で、辛光洙容疑者たちもこの組織の一員だったことがわかっており、警察は北朝鮮が組織的に拉致を実行した疑いが強いと見て捜査を続けています。
よど号ハイジャック事件のメンバーたちも1980年代にヨーロッパで相次いだ3人の日本人拉致に関わった疑いで国際手配されています。
このうち、有本恵子さん拉致事件では魚本公博(安部公博)容疑者が、石岡 亨さんと松木 薫さん拉致事件ではよど号メンバーの妻の森 順子・若林佐喜子両容疑者がそれぞれ手配されています。

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【みんな生きている】有本恵子さん

2013-12-22 18:38:29 | 日記
北朝鮮による拉致被害者・有本恵子さん(拉致被害時23歳)の父・明弘さん(85歳)=神戸市長田区=たちが12月15日、神戸・三宮で、拉致問題の早期解決を政府に求める署名活動を展開した。明弘さんは「政府が強い交渉力を付け、被害者全員を返せと要求するべきだ」と訴えた。
支援組織「救う会兵庫」の月例活動で、普段はメンバーだけで実施しているが、北朝鮮人権侵害問題啓発週間(10~16日)に合わせて明弘さんが参加を希望。メンバーたち8人とともに街頭に立った。
恵子さんが拉致されてから今年で30年が経過した。
明弘さんは
「政府がきちんとした交渉力を持つためには、日・米・韓による同盟関係の強化や憲法改正が必要」
とし、
「政府に拉致問題を専門とする組織を設け、一日も早く対応してほしい」
と力を込めた。

◆昭和58(1983)年7月頃
欧州における日本人女性拉致容疑事案
被害者:有本恵子さん(拉致被害時23歳)
欧州にて失踪。
「よど号」犯人の元妻は、北朝鮮当局と協力して有本さんを拉致したことを認めている。
捜査当局は拉致実行犯である「よど号」犯人の魚本(旧姓安部)公博について、平成14年9月逮捕状の発付を得て国際手配するとともに、政府として北朝鮮側に身柄の引き渡しを要求しているが北朝鮮側はこれに応じていない。
北朝鮮側は、有本さんは1988(昭和63)年11月にガス事故で石岡 亨さんと共に死亡したとしているが、これを裏付ける資料等の提供はなされていない。

《兵庫県警公開特定失踪者・秋 教元さんについて》
◆氏名:秋 教元
◆年齢:37歳(昭和62年当時)
◆住所:兵庫県尼崎市南武庫之荘(当時)
◆職業:会社役員
◆身長:約173㎝
◆特徴:中肉

【失踪状況】
昭和62年11月、秋 教元さんは、知人と居酒屋で飲食し、店を出た後、行方不明となっています。

《兵庫県警公開特定失踪者・稲田周二さんについて》
◆氏名:稲田 周二
◆年齢:32歳(昭和54年当時)
◆住所:兵庫県明石市(当時)
◆職業:会社員
◆身長:約170cm
◆特徴:中肉

【失踪状況】
昭和54年3月、稲田周二さんは、勤務先から帰宅途中に行方不明となっています。

《兵庫県警公開特定失踪者・岡 元恵さんについて》
◆氏名:岡 元恵
◆年齢:20歳(昭和40年当時)
◆住所:大阪市城東区(当時)
◆職業:会社員
◆身長:約160cm
◆特徴:中肉

【失踪状況】
昭和40年8月、岡元恵さんは、自宅を出た後、行方不明となっています。

《兵庫県警公開特定失踪者・懸樋友重さんについて》
◆氏名:懸樋 友重
◆年齢:35歳(昭和52年当時)
◆住所:兵庫県美方郡浜坂町(当時)
◆職業:元会社員
◆身長:約166㎝
◆特徴:
1)やせ型
2)前歯に銀歯あり
3)眼鏡着用

【失踪状況】
昭和52年3月早朝、懸樋友重さんは、新温泉町(旧浜坂町)の自宅を出たまま行方不明となっています。

《兵庫県警公開特定失踪者・桑村一二三さんについて》
◆氏名:桑村 一二三
◆年齢:22歳(昭和50年当時)
◆住所:兵庫県姫路市(当時)
◆職業:元飲食店店員
◆身長:約162cm
◆特徴:やせ型

【失踪状況】
昭和50年9月、桑村一二三さんは、勤務先を出た後、行方不明となっています。

《兵庫県警公開特定失踪者・篠岡 彰さんについて》
◆氏名:篠岡 彰
◆年齢:21歳(昭和53年当時)
◆住所:大阪府吹田市上山手町(当時)
◆職業:大学生
◆身長:約174㎝
◆特徴:中肉

【失踪状況】
昭和53年11月、篠岡 彰さんは、大阪府内の下宿先に戻るため、朝来郡の実家を出たまま行方不明となっています。

《兵庫県警公開特定失踪者・住本豊成さんについて》
◆氏名:住本 豊成
◆年齢:31歳(昭和56年当時)
◆住所:兵庫県姫路市内(当時)
◆職業:元会社員
◆身長:約170㎝
◆特徴:中肉

【失踪状況】
昭和56年1月、住本豊成さんは、車で自宅を出たまま行方不明となっています。

《兵庫県警公開特定失踪者・辻本春夫さんについて》
◆氏名:辻本 春夫
◆年齢:22歳(昭和43年当時)
◆住所:大阪府泉大津市松之原町(当時)
◆職業:元会社員
◆身長:約165㎝
◆特徴:中肉

【失踪状況】
昭和43年、辻本春夫さんは、職場を退職し、その後行方不明となっています。

《兵庫県警公開特定失踪者・津曲俊直さんについて》
◆氏名:津曲 俊直
◆年齢:24歳(昭和41年当時)
◆住所:神戸市兵庫区(当時)
◆職業:会社員
◆身長:約162㎝
◆特徴:中肉

【失踪状況】
昭和41年5月ころ、津曲俊直さんは、神戸市内の会社を辞めた後、行方不明となっています。

《兵庫県警公開特定失踪者・豊田 清さんについて》
◆氏名:豊田 清
◆年齢:24歳(昭和35年当時)
◆住所:長崎県下か?
◆職業:理容師
◆身長:約167㎝
◆特徴:中肉

【失踪状況】
昭和35年6月、豊田 清さんは、家族に手紙を送ったのを最後に、行方不明となっています。

《兵庫県警公開特定失踪者・濱野喬一さんについて》
◆氏名:濱野 喬一
◆年齢:44歳(昭和54年当時)
◆住所: 神戸市内(当時)
◆職業:元調理師
◆身長:約156㎝
◆特徴:やせ型

【失踪状況】
昭和54年10月、濱野喬一さんは、熊本市内でお兄さんに「福岡に行く」と言って別れたまま行方不明となっています。

《兵庫県警公開特定失踪者・松島正樹さんについて》
◆氏名:松島 正樹
◆年齢:34歳(昭和59年当時)
◆住所:東京都杉並区清水(当時)
◆職業:アルバイト
◆身長:約173㎝
◆特徴:やせ型

【失踪状況】
昭和59年10月、松島正樹さんは、岐阜県内のJR恵那駅に立ち寄った後、行方不明となっています。

《兵庫県警公開特定失踪者・山本琴美さんについて》
◆氏名:山本 琴美
◆年齢:23歳(昭和29年当時)
◆住所:大阪市淀川区(当時)
◆職業:タイピスト
◆身長:約160㎝
◆特徴:中肉

【失踪状況】
昭和29年ころ、山本琴美さんは、家族に「山形の友人の家に遊びに来ている」と手紙を送った後、行方不明となっています。



【拉致事件、捜査の現状】
北朝鮮による拉致事件を巡り、日本の警察はこれまで実行犯や指示役として北朝鮮の元工作員たち合わせて11人を国際手配しています。
拉致には金正日(キム・ジョンイル)総書記が掌握していた対外情報調査部と呼ばれる工作機関が組織的に関わっていた疑いが強いと見て捜査を続けています。
このうち、福井県の地村保志さん・富貴恵さん夫妻を拉致した実行犯として元工作員の辛光洙(シン・グァンス)容疑者が手配されています。
また、大阪府の原 敕晁さんが拉致された事件では、辛容疑者とともに金吉旭(キム・キルウク)容疑者も共犯者として手配されています。
この他、東京都の久米 裕さん拉致事件では金世鎬(キム・セホ)容疑者が、新潟県の曽我ひとみさん拉致事件にはキム・ミョンスク容疑者がそれぞれ関わったとして手配されています。
北海道出身の渡辺秀子さんの子供2人の拉致事件では、工作員グループのリーダー格で北朝鮮にいると見られる洪寿恵(ホン・スヘ)こと木下陽子容疑者が手配されています。
新潟県の蓮池 薫さん・祐木子さん夫妻の拉致事件ではチェ・スンチョル容疑者が実行犯として手配されている他、金総書記が掌握していた対外報調査部と呼ばれる北朝鮮の工作機関の幹部であるハン・クムニョン容疑者とキム・ナンジン容疑者が拉致の実行を指示したとして手配されています。
ハン容疑者たちは工作機関で「指導員」と呼ばれる立場で、辛光洙容疑者たちもこの組織の一員だったことがわかっており、警察は北朝鮮が組織的に拉致を実行した疑いが強いと見て捜査を続けています。
よど号ハイジャック事件のメンバーたちも1980年代にヨーロッパで相次いだ3人の日本人拉致に関わった疑いで国際手配されています。
このうち、有本恵子さん拉致事件では魚本公博(安部公博)容疑者が、石岡 亨さんと松木 薫さん拉致事件ではよど号メンバーの妻の森 順子・若林佐喜子両容疑者がそれぞれ手配されています。

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【みんな生きている】藤田 進さん/TVS

2013-12-22 18:34:32 | 日記
北朝鮮に拉致された可能性がある特定失踪者で、川口市出身の藤田進さん(当時19歳)に関する国連の調査要求に対し、北朝鮮が「全面的に拒絶する」と、文書で回答していたことが明らかになりました。これは12月17日、藤田さんの弟の隆司さんが明らかにしたものです。
英文の回答書は10月7日付けで、12月12日に国連から隆司さんにメールで送られて来ました。
回答書の内容は、「藤田 進氏の事案には、何ら関係ない。日本人拉致問題は、根本的かつ、完全に解決した。」と主張しています。
隆司さんは去年、国連人権理事会の強制的失踪部会に救済を申し立てて受理され、失踪部会は北朝鮮に、進さんの居場所等の調査を要求していました。
一方、北朝鮮の人権に関する国連の調査委員会(COI)は、今年8月に来日して聴き取り調査を行っていて、来年3月に最終報告書をまとめる予定です。



(以下は、『週刊現代』2007年4月21日号に掲載された特定失踪者・藤田 進さんについての記事です)

「2003年頃でしょうか。日本に帰ってきてテレビを見たら、北朝鮮拉致にまつわる番組をやっていたのです。そこで流れた藤田 進さんの顔を見て、はっきり思い出したのです。私の目の前で泣き叫んだ男だと。
私は藤田さんの名前も知らず、拉致という言葉さえ知らなかった。しかし、結果として、私は拉致に関与してしまった。その良心の呵責から、自分が知っていることの全てを話そうと決意したのです」
こう語るのは、現在、中国に在住する57歳の朝鮮人の男性である。

1976年2月、当時、東京学芸大学の1年生だった藤田 進さん(当時19歳)が、アルバイトに行くと言って埼玉・川口市内の自宅を出たきり、失踪した。
以後、行方は杳として知れなかったが、2004年7月、北朝鮮から流出した1枚の写真により、藤田さんが北朝鮮に拉致された疑惑が高まった。写真鑑定が行われ、骨格や顔のパーツの位置関係などから、写真の男性と藤田さんは同一人物の可能性が高いという結論が出た。藤田さんは「拉致の確率が高い」特定失踪者1000番台リストに載せられることになった。
その藤田さんを拉致した、と告白するのがこの57歳の男性である。これまでマスコミに語られることのなかった日本人拉致の生々しい真相が、以下の240分に及ぶ男性へのインタビューで明かされる。


【国際指名手配犯に拉致を指示された】

私は都内の大学を卒業し、しばらくして朝鮮総連(在日本朝鮮人総連合会)の幹部の紹介で東京都足立区にある西新井病院に勤務することになりました。1972年~1973年のことです。
最初は医療現場で働いていましたが、5ヶ月ほど経った頃、当時の西新井病院の金萬有(キム・マンユ)理事長から「ちょっと手伝ってくれ」と言われて、理事長の運転手など、理事長とその家族の手伝いや病院の経営に関する仕事に従事するようになったのです。理事長一家の手伝いをする人間は「幹部」と呼ばれていました。
しかし、「幹部」になると同時に、西新井病院の“裏”の仕事にも、知らず知らずのうちに巻き込まれることになっていったのです。

[北朝鮮系の総合病院として知られる西新井病院は、過去にもたびたび北朝鮮の工作活動の拠点として取り沙汰されてきた。
1953年に病院を創設した金萬有氏(故人)は金日成(キム・イルソン)・金正日(キム・ジョンイル)親子とも面識がある在日朝鮮人の超大物である。しかも金氏は、核など日本の最先端技術を北朝鮮に運ぶ密命を帯びて活動しているとの疑惑が濃厚な、在日科学者からなる「在日本朝鮮人科学技術協会」(科協)の中枢メンバーでもあった。]

病院3階にあった無線室が北朝鮮からの秘密指令を受け取る場所でした。6畳ほどの部屋の壁という壁が通信機器などで埋まっていました。この部屋に入れるのは、鍵を持っている金理事長の甥と数人の幹部だけで、完全な秘密部屋でした。
北朝鮮からの指令は短波放送を通じて流されていました。放送は「1、2、3」などと数字が淡々と読み上げられており、その数字を理事長の甥が解読し、関係各所に連絡するのです。
おそらく、1976年2月、私に下された“任務”も、そのようなルートで北朝鮮から指示されたものだったのでしょう。しかし、私は理事長の甥ではなく“金先生”という男から藤田さん拉致の手伝いを頼まれたんです。“金先生”は名古屋大学医学部を卒業した医者、という触れ込みでしたが、病院に勤めてもおらず、住所もわからない。ただ2週間に一度くらいフラッと病院に来ては幹部と雑談して帰っていく謎の人物でした。
後日、チェ・スンチョルという北朝鮮工作員の写真を見る機会があったのですが、その写真には紛れもなく“金先生”が写っていました。私はあの「西新井事件」を起こした大物工作員の手下として働いていたのです。

[チェ・スンチョルは、日本の機密に関する情報収集などを行っていたとされる北朝鮮工作員。1960年代に都内で失踪した小熊和也さん、1960年に北海道で失踪した小住健蔵さんの戸籍を奪い、本人になりすまして生活していたことも確認されている。1985年、警視庁は西新井病院の近くにあるチェ・スンチョルのアジトに踏み込み、乱数表などを押収した(西新井事件)。チェ・スンチョルは逃走し、現在国際指名手配されている。このチェ・スンチョルが病院にもさかんに出入りしていたと、今回、男性は衝撃の証言をしているのである。]


【クスリを打たれ意識を失った藤田さん】

「埼玉に“患者”を連れに行くから、運転手をやってくれ」と、私の事務所に“金先生”から院内(の内線)電話が入ったのは拉致前日のことだったと思います。当時の私は拉致など知りません。総連系の医療機関は埼玉にもたくさんあるから、そのうちのどこかから患者を引き取ってくるんだな、くらいの気持ちで手伝いをしたのです。
2月7日は、冬にしては暖かい日だったと記憶しています。昼過ぎ、総勢4名が病院から車2台で出かけました。私は先頭車両の1号車のハンドルを握りました。車は小豆色のブルーバードで、助手席には“金先生”ことチェ・スンチョルが座りました。2号車は紺のトヨタ車で、二人のスーツの男が乗っていました。彼らはおそらく科協の関係者だと思います。
当時と今では、道がかなり変わっていますが、当時の記憶で説明します。
まずわれわれは環状七号線を西へ進み、鹿浜交差点を右折して都道107号線に入りました。そのすぐ先を左折し、博慈会病院の前を通って新芝川べりから山王橋を渡り、鋳物工場が両サイドに並ぶ通りを直進して、川口本町大通りから産業道路に入りました。
“金先生”は、「このルートだと派出所は1ヶ所しかないから安全なんだ」と説明していました。どこをどう通るかまで、綿密に計算し尽くしていたわけです。
国鉄(当時)川口駅前を越してしばらく走ると、産業道路沿いにある公園で停まるように言われました。車を降り、公園の反対側に歩いていくと、濃い色のクラウン(3号車)が停まっていて、スーツ姿の男が4人乗っていました。
4人とも朝鮮総連本部関係者で、いま考えると、彼らがこの事件の指揮官でした。“金先生”は、3号車の4人と何か話したあと、私のところに戻ってきて「大宮の氷川神社に行くことになった」と、淡々と私に指示を出しました。
当時は道が空いていたので川口まで30分弱、川口から氷川神社までもそれほど時間はかかりませんでした。大宮氷川神社の隣には大宮公園があるのですが、公園の池の近くで車を停めるよう指示されました。いまでこそ、人も多く明るい公園ですが、当時は木が鬱蒼と茂っていて人影も少なく、寂しい場所でした。
そこには、かなり大きめの乗用車(4号車)が、われわれを待っていました。これが藤田さんを捕まえていた車です。2号車から2人、3号車から4人が降りると、待っていた4号車の後部座席から、大柄な男2人に両側を抱えられて、男性が連れ出されました。これが藤田さんでした。
藤田さんは精神病患者などが暴れた際に着させられる拘禁服に似た、ベージュ色の保護服を着ていました。足元もおぼつかないほどフラフラの状態で、意識がないようにも見えました。クスリを打たれているな、とすぐにわかりました。そのまま藤田さんは2号車の後部座席に入れられ、2人の男が両側から挟むようにして座りました。
作業は一瞬でした。3号車の指揮官と思われる男が私のもとにやってきて、「全て完了したので戻って下さい」と日本語で言いました。日本語が使われたのはこのときだけで、あとは全て朝鮮語です。
帰りも私の運転する1号車が先導でした。後ろを走っていた3、4号車はすぐに姿を消し、私たち1、2号車はまっすぐ病院に向かったのですが、私は途中で道に迷ってはぐれ、2号車より20分も遅れて病院に着きました。“金先生”にひどく怒られたのを覚えています。藤田さんを乗せた2号車は、行きと同じ道で病院まで戻ったそうです。
藤田さんの拉致には、川口市の総連系の診療所が大きくかかわっていると思います。金理事長が中枢にいた科協には医師が非常に多いのです。おそらく西新井病院で解読された拉致指令が科協本部にわたり、科協から傘下の診療所に通達されたのでしょう。数年前から藤田さんと川口の診療所の医者が親しくなっていたそうです。医師は何年もかけて藤田さんと親密な関係を築き、拉致当日、食事や催し物に一緒に行こう、と誘ったのでしょう。


【涙をためて「ここはどこですか」】

病院に連れてこられた藤田さんは、そのまま病院2階付近にある「保護室」という名の監禁部屋に入れられました。「保護室」の存在は「幹部」しか知りません。一般職員からはわからないように扉はまるで壁のように加工されていました。「保護室」は畳1枚半の部屋で、鉄格子がしてあり、壁も床も自傷防止用の青緑色のクッションが張ってあります。ちなみに西新井病院に精神科はなく、このような施設は必要ありません。
私は“金先生”から「“患者”に配膳をしてくれ」と頼まれました。翌日の朝から配膳係になって、朝、昼、晩の3回藤田さんに食事を運びました。
拉致の翌日、藤田さんは打たれたクスリがまだ効いているようで、意識が朦朧としており、朝食、昼食とも手付かずでした。藤田さんが打たれたのは自白剤ではないかと思います。ものすごく息が臭くなるのでわかりました。
その日の夜、藤田さんの意識がしっかりしてきました。しかし、現実が受け入れられないのか、ただただ大声で泣き叫んでいました。慟哭という感じでした。「どこへ連れて行くんだ!」「なんだ、これは!」という叫びが、今も強く耳に残っています。
2日目、3日目も会話はなく、食事は摂るようになったのですが、藤田さんは身動きが制限される保護服を着たまま、ただじっとしていました。叫ぶこともなくなりました。
4日目になって、「ここはどこですか」「自分は何でここにいるんですか」と、涙をいっぱいに溜めた脅えきった目で私に聞いてきました。これが、最初で最後の会話です。
4日目の夜、藤田さんはいなくなりました。その後、病院関係者から「彼は同志同胞の繁栄のため、新潟から万景峰号(マンギョンボンごう)で北朝鮮へ渡った」と聞かされました。

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