《極悪北朝鮮を象徴する強制収容所。その強制収容所を姜哲煥記者が斬る!》
国際赦免委員会は1990年、北朝鮮の1級政治犯収容所・平安南道勝湖里の26号政治犯教化所の存在を世界に暴露した。当時、この収容所にはノルウェーで拉致されたコ・サンムン氏や在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)の元幹部を含む多くの北送者、元政府高官たちが数多く収容されていた。
報告書の公表に慌てた北朝鮮は実名が公開された複数の政治犯を釈放し、残りは別の収容所に移す等してこの収容所を閉鎖した。1冊の報告書が収容所を閉鎖に追い込み、金正日(キム・ジョンイル)政権に極度の不安を与えたというわけだ。
当時、北朝鮮では近所の住民がある日突然姿を消すことはあったが、どこの収容所でどのように過ごしているのかという情報はほとんど知られることはなかった。
金総書記も収容所の存在が外部に知られることを極度に懸念していた。1992年に記者とアン・ヒョク氏は耀徳(ヨドク)収容所の存在を世界に知らせる2回目の記者会見に臨んだ。のちに脱北した後輩たちから聞いた話によると、この会見で北朝鮮全土は再び衝撃に包まれたという。耀徳郡の保衛部や保安部の幹部たちは記者の脱北を防げなかった罪で首が飛び、収容所の警備担当者には超非常警戒態勢を敷かせた。さらに、中・朝国境近くにあった複数の収容所は極秘の状態を維持することが難しくなったとして閉鎖され、いずれも内陸に移された。
その後、1994年には北朝鮮最大の政治犯収容所・咸鏡北道会寧にある22号収容所の警備兵だった安明哲(アン・ミョンチョル)氏が武器を手に中国に脱出するという事件が発生した。当時、北朝鮮の保衛部は安氏の身柄を拘束するため安氏を犯罪者に仕立て上げて中国の公安(警察)当局にも協力を依頼し、多くの保衛部員を現地に派遣したが最終的に安氏は韓国大使館に逃げ込むことに成功した。
安氏の会見を通じてこれまで存在自体が知られていなかった会寧収容所の秘密が完全に暴露された。会寧収容所のすぐ隣には生体実験が行われた疑いのある秘密病院があり、また核実験が行われた吉州郡万塔山の秘密工事現場には多くの政治犯が動員されていたことがわかった。さらに、会寧収容所とその近くの化城収容所は一度入ったら二度と出られない「完全統制区域」だったこと等も明らかになった。
1997年に亡命した金総書記の元警備員のイ・ヨングク氏によると、耀徳収容所では外部からの査察に備えて政治犯たちはトンネルを掘らされ、そこに身を隠す訓練を強制させられていたという。
数百万人の餓死者を出す等、体制そのものがすでに崩壊寸前の危機にある北朝鮮は外国からの支援を受ける際には人権問題での圧力を最も警戒し、それに対する備えを徹底していた。
金大中(キム・デジュン)政権の5年間に北朝鮮は「人権」という言葉を一切口にせず、また、廬武鉉(ノ・ムヒョン)政権は国連が2003年に初めて上程した北朝鮮人権決議案を棄権した。このような状況が続く中、金総書記は自らが持つ犯罪施設に対する道徳的な感覚さえ麻痺してしまったようだ。
数日前に国際赦免委員会が公開した耀徳収容所の最近の写真を見ると、政治犯を管理する保衛部と警備隊の幕舎の数が10年前に比べてかなり増えていた。そのため、収容所の規模が縮小どころか逆に拡大しているのは間違いない。
北朝鮮が政治的に変化しているかを判断するにあたり、最も重要なポイントは強制収容所の実態で、収容所が閉鎖されない限り金王朝に根本的な変化が起こらないのは明らかだ。
そのため、対北朝鮮政策では収容所の閉鎖に優先順位を置いて進めなければならない。
【北送者】
帰国事業等で北朝鮮に行った人。
※「親北勢力は胸に手を当てて考えて欲しい。もし、あなたの子供たちが食べ物に飢えて栄養失調になり、骨だけの痩せ細った体で勉強を諦め、市場のゴミ捨て場を漁っていたら、どんな気持ちになるだろうか。そうせざるを得ない社会に憧れを持つことなど出来るだろうか」
(脱北者Aさん。脱北者の手記集より)
国際赦免委員会は1990年、北朝鮮の1級政治犯収容所・平安南道勝湖里の26号政治犯教化所の存在を世界に暴露した。当時、この収容所にはノルウェーで拉致されたコ・サンムン氏や在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)の元幹部を含む多くの北送者、元政府高官たちが数多く収容されていた。
報告書の公表に慌てた北朝鮮は実名が公開された複数の政治犯を釈放し、残りは別の収容所に移す等してこの収容所を閉鎖した。1冊の報告書が収容所を閉鎖に追い込み、金正日(キム・ジョンイル)政権に極度の不安を与えたというわけだ。
当時、北朝鮮では近所の住民がある日突然姿を消すことはあったが、どこの収容所でどのように過ごしているのかという情報はほとんど知られることはなかった。
金総書記も収容所の存在が外部に知られることを極度に懸念していた。1992年に記者とアン・ヒョク氏は耀徳(ヨドク)収容所の存在を世界に知らせる2回目の記者会見に臨んだ。のちに脱北した後輩たちから聞いた話によると、この会見で北朝鮮全土は再び衝撃に包まれたという。耀徳郡の保衛部や保安部の幹部たちは記者の脱北を防げなかった罪で首が飛び、収容所の警備担当者には超非常警戒態勢を敷かせた。さらに、中・朝国境近くにあった複数の収容所は極秘の状態を維持することが難しくなったとして閉鎖され、いずれも内陸に移された。
その後、1994年には北朝鮮最大の政治犯収容所・咸鏡北道会寧にある22号収容所の警備兵だった安明哲(アン・ミョンチョル)氏が武器を手に中国に脱出するという事件が発生した。当時、北朝鮮の保衛部は安氏の身柄を拘束するため安氏を犯罪者に仕立て上げて中国の公安(警察)当局にも協力を依頼し、多くの保衛部員を現地に派遣したが最終的に安氏は韓国大使館に逃げ込むことに成功した。
安氏の会見を通じてこれまで存在自体が知られていなかった会寧収容所の秘密が完全に暴露された。会寧収容所のすぐ隣には生体実験が行われた疑いのある秘密病院があり、また核実験が行われた吉州郡万塔山の秘密工事現場には多くの政治犯が動員されていたことがわかった。さらに、会寧収容所とその近くの化城収容所は一度入ったら二度と出られない「完全統制区域」だったこと等も明らかになった。
1997年に亡命した金総書記の元警備員のイ・ヨングク氏によると、耀徳収容所では外部からの査察に備えて政治犯たちはトンネルを掘らされ、そこに身を隠す訓練を強制させられていたという。
数百万人の餓死者を出す等、体制そのものがすでに崩壊寸前の危機にある北朝鮮は外国からの支援を受ける際には人権問題での圧力を最も警戒し、それに対する備えを徹底していた。
金大中(キム・デジュン)政権の5年間に北朝鮮は「人権」という言葉を一切口にせず、また、廬武鉉(ノ・ムヒョン)政権は国連が2003年に初めて上程した北朝鮮人権決議案を棄権した。このような状況が続く中、金総書記は自らが持つ犯罪施設に対する道徳的な感覚さえ麻痺してしまったようだ。
数日前に国際赦免委員会が公開した耀徳収容所の最近の写真を見ると、政治犯を管理する保衛部と警備隊の幕舎の数が10年前に比べてかなり増えていた。そのため、収容所の規模が縮小どころか逆に拡大しているのは間違いない。
北朝鮮が政治的に変化しているかを判断するにあたり、最も重要なポイントは強制収容所の実態で、収容所が閉鎖されない限り金王朝に根本的な変化が起こらないのは明らかだ。
そのため、対北朝鮮政策では収容所の閉鎖に優先順位を置いて進めなければならない。
【北送者】
帰国事業等で北朝鮮に行った人。
※「親北勢力は胸に手を当てて考えて欲しい。もし、あなたの子供たちが食べ物に飢えて栄養失調になり、骨だけの痩せ細った体で勉強を諦め、市場のゴミ捨て場を漁っていたら、どんな気持ちになるだろうか。そうせざるを得ない社会に憧れを持つことなど出来るだろうか」
(脱北者Aさん。脱北者の手記集より)