長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典に参加して
8月9日に被爆65周年の節目を迎えた長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典に参加してきまし
た。午前10時に爆心地公園の「爆心地モニュメント」に持参した千羽鶴を献じ犠牲者に
哀悼の意を捧げました。
沢山の千羽鶴が奉げられた「爆心地モニュメント」
台風4号の影響で雲行きの怪しくなった中を徒歩で平和祈念式典が開催される平和公園へ向かいました。
式典が開かれた平和公園に建つ「平和祈念像」(北村西望製作)
雨が降ってきましたが、式典の始まる10時35分頃にはなんとか上がってくれました。会場の「平和祈念像」の前には3,000人位は収容できる巨大なテントが設置されていましたが、早朝から詰めかけた多数の遺族、被爆者、市民で式典会場はすでに溢れんばかりになっていました。
多くの人々で溢れる巨大テントの式典会場
被爆者合唱で式典が厳かに始まりました。式典の司会者は地元の男子と女子の高校生が務めました。長崎市長と被爆者代表と遺族代表の3人がこの1年間に死亡が確認された3,114人の原爆死没者名簿3冊が奉安されました。被爆者代表や遺族代表が献水、献花を行った後、原爆投下時刻の午前11時2分に「長崎の鐘」や市内で一斉に鳴らされたサイレンに合わせて参加者全員で黙とうを奉げました。
原爆投下時間の午前11時2分に鳴らされた「長崎の鐘」
田上長崎市長が全世界に向けて「長崎平和宣言」を力強く読み上げ、核廃絶に向けての努力を誓いました。次いで被爆者代表が当時の生々しい状況を思い出だしながら「平和の誓い」を読み上げました。市内の小学校の6年生が、「長崎の鐘」で有名な永井隆博士作詞の「あの子」を高らかにそして感動的に歌いました。管首相が来賓あいさつを述べ、最後に地元の女子高生が平和を願う「千羽鶴」を合唱し式典は滞りなく終了しました。
8月9日の長崎市は核廃絶と平和への願いの一色に染められているように感じました。
前日の8月8日には、「ピースウォーク」に参加して、数多くある慰霊碑を巡りました。
国連事務総長の花輪が供えられた「長崎原爆朝鮮人犠牲者の碑」
原爆資料館を見学して改めて原爆の悲惨さを目の当たりにしました。また、広島に投下さ
れた原子爆弾が「ウラニウム」型で長崎に投下されたそれが「プルトニウム」型であると
いうことも初めて知りました。
今回の式典に参加して最近ともすれば原爆被爆体験や世界各地で起きている悲惨な戦争
のことを他人事のように感じつつあった自分の気持ちに強く警鐘を鳴らしてくれたと
同時に平和への思いを強くしました。
爆心地に近い浦上天主堂から移設された「ザべリオと使徒」の壁
最後に、今回10年ぶりに再会することができた以前勤めていた職場の尊敬する長崎在住の大先輩MT氏の句を紹介します。
「生きてゐる限り二つの原爆忌」(1994年9月18日付「日経俳壇」掲載)
(髭ダンディー記)
8月9日に被爆65周年の節目を迎えた長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典に参加してきまし
た。午前10時に爆心地公園の「爆心地モニュメント」に持参した千羽鶴を献じ犠牲者に
哀悼の意を捧げました。
沢山の千羽鶴が奉げられた「爆心地モニュメント」
台風4号の影響で雲行きの怪しくなった中を徒歩で平和祈念式典が開催される平和公園へ向かいました。
式典が開かれた平和公園に建つ「平和祈念像」(北村西望製作)
雨が降ってきましたが、式典の始まる10時35分頃にはなんとか上がってくれました。会場の「平和祈念像」の前には3,000人位は収容できる巨大なテントが設置されていましたが、早朝から詰めかけた多数の遺族、被爆者、市民で式典会場はすでに溢れんばかりになっていました。
多くの人々で溢れる巨大テントの式典会場
被爆者合唱で式典が厳かに始まりました。式典の司会者は地元の男子と女子の高校生が務めました。長崎市長と被爆者代表と遺族代表の3人がこの1年間に死亡が確認された3,114人の原爆死没者名簿3冊が奉安されました。被爆者代表や遺族代表が献水、献花を行った後、原爆投下時刻の午前11時2分に「長崎の鐘」や市内で一斉に鳴らされたサイレンに合わせて参加者全員で黙とうを奉げました。
原爆投下時間の午前11時2分に鳴らされた「長崎の鐘」
田上長崎市長が全世界に向けて「長崎平和宣言」を力強く読み上げ、核廃絶に向けての努力を誓いました。次いで被爆者代表が当時の生々しい状況を思い出だしながら「平和の誓い」を読み上げました。市内の小学校の6年生が、「長崎の鐘」で有名な永井隆博士作詞の「あの子」を高らかにそして感動的に歌いました。管首相が来賓あいさつを述べ、最後に地元の女子高生が平和を願う「千羽鶴」を合唱し式典は滞りなく終了しました。
8月9日の長崎市は核廃絶と平和への願いの一色に染められているように感じました。
前日の8月8日には、「ピースウォーク」に参加して、数多くある慰霊碑を巡りました。
国連事務総長の花輪が供えられた「長崎原爆朝鮮人犠牲者の碑」
原爆資料館を見学して改めて原爆の悲惨さを目の当たりにしました。また、広島に投下さ
れた原子爆弾が「ウラニウム」型で長崎に投下されたそれが「プルトニウム」型であると
いうことも初めて知りました。
今回の式典に参加して最近ともすれば原爆被爆体験や世界各地で起きている悲惨な戦争
のことを他人事のように感じつつあった自分の気持ちに強く警鐘を鳴らしてくれたと
同時に平和への思いを強くしました。
爆心地に近い浦上天主堂から移設された「ザべリオと使徒」の壁
最後に、今回10年ぶりに再会することができた以前勤めていた職場の尊敬する長崎在住の大先輩MT氏の句を紹介します。
「生きてゐる限り二つの原爆忌」(1994年9月18日付「日経俳壇」掲載)
(髭ダンディー記)