東京里山農業日誌

東京郊外で仕事のかたわら稲作畑作などをしていましたが、2012年4月に故郷の山口県に拠点を移して同活動をしています。

田布施川沿い史跡巡りウォーキング8回シリーズ(その4)の事前調査

2013年05月29日 | 歴史探訪他ウォーキング

 今日28日は午後から大雨で、外に出られません。ところで、先週の晴れた日に、田布施川沿い史跡巡りウォーキング8回シリーズ(4回目)でウォーキングするルートをバイクで事前調査しました。コースは、JA南すおう平生支所から平生町街を通り、旧平生保育園跡,平生座跡,玖珂島神社,塩田跡,八海橋,荒砂神社,灸川排水機場,菅原神社,飢民の供養塔などを見て、交流館を終点にしようかと思っています。

  スタート地点のJA南すおう平生支所          お地蔵様と堀川南蛮樋跡
 

 平生街中心部を進むと、私が子供の頃に一番賑やかだった平生座があった付近に来ました。今は旅籠跡,郵便局跡などが静かにあります。平生座前の通りには、氷屋さんがあったように記憶しています。すぐ近くの真覚寺は今でもあります。この真覚寺内には、住職さんが園長をされていた幼稚園がありました。

                平生座があった50年前、平生で一番賑やかな付近


 真覚寺の裏山の反対側には玖珂島神社があります。「玖珂島」の名のとおり、江戸初期は島でした。近くの野島神社も「野島」の名前のとおり島でした。付近を調査していると、真覚寺の裏山南側に朽ちて崩れた伽藍(法輪寺?)がありました。昔お寺があったようです。そして、付近には崩れかけたお墓があちこちに散在していました。

        玖珂島神社の鳥居               玖珂島神社横の山、昔は島
 

 玖珂島神社にお参りして、その玖珂島の山に登りました。この山は最近竹を切ったようで、登ると平生街を見渡すことができました。ただ登り口はとても狭く崖になっているため、ウォーキング時には登らない方が無難かも知れません。

                  玖珂島頂上から平生街を見下ろして  


 玖珂島神社を降りると、平生街を抜けて平生湾に出ました。この平生湾には昔たくさんの塩田がありました。私が5歳頃、旧平生保育園と人島の間を歩いて通園していました。その時、塩田で働く浜子さんをよく見かけました。夏の猛暑の中で塩分を含んだ砂をかき集めている姿は、子供心に大変な仕事だなと思っていました。しばらくして、砂を集める方法から流下式に変わり、浜子さんを見ることがなくなりました。

               左手に、平生湾と対岸の曽根方面を見ながら進む


 当時、平生付近は禿山が多かったように記憶しています。後で聞いた話ですが、塩田では塩を作るときに窯を焚くための大量の薪が必要だったそうです。そのために、平生近辺の山の木が切り出されて禿山になったそうです。今私が住む麻郷高塔にある高塔山も禿山でした。禿山で歩きやすく見通しが良いため、幼稚園の遠足コースでした。山頂を園児たちが並んで歩く行列をよく見かけました。しかし私が40年間故郷を離れている間に、その高塔山は人すら拒む深い森の山になってしまいました。

      平生湾沿い三新化学裏の道            人島の荒砂神社
 

 三新化学の裏にあたる小道を、平生湾を見ながら進んでいると田布施川に架かる八海橋が見えてきます。八海橋には新旧の橋が架かっています。旧八海橋は崩れているため、通行止めとなっていました。この橋から300m位進むと荒砂神社があります。私が子供の頃はとても質素な神社でしたが、今は赤い鳥居がたくさん並んでいます。秋祭り時に、この神社で人形劇など子供を楽しませるイベントとが催されていました。そう言えば、お正月には、獅子舞いが竪ヶ浜を回って人島まで来ていました。よく祖母に連れられてその獅子が舞っている場所に行き、獅子に頭を軽く咬ませてもらった記憶があります。今そのような行事はあるのでしょうか。

           広々とした田布施川の堤防、向こうに見えるのは石城山


 荒砂神社を過ぎると、田布施川から灸川方面に分かれる支流があります。この支流沿いにしばらく歩くと、灸川排水施設がありました。私が高校生の頃、このような施設はありませんでした。海水が逆流しないための施設ではないかと思います。この灸川は大波野方面から流れてきています。
 田布施川は江戸時代初期から後期にかけて川の流れが変わったようです。江戸時代初期はまだ、「竪ヶ浜」の名前のとおり竪ヶ浜は海岸でした。その頃、この灸川排水施設付近が本流の河口だったのではないかと思われます。航空写真から見た田んぼの曲がりぐあいから、それとなく分かります。そもそも、今の田布施川は直線すぎます。これは人の手が加わっていることを暗示しています。古代~近世と、田布施川はおおらかにうねっていたのではないでしょうか。

                田布施川の航空写真(昭和49年頃)


 灸川排水施設からしばらく1kmほど歩いて田布施街に入ります。最初、菅原神社に行きました。この神社のお祭りが私はとても好きでした。特に、牛車が華やかで立派だったことを覚えています。木の車輪が巨大で平安時代を思わせるような牛車でしたが、今は牛車を引く牛がいないそうです。とても残念なことです。

       新しい灸川排水機場           菅原神社、牛車が立派だったお祭り
 

 次に田布施街の賑やかだった通りを過ぎて、 大恩寺の飢民の供養塔に行きました。この田布施も江戸時代は飢えて亡くなる方がたくさんいたのですね。次に大内公園に行き、続いて祇園の八坂神社に行って田布施街を見下ろしました。そして、終点の交流館に向かいました。なお、大内公園と八坂神社は田布施川沿い史跡巡りウォーキング8回シリーズの6回目で訪れてもよいかと思っています。
 今週か来週、今度は今回のルートを実際に歩いてみようと思います。そして、お昼の場所,おトイレの場所などを確認しつつ距離などを測ろうと思っています。今日から梅雨入りとのことですが、晴れる日が少しでもあると良いのですが。

       古い民家が並ぶ田布施街            飢民の供養塔がある大恩寺
 

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