みう と 青

みうと青の共同ブログ。
知ってる人には言えないけど、知らない誰かの通り過ぎる場所で呟きたい独り言があるのです。

本当のさよなら

2021年10月06日 21時01分00秒 | みう・つれづれ

 



半年間お世話になった整体の先生が転院することになった。

 

コロナ禍の中で、間違いなく最も多く会話をした他人だったし、そもそも職場以外で定期的に話をする唯一の他人だったかもしれない。

しかし、先生と患者なので当然連絡先などは交換していない。

先生の転院は、即座に先生との「別れ」を意味する。

 

私が最後に誰かとキチンと別れたのはいつだろう?

 

別れるためには出会う必要があるし、単発あるいは不定期に会う相手の場合は、たとえ会わなくなったとしても「別れ」とは言わないだろう。

風邪の時だけ行く診療所の先生とか、隣の部署の係長とかは、会わなくなっても、それを別れとは認識しない。

それよりは、行きつけのコンビニのシフトの厚い店員さんの退職の方が、まだ別れを感じられると思う。

 

とにかく、別れることができるのは、出会って、ある程度定期的に会い、きちんとやりとりをした相手に限る。

 

そして、メールやSNSが出現してからというもの、そういった相手とは連絡先だのアカウントだのを交換し合うハメになりがち。

(それは積極的に関わりたい相手かどうかはさておき「とりあえず」「礼儀として」「ノリで」連絡先を聞いたり聞かれたりして、それに対して「とりあえず」応えただけというものも多分に含まれる)

 

一度繋がってしまえば、たとえその友人・知人と会えずとも、相手の近況を何となく把握できてしまったり、その気になればいつでも連絡を取れてしまったりする。(本当にその気になるかはどうかはさておき)

 

あの人は元気かな?と思いを馳せるより先にスマホの画面を撫でて、

便箋やインクの色に迷う間もなくフリック入力。

 

もう物理的な距離は、人間関係において以前ほどの意味や力はないのかもしれない。

それは時々とても嬉しいことだけど、ちょっとつまらない気もする。

 

21世紀生まれの人たちは、卒業や転居の寂しさや切なさを、どれくらい切実に受け止められるんだろう?

7080年代くらいまでに生まれ人たちが感じてきたであろう執行猶予感ゼロの否応のない別れを(元気なうちは)実感することなく過ごしていくのかもしれない。

それは幸せなことかもしれないけど、人生からそういう切実さを失くすことは、少しもったいない気もする。

 

それに、別れが薄まると、出会いも、そこからの新しい関係も薄まるような気がする。

 

人間、一度にちゃんと向き合える、ちゃんと関心を持って関われる人の数には上限があるんじゃないかと思ってる。

だから、なんとなく繋がったままの人、とりあえず繋がってる人が増えると、一人一人との密度はどうしても薄まってしまう気がする。

 

かつて、卒業や転居や転職などにより否応なく代謝してきた人間関係は、圧倒的な別れと共に、新鮮な出会いも呼び込んでいたはず。

その流れの繰り返しの中で、嬉しい出会いやピンとこない出会いがあって、流れに抗って関係を繋ぎ続けたいと思いあえた人や、偶然に再会できた人たちと関係深めていくことで、砂金みたいに大切な関係を選分けたり積み重ねたりしていったんだと思う。

 

最近の自分は一期一会してないなって感じる。

 

だから、たとえ相手が整体の先生であったととしても、久々に本当のさよならをして、少し寂しいけどとても清々しい気分にもなった。

本当のさよならは新しい何かへの第一歩でもある気がするんだ。