ガタゴトぷすぷす~外道教育学研究日誌

川口幸宏の鶴猫荘日記第2版改題

校正作業その他

2017年04月11日 | 日記
○8時10分稀少、起床時室温13℃。二度寝。
*大寝坊。昨夜遅くまで校正作業をしていたこともあるけれど。
○午前中、シンポジウム報告校正作業の続き。終わらず。クラムシーと「薪材筏産業」との経済、文化、社会、政治を論ずるシンポジストがおらず、せっかくのクラムシーでの開催が少々気に抜けになっていると思ったので、急遽、関連論文を添付した。
○今日のお昼はスープカレー。スープ取りに、野菜クズ(キャベツ外葉っぱ、三つ葉茎、熟しすぎたトマトなど)やごま油などを使った。七味唐辛子、ら-油なども少々。写真は仕込み中。なかなかのお味でした。

○2年前の今日のリハビリ日記ー
 ぼくの住む研究の世界では「生活教育」という粋な考えとやり方とがずっと昔からある。リハビリを必要とする世界に住むようになって、「生活リハビリ」なる営みをぼくの世界に誕生させた、今日は記念日。以下、その記録(日記)よりー
「リハビリが機能ノルマ化している!このことに気づいた。今日は歩行何分、今日は無杖だ、そんな「記録」しかノートに残らない。そして「苦痛」を感じる記述が日に日に増えていくだけ。入院中のリハビリはあんなに楽しかったのに。なぜなのだ。
 入院中のリハビリは必ずコミュニケーションが伴っていた。たとえばこうだ:少々疲れたなと思うと、療法士が「何か飲みますか?」と声をかけてくれる。ぼくは暖かい緑茶が好きなので「暖かいグリーンティを」と注文する。すると療法士があつらえてくれる。それはどこでもあるサービスだろう。だが、「川口さんは、暖かい、という表現と、グリーンティという表現を必ずしますね。どうして、暖かい+緑茶、じゃないの?」という<遊びのコミュニケーション>が為される。この<遊び>こそがリハビリの空間を和ませ、楽しませ、やる気をいっそうおこさせてくれたのだ。これは、ぼくなどが日本の教育界からつかみとらされていた<無駄の徹底排除>(たとえば、掃除における黙働)という「教育的正義」の対極にあるものだ。
 今、毎朝、黙々と、ノルマとしてリハビリをこなしているが、それは無駄のない機能訓練化しているのだ。療法士がみんな口を揃えて言っていたのは、「生活の具体とリハビリとを結びつけましょう」だった。ぼくの依って立つ「生活教育」と同じなのである。
 そうだ、街に出よう。人と語らい、必要なものを購入し、地域にぼくの好みとする文化を探ろう・・という生活行動、すなわち人格全体のリハビリをしよう!」
○夕刻、1944年制作の映画「我が道を行くgoing my way」をDVDで観賞していた。新任の神父オマリーが教会内庭に四つ葉のクローバーを見つけて「縁起が悪い」と投げ捨てる場面がある。ぼくはずっと、四つ葉のクローバーは見つけると幸せになれると聞かされてきた(その手のことは信じないので、へーと思うだけで、意識して探すことはしたことがない)。まったく対極にある(花に対する)思想。これは面白い、と思った。「復讐」を表すシンボルなのだそうだ。で、妄想ーーー
シーン 
 四つ葉のクローバーを見つけた少年(紅顔の美少年だったぼく笑)が恋心を抱く少女(きっこちゃん)にプレゼント。「幸せになれるよ。」少女もすごく喜んだ、そして「幸せ」な日々(ぼくではない男の子たち)が訪れるのを心待ちにした。
 しかし、「幸せ」どころか、きっこちゃんには次々と不幸なこと(思い人に振られ続ける)が起こる、きっこちゃんは、それは「四つ葉のクローバーのせいだ」と思うようになった。それで、四つ葉のクルーバーをプレゼントしたかつての紅顔の美少年に、この恨みはらさでおかりょうか、とばかり、恨み辛みの復讐心に燃えるのだった。・・・