ガタゴトぷすぷす~外道教育学研究日誌

川口幸宏の鶴猫荘日記第2版改題

セガン話 第5回

2014年09月20日 | 日記
セガンの幼少年期
 先生様と奥方様の間に第一子が生まれました。第1回でも言いましたが、1812年1月20日です。どうやらいわゆるハネムーン・ベビィのようです。いえ、アホな旅行の話ではなく、結婚して1ヶ月をハネムーン(蜜月)と呼んだことにちなんで言っただけです。セガンは時の子にふさわしく、生まれてすぐに母親から離されて育ったのでしょうねぇ。
 でも、セガン自身による幼少年期の思い出の語りを見ますと、どうやら母乳育児を提唱したジャン・ジャック・ルソー『エミール』の影響を受けた両親の許で育ったと思われるのですね。いや、もうちょっとていねいな言い方に改めます。「思われてきた」のです。その下りを次に紹介しますわ。ちょっと長いです。1875年に出版した『教育に関する報告』からの引用。
「楽しみにものを作るということは、ずっと昔から、家族で大きな位置を占めてきたはずである。ただ『エミール』がそれを流行にしたということだ。かの本の影響のもとで、母親たちは、いや特に父親たちは、もし私の幼少期の記憶が正しければ、日常の教育にエミール流のやり方を持ち込み、子どもたちが楽しみにものを作るにふさわしいようにと、熱心であった。私たち、小さなブルゴーニュ(プチ・ブルギニヨン)人たちは、パパの手の動作が壁に、オオカミ、ノウサギあるいは椅子に座っている大工を表象する影絵を作ってくれた時、それを真似しようとしたものである。私たちは、パパに倣って、揺れる塔をドミノ牌で作ったり、我が兵士たちのテントをカードで張ったりしたものである。紙を簡単に折りたたんで、ひよこ、(コッコ)、家、ノアの箱舟、実在しないような小型船舶の艦隊を作った。また、はさみを使って紙から、財布、はしご、壁掛け、ひだ飾り、王冠を作った。やがて、アンズやサクランボの種を加工し、ハート型、かご状のもの、数珠に形作るようになった。ドングリやマロニエで摩訶不思議な形のものを作ったものである。自然を知り尽くしているまさにその幼稚園の先生は、春には、私たちに、柳の木の幹から樹皮を剥がし、音を刻み、フルートのように奏でて、音を出す方法を示してくれた。あるいは夏には、帰り道に、高く緑に生い茂ったライ麦の茎を抜き取り、道端の頭上のサンザシを太さに応じて剥ぎ取り、まるで鳥のさえずりのようにさまざまな音曲を演奏してくれた。家に帰ると、再び、私たちに手先の使い方を示してくれようとした。それには、子どもが理解できるように、たいていは仕掛けがしてあり、樽のたがをさらに強く締めるようにたがを弛めてあったり、できるだけ元のいい形に綴じなおすために教科書は表紙が引きはがされていたりというもので、手先の熟練の発達のために欠くことのできないものであった 。」
 原文は英語なのですが、「母親たち」「父親たち」「私たち」という風に、登場人物が複数形になっているのがちょっぴり気になるのですが、それはひょっとしてフランスなまりの英語なのかもしれませんので、これ以上は追求しません。とにかく、「遊び」が「父親たち」のリードによって繰り広げられている描写ですね。子ども集団の中で育つというイメージはなく、大人に導かれた幼少年期というイメージをぼくは持ちます。まるで、保育園や幼稚園という「箱庭」みたい。これまでセガンを語る人は皆さん、「両親の自然主義の考えと方法とに導かれてセガンは幸せな幼少年期を過ごした。」と言ってこられました。でも、他に同年代の、同地域の子どもが登場しない育ちって、幸せなことなのでしょうかねぇ。まるで、時代から隔離された、「自然」と言ってはいるけれど本物の自然状態ではない、あえて作られた話のようにぼくは思ってしまうのです。これ、セガンの考える教育論を普及させる「小道具」なんじゃないかなぁ。
 じゃあ、どんな育ちをしたかって?セガン自身が1843年や1846年に著した著作の中で、彼が育った時代の一般論として厳しく批判的な目で綴っているのが、そうなのではないかと、ぼくは思いますんや。つまり両親の育ちの過程をなぞって成長してきたけれど、ある時からそれは違うのではないか、と思い始め、理論的にも整備し始めた、というんやと思います。1846年に著した著書『知的障害の精神療法、衛生学ならびに教育』に書かれている一般的な子育ての筋道は「乳母の子守歌、祖母の昔ばなし、家庭教師の授業」だというのですね。そしてその頁には、3歳、7歳、14歳と年齢を区切った発達段階が書かれています。3歳までが乳母、7歳までが祖母、14歳までが家庭教師。一般的な子育て過程を装いながらセガン自身の経験が綴られているのは「祖母」という言葉で明らかですよね、普通なら里親とすべきところですやん。念のために父方の祖父母、母方の祖父母の亡くなった歳を調べてみたんですが、父方の祖父は1799年、祖母は1800年、母方の祖父は1806年、祖母は1827年に亡くなっています。そしてセガンは「祖母の家に自室を持っていた」と回想していますから、間違いなく彼は、オセールの祖母を里親として育っているのですね。3歳過ぎてから7歳ほどまででしょうか。
 自室を父親に取り上げられたとも綴っていますが、これは何歳頃のことでしょうかねぇ。祖母が亡くなったのはセガンが15歳の年。おおよそ12年ほどの祖母家族との共同生活の中で、「自室を父親によって取り上げられた」のはいつ頃のことなのか、そしてなぜ取り上げられたのか、そこのところはまったく不明なのですが、父系と母系との生活文化観の違いが現れているように思われて、仕方がありません。たとえば、イギリスでは子ども部屋を用意する、フランスでは用意しない、という風に。つまりフランス風でいきますと、躾係(里親等)と寝食を文字どおり共にしなければならない風習がありますから。先生様からすれば、何のために里親に預けたのか、分からないと考えての「自室」取り上げ行為だったのでしょう。