落合順平 作品集

現代小説の部屋。

居酒屋日記・オムニバス (72)       第六話 子育て呑龍(どんりゅう)③

2016-05-21 09:21:38 | 現代小説
居酒屋日記・オムニバス (72)
      第六話 子育て呑龍(どんりゅう)③




 真理子は金山から見下ろす、太田の町の景色が大好きだ。


 太田は江戸時代の初期、新田集落型のひとつとして誕生した。
荒地や水面などを開拓し、計画的につくられた農業集落のことを新田集落と呼ぶ。
大光院(通称 呑竜様)の門前町としても知られたが、明治の頃までは
商農兼業の、どこにでもあるような田舎町だった。



 名所といえば、子育て呑竜くらい。
強いてあげれば金山の頂上につくられた、新田氏の金山城。
明治42年(1902年)。東武鉄道の足利・太田間の延長工事が完成する。
東京と直結したことで、太田は東京人の格好のピクニック地となる。



 これに目をつけたのが、東武鉄道創始者の根津嘉一郎。
呑龍様の隣りに、農産物の博物館を立てた。
博物館形式に地元の農産物を揃えて、新名所にしようという目論みだ。
いまでいう道の駅のようなものだ。
建てられたのは、二階建て一部三階(約百坪)のしゃれた博物館。
田舎ではちょっと見られない、雰囲気の洋館だ。


 
 洋館の前には、大きな瓢箪型の蓮池があった。
太鼓橋が架かっていたという。
夜になると洋館の明かりが池に映り、なかなかの風情をかもし出した。
だが根津氏の目論見は、見事にはずれる。
呑竜様へやって来た人たちは、博物館へ寄らず、そのまま帰ってしまう。
根津はせっかく建てた洋館を、あっさり町へ寄付してしまう。



 遺構のような洋館に目をつけたのが、中島飛行機の創業者、知久平氏だ。
町から洋館を借り受けた知久平氏は、一階を事務所として使い、
2階を設計室として活用した。
小さな研究所を拠点に、やがて中島飛行機の大飛躍がはじまっていく。
1917年(大正6年)のはじめのことだ。



 大戦中。中島飛行機の工場が、市街地のあちこちに作られた
中でも最大の規模をほこった太田製作所には、鉄道の引込線まで存在した。
南門から1,000mほど南の飛行場まで、完成した機体がその翼を広げたまま
搬送できる、専用の道路もつくられた。
ピーク時、従業員数は、45,000人をこえた。
戦争の激化とともにおおくの熟練工が軍事召集され、素人の徴用工が
不慣れな中で、数多くの機体を作り上げていった。



 太田製作所を狙った米軍の空襲は、3度。
最初の空襲は、昭和20年2月10日の夕刻。
B29爆撃機84機から170トンの爆弾と焼夷弾が工場めがけて投下された。
通常爆弾97発が工場に命中し、生産途中にあったキ84(疾風)74機が破壊された。
しかし、従業員たちは避難していて、人的被害は出なかったという。


 2月16日。朝から終日にわたる波状攻撃がおこなわれる。
このときは、多数の死傷者が出る。
さらに2月25日、3回目の空襲がやって来た。
爆弾182トン、焼夷弾45トンが投下されて、工場があとかたもなく
徹底的に破壊されてしまう。




・・・・



 工場の消失から、あれから70年。
知久平氏が使っていた建物は、いまも残っている。
SUBARUの富士テクノサービス株式会社の敷地内に、物置として残っている。
空襲を受け、燃え尽きた工場から数百メートルの距離に、子育て呑龍は建っている。
寺が残り、知久平氏の執務室が残ったのは、米軍の戦略だという。
工場は徹底的に破壊するが、企業の本部や心臓部は残す。
占領支配のため、企業の本部や心臓部は残しておいたほうが利用しやすいからだ。



 それを裏付けるように、東洋一の大工場と呼ばれた隣接の小泉製作所も
工場は消失したが、本部棟は被災をまぬがれている。
そんな歴史をもつ太田市だが、真理子は、高台から見下ろす町の景色が
無条件に大好きだ。



 子育て呑龍の青い屋根は、松に囲まれている。
アカマツの梢越しに、知久平氏が働いた執務室の屋根が見える。
工場のジュラルミンの屋根が、夏の日差しを受けて、にぶく銀色に輝いている。
その先に、大光院(呑龍さま)の、屋並みの低い門前町がひろがっていく。
高架が完成したばかりの東武線の向こうにも、太田市の市街地が、
どこまでも低くひろがっていく。



 10キロ先を流れている利根川を越えれば、そこから先は埼玉県。
真冬の強い風が吹いた翌日。金山の山頂からは、キラリと光るスカイツリーと
秩父連山のかなたに、雪をいだいた富士山を見ることができる。
そんな景色を見るたびに、真理子はこれまで味わってきたすべてのモヤモヤを、
きれいさっぱり忘れてしまう・・・



(73)へつづく


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