夕風桜香楼

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西南戦争 両軍舌戦

2020年07月11日 21時21分32秒 | 征西戦記考
 
 西南戦役(西南戦争)における戦闘の合間、官・薩両軍の兵士はしばしば銃を置き、口をきわめて罵り合いました。記録に残る両軍の「口撃」合戦の様子は、いずれも『平家物語』の舌戦描写のごとき喜劇的なユーモアに満ちたものばかりで、後世のわれわれにとってはやや意外の観があります。
 今回は、その一例を紹介しようと思います。引用元は当時の新聞『郵便報知』の「戦地日報」コーナー(明治10年5月9日付)にある、戦地からのリポート(4月28日付)に基づく記事です。なお、引用に当たっては、旧仮名づかいを平易に改めるとともに、ト書き部分(カッコ内の部分)のみ現代語訳しました。

(熊本籠城戦の折のこと。砲撃の合間に薩兵が城下に現れ、官兵を罵って舌戦が始まった。)
薩「ワイドモ※1降参せぬか、もし降参せんとなら兵器を捨てて来れ」
官「誰か賊に降参する者かある、我々はこの城に籠る官兵なり」
薩「刀魚を与えんか、城中に女はあらざるべし、これを与えんか」
(すると城内の官兵は弦楽器を弾じトンヤレ節※2を唄いながら曰く、)
官「かくの如く女には不自由せず、かえって汝等は弾薬が不足ならん、これを与えんか」
(薩兵は答えに渋ったが、しばらくして曰く、)
薩「借セヨ」
官「すなわち与えん」
(と言うや、官兵はたちまち小銃を連発したため、薩兵は怒って曰く、)
薩「それは打つのジャ、ワイドモ早く持ち来れ」
官「何ぞ汝等賊兵に弾薬を与えん、早く来って戦わざるか」
薩「ワイドモ地雷火※3を伏せてオイドモ※4に近付けと云うとも、何ぞワイドモの百姓に欺かれん」
官「薩摩の芋掘、ビンタハゲビンタハゲ※5、(一斉に笑いながら)汝ら賊徒戦わざれば早く降参せよ」
薩「ワイドモに降参する者があるか、ワイドモは一日に握飯三個よりは喰うものあらざるならん、三日を経ずして餓死するに相違なし、早く降参せよ」
(この答えには官兵も少し窮したが、ややあって、握飯数個を薩兵に投げて曰く、)
官「汝等は粟飯より外に喰うものはあらざるならん、官兵はかくの如き白米を喰うぞ、汝等が大将とか隊長とか恃む篠原※6は戦死せしにあらずや、汝等も死なぬ前に早く降参せよ」
薩「ワイドモの隊長与倉※7も戦死せしにあらずや、ワイドモは人面獣心なり」
(官兵は「人面獣心」の言葉の意味が分からなかったため、傍らの隊長に質問したが、隊長は笑って答えなかった。このように数回罵り合ったあったのち、)
薩「ワイドモはもう寝よ、オイドモも寝るからまた明日」
(と互いに言葉を交わし、薩兵は去っていった。このようなことが何度もあった。)


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※1 「ワイ」は薩摩言葉で「お前」の意。
※2 「トコトンヤレ節」「宮さん宮さん」の通称で知られる戊辰戦役以来の軍歌。
※3 いわゆる地雷の一種。熊本籠城軍はこれを防戦に活用していた。
※4 「オイ」は薩摩言葉で「俺」の意。
※5 「ビンタ」は薩摩言葉で「頭」の意。
※6 篠原国幹は元陸軍少将で薩軍一番大隊長。戦役初期の田原坂・吉次越の戦闘において戦死した。
※7 与倉知実は陸軍中佐・歩兵第十三連隊長。熊本籠城戦の最中に戦死した。

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 彼らは、戦線膠着後の暇つぶしとして、あるいは命を懸けた戦いの束の間の息抜きとして、口による戦いを少なからず楽しんでいたのかもしれません。
 もっとも、それは彼らが、お互いに言葉が通じ戯れることすらできる敵と不毛な戦いを繰り広げなければならなかったという、「内戦の悲劇」の裏返しでもあったといえましょう。

[参考]熊本城天守閣(平成22年頃・筆者撮影)

  
 
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