ちいさな幸せ

幸せの基準ってある?
それは自分の心の中にあると思う。
私は何時も陽だまりのような幸せの中に居た。

寂しい?

2007年10月24日 | 新聞から
               柿
            (見~つけた)
      柿のなっている空地が随分少なくなりました
           皆駐車場に変身です

編み物を始めた。半年振りかな。例年ならクーラーが入れば、又編み始めるのに、流石の私も今年は編む気にならなかった。一寸手の込んだ編み方なので時間がかかるだろうな~。買ってきた毛糸と、この形がとてもあって嬉しい。編み物好きな私故に、頭の中ではちゃんと出来上がりが見えている。

京都大学霊長類研究所教授・正高信男氏のこんな記事が出ていました。

     『日本人は寂しいのかも知れない』

イギリスで、日本の子供を中心としたケータイ事情について講演をしてきた。・・・中略・・・ 帰国して既に2週間が過ぎようとしているが、予想外に(?)向こうから未だに反響のメールが来たりして驚いている。しかもそれらを大変荒っぽく集約すると、「どうも昨今の日本人は寂しいのではないか」と言う印象を英国人は持つ、ということになるようで、再度吃驚している。『そんなに頻繁にケータイメールをしないといられないのは、よほど実生活で他人との繋がりを欠いているのだろう」とか「夜中に掲示板に書き込みをしたり、ブログを綴るなんて、その光景を想像するだけで寂しい」というのだ。

そんな感想を知った時、最初は「風土や文化が異なると、受け止められ方もこんなに変わるものか」と言う程度のものであった。だが日がたつにつれて、なるほどそう指摘されてみると、あながち的はずれではないかも知れないと、気持ちが揺れつつある』・・・後略・・・。

何故子供に携帯を持たせるのか、夫々の事情とやらがあるのだろうけれど、そこまでする必要があるのか、私は疑問であるが、以前は駅で「今駅に着いた」と家に電話している子供を見かけた。物騒な世の中だから連絡を取っているのだろう。しかし携帯を持つ人が増え、公衆電話が町から姿を消し始めた。こうなると子供に携帯はいらないとはいえないのかも知れない。

大人の私にも当てはまるのだろうか。掲示板(チャットの事だと思うんだけれど)に書き込みはしないけれど、こうしてブログを書いている。「私は寂しいのだろうか?」自分の心に聞いてみた。「寂しい心がないとは言えないかな?」と私の心は答える。

家族も居るし、友達もいるし、何故寂しいの?。結論を言うと年齢的な寂しさだろう。時に考える事がある。「どんな最後なんだろう」「迷惑を掛けないだろうか」

迷惑を掛けないようにと運動している。ジムの更衣室での話では皆さんそう思っているようだ。呆けないようにと頭も使っている。でも解らない。其れを思うとつい憂鬱になってくる。これが「年老いたものの寂しさ」と言うものだろうか。

何時もそんな事を考えているわけではないが、時として頭を掠める。そんな寂しさを感じる時間を持ちたくない為に、色んな事に興味を持ち、知ろうとしているのかもしれない。

ブログを始めたのは「寂しさを紛らわす為?」「ノー」パソコンを使っているのだから何かをしたいと思った。易しいというブログの存在を知り、数冊の本を買ってきた、出来そうなので始めた。始めたからには1000回は絶対続け様と思った。早いもので540回に迫ろうとしている。初めは「花のブログ」にするつもりだった。其れが何時の間にか雑記になった。

読んで下さる方には私はヌードであるが、相手の姿は見えない。でも私も贔屓のブログをサーフィンしているのだから、相手違いのお相子かな。
コメント (2)
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