ゆっくり読書

読んだ本の感想を中心に、日々、思ったことをつれづれに記します。

アウシュヴィッツの〈回教徒〉

2010-01-07 10:42:07 | Weblog
現代社会とナチズムの反復 柿本 昭人著 春秋社刊

むかし、よく何かを揶揄するときに「誰それさんみたい」という表現を使った。
学校では仲間はずれが流行ったし、自分が標的になることもあれば、他の人を標的にしたこともあった。
何か勝手な定型をつくり、「それに合致しないのだから、仲間はずれにされて当然」という雰囲気は、
加害者のときも被害者のときも、知らず知らずのうちに受け入れていた。
会社で働くようになってからは、上司の個性や会社の方針という、
より巧妙な言葉に隠されながら、基本的には同じことが繰り返されていると思う。

ナチの強制収容所では、「生きようとする意志がなく、自己意識もなく、精神が死んでいて、
動物的な生存と結びつくことにのみ反応する人」のことを「回教徒」と呼んでいた。

これは、ナチ側だけでなく、収容されていた人たちも使っていた言葉で、
いまでも、いろいろな回想録などで使用されている。
多くの資料からその例を示し、現代社会の姿に通じるものを投げかけるのが本書だ。

ナチは武力では滅んだけれども、思想として破れたわけではなく、
人間を「有用な者」と「無用な者」に分けることは、いまでも日々行われている。
「私はある時期に回教徒だったが、その後、その状態を脱した」という表現を読むと、
死んで行った人たちへの免罪符を、そこに埋め込んでいると思う。

生き残った人には、恐怖が残る。
なぜ、あの人が死んで私が生き残ったのか。
ほんの少しの偶然に左右された生死。
自分の生命の軽さを実感させられた隣人の死。

そこにはすでに、「有用な人間だから生き残れる」という表面的なラベルすらない。
すでに自分も無用な人間であることを認めさせられたにもかかわらず、それでも生き続ける。
生きるには、生きるだけの「資格」がほしい。
それが、「回教徒だった」「私は回教徒ではない」という表現なのだろう。

去年のうちに読み終わりたかったんだけど、年を越してしまった。