ゆっくり読書

読んだ本の感想を中心に、日々、思ったことをつれづれに記します。

懐刀

2010-05-31 17:53:17 | Weblog
昨晩のサッカーの親善試合では、少しだけいい夢を見させてもらった。

イングランド相手にリードするなんて。

そう思いながらも、あまり真面目に中継は見ておらず、
お気に入りの鉛筆を入れるケースを作っていた。


鉛筆にキャップをしたり、補助軸を使っているとき、
既成の筆入れだと長さが足りないことがある。

出来上がってみると、
まるで時代劇で見る、懐刀が入っている袋のようになってしまった。
短刀が出てきたらさぞかし私に似合うんだろうな、と、
そんなツッコミを入れてくれそうな数人の顔を思い浮かべた。

少し使ってみて、改良していこう。

5月も過ぎ行く

2010-05-31 14:58:01 | Weblog
5月は、他人に対する不満をたくさん口にしてしまった。

お金にこすいことと、異性関係への誹謗中傷は、
それまで見て見ぬふりをしていたせいもあってか、
いったん言い出すと、止まらなくなり、
言っているうちに自分の罪悪感も麻痺してくるから、歯止めがきかなくなる。

お金と異性は、人間の「欲」が、
もっとも端的に見えてしまう部分でもあるからなのだろうけど、
言ったからといって、状況は好転しないことのほうが多いと思うので、
自分なりにどう距離を築くのかを再考するくらいしか、実質できることがない。

得る経験があれば、失う経験がある。
これは、必ず両方ある。
生まれてきたときは身ひとつであり、死ぬときも身ひとつになる。
過程で得たり失ったりして、最終的にはプラマイゼロに戻る。

だから、できることはせいぜい、
得ることと失うことの、そのプロセスをいかに生きるかだけ。
「いま」は、「止まっているいま」ではなくて、単なる過程にすぎない。

そして、お金にこすい人というのは、
シンプルに考えてみると、その人にとって大切なものを必死に守っているだけなのだから、
私とは、守りたいものが違うというだけなので、本当にどうでもいいことだ。

が、しかし、
お金にこすい人は、他人もお金にこすいと思っていて、
濡れ衣というか、勝手にストーリーを作り上げ、貼り付けてきたりするので、
そういった不愉快な話は、なるべく聞かなくてすむようにしたいと思う。
どうでもいいことで不愉快な気分を味わうのはイヤだし、
不愉快だと実感したときに、
実は自分もお金に対してそのような執着心があるから不愉快なのではないか、
と考えてしまうのが、腹立たしい。
単に、そのストーリーをでっち上げていく人の心が不愉快なだけなのに。

そして、いろいろと思い返してみて、人の第一印象はけっこうあたる、と思った。

ああ、こんな5月もそして過ぎる。
ふと気がつくと、弟の命日が過ぎていた。すまぬ。

隣家のバラ

2010-05-29 17:40:15 | Weblog
住んでいるマンションの外壁塗装工事が終わり、
足場と幕が取り払われたら、隣家の花が美しく咲いていた。

隣家のおじさんが、定年退職後、丹念に育てているバラたち。
年々、どんどん美しくなっていく。

思わず写真を撮りに行った。


いつのまにかアーチまで設置され、本格的になっている。


鳥たちもたくさん訪れている。
そのさえずりを聞きながら、庭木の手入れをするなんて、なんという贅沢だろう。
もちろん夏は暑くてたいへんだろうと思うけれど、
とても真面目に毎日世話をしていらっしゃる。

その後、友人を迎えに駅へ向かう途中、あじさいが咲き始めていた。


季節がめぐることを肌で感じることは、なんともいえない安心だ。

今日は読書2冊

2010-05-28 14:08:21 | Weblog
今日は、ページ数が少なめの本を2冊読んだ。
いずれもダライ・ラマの本。

『優しい人になろう』
村田吉廣、 ダライ・ラマ14世著、講談社

『心の平和』
ダライ・ラマ14世著、マリア・リンチェン訳、サンマーク出版

困難な状況にあるとき、
慈悲と利他の心を育むいい機会が訪れたのだと、
頭では何となく考えることができる。
でも、それは無理矢理そう思い込もうと努力しているだけであって、
「そうですね、ありがとう」と思うことは難しい。

とかく当事者になってしまったときは、
いろいろな人の言葉や自分の気持ちに翻弄されて、
まず冷静に状況を見つめることなんかはできない。

そんなとき、一番ありがたいと思うのは友人の存在だ。
一緒に怒ってくれる友人ではなくて、状況を俯瞰してくれる友人。
感情を理解したうえで、もっと広く見てくれる人。
そんな友人と話しをしていると、私の怒りや迷いはしだいに鎮まる。

一緒に怒ってくれる友人もありがたいし、求めてしまうけど、
怒り倍増になって、それを発散する場だけを求めるようになってしまうので、
自分が怒っているときは、そういう友人とは会わないようにしている。

ここのところ、自分をふくめいろいろな人の感情の起伏を見て、
怒りがどれほど破壊的なものなのかがよくわかった。
ある人が、子どものように、手元にあるおもちゃを
手当り次第に全部投げつけるような怒り方をしたとき、
私は悲しかったし、心もふさいだけれど、
「ああこれが、怒りというものと、それが生み出す結果なのか。
ダライ・ラマがいつも言っていることは、こういうことなのかな」と思いながら、
頭の片隅がとても覚めているような感覚を味わった。

そして因果についても考えた。
「因」があって「果」が生ずる。
「果」から見たとき「因」もまた見えてくる。
切り離した「いま」だけがあるわけではない。
また、「果」から「因」を見るとき、
人は自分にとって都合のよい勝手なストーリーを構築しやすい。
どのように繋ぐかは、どれだけ穏やかにやさしく見つめる目をもっているかによる。

怒りとそれによる破壊、因果というもの、
このふたつを考えたとき、
ダライ・ラマの言葉が、いくつも心に浮かんだ。

読書3冊

2010-05-27 15:23:28 | Weblog
最近サボリ気味の読書。この2日間で3冊読み終わった。

1冊目『文明の十字路=中央アジアの歴史』
岩村忍著、講談社学術文庫

ウズベキスタン旅行から帰ってきたあと、
中央アジアの歴史をもう一度おさらいしたいと思って読み始めた本。

いろんな民族が入り交じる土地の歴史は、本当におもしろい。
もちろん政治や宗教に一貫性はない。
でも、いろいろな人が命をつなぎ、生活をしている。
「自分は何人か」と定義するものさしは、たぶん日本人とぜんぜん違う。

中央アジアの人たちは、いったい自国の歴史をどのように教えているのだろう。
歴史教科書を見てみたいと思った。

ギリシャ、ペルシャ、中国、インド、ロシア・・・、そして遊牧民と都市定住者。
さまざまな切り口がある中央アジアの歴史を、
この本はとてもコンパクトにまとめてくれている。
ただ、1977年刊行のものを文庫化したものだったので、
ソビエト崩壊後の歴史までは言及されておらず、
この30年の歴史の変動を見ると、その点は惜しい。

2冊目『差別と日本人』
辛淑玉・野中広務著、角川oneテーマ21 A 100

仕事仲間だったけど、いまはすっかり飲み仲間になっている人から借りた本。
いい本を借りた。

自分を他人より優れていると思うことは、ものすごい快楽なのだな、と、
最近よく思っていたところだったので、とても身にしみる内容だった。
この本で語られることは、
私の実体験とは比べものにならないくらい広範なことだけど、
1人ひとりの心にひそむ差別への欲求は根っこが同じだと思う。

私が同和問題を初めて知ったのは、小学生のときにした母との会話でだった。
学校での仲間はずれの話をしたときに、
母が「その子はおうちの事情で仲間はずれにされてるの?」と尋ねてきた。

母は関西出身だったので、小さくてまだ分別がない頃、
周囲の人と一緒になって、指で「四」としながら同級生を差別した経験をもっていた。
そして、あとからいわれのない差別だったと知った母は、ずっと後悔をしていた。
だから、私に尋ねてきたのだ。

その後、同和問題や在日の方への差別について、母とは何度も話すようになった。
おかげでニュースで取り上げられているときは、なんとなく目をとめるようになったので、
この本で語られていることのほとんどは、概略を知っていたけど、
当事者の口から語られると、また違う重さがあるし、
それが国政と関連していると思うとなおさらだ。

制度が変わっても、1人ひとりの心が変わらなければ、
結局はなにもよくなっていかないし、
そもそも差別によって得られる優越感は、心の目を曇らせる。
そういう私にも、たくさんたくさん偏見がある。

3冊目『死ねばいいのに』
京極夏彦著、講談社

すごいタイトルだなあ。
この作品も、人の心理をよくよく描いた面白い内容だった。
自己正当化や保身からうまれる後付けのストーリーは、
本人には死活問題だけど、周囲の人から見ると滑稽だ。

単に肥大化して収集がつかなくなった自意識に振り回されているだけだけど、
もちろん当人はそうと気づくことができない。
できないから自意識なんだろう。

それにしても、会話の展開を書くのが本当にうまい。
どれだけ人間観察をする目が優れているのかと感心する。

先日、友人に京極さんの文章が面白くて好きだと言ったら、
「私は読んだことがありませんが、かなりクセのある文章を書かれる方だという話は
聞いたことがあります」と言われた。
こういう噛み合ない会話も、
裏を補完していくと、きっと面白いストーリーになるんだろうな。

ただ、それでもその人とこの会話を続けていく体力も気力も、
私にはないから発展しない。

なごみ

2010-05-26 16:18:07 | Weblog
昨日、ファミレスに入って昼食を食べていたら、
いま会うと一番気まずいと思う人が、すぐ近くの席にいて、すごく驚いた。
あの時間帯にあんな場所にいるなんて・・・、神様が遊んでいるとしか思えない偶然だった。

かなり動揺し、消化に悪いので、近くの公園へ行った。


なごんだ。

先日、いとこからカメラの「接写モード」というのを教えてもらったので、試してみた。
このあいだ行ったサマルカンドには、たくさん芥子の花が咲いていたけど、
ここは日本。同じく赤っぽい花とはいえ、健全そうな花だった。


大地に根をはって咲いている花はいい。
 

切り花は、なんだか悲しい。
花は、別に人間に切り取られるために咲いてきたわけではないのに、
太陽の光にも、風にもあたることができず、やがてしおれていく。
それがとてもやるせない。

花たちが咲いている中にお邪魔するほうが、なんだか性に合っている。

幸せな気持ち

2010-05-25 15:25:48 | Weblog
久しぶりに叔母の家に泊まりに行った。
小さいころ、よく遊んでくれた叔母で、
初めて両親以外の人とお出掛けしたのもその叔母だった。
私が、本能的に「血がつながっている人だ」と感じる人だ。

この叔母の素敵なところは、他人の心を慮る気持ちだ。
老若男女、誰とでも話しができる。
いるだけで、その場がすごく明るくなる。
気をつかっていないようで、とても気をつかっている。
他人から何かをしてもらうより、何かをしてあげたいと思っている。
そこが、たいへんたいへん優れているところだ。
だから、叔母と血がつながっていると思うだけでとても嬉しい。

今年で還暦なのだけど、普通に孫と遊んで走り回っている。
天ぷらの油がはねると、サッと飛び退くし、すごく敏捷だ。
よく笑うから、頬の筋肉もいきいきとしていて、とても若々しい。

でも叔母は、お姑さんとのあいだで、すごく苦労した30年をもっている。
そして、この苦労は、これから「介護」というかたちをともなって、
より重くなっていくだろう。
そして、叔母と私は、これからますます仲がよくなれそうだと思う。
理屈抜きで好きな人と一緒にいるとき、なんて人は幸せな気持ちになれるのだろう。

昨晩、帰ってきてからmacのカバーができた。
ただまっすぐに編んで、横を閉じただけ。
でも、なかなか使い心地がいい。


きっと、幸せな気持ちが編み込まれている。

偶然な日

2010-05-22 14:36:05 | Weblog
たまにとても不思議な日がある。
偶然が重なる。
こじつけかもしれないけど。

一昨日のイベントの日、昼間、別件の打合せで寄った喫茶店で、
席につくとすぐに、
ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番と第3番が収録されたCDが始まった。
一番最初に覚えた作曲家、この2曲。
記憶をたどり、一番古い記憶にも流れている曲。

打合せに集中できなくなったのは言うまでもない。
なぜ、このタイミングでこの曲がかかるのか、とても不思議だった。
でも、いい風が吹いてきたことはわかった。

そしてイベントが始まる直前、急にMCをやることになった。
「タダ酒を飲ませてもらうから、このくらいはやっておくか」と思い、
DJさんの近くで待機していたら、「MERCY」が掛かった。

たぶん20年くらい前の曲だと思う。
サンディ・ラムが歌う広東語版をよく聞いた。
「心野夜」というタイトルがついていた。
確か、ディック・リーの曲だったと思う。

私が一番つらかったころ、夜、よく聞いていた曲のなかのひとつだ。
日本で、自宅以外で聞いたのは、たぶん初めて。
しかも数日前から、久しぶりに聞きたいと思っていた。

私はよく、音楽でこういった経験をする。
なぜいま、ここで、これが掛かっているの、と思う。
人生が長くなってきた、ということかな。

宴の後

2010-05-21 14:49:25 | Weblog
昨日は、夕方から深夜1時まで、仕事というか遊んでいた。
久しぶりにある人のライブイベントの立ち会いをして、とても楽しかった。

イベントが進むうちに、場の一体感のようなものがうまれ、どんどん楽しくなるし、
その空気におされて次回はこんなこともやってみたい、と気持ちがふくらむ。
そして、これまであまり話す機会がなかった人と話せたりして、
世界が一気に広がる。

いまさらながら、仕事は「人」が行っていることなんだよな、
だから、人間の部分を削いでしまったら仕事にもならないんだよな、と思う。

いろんな人と一緒の時間を共有して、お互いの感じ方を尊重すること。
私は、これが楽しい。

自分の内面をどこまでも掘り下げて、いつでも滾々と泉がわく人もいるかもしれない。
でも、私はそんな自分をもっていない。
ただ、そんな自分を「貧しい」と思うこともない。
私は器なのだろう。
だから、何かを入れないと器としての役割すら果たすことができない。
そして、器の大きさや深さは絶えず変化している。
一人で引きこもりたい時も当然ある。
それでいい。

人はやさしい。
だから、そんな絶えず変化している私のことも、尊重してくれる。

宴の後、ゆるやかな時間が流れてきた。

無目的になりつつある

2010-05-20 11:58:12 | Weblog
最初は巾着のようなものを作ろうと思って編み始め、
昨晩は、どのように進むか悩みつつ終了。

今朝、目が覚めて、「はて、いったいその巾着は使うのか?」と思い始め、
結局、本日、少しほどいて、そのまま終了とすることになった。


どこで、どう使おうか迷い、玄関で使うことになった。


次は、ちゃんと設計図のようなものを考えながら編もうと思う。
思いつくままに始めると、無目的になる。

これまでもある程度は考えながら進んでいたんだけど、
どのように編むと、どんなふうにサイズが変わったりするのかを試すのが楽しくて、
ついつい好奇心のままに突き進んでしまった。

そろそろ、ある程度は予測がつくようになってきたし、
最終的には、編んでみて2段くらいはほどく気でやるものなのだろう。

蝶とか、葉っぱとか、出来上がりのかたちがきれいなものを試してみようかな。