JIIN’S ブログ

寺院の住人が綴る、ジーンズをはいた時のような気取りなしブログ!

身に着いているから…?

2011年01月31日 | Weblog

先日 ご門徒さんの家に 報恩講のお参りをしていたときのこと。


おつとめ は 正信偈に続いて6首の和讃をいただくのだが、
途中で 何首目まで読んだのか  わからなくなってしまった。


実は、いつもは居られないその家のご主人が帰ってこられて、その
おつとめの途中から仏間に座られたのだ。

    今日は お寺に よくお参り下さる奥さんだけでなく、お寺に参られる
    ことのないご主人が仏前に座って下さっている…

    この機に 何か ご主人に向けて縁の深まるようなご法話を
    届けなくては…。


そんなことを 頭の中で 考えていたら、
自分の読んでいる ところが 分からなくなったのだ。


僕の後ろでは その家のご主人と奥さんが 並んでいっしょに 経本を
開けて おつとめして下さっている…。

         

   おとつめを中断して 「次、何首目ですかね…?」と、聞くことも
できたのだろうが、その勇気もなく、漠然とした自分の心当たりを
もとに そのまま おつとめを続けた。

 
終わった後、やっぱり 不安だったので
「和讃、抜けてませんでした?」と 尋ねてみたところ
どうやら ちゃんと 順番通り 全部読んでいたそうだ。


こういう事態は 恥ずかしながら、正信偈だけでなく
「阿弥陀経」を 読んでいるときにも あった。

阿弥陀経には 六方段といって 東・西・南・北・上・下、六つの世界の
諸仏が 阿弥陀仏の徳を讃える一段が ある。

その部分で 「 南方世界…西方世界…」と読み進めるうちに いったい
どこの世界まで行ったのか、迷ってしまうことあり、終わったあと、
ちゃんと6つの世界を全部読んでいたか 不安になることがある。


日常の中でいえば、高速道路を運転しているとき、考え事していたら
気づかぬうちにいくつかインターチェンジを 過ぎていた… ということ
があるが、それと似ている。

だが、阿弥陀経も高速道路も ちゃんと 通る道をちゃんと抜かずに
通っているようだ。


えっ? こんなことって 僕だけ?
もしかして 若年性の病気?


いやいや、単なる 注意散漫なだけ。

「身について 慣れているから、無意識の中にも間違わない」とといえば
カッコイイが、実際は その場を疎かにして 気がよそを向いている
ことに 違いない。

お恥ずかしい…。
それなら、今後は恥ずかしくないように 気をつけよう。

その時、その場を 大切にいただくように 心がけよう。
自戒。自戒。自戒。


インターネットライブお聴聞

2011年01月15日 | Weblog

御正忌報恩講 大逮夜(おおたんや)
親鸞さま御命日の前夜。

京都・本願寺では 夜を通して、文字通りの「通夜布教」のご縁が
勤められている。


僕も2度ほど その場でお聴聞させていただいたことがあるが
温泉津から京都へは、距離にして 400㎞。時間は 5時間強。

地元のご門徒さん方で このご勝縁に遇える人は少ない。

そこで 今年もまた インターネット 生中継のライブお聴聞.

庫裏・お内仏で プロジェクターを用意して パソコンで映し出す。

       

これで  にわかに 京都・本願寺総会所の続き間 が出現。

この冬一番の寒波の中、お参り下さった近所の皆さんといっしょに
大逮夜を おつとめさせていただいた
… というか、通夜布教のご縁はまだまだ つづく…。


手書きの原稿と清書

2011年01月09日 | Weblog

年末に隣寺のご住職が  わが身にかけて
必ず死ぬ いのちを 偶々 生かされている
ことを 教えて下さり ご往生された。

その通夜の晩、午後11時ころ、僕はパソコンの画面と向き合っていた。

それは、翌日の葬儀にご縁あるお寺の住職として拝読する表白ひょうびゃく:この
場合 導師が読む弔辞のようなもの)の原稿を 書いていたのだ。

ところが、8割ほど 出来上がった頃、突然 PCの画面が 真っ暗になった。
(後日判明した結果から言えば、マザーボードとやらの不具合で修理行き。)

えっ

ってことは、たった今まで 書いて(作って)いた 表白も 消えたわけだ。

どうしよう…(@_@)。

その時 すでに午前0時。
表白を読むまで 10時間ほど。

ほかのデータも気になったが(後日 復活させることができた)
まずは、表白を 思い出しながら完成させなければならない。

web上で見つけて参考にしていた例文(表現)は 携帯で何とか表示して
抜き書きし、それに オリジナルな言葉を加えながら  手書きで 推敲していく。

原稿ができれた後は  筆文字体で プリンターで 印刷するはずだったが 、
もちろん、それも かなわないので、拙い文字ながら、結局  筆(筆ペン)を
って清書した。


結局 完成したのは 午前4時前。

だが、手書きで 原稿を推敲するとき、一文字ずつ筆で清書するとき
亡くなられた ご住職の思い出が  行間に浮かび、なんとも言えず
有難い気持ちになった。

その理由は、葬儀後、僕が話した夜中の弔辞作成顛末記を 聞かれた
町内寺院のG寺ご住職が 教えて下さった。


「パソコンで 書くと  そこに残るのは見事な結果だけ。
 手書きの推敲は 途中経過が 見えるから 有難いねぇ。」


…と。


何も弔辞だけのことではなかった。

デジタルの便利さに 甘えて  結果(見栄え)だけにこだわり
そこに至るまで 道のり(苦労やいわれ)を 軽んじていた自分
が恥ずかしい。

 

 

そして、必ず死ぬ いのちを たまたま 生かされているのは
人間のいのち だけでは なかった。

パソコンも  身の周りのすべてのことが  当たり前ではなく
たまたま、つまり 有り、難く そこ あったのだ。


案の定、年が明けたとたんに、僕の携帯も故障。
今は 代替え機を 使用しているため、メールも不自由しらながら
また 有難さを噛みしめている…。


大栄転

2011年01月07日 | Weblog

この年末年始を振り返れば
零年になく 多くの方々を見送らせていただいた。

坊守の里の父、西楽寺のご門徒、近所のご縁深いお寺のご住職、
そして、ネット上の向こうでお出会いしたお方…。

年齢のせいだろうか、涙で お経が詰まってしまうこともあった。
(ある意味では ”プロ失格”な行為かもしれない)

「また会える」…と お聞かせいただきながらも やはり 淋しい。
だけど、念仏の道は、淋しがるな、泣いくんじゃない… という教えではない。

西楽寺HPコンテンツ 「なんでもQ&A」に  浄土往生は 大栄転 という話を
取り上げたことがある。

■ 浄土へ生まれ、仏さまになるのに悲しいのですが…。
浄土真宗では、この世のいのちが終われば、浄土へ生まれて阿弥陀さまと同じさとりを開くとききます。それなら、仏さまにならせていただくのですから、よろこばなければならないのでしょうに、涙でお葬式をしてしまうのは、おかしいことですか。
このことは、みんな(親鸞聖人の時代から)思っていたようですね。
こんな話を聞いたことがあります。

凡夫(意志が弱く、欲深い自分のこと)が、浄土に生まれて仏となるということは、この世でいえば、
大栄転です。たとえていうなら、広島営業所の所長が、本社の重役になるようなもの。

その場合で、広島駅の新幹線のホームでの見送りを考えてみて下さい。見送る側も見送られる側も、共に笑顔ではなく、涙を浮かべている。


見送る側長年、お世話になりました。どうぞ、本社でも頑張ってください。所長に教えていただいたことは決して忘れません。たまには思い出して、帰って来てください。本当に有難うございました。

見送られる側こんな拙い上司なのに、みんな私についてきてくれたね。私の仕事業績もみんなの支えのおかげだ。本当にありがとう。元気で…。

どれほど、栄転先が立派な身分役職であろうと、長年 連れだってきた仲間のもとを去ることは、やはり淋しいもの。涙が出るワケです。



このことを、親鸞聖人も

いまだ生まれざる 安養の浄土は恋しからず候
とおっしゃっています。

つまり、長い間生きてきたこの世は 未練が多く、まだ生まれたことのないお浄土は 往きたいとも思われない…ということです。


そして、そんなふうにこの世にとらわれるのもまた、煩悩のせいであるが、如来さまは、その煩悩を目あてとしてこの私をおすくい下さるのであるから、いよいよ頼もしいことですと、親鸞さまは つづけて言われました。


人間ですもの。うれしいとき、めでたいことでも、泣いてしまうことがあるのですね

           (ここまでが  ホームページ コンテンツ)

いずれにしろ、見送る側も やがて 大栄転。
2、3年後が 数十年後かは わからないが、大した差ではない。

「今 しばらくのお別れ」だ。
その時まで  たくさんの 土産話を 用意しておこう。


讃 無量寿

2011年01月01日 | Weblog

無量寿     日日あらたに 


昨年は お念仏の道が、
まさしく 「いま」・「ここ」・「じぶん」を生きる教えだ
と気づかされた一年でした。


「いま」から逃げず、「ここ」から離れず、「じぶん」を引き受けていける…。
そんな チカラを いただいたような気がしています。


何があっても、みんな自分の人生。
闇の中で 出遇えた 灯火。なんまんだぶ。


いま  ここ  じぶん 
その合計が じぶんの一生
         (相田 みつを)


今年も いのちいっぱい 生かさせていただきます。
どうぞ よろしくお願いいたします。