先日 ご門徒さんの家に 報恩講のお参りをしていたときのこと。
おつとめ は 正信偈に続いて6首の和讃をいただくのだが、
途中で 何首目まで読んだのか わからなくなってしまった。
実は、いつもは居られないその家のご主人が帰ってこられて、その
おつとめの途中から仏間に座られたのだ。
今日は お寺に よくお参り下さる奥さんだけでなく、お寺に参られる
ことのないご主人が仏前に座って下さっている…
この機に 何か ご主人に向けて縁の深まるようなご法話を
届けなくては…。
そんなことを 頭の中で 考えていたら、
自分の読んでいる ところが 分からなくなったのだ。
僕の後ろでは その家のご主人と奥さんが 並んでいっしょに 経本を
開けて おつとめして下さっている…。
おとつめを中断して 「次、何首目ですかね…?」と、聞くことも
できたのだろうが、その勇気もなく、漠然とした自分の心当たりを
もとに そのまま おつとめを続けた。
終わった後、やっぱり 不安だったので
「和讃、抜けてませんでした?」と 尋ねてみたところ
どうやら ちゃんと 順番通り 全部読んでいたそうだ。
こういう事態は 恥ずかしながら、正信偈だけでなく
「阿弥陀経」を 読んでいるときにも あった。
阿弥陀経には 六方段といって 東・西・南・北・上・下、六つの世界の
諸仏が 阿弥陀仏の徳を讃える一段が ある。
その部分で 「 南方世界…西方世界…」と読み進めるうちに いったい
どこの世界まで行ったのか、迷ってしまうことあり、終わったあと、
ちゃんと6つの世界を全部読んでいたか 不安になることがある。
日常の中でいえば、高速道路を運転しているとき、考え事していたら
気づかぬうちにいくつかインターチェンジを 過ぎていた… ということ
があるが、それと似ている。
だが、阿弥陀経も高速道路も ちゃんと 通る道をちゃんと抜かずに
通っているようだ。
えっ? こんなことって 僕だけ?
もしかして 若年性の病気?
いやいや、単なる 注意散漫なだけ。
「身について 慣れているから、無意識の中にも間違わない」とといえば
カッコイイが、実際は その場を疎かにして 気がよそを向いている
ことに 違いない。
お恥ずかしい…。
それなら、今後は恥ずかしくないように 気をつけよう。
その時、その場を 大切にいただくように 心がけよう。
自戒。自戒。自戒。