この年末年始を振り返れば
零年になく 多くの方々を見送らせていただいた。
坊守の里の父、西楽寺のご門徒、近所のご縁深いお寺のご住職、
そして、ネット上の向こうでお出会いしたお方…。
年齢のせいだろうか、涙で お経が詰まってしまうこともあった。
(ある意味では ”プロ失格”な行為かもしれない)
「また会える」…と お聞かせいただきながらも やはり 淋しい。
だけど、念仏の道は、淋しがるな、泣いくんじゃない… という教えではない。
西楽寺HPコンテンツ 「なんでもQ&A」に 浄土往生は 大栄転 という話を
取り上げたことがある。
■ 浄土へ生まれ、仏さまになるのに悲しいのですが…。 | |
浄土真宗では、この世のいのちが終われば、浄土へ生まれて阿弥陀さまと同じさとりを開くとききます。それなら、仏さまにならせていただくのですから、よろこばなければならないのでしょうに、涙でお葬式をしてしまうのは、おかしいことですか。 |
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このことは、みんな(親鸞聖人の時代から)思っていたようですね。 こんな話を聞いたことがあります。 凡夫(意志が弱く、欲深い自分のこと)が、浄土に生まれて仏となるということは、この世でいえば、 大栄転です。たとえていうなら、広島営業所の所長が、本社の重役になるようなもの。 その場合で、広島駅の新幹線のホームでの見送りを考えてみて下さい。見送る側も見送られる側も、共に笑顔ではなく、涙を浮かべている。 見送る側…長年、お世話になりました。どうぞ、本社でも頑張ってください。所長に教えていただいたことは決して忘れません。たまには思い出して、帰って来てください。本当に有難うございました。 見送られる側…こんな拙い上司なのに、みんな私についてきてくれたね。私の仕事業績もみんなの支えのおかげだ。本当にありがとう。元気で…。 どれほど、栄転先が立派な身分役職であろうと、長年 連れだってきた仲間のもとを去ることは、やはり淋しいもの。涙が出るワケです。 このことを、親鸞聖人も 、 いまだ生まれざる 安養の浄土は恋しからず候。 とおっしゃっています。 つまり、長い間生きてきたこの世は 未練が多く、まだ生まれたことのないお浄土は 往きたいとも思われない…ということです。 そして、そんなふうにこの世にとらわれるのもまた、煩悩のせいであるが、如来さまは、その煩悩を目あてとしてこの私をおすくい下さるのであるから、いよいよ頼もしいことですと、親鸞さまは つづけて言われました。 人間ですもの。うれしいとき、めでたいことでも、泣いてしまうことがあるのですね |
(ここまでが ホームページ コンテンツ)
いずれにしろ、見送る側も やがて 大栄転。
2、3年後が 数十年後かは わからないが、大した差ではない。
「今 しばらくのお別れ」だ。
その時まで たくさんの 土産話を 用意しておこう。