三十代半ばで 亡くなった僕の
同級生(幼なじみ)の13回忌法要に
お参りさせていただだいた。
(うちのお寺のご門徒ではない)
師匠寺のご住職といっしょに おつとめしながら、
2年前の通夜の席が思い出されて辛かった。
そこには、「父親の死」の意味も分からず 大勢の人が
集まることだけで はしゃいでいる子どもたちがいた。
あの時、棺の中に横たえる同級生が 自分と重なり、
喪主である奥さんが 僕の妻に、そして 3人の子ども
さんは わが家の子どもたちに…みんなみんな重なって、
まるで自分のお通夜にお参りしているような気がした。
それだからか、かけがえのないご主人を亡くされた奥さん、
大切な父親に先立たれた 子供さんたちを悼む弔問の
人々の中、僕は、
大切な妻や子たちを遺してゆかなけらばならない
故人の歯がゆさ・無念さ
はどれほどだろうと 考えていた。
あれから12年、子供さんたちも すっかり大きく成長していた。
当時の幼さと現在の頼もしさとの間にある奥さんの苦労を勝手に
想像して「よく ここまで」と感動していた。
法要後の奥さんの挨拶は、故人の
母親(奥さんから言えば姑)や周りの親戚から支えに対する
感謝の言葉ばかりだった。
※
写真は その法事のあった家から見た山の景色
同級生だった彼は、この山を毎日見て育ったに
違いない。