今週始め、浄土真宗の山陰教区(鳥取・島根県エリア)の
僧侶研修会に参加させていただいた。
当日は進行係を任されていたが、前日のちょっとした
アクシデントのため、3時間睡眠だったので、もう フラフラ…。
居眠りしてはならない…と気合を入れるが、基本的に6時間は最低眠らないと
エンジン不調を起こすタイプなので、いかに無事 進行係をつとめるか、という
ことに徹して、講義中は できるだけ体力温存した…(-_-)zzz
でも、そんな中 初日の最後に講師からこんなお話を聞いた。
(ココだけは 覚えている。)
それは、千利休の孫、千宗旦(せんのそうたん)の話。
その道では 結構 有名な話らしいけど、僕は初めて聞いたので、
忘れないうちに メモの意味も含めて書いてみよう。
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ある時、京都の正安寺の庭に、大変みごとな椿が花を咲かせた。
そこで、正安寺の和尚は、その椿を一枝、懇意にしている
宗旦の所へ持って行くように小僧に命じる。
ところが 小僧は、途中の道で 不注意のあまり、つまづいて転び、
椿の花が 枝から離れて落ちてしまった。
右手に枝、左手に花を差し出し、宗旦にひれ伏して詫びる小僧に
対して。宗旦は、
「よいよい。大丈夫。」 と微笑んで そのまま小僧を帰した。
翌日、和尚のもとへ 宗旦から
「お茶を一服差し上げますからお越し下さい」と案内があった。
もはや、小僧は 黙っておられず、昨日の一部始終を和尚に話す。
和尚は驚きながら 宗旦のもとへ出向いた。
和尚が宗旦も茶室に通されると、その床の間には 柱懸けに
利休作の竹細工の花器があり、そこに椿の枝を挿し、下の畳には
椿の花がポトリと落ちたばかりのように 何気なく 置いてあった。
それは、まさに花器の枝から椿の花が ポトリと落ちたという
落花の風情をかもしだし、自然のままの静寂さと趣きを
漂わせていたという。
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ご講師は、この話を引用されて、
「あるまがままをあがまま、そのまま認め、引受けていく…これが真如」
…と言われた。
僕たちは つい、花は枝について咲いていてこそ、値打ちがあると考える。
だから、花が落ちてしまって枝だけを飾っても仕方ないと捨ててしまう。
こんなふうに、固定観念で ものを判断し、その自分の枠の中にすべてを
入れようとする。そして 枠からはみ出すもの(相手)に対しては、 腹を立て
たり、否定したりするのだ。
嫁姑、先輩後輩、夫婦・親子の争い・ケンカは みんな これに起因する。
ところが、宗丹は 落ちた花を、そのまま飾ってすべてを生かした。
椿の花を届けた和尚の心を受け止め、
素直に謝った小僧の心をやさしく包み、
そして、椿の花も枝も 生かしたのだ。
枝から落ちた花など 使い物にならない…
とゴミ箱に捨てるとき、それは同時に、
和尚の心・小僧の心まで 捨て去ったことになるだろう。
あるがままを あるがままに…。