JIIN’S ブログ

寺院の住人が綴る、ジーンズをはいた時のような気取りなしブログ!

おひがん 法座

2008年09月25日 | 仏事/行事

今日は 当寺(西楽寺)での お彼岸法座。
おつとめの後のご法話はご講師さまがして下さるので、ゆっくりと
お聴聞させていただいた。

今回の御講師は、お寺ではなく、九州のご門徒出身で、音楽大学では
フルートを専攻されていたお方。

その後 縁あって得度(僧侶資格を得る)され、現在はO市
C泉寺のご住職である。

お念仏に出会うまでのお話を聞かせていただいたが、お寺に生まれ、
幼いときから仏さまの前で育った僕には、想像もできないことばかり。

温泉津に住んでいると、温泉津温泉の有難さが 案外わかりにくい
と言われるが、ちょうど それとよく似ている。

お寺に生まれ育ち、お念仏のご縁を「あたりまえ」のようにいただいて
いた僕にはその有難さが 本当にわかっていない…と気づかされた。

とはいえ、ご講師のお声は優しく穏やかに響きわたり、ご法話の
間では フルートの生演奏を聞かせて下さった。

「ホンモノに 直に 出会う」…これまた スゴイと思った。

お彼岸の秋、芸術の秋、お聴聞の秋、満喫の一日だった。


語学力テスト?

2008年09月24日 | あとらんだむ「日日あらたに」

 さて、次の英文の意味、わかりますか?

Full in care, cow was to become, me is note.

ちなみに Web上の 翻訳サイトで  訳してみると

yahoo 翻訳
    十分に世話において、牛が起こることになっていて、私メモです

ニフティ 翻訳http://tool.nifty.com/globalgate/
   注意において十分なので、雌牛はなることでした、私、ノートです。

OCN 翻訳サービス
   世話の全部雌牛はなることになっていて、私は注です。


なんのこっちゃ、さっぱり  訳がわかりません。

で、答えを 知りたいお方は…

当寺サイト   「日日あらたに」  の ココ にあります。 
                                            ↓ 
 トップメニュー > バリアフリー ウェイ > 住職ノート   

            http://imacoco.net/mfmf/bfw/fs_jnote.html

        

をご覧下さい。

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ということで、今日は更新したての HPを ご紹介。

■ あとらんだむ「日日あらたに」 №15  

でした。


もう、何も 言えねぇ…

2008年09月23日 | Weblog

お彼岸の中日。

今日までの5日間、I 市、M市、H市と3つのお寺のお彼岸法座で
お取次ぎ(ご法話)のご縁をいただいた。

基本的に 平素 東へ西へと奔走される布教使の先生方とは違って、
ご門徒へのお参りが中心の住職だから、こんなに5日連続で布教
というのは 初体験だ。

振り返れば 1席40分のご法話を 5日間で のべ14席 させていただいた
ことになる。

これはも さすがにお喋りな僕でも、ヘトヘト。
もう、何にも喋りたくない…。

常々こんな日々を送っていらっしゃる布教使の先生は、やっぱりスゴイ!

でも、こんなふうに いろんなお寺でいろんなご縁に遇(あ)えることは、
本当に勉強になるのも確かだ。

その上、勿体無いことに、3つのお寺様とも次回(来年or再来年)のご縁を
ご依頼下さった。「お育て」有難うございます。


実は、その内の1ヶ寺は、もう何年も続いて ご縁をいただいている。
だから、

「こんなに続けてご縁をいただくのは とても有難いのですがね…
  勉強の方が追い付かず、お話しすることが なくなるんですよ…。」

と正直に(やんわり)とご遠慮申し上げた。 すると、

「なぁに。大丈夫ですよ。心配 要りませんよ!」
( ↑  いや、アナタではなく、僕が心配なんですけど…(^_^;)

「いけませんか? 1年ほど 間をおいて(つまり、次回はパス)いただけ
  ませんでしょうか…。」

「いけません。私が 死ぬまでは 毎年 お願いします。
  私が 死んだ後は  もう いいですから…」


げ、げっ!  (@_@)

この文字通りの「殺し文句」ひと言で 決まりだ。
謹んで お受けするしかなかった。


でも… どうしよう…。
ここのご住職は まだ50歳代(→ 当分…!?)

あーあ  9月が コワい~。

ちなみに、当寺のお彼岸法座は25日。
このときは 何にもしゃべらず、ゆっくりお聴聞させていただこう。


あるがまま

2008年09月20日 | 法話メモ

今週始め、浄土真宗の山陰教区(鳥取・島根県エリア)の
僧侶研修会に参加させていただいた。

当日は進行係を任されていたが、前日のちょっとした
アクシデントのため、3時間睡眠だったので、もう フラフラ…。

居眠りしてはならない…と気合を入れるが、基本的に6時間は最低眠らないと
エンジン不調を起こすタイプなので、いかに無事 進行係をつとめるか、という
ことに徹して、講義中は できるだけ体力温存した…(-_-)zzz

でも、そんな中 初日の最後に講師からこんなお話を聞いた。
(ココだけは 覚えている。)

それは、千利休の孫、千宗旦(せんのそうたん)の話。
その道では 結構 有名な話らしいけど、僕は初めて聞いたので、
忘れないうちに メモの意味も含めて書いてみよう。

*****************************

ある時、京都の正安寺の庭に、大変みごとな椿が花を咲かせた。
そこで、正安寺の和尚は、その椿を一枝、懇意にしている
宗旦の所へ持って行くように小僧に命じる。

ところが 小僧は、途中の道で 不注意のあまり、つまづいて転び、
椿の花が 枝から離れて落ちてしまった。

右手に枝、左手に花を差し出し、宗旦にひれ伏して詫びる小僧に
対して。宗旦は、

「よいよい。大丈夫。」 と微笑んで そのまま小僧を帰した。

翌日、和尚のもとへ 宗旦から
「お茶を一服差し上げますからお越し下さい」と案内があった。

もはや、小僧は 黙っておられず、昨日の一部始終を和尚に話す。
和尚は驚きながら 宗旦のもとへ出向いた。

和尚が宗旦も茶室に通されると、その床の間には 柱懸けに
利休作の竹細工の花器があり、そこに椿の枝を挿し、下の畳には
椿の花がポトリと落ちたばかりのように 何気なく 置いてあった。

それは、まさに花器の枝から椿の花が ポトリと落ちたという
落花の風情をかもしだし、自然のままの静寂さと趣きを
漂わせていたという。

***************************

ご講師は、この話を引用されて、
「あるまがままをあがまま、そのまま認め、引受けていく…これが真如」
…と言われた。


僕たちは つい、花は枝について咲いていてこそ、値打ちがあると考える。
だから、花が落ちてしまって枝だけを飾っても仕方ないと捨ててしまう。

こんなふうに、固定観念で ものを判断し、その自分の枠の中にすべてを
入れようとする。そして 枠からはみ出すもの(相手)に対しては、 腹を立て
たり、否定したりするのだ。

嫁姑、先輩後輩、夫婦・親子の争い・ケンカは みんな これに起因する。

ところが、宗丹は 落ちた花を、そのまま飾ってすべてを生かした。

椿の花を届けた和尚の心を受け止め、
素直に謝った小僧の心をやさしく包み、
そして、椿の花も枝も 生かしたのだ。

枝から落ちた花など 使い物にならない…
とゴミ箱に捨てるとき、それは同時に、
和尚の心・小僧の心まで 捨て去ったことになるだろう。


あるがままを あるがままに…。


「ケンガイ」Ⅱ

2008年09月11日 | Weblog

今年もまた、あの「ケンガイ」のお寺
永代経法要にお取次ぎのご縁をいただいた。

相変わらず、携帯圏外・コンビニまで30分という時の
ゆったり流れる海抜500mの渓谷沿いにそのお寺はある。

おかげで、電話もかからず、メールも来ないし、ネット接続も
できず、ただ 控えの部屋で 持参のノートPCの前に座っていた。

その結果、長い間 休んでいた寺報の復活へ向けての準備を
することができて、8ページのうち4ページは完成した。

たぶん、わが家(寺)に居たら…

   電話はかかるし、お客様の応対もあるし、ネット調ベもの
   のつもりが つい「お気に入り」サイトへのめりこむ…


これほどの作業をするのに1週間以上かかっただろう。
いやいや 有難うございました。


おはぎ名人 Ⅱ

2008年09月08日 | Weblog

ふるさとのお寺からの「年に一度の
お参り(家庭報恩講)」として、この時期
毎年お参りする京都市のH様宅は旧い街並みにある
「京の町家」的なお家だ。

そして、お仏壇のお供えは、いつも「おはぎ」に決まっている。
それも、この家の奥様(というか、81才のおばあちゃん)手作りだ。

今までの僕が お出会いした ご門徒の中で 4人のおはぎ名人 が
いらっしゃるが、このおばあちゃんも その1人だ。(2人は故人)

小豆は北海道産にこだわり、粒あんは甘すぎず、中のご飯ももち米
との加減よく、とにかく 絶品。 

もう、10年以上も前になるが、初めて頂いたときには、もう、
感動して 3個も食べてしまった。

それ以来、おばあちゃんは毎年、お供え以外に「ごいんげさん用」に
かなり余分におはぎを 用意して迎えて下さる。


仏さまへのお供えは、もち・団子・菓子・果物…と いろいろあるが、
その仏事のために「手をかけたもの」をお供えする、ということは
とても大切なことだと思う。

それも、おつとめの後 お下げしたとき、みんなが喜んで 食べられ
たなら、尚 最高だ。


といいながら、仏さまへの お供えのお下がりを お裾分けいただく住職とは
なんとも 役得 というか、有難い立場だ。

今年もまた、お茶と共に おはぎ2個、美味しくいただいた。
おかげで ごちそうさまでした。

 

…と、ブログを更新してから気づいたのが、なんと2年前に
この
「おはぎ名人」のことは、ちゃんと 採り上げて書いていた…。

まぁ、美味しさの感動は 毎年 新ただから そのまま こうして おきます。
ただし、タイトルは 「おはぎ名人 Ⅱ」として…。


とっとっと?

2008年09月03日 | Weblog

今回の熊本のように、遠くへ行けば行くほど、文化と
ともに言葉の違いを肌で感じることができる。

さて、その熊本弁。

GT-R住職が、教えて下さるには、熊本には
同じ音を三回続けて 意味が通じる言葉があるという。
 

まずは、劇場や電車の中で 隣の人のカバンが置いてある
座席を指して、たずねるとき

「この席  とっ とっ と~?」
     (この座席 とっている=確保している=のですか?)

何となく肌寒さを感じたときには、
スー スー スー
     (スースー 涼しく感じる)

なんとまぁ、面白い。

「こんな言葉が たくさん あるのですか?」

と聞いたら、

なか なか なかっ!
     (なかなか、ありません)

と答えるそうな。  (^^ゞ。


確かに インターネットで「なかなかなか  とっとっと」で
検索するとたくさん出てきました。

いまさら、僕が採り上げるまでもなく、どうやら、
福岡~熊本~長崎方面まで いわゆる九州弁では
こんな言い方がたくさんあるようです。


お育て

2008年09月01日 | Weblog

8月末の一週間に4度のお取次ぎ(ご法話)の
ご縁を頂戴した。

これは、ご門徒さんへのお参り中心の僕としては
異例のことだ。

そして、そのうち3度は県内・市内のお寺の法座のご縁だったが、
あとひとつは 熊本県でのご縁だった。

僕は、基本的に「全国区」ではなく、ローカル僧侶なので、
県外まで お取次ぎのご縁をいただくことは 年に4~5度ほどだ。

九州方面でのご縁は、さらに少ない。
まして、熊本…… 九州弁……(-_-;)

僕の島根弁(もっといえば、石見弁) 通じるだろうか。

「あれ、これ、それ…」を 石見弁で、
「あがぁ、こがぁ、そがぁ…」と言ってしまいそうで
いつも以上に プレッシャーがあった。

だけど、蓋を開けてみれば、何てことない。
お寺にお参りくださる門信徒の皆さんは みんな聞き上手。
話し手の僕が 話しやすいように、微笑みさえ浮かべて、うなづき
ながら、熱心に聴いて下さった。

当日、住職さんは、「西楽寺の百人会」ほどのお参りがあれば…
と心配顔だったけれど、日々の行き届いたご教化があるのだろう、
いざ始まれば 本堂は 百人をはるかに上回る参詣者で満堂だ。


それにつけても、遠隔の地で、しかも初めてお会いする皆さまに
お取次ぎさせていただくことは とても刺激的だった。

武道にたとえていうなら、「他流試合」のようなものだろうか。
今までにない 「自分」にもあえるような気がする。
だから。遠方へのお取次ぎのご縁をいただくと武者震いのような
感覚に陥る。

そして、今回は お通夜など、義理でお参りされている方々に対しての
法話と比べて、「聴こう」という気持ちで聞いて下さる方々への お取次ぎ
が  どれほど恵まれた状況であることか、思いを新たにした。 

今まで どれほど聞き手の優しさに 甘えていた自分を思うにつけ
反省至極だ。


浄土真宗では、さまざまなご縁をいただいて、失敗しても、
成功しても  その経験を無駄にせず、今を引き受けて さらに
前へ一歩あゆみを運ぶとき、そのご縁を「お育て」という。

そして、そんなご縁に遇(あ)うことを「お育てをいただく」という。

この度も、本当に有難いお育てをいただいた。


実はそのお寺のご住職は、このブログによくコメント下さる
GT-R さまでした。

GT-R さま、この場を借りて 改めて深~く お礼申し上げますm(__)m