から揚げが好きだ。

映画とサウナ。

ロシアW杯、日本代表が最悪だった件。

2018-06-29 23:43:45 | 日記
昨日の23時に行われた、ロシアW杯における予選リーグ最終戦、日本VSボーランド戦。
あまりにも腹が立ったので、勝手に感想を残しておく。

ベスト16にあたる、決勝リーグ進出に向け、日本はポーランドと対戦した。
1勝1引き分けで迎えた第3戦。相手はFIFAランキング8位の格上のポーランドであるが、その前の2戦でいずれも負けており、予選敗退が確定していた。アルゼンチンが苦戦しているように、絶対的なストライカーがいたとしても、前線にパスを供給する人がいなければ、力は発揮されない。レヴァンドフスキは結局、1つもゴールを決められず、日本戦においても全くの不発に終わった。現代サッカーはあくまでチーム競技のようだ。

W杯開催までの日本代表チームの道のりは厳しかった。ハリルホジッチ監督の直前解任と、その後任となった西野監督下での不調が続き、期待よりも不安が上回るなかでW杯を迎えた。第1戦目、引き分ければラッキーくらいの対戦相手コロンビアにまさかの勝利を手にして、第2戦目のセネガル戦では得点で先行されるも2度も追いつき、2対2で引き分けに持ち込んだ。人間はギャップ萌えの動物。あれだけ不安視された大会前から、本戦での見違えるような善戦ぶりに、日本中が手のひらを返して熱狂する。メディアはコロンビア戦での勝利に、まるで優勝でもしたかのように、連日チームメンバーを取り上げた。

セネガル戦については素晴らしい戦いぶりだったと思うが、最大の転換点であった初戦のコロンビア戦においては、実力以上に幸運が舞い込んだ結果と思えた。試合開始まもなく、ペナルティエリア内の香川のシュートを、相手選手が「意図的」と判断されるハンドで一発退場。コロンビアからすれば、あの場で、1失点だけであれば良かったものの、人数を減らすという、致命的なハンデを日本にくれてやった。1人少なくなったコロンビアは攻撃に力を入れることができず、1点止まりで日本に敗退。しかも、退場した選手の活躍を2戦目、3戦目で見る限り、コロンビアにとって大きな戦力であったことがわかった。選手たちが全力を出した結果であることは大前提として、それでもコロンビア戦は運を味方につけていたといえる。

で、3戦目のポーランド戦だ。

試合前の決勝進出へのシミュレーションは、日本が勝つか、引き分けるか、負けた場合では、同時刻で開催される、コロンビアとセネガルの試合で、セネガルが勝つか、この3つくらいだったと思う。試合は、相変わらず組織連携がチグハグなポーランドに対して、日本が積極的に攻め込む展開がみられた。2戦目までのスタメンを6人も入れ替えたものの、気温30度超えというコンディションのなか、日本のプレイも精彩を欠いていて、ゴールが生まれる雰囲気はあまりなかったと思う。0対0で前半を折り返したのち、後半まもなくして、ポーランドにセットプレーから先制点を許す。テレビの解説は「このままだと日本は決勝にいけません。何としても追いつかなければなりません」だった。ところが、コロンビアとセネガルの試合で、コロンビアが1点リードする情報を得るなり、「勝ち点、得失点差でセネガルと並びますが、このままのスコアであれば、イエローカードの数で日本が決勝に行けます」に変わった。まったく予想しなかった第4の道だ。

当然、日本代表のベンチにもその情報が入ったようで、西野監督が決断する。
それがこの2つ。

・試合を放棄すること
・勝敗を運に任せること

これまで1つも勝てなかったポーランドは、日本にこのまま勝てば、母国へのメンツを保てる。日本が攻め込まなければ失点しないし、このまま問題なく勝利で終われる。日本と利害が奇跡的に一致する。「何もしないのが1番だよ!」と。

コロンビアとセネガルの試合、2戦目以降、フルメンバーで本気を出したコロンビアが、時間的にもセネガルに追いつかれる可能性が低いとみて、コロンビアの勝利に賭ける。結果、そのヨミがあたり、コロンビアが勝利した。

試合終了までの約15分、日本の自陣でのん気なパス練習がはじまる。相手のポーランドは、日本が攻めて来ないのをわかったのか、試合中にも関わらずピッチ上で座って休憩している。この時間はいったい何なのだろう。これがあのワールドカップの光景か!?

この光景に失意を通り越して、激しい怒りを覚えた。

日本が上位に行くことは当然嬉しいことだが、自国の活躍に関わらず、他国であっても良い試合を見たいという思いが強い。だからワールドカップを見ている。日本以外の各国チームの試合も見ているが、みんな死力をつくしても決勝トーナメントに行けなかったりする。日本は、戦うことをやめても、試合中、プレイすることもやめても決勝にいけるのだ。これまで積み重ねた幸運にしがみつく日本代表。その姿はスポーツマンシップのかけらもなく、恥ずかしく、卑怯にも見えた。

「運も実力のうち」だとか、全力を尽くした者だけが語ってほしい。「勝負する上での戦略」といった評価もあるようだが、ただの博打が戦略といえるのだろうか。日本よりも遥かに良い試合をしているのに、決勝に行けず、涙をのむ他国の代表が不憫でならない。「これもサッカー」だなんていうなら、そんなサッカーなくなればいい。

選手たちは、監督をはじめベンチの指示に従っただけだろう。当事者たちが背負うものは、計り知れないほど大きいに違いない。名を捨てて身をとるのは当然なのかもしれないが、このやり口はあまりにもフェアじゃない。所詮は部外者のサポーター、スポーツに夢や希望を求めて何が悪い。正々堂々戦って、失点して日本が負けたとしても、この状況の100倍マシだわ。決勝トーナメントに進出するに値しないチームが日本。「サムライスピリッツ」とは、手段を選ばず必勝することか。その先に透ける「勝って日本が輝けばいいのだ!」という、国威発揚がひたすら気持ち悪い。

もう日本を応援するのはやめる。

次の対戦はベルギーとのこと。なので、ベルギーを応援する。
ベルギーには、実力の差をおもいっきり見せつけてもらい、完膚なきまでに打ちのめし、きついきついお灸を据えてほしい。そして、今回の日本代表がとった決断が、恥ずかしい誤りであり、愚かな幻想だったことを証明してほしい。



 
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焼肉ドラゴン 【感想】

2018-06-29 08:00:00 | 映画


高度経済成長期にあった在日韓国人家族のホームドラマ。日本でも韓国でも高い評価を得たという舞台劇の戯曲が原作とあって、物語は非常に魅力的だ。撮る人が撮ったら傑作になっていたと思う。演劇と映画は異なる表現方法であり、演劇で表現できないことを実現するために本作が映画化(映像化)されたと思うのだが、どうやら違ったみたいだ。うーん、よくわからない。。。韓国の名脇役キム・サンホのキャスティングには拍手。

本作の時代設定である1969年~71年は、調べると高度経済成長期に末期にあたり、様々なインフラ整備が完了の段階にあった状況らしい。その時代の流れに逆行するような場所が本作の舞台。大阪の空港近くにある国有地に戦後、不法に住みついた在日韓国人の集落があって、そこで焼肉店を営む家族が主人公だ。

一家の父親は大変な苦労人だ。戦時中は日本兵として強制的に戦場に駆り出され、負傷により左腕をなくす。戦後、韓国に帰国しようとするも、済州島で起きた住民虐殺事件(四・三事件)によって親族をすべて亡くし、日本へ戻ることを余儀なくされた。「醤油屋の佐藤さん」から買った土地で、焼肉屋の商売を始めて、4人の子どもたちを育ててきた。まさに波乱万丈。歴史に翻弄された父親の姿が本作の中心にある。

成人して女盛りを迎えた3人の娘と、後妻との間に生まれた中学生の息子。それぞれが血の繋がらない異母兄弟。恋愛関係に忙しい姉たちと、日本の学校に進学したことでイジメを受ける弟。集落を出れば様々な差別に晒される。子どもたちの両親は韓国人であるが、日本で生まれ育っているので韓国語を知らなかったりする。日本人が彼らを差別する一方で、在日の人たちも日本人との親密な交流は避けているように見える。日本人との結婚は言語道断のようだし。

今でも在日韓国人の人たちに対する差別や偏見みたいなものが存在すると思われるが、昔と比べると、そういった問題が引き金となって事件が起きるみたいなニュースはまるで聞かなくなった。あらゆる面で今と違う時代を感じる。家族の父親が辿ってきた歴史を含め、「こういう時代があったんだ」と思いを巡らすが、本作はそうした観客の視点を嫌うかのように、時代を感じさせる生活描写を避け続ける。これがよく理解できなかった。

粗末な家々が立ち並ぶ集落。ナレーションで一家の息子が「この町」という言い方をするが、町といえるほどのスケールはない。予算の都合もあるだろうが、映し出される風景は家族が住む家の一角のみ。その自宅兼、焼肉屋の内装も、居住するスペースは映し出されず、飲食スペースもほとんどない。生活感や商売っ気が感じられないのだ。「焼肉ドラゴン」はお店の名前であり、当時はどんな焼肉が食べられていたのか、どんな風に食べられていたのか、そもそもどのように仕入れ、どのように客に提供されたのか・・・焼肉から想起される描写を期待するが、ことごとく省かれる。マッコリをヤカンで返杯し合うシーン、中身はカルピスでいいから、白濁したマッコリをちゃんと見せてくれ!

「見せない」生活描写に終始イライラするが、監督の狙いは時代を感じさせることではなく、普遍的な家族のドラマを見せることだったか。100歩譲ってそれを許容できたとしても、役者に施す演出がひたすら「演劇用」なのが気になり、新鮮であると同時に不自然だった。何かの確執や苦難に直面した際に、すぐにキャラクターたちの激情が露にされ、みんなで抱き合う。観客の視点が変わらない演劇の舞台では、こうした演出が効果的なのかもしれないが、カメラを通してキャラクターたちに密着する映画では、もっとナチュラルに見せないと入り込めない。

編集の切り方も不可解なシーンが多く、「そこ、切ってもよくない??」といった長回しシーンが目立つ。結果、かなり全体的に冗長な印象をもち、2時間の上映時間がそれ以上に感じられた。監督の鄭義信は自身で戯曲を書き、舞台の演出も手がけるという。映画は本作が初監督らしい。映画の撮り方をよく知らないのでは!?という仮説が浮上する。。。監督が脚本だけ手がけた「血と骨」は、崔洋一の演出によって時代と人間の臭気が漂う傑作になった。

キャストは豪華な顔ぶれで、これまでのイメージを払拭するような演技をみせる。次女を演じた井上真央は舌を絡ますキスシーンを見せ、一家の近所に住む大泉洋はコテコテの大阪弁を操り、真木よう子の足にしゃぶり付く。日本の映画界でヘビロテ出演が続く大泉洋だが、演技の振れ幅に改めた驚かされた。そんななか、韓国映画界で活躍するキム・サンホが一家の父親を演じており、その存在感が際立っていた。絵に描いたような落ち武者ハゲ頭に哀愁が漂う。自らが辿ってきた人生を振り返り、子どもたちへの愛を語ったシーンにはさすがにウルッと来てしまった。日本と韓国、映画界で本作のような役者の共演がもっとあっても良いと思う。

物語自体はとても映画映えする内容であり、演劇の世界で賞賛を浴びた理由もよくわかる。ただ、監督は舞台の上でやったことを、そのまま映画の上でやっているように思う。映画で表現できることを放棄したことで、肝心のドラマパートも萎縮してしまった。もったいない。

【60点】
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ワンダー 君は太陽 【感想】

2018-06-22 08:00:00 | 映画


思いやりの意味を考える。まさかの群像劇に驚かされる。相手と違うことを受け入れ、どれだけ相手のことを考えることができるのか。ハンデを背負った少年の奮闘記だが、ありがちな感動ポルノは回避され、気持ちのよい感動作として着地。劇場ではすすり泣く音がこだます。「みんなで泣こう」なムードが苦手で、善人でまとめたストーリーに物足りなさを感じたものの、「良心を選べ」というメッセージを打ち出すのに適切な選択だったとも思える。子どもたちがめちゃくちゃかわいい。

生まれつきの遺伝子疾患により、顔に重度な障害を抱える10歳の少年が初めて学校に行く様子を描く。

映画を見て改めて思うのは、アメリカにおける人種の多様性だ。これまで経験した学校風景も、現在の仕事の風景も周りを見渡せば、みんな同じ肌の色で同じ髪の色の人たちばかりだ。本作の舞台は日本の小学校にあたるだろうが、肌の色も髪の色もまるで違う子どもたちが1つの教室に介している。「他人と見た目が違って当然」という日常風景のなかで、多様性を受け入れる意識は自然と浸透するのだろう。逆に、アメリカ人からしたら、1つの人種が集まっている光景が異様だったりして。

ただし、本作の主人公はそれでも特別だ。体の障害により顔の手術を繰り返し、見慣れている顔の作りとは明らかに違っている。その不自然な顔立ちが前触れなく姿を現したら、誰もが一瞬萎縮するだろう。主人公も自身の顔立ちに大きなコンプレックスを抱えている。「珍しいヤツ」とジロジロ見てくれるほうがまだマシで、「見ちゃいけないモノを見た」と目を伏せる様子がイヤだとのこと。本人にしかわからない苦悩だ。

子ども時代を思い出す。なんであんなに可愛らしい子をバイ菌扱いしてみんなでイジめたのだろう。他者への理解力が未発達だった頃を恥ずかしく思う。これは万国共通のようで、本作の主人公も「ゾンビ」「フランケンシュタイン」などと、周りの子どもたちからイジメを受ける。頭が良く、ユーモアがあって、誰からも愛される個性なのに、外見だけで内面を知ろうとしない。イジメっ子は自身の行為を悪いことであることは自覚しているようだが、なぜ悪いことなのかがよくわかっていないのだ。主人公は傷つき、状況に耐えるが、賢い主人公にとっては予想できたことだったかもしれない。しかし何よりも堪えたのは、信頼していた友人が発した陰口だった。主人公が始めて味わう感情だ。

本作は主人公と家族の物語でもある。両親は高学歴で割と裕福な家庭にあり、5歳くらい年の離れた姉がいる。家族はみんな仲が良く、その中心にはいつも主人公がいる。障害を持つ子どもとして、両親は常に主人公を気にかける。姉も弟である主人公に愛情をたっぷり注ぐ。家族の絆が主人公の大きな支えとなる前提はわかったが、主人公の学校生活スタートもそこそこに、物語の視点がいきなり主人公の姉にスイッチする。そして、主人公からは見えなかった姉の苦悩が描かれる。なるほど、本作は群像劇なのか、と感嘆するとともに、本当のテーマが浮かび上がってくる。

その後、物語の視点は、主人公を軸に周辺にいるキャラクターに次々とスイッチする。「主人公は太陽」って、なるほどである。主人公の友人にも視点の番が回ってきて、彼の主人公に対する本当の思いと、主人公を傷つけてしまった背景が明らかになる。いずれも、本人にしかわからない真実。相手が自分の思いを伝えてくれることも重要だが、告げられぬ思いをどれだけ自分が掬いとることができただろうか、と振り返ってしまう。

顔に障害を持つ主人公が描かれるが、その特殊メイクは割とマイルドにできている。演じるジェイコブ・トンプレイの愛らしい声と相まって、観る人の同情心を得やすい造形になっている。子どもは案外逞しくて、見た目の抵抗感なんてすぐに取り除かれしまう。本作のように見た目だけでネチネチとイジめが続く様子は子どもに対する偏見にも映る。これは、あざとさではなくわかりやすい作りを狙ったと受け止める。ただ、狙いはわかるものの「結局みんな良い人」という一様のタネ明かしや、「そこは違うのでは?」な姉の友人による代役変更、「やっぱり」感の強いラストの表彰シーンなど、自分には甘過ぎて、終盤にかけて気持ちが離れてしまった。「あなたは奇跡よ」とか、わざわざ口に出さなくてもいい。あと、もう少し主人公の想像力で映像を遊ばせても面白かった。

下品に見えた「感涙度97%!」という日本配給のコピーは偽りなしだろう。右側に座っていたお姉さんはもちろんのこと、左に座っていた体格の良い50代くらいのオジさんまで身を乗り出して泣いていた。周りの熱量とのギャップは「湯を沸かすほどの熱い愛」以来だが、普遍的なメッセージがダイレクトに響く良質ドラマであることに間違いなし。原作が児童小説ということがあとでわかって納得した。

【65点】
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生きのびるために 【感想】

2018-06-20 08:00:00 | 映画


Netflixにて。日本でのリリースに感謝。
タリバン政権下のカブールを舞台に、父親を逮捕された一家の少女の生き様を描く。
イスラム教の歪んだ解釈に憑かれたタリバンという排斥組織。アニメを通じて伝わる人権迫害がひたすら憎い。ターゲットは女性に向けられ、あらゆる社会生活の機会を奪う。それはときに暴力的であり、女性が1人で外を歩けば、家へ帰れと激しく叱責し、素直に応じなければ殴打で制裁を加える。教育に関わる一切を取り上げ、本作で登場する一家の父親も子どもたちに物語を読み聞かせただけで逮捕される。生きることもままならない暗黒の時代があった事実。残された家族を幼い少女が懸命に支える姿が描かれるが、心を痛めるだけでなく、希望へと向かうストーリーが素晴らしい。
1つの決意をきっかけに少女は今まで見たことのない自由な世界に触れる。同じ境遇で再会する友人と語り合った「海」の夢。他者に救いの手を差し伸べない冷酷な状況下で、それでも確かに存在した人間の良心。少女の想像力と「物語」が持つ力が劇中シンクロする形で描かれ、力強いドラマに寄与する。実写ではないアニメでこそ実現できる表現演出に感動してしまった。
オスカーをはじめ、多くのアニメ映画賞を「リメンバー・ミー」に独占されてしまったが、スルーされるにはあまりにも惜しい秀作アニメ。宗教、歴史、人権を知る上で多くの子どもたちに見て欲しい映画とも思えた。
【70点】
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万引き家族 【感想】

2018-06-15 08:00:00 | 映画


家族のあり方を描いてきた是枝監督がさらに踏み込む。内側の家族の物語に留まらず、外側にある現代社会へも目を向ける。是枝作品の「集大成」という評価に納得感を持つ。一方、是枝ファンとしては本作を「最高傑作(到達点)」と讃えることには抵抗感あり。キャスト陣のパフォーマンスはもれなく素晴らしく、なかでも安藤サクラの名演に我を忘れて引き込まれた。
祝、パルムドール。

永らく様々な映画で、家族というものを描く際、逃れることのない「血」のつながりとして定義づけられてきた。本作で描かれる家族はそれと相反するもの。血のつながりのない「擬似」家族であり、一緒に家族になることを選んだ人たちだ。彼らを束縛するものはなく、いつでも家族をやめられる関係といえる。彼らが繋がる理由はお金、あるいは愛情だ。

「万引き家族」というタイトルだけ聞くとややミスリード。彼らは万引きで生活しているわけではない。働ける大人たちは生活費を稼ぐために働いている。ただ、いずれも日銭を稼ぐような低賃金労働。万引きを働くのは父親とその子どもで「人に買われる前の商品は誰のものでもない」という、よくわからない流儀により、生活費を少しでも浮かせる手段として実行している。その犯罪の程度はあまり重要ではなく、「万引きOK」というルールが一家の子どもにもたらす影響に着目する。

子どもの視点から世界を描くことの多かった是枝作品。本作でも自分は、2人の子どもから見た家族の物語として捉えた。一家の一男一女。物心ついた頃から一緒に暮らす息子は、家族が実の家族でないことを認識しており、両親にあたる2人を「お父さん」「お母さん」と呼ぶことはない。幼い娘は育児放棄・虐待という悲惨な家庭から救出される形で一家に加わる。

新しい子どもを迎える家族の大人たち。確かな愛情が芽生える。両親を演じるリリー・フランキーと安藤サクラから発せられる母性や父性に胸をつかまされる。子どもの存在によって親へと成長するケースは、血縁関係に縛られた話ではない。2人の子どもたちも家族の愛情を初めて知ることになる。家族を信頼し、愛情でつながれていると信じるが、後半に待ち受ける事件をきっかけに揺らぎ始める。「万引きOK」のルールも形骸化し、両親のもう1つの正体が姿を現す。悲しくも、子どもたちにとって、そこはいるべき場所ではなかったのだ。

家族の物語として見ていたが、後半から、別の切り口が加わる。社会から見た家族の姿を映し出すのだ。万引きよりももっと重大な犯罪によってつながれていた偽装家族。その家族を、社会の象徴として設定した警察側の人間が非難する。家族と社会をつなげる展開に、是枝映画の進化を感じるも、取り調べによる対峙シーンがなかなか長く、「不寛容な社会」といったメッセージが過剰にせり出してくる。自分は家族の内側に集中してもらったほうが良かった。

松岡茉優演じる一家の次女(?)の特殊な仕事に対するモチベーションが、本作のテーマと繋がっているようには見えず、「4番さん」との関係性でさらにわかりづらくなった。蛇足と思えるシーンも気になり、期待が大きかった割に手放しで賞賛できる映画ではなかった。嘘の家族を通して、家族の形を模索するアプローチはさすがの脚本。

楽しみにしていた豪華キャスト陣によるアンサンブルは期待以上。特に記憶に残るのは、安藤サクラの母親ぶりだ。前作における役所広司に続き、是枝作品に出てほしかった俳優の1人だった。監督との化学反応はやはり素晴らしかった。彼女の演技にモノすごい力で引き込まれた感覚が今でも残っている。その表情を通して知られざる物語が見えてくるようだった。あと、名監督の映画にみんな出たいのか、主要キャラクター以外の端役が豪華な顔ぶれで驚かされた。本作の成功により、監督の次作ではキャスティング競争がさらに激化しそう。

それぞれが新たな出発を迎えるラスト。正しいかどうかは別として、2人の子どもに注いだ家族の愛情は真実だった。子どもたちが成長して、この過去を振り返ったとき、何を思うのか。子どもたちが見つめる先に思いを巡らす。

【65点】
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レディ・バード 【感想】

2018-06-13 08:00:00 | 映画


舞台は2002年。ひと昔前の80年代にフォーカスした映画が最近目立つなか、割と最近の時代設定といえる。何か特別なことがあった年でもない。ところが本作においては特別な意味がある。この映画の「主役」である監督グレタ・ガーウィグが青春を謳歌した年なのだ。

高校生活の最後の1年。青春期のあらゆる経験を経て、最終ゴールの旅立ちへと向かう。もっとエキセントリックなドラマを想像していたが、かなり王道な内容で、主人公の物語を通して多くの人が通過したであろう出来事が描かれる。同類映画と思われた「ゴースト・ワールド」とは似ているようで似ていない。本作の女子はしっかりリア充。

主人公のクリスティンは自身を「レディ・バード」と称し、今の自分ではない「何者か」になりたいと欲する。カトリック系の学校なのに髪をピンク色の染めている。自分は特別な人間と、自意識過剰ぶりが何かとイタい女子だが、その程度の差はあれ、自身の可能性を信じていた時代は誰にでもあったと思われる。その後、広い世界に出て、身の程を知ることになるのだが。

主人公のキャラ設定はフィクションであるものの、細かい描写の数々にグレタ・ガーウィグの体験が大いに活かされていると感じる。9.11以降の田舎町の情景、愛する家族との時間、母親との確執、友情と恋愛の変遷、楽しく過ごした学校生活、旅立ちと望郷の思い。今や映画界で活躍する彼女の礎を築いた時間だったとしみじみ想像する。特に印象深いのは、主人公と母親の関係性だ。故郷を離れたい一心の主人公に対して、経済的な問題を理由に離れることをガンとして許さない母親。何かと対立が絶えない母子関係だが、ラストに明かされる母親の秘めたる想いに感動してしまう。母親演じるローリー・メトカーフが泣かせる。

グレタ・ガーウィグの私的な映画であると同時に、多くの人にとって「自分ゴト」になる映画に違いない。一言でいえば「共感」の映画であり、本作が地方都市の多いアメリカで絶大な支持を受けたことも頷けた。

自分にとっては、「自分ゴト」にはならなかった。あまりにも境遇が違いすぎるのと、共感よりも憧れに近い感情が沸き立ったからだ。主人公と同じ頃、自分はカメラに没頭し、友人と遊ぶ時間よりも暗室に篭っている時間が多かったような。他校との交流のない男子校だったので、異性との関係も希薄。本作で描かれるような友情と恋愛の日々は大学に進学してからだ。大学進学のタイミングで実家を離れたが、都内の大学から近かったため、地元を「故郷」なんて思ったことはない。大学で友人になった地方出身者をうらやましく思ったもの。

等身大の物語ゆえ、刺さるか刺さらないかは人によって大きく分かれそうだ。自分の場合は後者。ただし、映画自体は面白い。わがままにわが道をゆく主人公が可笑しくて愛おしい。若さゆえの衝動が目立つ一方、この時期特有の葛藤みたいなものが見えず楽天的。つらつら続く出来事もテンポよく描かれ、ユーモアも絶妙に効いている。主人公とぽっちゃり女子の親友とのコンビネーションも楽しい。

主演のシアーシャ・ローナンをはじめ、旬の若手俳優たちの共演も見どころだ。彼らにとって監督のグレタ・ガーウィグは年が少し離れたお姉さんくらいか。フレッシュで明るい撮影現場の空気が伝わってきた。

【65点】
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デッドプール2 【感想】

2018-06-08 08:00:00 | 映画


出血大サービス。まさか、ここまで楽しませてくれるとは。
製作予算の大幅増が足かせになることなく、新たな進化に成功。アクション映画であり、コメディ映画であり、ヒーロー映画であり、ファミリー映画。前作よりも多くの旨みを効かせながらも、そのDNAはしっかりキープ。新鮮さが先行した前作よりも本作のほうが断然好きだ。ブラックで下品なユーモア、そして多くのパロディが次々と投下。笑率も前作から大幅にアップ。「正義には悪役が必要」は名言。初登場のジョシュ・ブローリンがカッコいい。サノス、いじっちゃうのね。

正義や理想主義をガン無視し、新たなアメコミ映画として喝采を浴びた前作。無責任ヒーローのおふざけを楽しむだけでなく、実は純粋なラブストーリーとして着地していた。続編となる本作では、恋人とのロマンスはほどほどに、ヒーローとして正義に目覚める「俺ちゃん」が描かれる。

前作では、これまで見たことのないキャラクターの誕生とグロいアクションについて何かと新鮮に映ったものの、自分はそれ以上の感動を覚えなかった。ところが本作ではわかりやすいヒーロー映画として軸足を少し変えたことで、魅せる映画として娯楽性が増した。あんまり期待していなかった分、かなりのギャップ萌え。増えた製作予算とヒットによるブランド力が、前作でできなかったことを可能にしていて、その仕掛けがもれなくプラスに働いている。本作もまた続編パート2の成功例だ。

デッドプールこと、ウェイドは1人のミュータントの少年と出会う。ウェイドは少年を「ラッセル」と呼ぶが、ぽっちゃり男子ゆえに「カールじいさん~」のラッセル少年からとっていると勝手に想像して吹き出す。「ハント・フォー・ザ・ワイルダーピープル」での好演が印象に残る男の子がラッセル役を演じる。その癒し系な外見とは裏腹に、本作では極めて高い攻撃力を持つ。スリルよりも「いやいや、ギャップwww」とニヤけてしまう。シリアスから少しズラす力加減が、デッドプールの魅力と再認識する。

Xメンでの研修中(笑)、施設で虐待を受けていたラッセルを助けることになり、それがきっかけで新たな強敵「ケーブル」と戦うことになる。ケーブルの設定が明らかに「ターミネーター」だ。パクっているというより、寄せてきている。本作で新たに加わった要素が映画ネタとパロディである。ジャンルを問わず様々な過去の映画が取り上げられ、イジりたおす。映画ファンにはたまらない。オープニングも007だし。もちろん、デッドプールと兄弟分である「Xメン」は格好の餌食となる。高潔な最後を遂げた「ローガン」は悪趣味なオルゴールに変わり、プロフェッサーXの専用品はデッドプールの遊び道具になってしまう。笑いが止まらない。

ケーブルに立ち向かうため、デッドプールは初めてチームを組むことにする。X「メン」は性差別な表現なのでX「フォース」って(笑)。一匹狼から脱却したのも大きな変化であり、デッドプールとチームを組むほかのメンバーがなかなか楽しい。前作に続き、デッドプールの対極にいるコロッサスとの掛け合いと、アブない友情関係は見モノだ。他のチームメンバーを新たにリクルートとし、いざチーム結成となるも、あっけない幕切れに終わる。このキャラクターの使い方はさすがだ。思わぬ大物俳優のカメオ出演に本作のブランド力を実感。デッドプールの強い味方として唯一機能する「ドミノ」は「運がイイ」という特殊能力を持つとのこと。これまた何かのおふざけかと思いきや、全くの新型ミュータントで驚く。荒唐無稽な本作の色に見事にマッチ、笑いを提供しながら、迫力のアクション描写に寄与する。

主演のライアン・レイノルズは、いよいよ絶好調。脚本にも参加しているようで、ブラックで下品なジョークが前作にも増してキマる。覆面ありきのパフォーマンスながら、相変わらず表現力が豊かだ(CGの賜物ともいうが)。そして本作のキーマンであるケーブルを演じるのは、コワモテ男優のジョシュ・ブローリン。知らない間に、めちゃくちゃマッチョになってる。饒舌なデッドプールに対して寡黙な男であり、シリアスな空気を程よく注入してくれる。家族のために戦う姿が普通にカッコいい。彼はサノスでアベンジャーズを粉砕したばかり。お疲れ様です。で、やっぱり劇中でもイジられるww。

ユーモアで笑わせ、アクションで楽しませるだけでなく、物語の転結がしっかり描き上げられているのも良い。ケーブルが登場した理由は早々にわかり、案の定の展開になるが、彼が持っていたツールが大きな役割を果たし、冒頭でのラブストーリーにちゃんと繋がってくれる。「ファミリー映画」という冒頭のセリフの伏線も見事に回収。ラストでは、ライアン・レイノルズによるまさかの「自己精算」が描かれ、そのサービス精神に大きな拍手を送る。ただし、「グリーン・ランタン」、自分はそんなに嫌いじゃないぞ。

【80点】

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第90回アカデミー賞候補作をようやく見終わった件。

2018-06-08 00:01:14 | 勝手に映画ランキング
先週末でようやく今年のアカデミー賞候補作を一通り見終わった。
作品賞~助演賞まで、主要5部門にノミネートされた映画のうち、日本での公開が決まっていない「Roman J. Israel, Esq.」を除いた13作品。
お気に入り順に勝手にランキングしてみる。

1位 シェイプ・オブ・ウォーター
2位 アイ,トーニャ 史上最大のスキャンダル
3位 スリー・ビルボード
4位 ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書
5位 君の名前で僕を呼んで
6位 ゲット・アウト
7位 フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法
8位 ファントム・スレッド
9位 ゲティ家の身代金
10位 ダンケルク
11位 レディ・バード
12位 マッドバウンド 哀しき友情
13位 ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男

続いて、個人賞について実際の候補から私的に選んでみる。

監督賞 ギレルモ・デル・トロ 『シェイプ・オブ・ウォーター』
主演男優賞 ティモシー・シャラメ 『君の名前で僕を呼んで』
主演女優賞 サリー・ホーキンス 『シェイプ・オブ・ウォーター』
助演男優賞 サム・ロックウェル 『スリー・ビルボード』
助演女優賞 アリソン・ジャニー 『アイ,トーニャ 史上最大のスキャンダル』

振り返ってみて心残りは、アカデミー賞の主要部門から無視されたため、日本での公開が未だに決まっていない「The Disaster Artist」。いつになったら日本でリリースされるのだろう。
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ファントム・スレッド 【感想】

2018-06-07 08:00:00 | 映画


ファッション映画な導入場面から、ポール・トーマス・アンダーソン(PTA)の新境地か!?と考えるも、終わってみれば、がっつりPTA映画。奇妙な愛をめぐる男女の静かなるマウントの取り合い。そのプロセスは変態的であり、2人が辿りついた境地に絶句する。恐ろしい寓話のようだ。全く理解できないものの、2人にとって最良の選択ならば、これも1つの愛の形か。

おそらく戦後まもない時代。ロンドンで、王族などの金持ちを相手にオートクチュールのデザイナー兼、仕立て屋の男が、年の離れた若い女性と恋仲になり、その後の2人の愛の遍歴を描く。

主人子が身支度を整えるシーンから始まる。その所作の美しさから、彼の職業を容易に想像できる。仕事場でもある自宅の間取りは縦に長く、横幅は狭い(階段が急)。居心地のよい空間には見えないが、四六時中、仕事のことしか考えない主人公にとっては望ましい環境とも思える。彼の仕事に対するモチベーションは変わっていて、ドレスによって依頼主を綺麗に輝かせることよりも、自らが創造したドレス自体にフェティシズムに似た愛を感じているようだ。

年齢は50~60代くらい。同棲していた女性と破局を迎えたのち、間もなくして、田舎町のウェイトレスと恋に落ちる。年が離れた若い女性で、取り立てて美しいわけでもなく純朴な顔立ちだ(後半につれて、桃井かおりに見えてくる)。その後、主人公に連れられ、ロンドンに上京、これまで縁のなかった美しいファッションに彩られた生活に入りこみ、主人公が手がけたドレスのモデルになったりする。その様子は、さながらシンデレラ・ストーリーだ。女はドレスによって美しくなった自分自身を、主人公が愛でていると思ったに違いない。

次第に、女が主人公に求める愛の形と、主人公が女に求めている愛の形がズレていることに気づきだす。主人公にとっては美しいドレスを生み出すことがすべてであり、それが生活の中心でなければならない。イチローの徹底したルーティンワーク同様、プライベートにおいても所定の習慣、所定のリズム、所定の風景を求める。その生活のペースが乱れてはならない。同棲する女も、主人公にとってはその一部に過ぎない。ビジネスパートナーでもある主人公の姉は、弟の個性を熟知していて静観している。

愛されることを求める女。元ウェイトレスの女もその状況に耐えかね、突破を試みる。が、あっけなく撃沈する。おそらく、これまで何度も繰り返されてきた歴史だろう。過去の女性たち同様、この女も主人公の元から離れる流れになっていた。ところが違った。女は危険な賭けに出る。賭けではなく、勝負という言葉が適当か。恐ろしいのは前半の回想シーンで「彼が求めるものを私は与えた」と語っていたこと。女は勝利することを確信していたのかもしれない。

主人公演じたダニエル・デイ=ルイスは本作を最後に俳優業を引退するという。仕立て屋での修行という事前の準備はもちろんのこと、「憑依系」といわれる彼の演技スタイルにより、本作の役柄もリアリティをもったキャラとして強い存在感を放つ。この映画を見たあと、引退について話しているインタビュー動画を見たが、その代償は大きく、撮影後、心身ともにボロボロになるようだ。彼の引き際について「早すぎる」なんていえない。

そのインタビュー動画でもう1つ興味深かったのは、元ウェイトレスを演じたヴィッキー・クリープスの話だ。物語の真意は説明されず、「目隠し」の状態でPTAに誘導されるまま演技に臨んでいたらしい。PTAの演出ってすごいわ。

終盤に明らかになる、主人公がドレスの仕立てに固執する背景が面白い。主人公側の話で物語が終結していれば、本作は「マザコン」映画としてもカテゴライズされるかもしれない。いまいちノレなかったのは、仕掛けた女に対して、主人公側の心境の変化が掴めなかったことだ。釈然としなかったものの、観客の想像力に寄せたPTAのプランに、自分がついていけなかっただけだろう。

【65点】
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ゲティ家の身代金 【感想】

2018-06-01 08:00:00 | 映画


「マルサの女」のワンシーンを思い出した。山崎努演じる脱税容疑の男「権藤」が、主人公のマルサの女に金儲けの秘訣を教える。「グラスに水を注ぐとする。たいていの人間はグラスがいっぱいになったら飲もうとする。俺は違う、水がいっぱいになってグラスからこぼれる水をなめるんだ」。金儲けに長けた人間は常人とは異なるセオリーを持っていて、金持ちになるべくして金持ちになる。1970年代、当事、世界一の富豪であったジャン・ポール・ゲティもそうだ。

本作を見るまで、ジャン・ポール・ゲティという人物を知らなかった。OPECがまだ本格的に機能していなかった当時、アメリカ人でありながら中東の産油権を持ち、石油王として莫大な財産を築いた人物だ。「資産を数えられるくらいはまだ富豪ではない」と、その言葉がスケールの違いを示す。ただ、その生活ぶりは富豪とは思えぬほど、ケチくさい。ルームサービスの費用を節約し、自宅での客人の電話利用は公衆電話(自腹)を使わせる。孫の生死をかけた「身代金」もその例外ではない。

孫のなかでも特に目をかけた10代の孫が外国で誘拐される。大富豪のゲティの孫であることを知ってのことで、多額の身代金が目的だ。ところが、ゲティは1円も払わないという。その言い訳は「他の孫たちにも危険が及ぶ」そして「そのたびに身代金を払ってしまったら破産してしまう」とのこと。その一方で、目が飛び出るほどの高額な美術品を買い漁る。彼にとって見返りのないものについては、対価を払う意味はないのだろう。

孫の狂言誘拐の説も浮上するが、その後、状況は思わぬ方向に転び、どんどん深刻化していく。誘拐という名の投資が、いよいよイタリアのマフィアの手に渡ってしまい、ゲティの重い腰を動かす事態に至る。マフィアは警察組織をも支配しており、イタリアにおける当時の闇の深さがおぞましい。ゲティの個性にバンチを喰らい、マフィアの残虐性にパンチを食らう。緊迫感が持続するスリラーであり、「実録」というラベルが映像にさらなる凄みをもたせる。

ゲティと誘拐犯の間で奔走するのが、誘拐された孫の母親である。ゲティは義理の父親にあたる。誘拐犯と戦うだけでなく、身代金を出してくれないゲティとも戦うことになる。演じるミシェル・ウィリアムズが素晴らしい熱演をみせるが、やはり本作の見せ場をさらうのは、ゲティを演じたクリストファー・プラマーだ。助演部門で多くの映画賞で評価されていたが、本作の実質的な主役といってよい。彼をキャスティングしたことは怪我の功名だった。ケビン・スペイシーの代役とは信じられないほどの仕上がりで、重厚感たっぷりに資本主義の怪物を見事に体現する。ゲティの実年齢を考えても、プラマーの起用は必然的だった。

見終わって、どこまでが実話なのか、サイト上の情報を検索しまくる。ラストの追走劇はさすがにフィクションのようだが、身代金を巡る駆け引きはおおよそ事実に沿ったもののようだ。まさかの「節税」に可笑しさと怖さがこみあげる。裏切ることのない「モノ」と「カネ」に憑かれた男の末路は悲劇的だ。盛者必衰_。そして、映画では描かれなった部分、彼の死後、あれほどのビッグマネーを生み出した石油事業は、残された一族によって現在のテキサコに売却されたらしい。そのとき、天国のゲティは何を思っただろう。

【70点】


コメント (2)
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