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竹島問題のルーツ

2008-10-11 21:23:53 | 政治

 昨日に続き井沢元彦「逆説の日本史14巻近世爛熟編『文治政治と忠臣蔵の謎』P168-182」から要約して引用

 (京の)堀河に酒屋太郎衛門というものあり。(中略)家に久しく使う高麗人の女あり。それを女房にして子を生む。姉は大宮蔵入入道宗雅が室、その妹が館林の母公慶昌院殿なり。この姉妹ともに春日局に同道して東行、姉は御意に入らず、妹が残りて館林殿を生めり、以下略
(『遠碧軒記』日本随筆大成⑩ 吉川弘文館刊)

 ここで館林というのは五代将軍綱吉のこと。綱吉は将軍就任前館林藩主だったから。つまり綱吉の母は日朝混血児であったから綱吉には四分の一朝鮮人の血が入っていたとするもの。
 このため綱吉は朝鮮外交で非常に宥和的であった。綱吉時代の日本の外交政策が今に至る「竹島」問題の起点になっている。

 韓国慶尚北道海岸から140キロの地点に鬱陵島(旧竹島)がある。朝鮮は倭寇対策のためこの島を無人島として朝鮮人の上陸を禁じた。
 それに乗じて多くの日本漁民がこの島に進出するようになった。
 その中漁民大谷甚吉が鳥取藩に正式の渡航許可を申請し同藩はそれを許可した。そして幕府は鎖国完成後もこの渡航許可を撤回していない。つまり鳥取藩も幕府もこの島は日本領だと認識していた。
 
 元禄頃、朝鮮漁民もこの島を訪れるようになり日朝漁民の間で紛争が生じた。日本側は話し合いのため朝鮮漁民の一人安龍福という男を鳥取に連行した。
 結局日本側が譲歩し鬱陵島は朝鮮領で決着した。
 ここまではいい。ところが朝鮮は鬱陵島から92キロも離れた松島(現竹島、当時は松島)を鬱陵島と一体をなすものとして領有権を主張して今に至っている。
 だが日本側の認識では「松島」は鬱陵島とは別個の島であり、当時もその後も日本漁民が渡航し実際に支配していたし、幕府もそれを承認していた。

 だが日本側にも問題があった。明治38年松島を島根県に編入する際、それまでの松島を「竹島」と称した。それが鬱陵島(旧竹島)は朝鮮領であることを日本を認めていたのではないかと朝鮮が主張する隙を与えたのではないか。

 「綱吉暗君説
」が学界の通説であるのに反し、井沢は「綱吉名君説」を唱えている。だがこの「竹島問題」処理では朝鮮に譲りすぎたと批判している。それには綱吉が朝鮮人の血をひいていたことが影響していたかもしれないとの説。