日本の新聞の見方

時事問題の視点ー今の新聞テレビの情報には満足できない人のために

アメリカの「オレンジプラン」とは?

2009-10-27 01:53:54 | 近代史

 アメリカは早くも1904年対日戦争計画「オレンジプラン」を作成した。従って1941年の日米開戦はアメリカが練りに練った戦争プログラムに日本がはめられたものである、と主張する人がいる。小林よしのり他多数。

 だが、こうした人たちは「オレンジプラン」の意味を誤解している。アメリカの陸海軍統合会議が設定した仮想敵国は日本だけではない。対ドイツ戦はブラック(黒)プラン、イギリス、カナダ、メキシコでさえ仮想敵国としてそれぞれレッド(赤)プラン、クリムゾン(深紅)プラン、グリーン(緑)プランと命名した。敵国がなければ軍人は「商売あがったり」だからとかく敵を作りたがるものである。だからこれをもって、アメリカは日本との戦争をひそかに決めていたと見るべきではない。これはあくまでも軍人の職業的本性によるものであって、それが直ちに国家意志となるわけではない。
 
 第一次大戦でアメリカはドイツと戦う破目になるが、これをブラックプランの延長と見るべきではない。長くなるのでここで説明は省く。

 ひるがえって日本はどうか。日露戦争後明治40年最初の「帝国国防方針」で中国、朝鮮、東アジアへの進出を謳っている。これがアメリカ・スペイン戦争の結果フィリピンを領有し東アジアに勢力を伸長してきたアメリカとの対立に至ることは容易に想像できたはずだ。

  オレンジプランの作成から日米開戦まで37年。その間、日本は朝鮮を併合し、法外な「二十一カ条の要求」を突きつけ、青島を支配下に治め、済南事変で蒋介石の統一戦争に介入し、傀儡国家満州国を作り、華北に食指を伸ばし第二の満洲国化をはかり、それが日中全面戦争(支那事変)につながった。盧溝橋事件はほんのきっかけに過ぎない。更に「ならず者国家」ドイツ、イタリアと同盟を締結し、北部及び南部仏印(現ベトナム)に進駐した。それがアメリカの日本の在米資産凍結、石油禁輸につながり、日本は対日開戦を決断した。
  従って、ブラックプランがそうでなかったのと同様、日米開戦はオレンジプランの必然の結果と見るべきではない。

 二国間によほど国力の差がある場合を除き、戦争では一方だけに責めを帰すことはできない。


ケネディ王朝の終焉

2009-08-30 12:24:10 | 近代史

 ケネディ上院議員が逝去した。死者にやさしいのは日本人だけではないと見える。二人の兄が非命に斃れた後のケネディ王朝唯一の大統領候補となったEケネディは、車に同乗していた秘書を死なせ、しかもその後の不手際が仇となって大統領への夢は断たれた。こんなことは周知の事実であるにもかかわらず誰も触れない。

以下は2年前、メルマガ「さすらい通信」に投稿した「FBIフーバー長官の呪い(文春文庫)」に関する私の感想である。

最近これほど面白い本は読んだことがありません。

 参考までにFBI長官のフーバーは、その死まで半世紀近くFBIのトップに君臨した男です。彼がなぜそれほど長く同じ地位にとどまることができたかといえば、彼が全米に張り巡らした盗聴網によって時の大統領を含む多くの要人の秘密を握っていたので、だれも彼をくびにできなかったのです。

ごく一部を紹介しましょう。

1、ジョンFケネディは戦争中海軍の重要な部署にいましたがドイツのスパイと思しき女性と性的関係があったため、太平洋の前線に飛ばされました。そのおかげで彼は乗っていた駆逐艦が日本の潜水艦に撃沈され、海に投げ出されながら身をもって戦友を救ったという美談を作りことができました。彼が後、下院議員、上院議員、大統領と政治の道に進む上でこれは非常にプラスになりました。

2、日本が日米開戦直前、ドイツのスパイを通じて真珠湾の情報を盛んに知りたがっていることをFBIは把握していました。しかしこの情報をアメリカ政府及び軍部が活かすことはありませんでした。

3、マリリン・モンローはケネディ大統領と弟のケネディ司法長官の二人と性的関係がありました。ケネディ兄が冷たくなったので、怒ったモンローが二人との関係を記者会見してバラすと言ったので、ケネディ弟、モンローをケネディに紹介したケネディ兄弟の義弟であり俳優であったピーター・ローフォード、グリーソンという医師の三人がモンローに毒物を飲ませて殺害した、ケネディ弟は司法長官の立場でロサンジェルス警察の捜査に干渉し、他殺の証拠をすべて握りつぶさせた。

4、ケネディが暗殺された時、副大統領のジョンソンは莫大な農業補助金の横領で起訴される寸前だった。しかも彼はケネディ暗殺直前「自分は大統領になれる」と愛人にもらしていた。ケネディの暗殺現場はジョンソンの地元で、警察等に影響力を及ぼせる立場にあった。

以上は内容のほんの一部です。特に日本人が興味をもちそうな内容をピックアップしてみました。フィクションの体裁をとっていますが、内容はほぼ真実と思われます。

 日本の政治家のやっていることなどかわいく見えてきます。大抵の作家の想像力が色あせて見えます。

追記
 ケネディ兄弟の父ジョセフ・ケネディは元々酒屋で禁酒法下でギャングに密造酒用アルコールを提供した。ルーズベルト大統領の大口スポンサーであった彼は禁酒法廃止時期をいち早く知り海外で大量の酒を買占め、禁酒法廃止と同時に輸入し大儲けした。
 また1929年の大恐慌直前に全株を売り抜けここでも大儲けした。金で駐英大使の椅子を買ったが、親ナチスで反ユダヤ主義の彼は米国外交官としてナチの膨張に間接的に手を貸した。
 
 
ケネディ大統領暗殺事件についてはオリバーストーンの映画「JFK」参照。ここではベトナム撤退を志向するケネディが軍産複合体制にとって邪魔な存在となったからとして描いている。
 この暗殺事件の資料がすべて公開されるのは事件から75年後2039年である。このこと自体真相はオズワルドの単独犯ではなく大きな組織的犯行であったことを示している。 
 ケネディの前任者であるアイゼンハワー大統領がその退任演説の中で軍産複合体制という言葉を初めて使い、米国の将来への憂慮を表明した。そしてケネディが軍産複合体制に殺された。何たる暗合か。
 因みにアイゼンハワーは大戦中の欧州軍最高司令官で軍の中心にあった人。ノルマンディー上陸作戦を扱った映画では必ず出てくる。


日本は無条件降伏したか?

2009-08-15 13:47:34 | 近代史

以下拙文「小林よしのり『戦争論』批判」から表題に関する部分を転載する。

 そもそも日本の知識人やマスコミは、どういうわけか必ず「第二次世界大戦で日本は連合国に無条件降伏した」と書く。まったく歴史に対して無知なのだ。日本政府は無条件降伏などしていない。
        
以上小林よしのり戦争論3 P5556から引用

コメント;確かにポツダム宣言に「全日本軍隊の無条件降伏」という文言はありますが「日本の無条件降伏」という文言はありません。

 これについては無条件降伏であったとも言えますし、有条件降伏であったとも言えます。同宣言の第六項から第十一項までを条件と言えば言えますが、それは日本と交渉した結果ではなく、連合軍が一方的に決めたいわば占領方針です。且つこれに拘束されるのは日本だけであって連合軍側は必ずしもこれに拘束されるものではないと意識されていましたから対等の契約関係とは言えません(しかも第五項で、条件について日本と交渉の余地はないと明言しています)。それを日本は条件を付けることなく受諾したのですから無条件降伏と言えなくもありません。

 ポツダム宣言受諾電報は二度発信されていますが、810日に連合軍に対し最初のポツダム宣言受諾を発信する時、あわせて天皇の地位について確認を求めています。それは天皇の地位は保全されるという当方の理解に間違いはないかという照会であって条件交渉とは言えません。(この照会のため日本の降伏は4日遅れました。これがなければ日本の敗戦記念日は815日ではなくて811日になっていたはずです。これに対するアメリカのバーンズ国務長官の回答は日本の照会に正面から答えたものではなく、その中に「天皇の統治権は連合軍最高司令官に従属する(subject to)」という一節がありました。これは間接的に天皇の地位の保全を認めたものと解釈できましたが、頭に血が昇っていた陸軍軍人の一部は「従属する」という文言を問題視し、戦争継続を主張します。敗戦国政府の統治権が占領軍に従属するのは当然のことであって降伏とはそういうことなのです。それを認めないのは降伏を認めないのと同じことです。こんな簡単な理屈もわからない軍人がのさばっていたわけです。

 またポツダム宣言に先立つカイロ宣言では「日本の無条件降伏」という言葉が使われています。そしてポツダム宣言第八項で「カイロ宣言の条項は履行されなければならない」となっていますから、無条件降伏であったという論法も成り立つかもしれません。それに対しては、ここにいう「カイロ宣言の条項」とは日本降伏後の領土に関する部分だけを指すという反論も可能でしょう。

 参考までに当時の外務次官松本俊一の手記を引用しておきましょう。「無条件降伏ということは多少言葉の遊戯に属するもので、いよいよ講和となれば必ず一種の交渉を必要とするのであるから、従来軍隊同士の戦闘で使われてきた無条件降伏という言葉にさほどとらわれる必要はない」。

 松本は日本の降伏が無条件降伏であったと一応認めた上で、そのことにはあまりこだわる必要はないと言っています。このように肝心の外交の責任者も無条件降伏であったと認識していましたから「まったく歴史にたいして無知」なのはどなたでしょうか。

 ただ、GHGが最初、軍政を布こうとしたのを、「ポツダム宣言は日本の主権の存在を前提としている、従って軍政を布くことはポツダム宣言を逸脱するもので、日本の受諾したところではない」と言って、ポツダム宣言を根拠として敢然とGHQの軍政を退けた外相重光葵の功績は長く讃えられるべきでしょう。

 問題は、当事者、取分けGHQがポツダム宣言の『条件』を、どれだけ実質的にGHQに対して拘束力あるものとして認識していたかどうかです。GHQが最初直接軍政を布こうとしたのは、この「条件」をほとんど無視していたのを重光の指摘によって思い出したわけです。外相が重光でなければそのまま泣寝入りになった公算は高いと思います。

参考
アメリカ政府からの「ダグラス・マッカーサー元帥宛の指令」

一項
前略、われわれと日本との関係は契約的基礎の上に立つものではなく、無条件降伏を基礎とするものである。後略。

二項
日本国の管理は日本国政府を通じて行なわれる。但し、これはそのような措置が満足すべき成果を収める限度内においてとする。このことは、必要があれば直接に行動する貴官の権利を妨げるものではない。後略。

三項
ポツダム宣言の中に述べられている声明の意図()は完全に実行されるものとする。しかしそれは同文書の結果としてわれわれが日本に対して契約的関係にあり、これに拘束されると考えるからではない。後略。

注;「声明の意図」と言って「条件」という言葉をことさらに避け、日本と連合国とは対等の契約関係にあるとする解釈を排除しています。

靖国神社と日清日露戦争

2009-08-11 18:58:01 | 近代史

 敗戦の日15日が近付いたので、昨日のテーマとも関連するが靖国神社の問題を取り上げる。靖国神社が作られたた目的は倒幕のため或いは官軍兵士として戊辰戦争に斃れた人々の霊を祀ることにあった。徴兵制施行に伴い戦死すれば護国の神として祀ることで出征兵士を心理面から支える装置として機能するようになった。
 靖国神社には大村益次郎の銅像が建っている。大村は徴兵制度を作った人であり靖国神社を作った人でもある。
 西南戦争を最後に内戦はなくなり、徴兵制も対外戦争に備えるものに変わった。敗戦によって徴兵制もなくなったのだから靖国神社もなくすべきであった。
 さっき述べたような靖国神社の由来を考えれば「不戦の誓い(小泉首相)」をするのにふさわしい場所ではない。まして東京裁判の被告たちは靖国に祀られている兵士を戦地に駆り立てた張本人である。彼らを合祀した宮司は靖国神社の存在理由をどう考えていたのだろう。

 昨日は太平洋戦争を取り上げたので順序は逆になるが、日清戦争と日露戦争を簡単に取り上げることにする。
 日清戦争明治天皇はもとより伊藤博文山縣有朋の両元老は開戦に消極的であった。主として推進したのは外相陸奥宗光と駐清公使小村寿太郎、参謀本部次長川上操六であった。あの時期に開戦したのは議会との関係もあった。開設されて間もない帝国議会で政府は苦しい立場におかれていたので対外戦争によって国内輿論をまとめようとした。
 開戦には消極的であった首相伊藤も講和会議では病気の陸奥に代って交渉し最大の成果を得た。得過ぎたお陰で三国干渉を招いた。それにしても日清戦争で日本が得たものは大きかった。台湾、朝鮮における優位、賠償金2億両
 この戦争中の旅順虐殺事件は支那事変中の南京事件と同じ構図である。
日露戦争では非戦論に転じた内村鑑三も「代表的日本人」の西郷隆盛の項でこの戦争を支持している。「脱亜論」の福沢諭吉はもとよりこの勝利におおよろこびしている(福翁自伝)。

 日露戦争も支配層の色分けは日清戦争とよく似て、天皇、伊藤、山縣は消極的、推進派は、首相桂太郎、外相小村、陸軍の児玉源太郎と他の幕僚達。天皇と維新の元勲達は決して日清及び日露戦争に積極的でなかったことは記憶されるべきである。
 この二つの戦争の勝利によって明治天皇は大帝と呼ばれることになるが、さぞ不本意であったことだろう。

 日露戦争までの日本の進路は間違っていなかったという司馬史観には大いに異論がある。もっとも司馬も後に「日露戦争は戦うべからざる戦争であった」と書いている。戦争の実相を知れば知るほど日本の勝利は僥倖と偶然の産物であったことに思い至ったのであろう。
 「坂の上の雲」では英雄として描かれている児玉源太郎像にも大いに異論がある。
彼は乃木第三軍のまずい作戦に大いに責任がある。彼が二度目に旅順に行った時作戦は90%終わっていた。
 日露戦争後の「満洲会議」で児玉は伊藤から「あなたは満洲が日本の占領地であると勘違いしている」と叱責されている。児玉は満洲を支配しようとする陸軍を代表していた。だがそれでは日本の戦争目的を外れることになる。
 賠償金がとれなかったので、満鉄だけでなく満州全体を支配しないことには割が合わないと考えた日本人は多かった。
 欧米列強及び中国との関係に極めて慎重であった伊藤、山縣ら革命の第一世代に比べて桂太郎、小村寿太郎、児玉ら第二世代は格段に落ちる。そして昭和に入り第三世代に至ると第二世代より更に落ちる。 


海軍軍令部の参謀

2009-08-10 21:05:39 | 近代史

 昨夜NHKテレビで海軍軍令部の参謀達が戦後定期的に会合しあの戦争を語ったテープを元に戦争に至る原因を検証していた。

 私には取り立てて目新しい情報はなかったが、ある将校が日米開戦必至となった時期「これでいくらでも予算を増やせる」とよろこんだと言ったのには呆れた。
 彼らは破滅的な戦争が始まろうとする時でも、国家の運命より「海軍予算」という省益に捉われていたのだ。

 東京裁判で死刑になったのは七人だけでその中陸軍が六名、海軍は一人もいなかった。東京裁判の法的有効性はひと先ずおく。
 阿川弘之などが米内光政山本五十六を美化する本を書いたこともあって海軍善玉論が一時さかんであったがとんでもない。実は海軍にも死刑に相当する人物は何人もいた。永野修身嶋田繁太郎が死刑にならなかったのは不思議だ。それに佐官級の罪は重い。
 今の官僚組織もそうだが、当時も実際に国政を動かしていたのは政治的責任のない佐官級であった。佐官級と言えば課長、課長補佐クラスに相当する。
 
 陸軍参謀本部の辻政信は戦後戦犯に問われるのをおそれて逃げ回っていた。彼は戦時中中佐に過ぎなかったが、それだけ自分の責任は重いと自覚していた。だが日本政治の内実を知らない東京裁判の検察官は佐官級を裁くことなど思案の外であった。
 極論すれば日米戦争は参謀本部作戦課長大佐服部卓四郎、作戦班長辻政信、海軍軍令部の大佐富岡定俊、大佐石川信吾ら数名で始めたと言ってもいい。
 東條英機ごときは彼らが作る軍部内世論に乗っかっていただけだ。
 そういう意味で日本は昔も今も極めて特殊な国であると考えたほうがいい。

首相の施政方針演説だって各省の課長クラスが集まって書いている。 

軍部特に海軍が開戦を決意した経緯も倒錯的だ。アメリカが日本への石油を禁輸したことが決定的であった。石油がほしければアメリカと仲良くすればいい。だがアメリカとの関係が良好となれば食うものも食わないで軍艦を作る意味はない。だから海軍はアメリカという仮想敵国がなければ予算を増やす理由に困るというジレンマに陥った。

 アメリカの石油禁輸が開戦理由として正当化されるのであれば、将軍さまを戴く隣国が経済封鎖を理由として開戦するのも正当化できることになる。


ニッポンの偉い人116人 週刊文春8月13日20日号

2009-08-07 10:23:05 | 近代史

 週刊文春を買うのはいつ以来だろう。思いだせない。大抵立ち読みか図書館で読むので買うことはほとんどない。

 興味をひかれた記事は上杉隆「問題選挙区」リポートと標記の「ニッポンの偉い人116人」。前者は他でも情報が溢れているのでここでは取り上げない。
 ニッポンの偉い人116人も紙面の都合上じゃなくて時間の都合上幕末以後に限って取り上げることにする(ありがたいことに紙面はいくらでもある)。
 ところでここに登場する三人のコメンテーターの人選だが半藤一利福田和也はいいけれど梯久美子はいただけない。彼女は硫黄島の栗林忠道を書いて有名になったが歴史に見識があるとは思えない。家康を「偉大なる凡人」と言っている辺りに彼女の歴史理解の浅薄さがうかがえる。

坂本龍馬
 これまでも断片的に取り上げてきたが龍馬人気は一向に衰えない。司馬の影響力は大したものだ。
 だが福田は龍馬の歴史的役割に懐疑的だ。私も同じ。ただ福田が薩長連合大政奉還船中八策がいずれも龍馬のオリジナルでないことを理由としているが私は違う。政治ではオリジナリティは重要ではない。実現させるのが重要であって机上で夢想するのとは天地の開きがある。
 薩長連合については文句なしに功績を認めてよい。もちろん彼のオリジナルではないし、司馬以来中岡慎太郎の役割が軽視される傾向にあることを考慮に入れても。私は彼の歴史的役割は薩長連合に尽きると思っている。

 彼のもう一つの業績として挙げられる大政奉還について。あの時期つまり討幕勢力の態勢がととのった時期の大政奉還はあまり意味がなかった。もう少し早ければ徳川の影響力を残す形で平和裡に新政府ができた可能性がある。但しそれが日本にとってよかったかどうかは別問題である。
 それについては不運もあった。長崎のイギリス人殺害事件に関し海援隊隊士に嫌疑がかかったことでイギリスと、次いでいろは丸事件の処理で紀州藩との交渉に時間をとられ中央(京都)の政治に疎くなったことである。船中八策も横井小楠大久保忠寛から聞いた話をまとめただけである。ただ金の流出を防ぐため「金銀の交換比率を世界標準に合わせろ」と言っているのは根っからの武士ではなく商家の出である龍馬らしい着眼である。切りがないのでこの項はこの辺にする。

福沢諭吉と勝麟太郎
 この二人の因縁は咸臨丸に同乗したことから始まる。福沢は自分を従者として咸臨丸に乗せてくれた艦長木村摂津守を深く敬慕していた。ところが艦長になり損ねた勝は木村につらく当ったので福沢は勝を憎悪するようになった。
 勝が幕府の高官でありながら明治政府に仕えたことで福沢の怒りは頂点に達し「やせ我慢の説」で勝を難詰した。福沢ほどの人でも人の評価では感情に流されることのいい例だ。

板垣退助
 板垣も歴史教科書では過大評価されている。お札にもなった。自由民権運動だって、当時反政府運動のモットーとしてはそれしかなかったからで彼が格別近代的な自由や人権概念に理解があったわけではない。龍馬と中岡が生きておれば土佐藩を代表して新政府に出仕したのはこの二人であったことだろう。板垣や後藤の出番があったかどうか。
 「板垣死すとも自由は死せず」の名セリフは有名だが実際の歴史の進行は「自由は死すとも板垣死せず」であった。

大久保利通
 西郷と並ぶ倒幕の立役者にして明治国家の骨格を作った人。彼は人事において党派意識から比較的自由であり長州の伊藤博文を重用した。思想的には対極に位置する若き中江兆民のフランス留学を世話したのも彼。

野口英世
 黄熱病
は彼の死因であって研究業績ではない。彼の最も重要な業績は梅毒の研究である。この夏は彼の郷里福島県猪苗代町に行く予定。無事帰りたいので詳細は書かないがあまり友達になりたくないパーソナリティ。

東郷平八郎
 日本海海戦は文句なし。敵前回頭のいわゆる東郷ターンは彼のオリジナルでないという説(秋山真之説或いは山屋他人説)もあるが、そんなことは問題ではない。千変万化する戦場にあってどの戦法を取るかは偏に司令官の責任である。
 ただ彼はネルソン提督のように戦艦三笠艦橋で戦死したほうがその後の日本にとってどれだけよかったかわからない。彼は昭和に入り米英との戦争も辞せずとするいわゆる艦隊派の後ろ盾となった。戦艦三笠は今でも横須賀で見ることができる。

山本五十六
 海軍次官として大臣の米内光政を補佐し三国同盟の締結を阻止したのは称賛に値する。ただ連合艦隊司令長官としては高い点数は付けられない。真珠湾作戦もミッドウェイ作戦も彼が強引に進めたが、それにしては陣頭指揮もせず人事にも最善を尽くさなかった。航空作戦のわからない南雲忠一を前線司令官として使い続けた。阿川弘之の「山本五十六」は点数が甘すぎる。

白洲次郎
 ただのGHQの通訳であった白洲が大久保利通と同数の得票を集めたことに現代日本人の歴史認識のレベルがわかる。テレビの影響か?天皇の贈り物を粗略にしたマッカーサーを叱りつけたという話もウソ。 

 土方歳三や近藤勇がランキングに入るのは理解できない。新撰組など反政府活動を取り締まる単なる暴力機構でしかなかった。

ついでに同誌の林真理子さんのコラム「夜更けのなわとび」のこと。
 衆議院解散直前の両院議員懇談会において麻生さんが「みなさんとまた何人ここで会えるでしょうか」と言った書いている。これは正確ではない。私はテレビで何度も見た。彼はこう言った「みなさんがそろって再びここに帰ってこられることを願っています」。
  その後彼女は今の自民党を源氏になぞらえて「頼朝は力があったから蛭ヶ島から脱出できた」と書いている。彼女は誤解しているようだ。頼朝の流刑地蛭ヶ小島は海に浮かぶ島ではない。伊豆半島のどこか。ここまで書いてきてミーハーの駄文に付き合うのが馬鹿馬鹿しくなった。
 週刊文春では林真理子と宮崎哲弥のコラムは読む価値はない。


北京原人どこに 中国、日本の沈没客船の再捜索計画

2009-07-22 13:55:39 | 近代史

以下産経ニュースから

北京原人どこに 中国、日本の沈没客船の再捜索計画

2009.7.19 17:45

 

 19日付の中国紙「新京報」は、太平洋戦争末期の1945年に台湾海峡で米軍潜水艦に撃沈された日本の大型貨客船「阿波丸」に北京原人の頭蓋(ずがい)骨化石が積まれていた可能性が高いとして、中国が阿波丸を再度捜索する計画を進めていると伝えた。

 北京市郊外にある周口店遺跡で出土した頭蓋骨化石は、人類史を探る上での世紀の発見とされるが、日中戦争が激化した41年に行方不明になっていた。50万~20万年前に存在したとされる北京原人は、最近の研究では77万年前にも生活していたとされる。

 中国は77年に阿波丸の捜索を行ったが、潜水技術の制約で化石を見つけることはできなかった。北京原人の専門家で捜索計画に携わる李樹喜氏は「技術、資金両面とも現在は問題ない」と語り、化石発見に期待を寄せている。(共同)

コメント
 このニュースは19日。前日18日友人が浅田次郎の「シェエラザード上下(講談社文庫)」を貸してくれた。この小説も「阿波丸」撃沈事件がテーマである。この偶然の暗合にはおどろいた。北京原人の発見と紛失は前世紀考古学史上の大事件だが、阿波丸と関連づける説は初耳だ。
 「シェエラザード」では積まれていた2兆円の金塊を巡る宝探しがテーマで北京原人の話は出てこない。作者も執筆時点では北京原人と阿波丸をつなぐ情報は持ち合わせなかったのだろう。もし彼がそれを知っていたら物語はまったく別の展開になったことであろう。
 
 この事件は実に多くの謎と論点をはらんでいる。北京原人、2兆円の金塊他、そもそも米軍潜水艦による撃沈は故意か過失か、故意であれば緑十字船を撃沈したとして違法性を問われるのか、沈没地点は中国領海内か公海か等。この事件は戦後M資金とならぶ詐欺のネタとしても有名である。

 この事件を映画化すれば「タイタニック」以上におもしろいものになるかもしれない。

 余談だが「シェエラザード」の書名はリムスキーコルサコフの交響組曲から。元はアラビアンナイトの語り手である王妃の名前。


城山三郎

2009-07-04 06:04:01 | 近代史

 私の好きなブログに山崎元さんのものがある。有名人ブログはアフィリエイトで稼ごうとするもの、自著の宣伝、そうでなければ手抜きしたものが多い。彼のブログはそのどれにも当らず丹念に書いているのがいい。その7月1日号のコメント欄に彼自身が以下のように書いていた。

 
今や内容もよく覚えてないので迂闊なことは言えないのですが、学生時代に、城山三郎さんの「官僚達の夏」を読んだのですが、話に登場する官僚達に対して「こいつらはいい気なもんだ。バカではないか」という軽蔑の念を覚えた記憶があります。城山さんがもう少し文章が上手ければ、私の進路がちがっていたかも知れませんが、ともかく「官僚は嫌だ」という意識が当時にはありました。以上引用
(尚この小説はTBSテレビで今月5日から放映される。主人公は通産省の佐橋滋がモデル)

上の文を読んで以前私も城山作品について書いたのを思い出した(小林よしのり「戦争論」批判)。以下転載する。

 東京裁判で死刑となった唯一の文官広田弘毅のこと。城山三郎氏が「落日燃ゆ」の中で、東京裁判で一切弁明しなかったことで広田のことを誉めていますが、この理屈はおかしいですね。彼を歴史的に評価すべきは、首相、外相等公人としての仕事振りであって、そのことと東京裁判でどう振舞ったかは関係のないことです。見苦しく、責任逃れの弁明をしないで、沈黙を守ったのは立派と言えるかもしれませんが、それによって彼の公人としての責任を免除することはできないはずです。彼が死刑となったのは、首相として、アジアでの膨張政策を決めた「五相会議」を理由とするものです。外にも、首相としては軍部大臣現役武官制の復活、日独防共協定の締結、外相としては支那事変の拡大を防げなかったことなど彼の責任は重大です。広田にしても松岡にしても「軍部の暴走を防ぐには頭から抑えつけるのではなく、ある程度その要求を容れた上で、いわば彼らを善導した方がいい」という意味のことを言っていますが、これは軍部の要求に押され、ずるずると後退に後退を重ねた自らの不甲斐なさをごまかす詭弁です。

 もし、広田が東京裁判で弁明したとすれば、「軍部のテロが怖くて、その言いなりになるしかありませんでした」とか「軍部や外務省の若いもんを抑えられませんでした」くらいしかありません。こんな恥ずかしい弁明はいくらなんでもできませんから、沈黙を守るしかなかったというのが私の解釈です。以上転載

 貧しい石屋の倅が内閣総理大臣になったのはジャパニーズドリームに見えたけれど(少なくも広田の父親にとっては)実はドリームはドリームでも悪夢だった。当人にとっても日本にとっても。

 城山作品にはほぼ同時代の濱口雄幸と井上準之助を主人公とした「男子の本懐」がある。これも「落日燃ゆ」同様いただけない。
濱口雄幸は首相(昭和4年7月~昭和6年4月)、井上準之助は濱口内閣の蔵相。
濱口内閣の最大の業績はロンドン軍縮条約の締結と金解禁。ロンドン軍縮条約がプラス業績とすれば金解禁はマイナス業績。
井上が旧平価で金解禁(金本位制への復帰、大幅な円切上げを意味する)したことは前年アメリカ発の世界恐慌下でそうでなくても不況が兆していた日本経済に大打撃を与えた。そのことに関する城山の井上評価は甚だ手緩い。この本を読むと「手術は成功した(金解禁はできた)。だが患者は死亡した(大不況)。」というブラックユーモアを連想せずにはおられない。
 どうも城山は主人公に感情移入しすぎる傾向がある。それではいい伝記作品は書けない。私は城山作品では渋澤栄一を書いた「雄気堂々」が好きだ。
 


台湾支配報道は「捏造」 NHK番組で8000人提訴+選挙違反取締本部設置

2009-06-25 17:55:25 | 近代史
 残念ながらこのNHKの番組は見ていない。オンデマンドで見ることもできるが、わざわざお金を払って不愉快になるのもばかばかしい。見ていないが想像はできる。

 なぜ、こうした番組になったのか? 本物のドキュメンタリーなら予断や偏見を排し事実から出発すべきだと思うが、NHKのドキュメンタリー番組はそうではない。予めストーリーをねつ造し、それに合わせて取材対象を選び或いは取材内容を取捨選択する。端的に言えば「やらせ」である。
 しかも日本の台湾統治を取り上げるのであれば相当の近代史の知識を必要とするが、実際に番組を作ったのは碌に近代史も日台関係も知らない20代から30代の若造に決まっている。彼らは予め上司から番組のモチーフを聞かされその意図に沿って番組を作ったのだろう。

 上司はなぜそうした指示をしたのだろう。それは日本統治のプラス面を取り上げて台湾政府或いは市民から抗議を受けるのを懸念したのか或いは彼らにおもねる気持ちがあったからに違いない。日本国内からこれほどの反発を受けるとはNHKの予想外であったことだろう。総じてNHKは国民の知的水準を見くびっている。
 NHKに限らずテレビのドキュメンタリー番組など眉に唾をつけてから見るのがいい。
 日本統治のプラス面と言えば後藤新平や土木技師八田與一が代表だろう。

もっともNHKの番組が取り上げていたかどうか知らないが、次のような忌まわしい事実があったことも記憶しておく必要がある。
下関条約によって台湾の日本への割譲が決まった。台湾の清国軍は条約に従い抵抗しなかったが日本統治に従わない原住民の抵抗があり相当数の虐殺が行われた。詳しくは石光真清の手記「城下の人(中公文庫)276~304頁」を参照されたい。実際に討伐に当った日本陸軍将校の手記である。これ以上確かな資料が他にあるだろうか。

 昔NHKが大前研一氏にインタビューした。インタビューは1時間にも及んだが実際に放映されたのは1分だけ、しかも彼が一番言いたかったことは放映されなかった、それで自分自身の番組を持つ気になった、と大前氏がどこかで書いていた。

 ここまで書いてきたらテレビで「東京都議会議員選挙違反取締本部」が設置されたというニュースをテレビが報道している。
 重複を厭わず拙文「日本国憲法論」から転載する。

 選挙の度に、警察が「選挙違反取締り本部」を設置したというニュースが流される。そのニュースを見るといつも「選挙は警察の点数稼ぎのためにあるのではない」のにと、いやな気分にさせられる。明るい選挙をいうのであれば選挙運動をもっと自由にすべきだろう。

 日本の選挙法はあまりに瑣末な規制が多いので、選挙法に精通したプロがいなければ、たちまち選挙違反に問われることになる。このことも新人が立候補する際、なにがしかの障害となっている。しかもその摘発の実態は恣意的、政治的な色合いが濃い。某野党には厳しく、当選議員より落選議員に厳しいという評が多い。個別訪問が摘発されたのは共産党だけという明白な実績(?)もある。

 選挙違反の摘発がいかに恣意的に行なわれているかの具体例。島根県選出の竹下登が初めて衆議院選挙に出たとき、多数の選挙違反者を出した。これは彼の支持層が青年団を中心とする若い層が中心で国政選挙に不慣れなこともあったが、それより大きかったのは旧内務官僚として警察に強い影響力があった同じ選挙区の大橋武夫の指示によったものと地元では信じられている。二人はそれ以後仇敵の間柄となったのだからこの風評の信憑性は高いと思われる。 以上引用

警察に調子を合せて相変らずこうしたニュースを報じるテレビもどうかしている。
選挙は警察にとって書き入れ時である。起訴すれば警察はなにがしかの報奨金にありつける。買収や供応では少なくとも二人が関わるので点数を稼ぎやすい。
 選挙違反はいわば被害者がいない犯罪であり物証が乏しいので自白を引き出すために様々な手練手管が使われる。選挙違反事件で冤罪が多いのはそうした背景もある。

西郷隆盛と石原莞爾

2009-06-20 21:50:56 | 近代史

 西郷と石原の関係を論じようというのではない。朝日ニュースター「学問のすすめ」でこの二人を別の日に取り上げていたから。もっとも石原の郷里山形は旧庄内藩であって鹿児島についで西郷信者が多いという因縁はある。この番組に少し補足しておきたい。蛇足だが加藤紘一衆議院議員は石原の遠縁に当る。 

先ず西郷
 孟子「富貴も淫する能わず、貧賎も移す能わず、威武も屈するあ たわず、これ大丈夫という」(口語訳:富んでも自堕落にならない、貧しくても卑屈にならない、威力の脅しにも屈しない、これを大丈夫(りっぱな漢)という)。

 西郷隆盛「命も要らず、名も要らず、官位も金も要らぬ人は始末に困る。この始末に困る人でなくては艱難を共にし、大事を成すことはできない」。ここで「始末に困る」とは「扱いにくい、やっかいな」という意味。「一切の欲をもたない人を誘惑し手懐けるのはむずかしい」という意味。

 海音寺潮五郎は、西郷の言葉は孟子を西郷流に言い換えたものと解釈している。これには異論があるかもしれない。だが西郷が孟子を熱心に読んでいたのは確かである。西郷に孟子の影響を見て取るのは的はずれとは思わない。もちろんそのことは西郷の偉さを損なうものではない。

 尚この番組で西部さんが西郷を「大きくたたけば大きく響き、小さくたたけば小さく響く」と評したのを勝海舟と言っていたがそうではない。これは坂本龍馬が初めて西郷に会った後勝に語った言葉である。勝によって後に伝えられた。
 佐高さんが龍馬を「りゅうま」と言っていたが当時「りょうま」と呼ばれていたことは「良馬」と間違って表記した西郷の手紙などからも明らか。 

次に石原莞爾
 概ね佐高さんの評価に異存はなかったが、肝心な点が漏れているので補足する。
石原の悲劇は近代日本の悲劇である。石原の支那観は変遷している。彼が朝鮮に赴任している時辛亥革命が起こり、彼はこれで支那も近代化の軌道の乗るものと期待し「支那革命万歳」を唱えて祝福した。 
 だが内戦が絶えることなく中々統一に向かわない支那を見て「支那人に統治能力がないのであれば支那に代わって支配するのが日本の使命だ」と考える。それが満洲事変につながる。ところがその後の支那のナショナリズムの勃興を見て、日本は支那と事を構えるのは絶対に避けなければならない、その間満洲国を育てて日本の国力と軍事力を強化し、来るべきアメリカとの戦争に備えるべきだと転向した。そこに盧溝橋事変が勃発する。しかも彼は当時参謀本部作戦部長の要職にあり戦争拡大を防ぐことのできる地位にあった。だが彼は、事志と違い戦争拡大をもくろむ武藤章ら下僚を統制する意志と能力に欠けたため戦火は拡大する。これが後の日米開戦につながる。
 従って私は石原の最大の罪は支那事変の拡大を阻止できなかったことにあると考える。彼の主観は問うところではない。この点佐高さんは明確でなかった。

 もう一点、日米戦の末期石原が東條暗殺計画に関わったことを、佐高さんは「放火犯(支那事変と日米戦の実質的責任者)が消火作業に当るようなもの」だと評した。
 だが私はこの暗殺計画は消火作業とすら言えないと考える。なぜなら、暗殺成功後の停戦プランを石原が練った節が見られないから。停戦プランなしの東條暗殺など無意味である。
 「終戦」という語もあるが私は使わない。「終戦」は恰も人為が及ばない自然現象であるかのような響きがある。代りに「敗戦」又は「降伏」を使う。