日本の新聞の見方

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光源氏「軽薄な女だな」 写本・大沢本に新記述見つかる

2009-10-30 07:06:17 | 文学

以下アサヒドットコム10月30日から引用

 昨年、約80年ぶりに存在が確認された「源氏物語」の写本「大沢本」に、標準本と大きく異なる内容が2カ所あることが、伊井春樹・大阪大名誉教授の研究で明らかになった。恋人の返歌に、幻滅する光源氏の心境がうかがわれたり、物語の展開が変わっていたり。「源氏」に、大幅な違いが見つかったのは初めてという。

 源氏の微妙な心境の変化が書かれていたのは「花宴巻(はなのえんのまき)」だ。20歳の源氏が、恋心を寄せる朧月夜(おぼろづきよ)に車ごしに歌を詠みかけると、歌が返ってきたが、それ以上描写がなく、巻が終わる。声を確認できた喜びと、政敵の娘のためにどうすることもできない心情が表現されていると解釈されてきた。

 だが、大沢本ではさらに「かろかろしとてやみにけるとや」と続きがあった。「軽薄な女性だと判断してそれ以上は動こうとはしなかった」との意味にとれる。直接、返事をするのは女性としての品性に欠けると、幻滅したことになる。ただし、その一文が線で消されていた。「他の写本と照らし合わせて消したのだろう」と伊井さんはみる。

 終盤にあたる「蜻蛉巻(かげろうのまき)」では、物語の展開が違っていた。源氏の子の薫と、源氏の孫にあたる匂宮(におうみや)という2人の貴公子の間で悩んだ美女・浮舟が、宇治で行方不明となる場面で、写本で22ページ分、220行の部分が異なっていた。

 標準本では、匂宮の従者が強い雨の中、都を出て小降りになったころ宇治に着く。その後、浮舟の母君が駆けつけ、遺体のないまま浮舟の葬儀をする。一方、大沢本では、まず母君が強い雨の中を宇治に駆けつけ、葬儀を計画。その後、小降りになったころに匂宮の従者が到着。夜遅くなって葬儀が始まる。
伊井さんは、「従来の本ではあまり意味を持たなかった雨が、大沢本では時間の経過を表す役割をしている。人物の登場順も、母親があわてて駆けつける方が、リアリティーがあるのでは」と語る。

 源氏物語には紫式部による自筆本は現存せず、筆写が繰り返されるうちに、表現が異なる様々な写本が生まれた。約200年後の鎌倉前期に、藤原定家らがそれらの写本を集めて54帖(じょう)に整理。その系統が、標準本として最も知られている。そこに含まれなかった未整理の写本もあり、大沢本もそのひとつだ。

 源氏物語を研究する島内景二・電気通信大教授は「写本によって違いはあるが、せいぜい言葉づかいぐらいで、物語の展開まで違うものが見つかったのは初めてだ。紫式部が執筆し、藤原定家らによって整理されるまでの間、物語は様々に伝えられていたはずで、そうした『物語の化石』のようなものなのだろう。謎と驚きにあふれた発見だ」と話した。

 大沢本は11月29日まで、京都府宇治市の市源氏物語ミュージアム(0774・39・9300)で展示されている。(渡辺延志)  以上引用 リンクを貼ってもいいがいずれ見られなくなるので煩をいとわず全文引用する。

コメント
 私は源氏物語は読んだことはないし、今後も読むことはないだろう(教科書で断片は読んだことがある)。従って以下は私の源氏物語論ではなく、井沢元彦氏の源氏物語論の紹介である。

 源氏物語はストーリーとして一貫性に欠ける。これは最初輝かしい源氏の成功物語として書かれたが、後に仏教思想を取り入れた失敗部分を挿入したから。だとすると執筆者は少なくとも二人いたことになる。これを最初に指摘したのは昭和25年武田宗俊氏。但しまだ少数説にとどまる。

 ここからが本論。平安時代藤原北家の摂関家としての権力が確立するまでに強力なライバルが二人いた。一人は菅原道真、もう一人は源高明(たかあきら)である。二人とも皇位簒奪の讒言によって大宰府に流され失脚。
 そして藤原氏は道真の怨霊を鎮魂するため天神として祀った。このことに異論をはさむ人はいない。同じように源氏物語は源高明の怨霊を鎮魂するためであるというのが井沢氏の新説。
 紫式部は道長の女(むすめ)彰子(しょうし)付きの女官であることを思えば、源氏物語の執筆に藤原氏の意志が働いたとみるのは道理がある。

 物語の中で源氏は栄えて皇位を乗っ取る。現実には叶わなかったが、せめてフィクションの中では高明の夢をかなえてやるのが鎮魂になるのである。これを井沢は「顕幽分離主義(彼岸と此岸を分ける)」と命名する。

 紫式部は源氏物語をひそかに書いたのではない。道長の支援の下で書いたのである。
 なぜ藤原氏は、ライバルであった源氏をヒーローとする物語の創作を助けたか。歴史家や国文学者はこうした当然の疑問に応えてくれない。そうした問題意識すらないのだから応えられるはずもない。日本人の宗教観を知らない学者に歴史(特に古代、中世史)はわからない。

 詳細は「逆説の日本史4ー中世鳴動編(小学館文庫)」 第三章「源氏物語と菅原道真」をご覧いただきたい。


ポーの「葬儀」160年後に実現=ファンら数百人参列へ-米

2009-10-09 09:19:27 | 文学

 【ニューヨーク時事】推理小説の父と呼ばれる米作家エドガー・アラン・ポー(1809~49)の「葬儀」が11日、没後160年を経て、墓のあるメリーランド州ボルティモアで執り行われることになった。地元メディアが7日までに報じた。
 遺族がポーの死を公表しなかったため、当時の葬儀にはわずか10人程度しか参列しなかったとされる。今回の葬儀は、国内外から数百人のファンや関係者が参列し盛大に営まれる見込みで、優れた作品を残しながらも不遇な晩年を過ごした作家に最大限の賛辞を贈る。
 葬儀に合わせ、ポーのひつぎのレプリカを旧家前から墓地まで馬車で引く葬送も行われる。今年はポーの生誕200年にも当たることから、米国では各種記念行事が始まっている。(2009/10/08-05:36)   以上引用

コメント
 江戸川乱歩のペンネームがエドガーアランポーのもじりであることは誰でも知っている。ではなぜポーが推理小説の元祖と呼ばれているのか、説明できる人は多くない。
 ポーがいなければシャーロックホームズは誕生しなかったか又は全然別のキャラクターになったであろう。ワトソン然り。そしてシャーロックホームズが誕生しなければその後の多くの推理小説と名探偵は生まれなかった。
 ポーは「モルグ街の殺人事件」で初めて名探偵オーギュストデュパンと語り手の「私」を登場させ、それぞれホームズとワトソンの祖形となった。
 コナンドイルはポー作品からキャラクターを借りただけでなく、ネタ自体も借りている。ホームズの「ボヘミアの醜聞(「シャーロックホームズの冒険」収録)」の重要な手紙の隠し場所はポーの「偸まれた手紙」と同じだし、ホームズの「踊る人形(「シャーロックホームズの帰還」収録)」の暗号解読ネタはポーの「黄金虫」と同じ。

 大部分の推理小説は再読する気になれないが、ポーとコナンドイルは文学的香気がかぐわしいので再読、三読に耐えられる。こうした文学としても優れた作品を映像化するのはむずかしい。シャーロックホームズは何度か映画化されているが見たいとは思わない。アガサ・クリスティ程度が映像化には向いているかもしれない。

ついでに「刑事コロンボ」のこと。
 昨日、久しぶりにテレビで「刑事コロンボ」を見た。あのシリーズの最初の作品を見た時、何であんなさえない男が主人公なの?といぶかしく思ったが、その中ストーリー展開にすっかり引き込まれた。
「刑事コロンボ」はそれまで、謎解き、犯人探しであった推理小説を犯人とコロンボの知的ゲームにしたところに画期的意味がある。見る人は囲碁や将棋のような知的ゲームを見るのと同じスリルを味わうことができる。これを倒叙法という。
 一般の推理小説ではわざと読者を誤解させる情報を作者が提示するのでフェアではない。
横溝正史の「本陣殺人事件」映画版を見たことがある。
 見終わった後、馬鹿馬鹿しくなった。何で自殺を他殺と見せかけなきゃならないのかがさっぱりわからなかった。見る人を惑わすためだけではないか?他殺を自殺と見せかける合理性はあるが、自殺を他殺と見せかける理由があるのは生命保険金目当てくらいしかないと思うが、この映画ではそうでもなかった。もっとも原作を読んでいないのでこれは飽くまで映画論であるので悪しからず。だがこの映画を見て横溝作品を読む意欲はまったく失せた。

松本清張のこと。
 推理小説作家としての清張にはあまり興味がない。映画「砂の器」を見たことはあるが彼の推理小説は一冊も読んだことがない。
 だが昭和史研究家としの清張は買っている。「昭和史発掘」はおもしろいので全巻もっている。但し彼の「北一輝」論には共感できない。

ノーベル文学賞のこと
昨夜ノーベル文学賞の発表があった。村上春樹は今年も選ばれず。だがこの賞は平和賞同様政治性が強いし、言語の壁があるので気にすることはない。
 そもそも私は文学賞、平和賞、経済学賞はノーベル賞とは思っていない。
なまじノーベル文学賞なるものがあったために三島由紀夫は生き方を狂わされた。
佐藤栄作マザーテレサ或いはアルベルト・シュバイツァーがなぜ同じ平和賞なのか説明できる人がいたらお目にかかりたい。
 と書いてきてさっき「オバマ大統領に平和賞」のニュースにはおどろいた。キッシンジャー国務長官も平和賞を受賞したのを思い出した。「オバマが核廃絶を提唱して世界平和に貢献した」だと? それなら実際に核がなくなってから授賞しても遅くはあるまい。それに彼はアフガニスタンに増派して戦争を拡大した張本人ではないか。イラクとアフガニスタンから完全に撤兵した時授賞するならまだしも。


直木賞選考対象から辞退=「ゴールデンスランバー」で伊坂幸太郎さん

2008-07-11 10:13:23 | 文学

以下 7月8日12時58分配信 時事通信 から引用  

作家の伊坂幸太郎さん(37)が、昨年11月出版した小説「ゴールデンスランバー」(新潮社)について、15日に選考会が予定されている直木賞(日本文学振興会主催)の選考対象となることを辞退していたことが8日分かった。 
 同振興会によると、通常6月に候補作を決め、著者に受諾するかどうかを確認するが、今回は4月の予備選考の段階で伊坂さんから「今は執筆に専念したい」として辞退の意向が示された。 

コメント;
 
文学の衰退が言われて久しいが、芥川賞と直木賞報道のヒートアップ度は年々増しているような気がするのでこのニュースの話題性は大きい。伊坂さんの考えをもう少しくわしく知りたいところである。 私なりに忖度(そんたく)してみると、彼はきわめて自負心が強く賞による箔付けなど要らないと考えた。 
 どんな業界でもそうだが一人のスターの誕生が業界全体のマーケットを底上げするということがあるので、衰退しつつある文学業界と出版業界がスター誕生を待望するのはよくわかる。伊坂さんにとってはそうした業界の熱い期待がうっとうしく感じられたのかもしれない。但し私の憶測の当否は保証の限りではない。  

 それはそうと今時芥川賞は純文学、直木賞は大衆文学というわけ方に意味があるとは思えない。
 「やぐら(将棋の最も本格的な戦型)は将棋の純文学」と言った人がいる(現日本将棋連盟会長、前東京都教育員)。つまりこの人の頭の中では今でも純文学こそ最も価値があるのだろう。  

 伊坂さんとは逆に賞がほしくてたまらなかった作家がいる。三島由紀夫がノーベル文学賞をほしがっていたのはよく知られている。そのために自作品の英語翻訳に力を入れていたくらいである。三島の小説はあまり好きになれないが、彼の評論は非常に面白い。いっそ小説家ではなく批評家として生きていれば、あんなに肩肘張った生き方をしなくても済み、あんな死に方をしなくても済んだのではないかと時々思う。だが彼には批評より創作が上だという思い込みがあったのかもしれない。 
 石原慎太郎氏は彼の最後の作品を読んだ時、涙が止まらなかったという。それは感動の涙ではなく、無残にも枯渇した彼の作家としての才能を憐れむ涙であった。
 三島が激賞していた、226事件に連座した青年将校の一人末松太平の自伝「私の昭和史」は昭和史の第一級の資料であり私の座右の本でもあるが、三島は自分の文体の対極にある衒いのない質朴な末松の文体に強く惹かれたのではないかと思う。  

 猪瀬直樹氏によれば三島が満を持して発表した「鏡子の家」の文壇での評価がさっぱりであったことが彼の作家としての自信を揺るがし、その後の作家人生を狂わせたと言っている。猪瀬氏の「ペルソナ(仮面)」は、樺太庁長官などを歴任し時の首相原敬の側近でもあった祖父平岡定太郎の代にさかのぼって彼の家系を説きあかしていて非常におもしろい。  
 太宰のような無頼派を嫌っていた三島の言葉に「作家は銀行員のようでなくてはならない」というのがある。バブル期以降随分銀行員の評判は悪くなったが三島の時代はまだ信用があったものとみえる。確かに彼は銀行員のように身なりには気をつかい約束の時間は厳守したという。 
 太宰と言えば三島は学生時代に一度太宰の家に会いに行っている。三島はいきなり「私は太宰さんがきらいです」と言ったら太宰は少しも騒がず「でもこうしてわざわざ会いに来たんだから本当は好きなんだろう」と言われたとか。同じく彼の言葉に「女が男に及ばないものが二つある。それは筋肉と知性である。だから男らしくあるためにはこの二つを鍛えなければならない」というのもある。(福島瑞穂先生や田嶋陽子先生に聞かれたら無事では済みそうもない)。 

 ところで彼は徴兵検査に不合格であったことからもわかるように強い肉体的コンプレックスがあった。彼がボディビルに熱心であったのも案外この辺が動機だったかもしれない。もっとも石原慎太郎氏によれば彼の筋肉は見掛け倒しで柔軟性と俊敏性に欠け、ボクシング剣道いずれもレベルは高くなかったという。彼はついに文武両道に達することはできなかった。  
 彼の最もよき理解者は母堂を別とすれば武田泰淳と橋川文三だったと思う。彼の226事件や日本浪漫派理解は橋川の影響が強い。 三島は死ぬ2年前、母堂に「政治家への道は石原に先を越されるし、ノーベル文学賞は川端さんにいくし、人生おもしろくなくなった」とぼやいたという。三島が死んだ日、ある弔問客が白いバラの花を献花したら「赤いバラがよろしゅうございましたのに。だってあの子は初めて自分がしたいことをしたんですから祝ってやってくださいませ」と母堂から言われたとか。  

 吉田茂の子息で文芸評論家の吉田健一は「三島君の悲劇は日本に貴族があると思い込んでいたところにある」と言っている。日本貴族の末席に連なっていると自覚していた三島を皮肉ったものであろう。  末尾に、三島は一応ワーグナーが好きだったということになっており、彼の葬儀でも「トリスタンとイゾルデ」の音楽が流されていたが、彼がクラシック音楽のよき鑑賞者でなかったことは彼自身どこかで書いていた。

 ついでにもう一人の自殺した作家芥川龍之介のこと。  
 私は彼のよき読者とは言えないが、「侏儒の言葉」の青くささには辟易し、「上海游記・江南游記」に見る中国理解の浅薄さには失望した記憶がある。彼は昭和改元直後に自殺し、しかもその遺書に「ぼんやりした不安」とあったので、あたかも彼はその後の不幸な昭和の歴史を予感していたかの如く語られることが多いが、果たしてそうか。 松本清張の「昭和史発掘」でこの問題を取り上げている。この本によれば芥川は今風にいうところの追っかけギャルに付きまとわれ、深い関係になり、そのことで随分悩んでいたという。
 
 坂口安吾によれば、芥川は中国旅行の際、梅毒にかかり、その後常に発症の恐怖に怯えていたという。  以上思いつくままに正統的な文学史には書かれていない話をしてみた。