以下アサヒドットコム10月30日から引用
昨年、約80年ぶりに存在が確認された「源氏物語」の写本「大沢本」に、標準本と大きく異なる内容が2カ所あることが、伊井春樹・大阪大名誉教授の研究で明らかになった。恋人の返歌に、幻滅する光源氏の心境がうかがわれたり、物語の展開が変わっていたり。「源氏」に、大幅な違いが見つかったのは初めてという。
源氏の微妙な心境の変化が書かれていたのは「花宴巻(はなのえんのまき)」だ。20歳の源氏が、恋心を寄せる朧月夜(おぼろづきよ)に車ごしに歌を詠みかけると、歌が返ってきたが、それ以上描写がなく、巻が終わる。声を確認できた喜びと、政敵の娘のためにどうすることもできない心情が表現されていると解釈されてきた。
だが、大沢本ではさらに「かろかろしとてやみにけるとや」と続きがあった。「軽薄な女性だと判断してそれ以上は動こうとはしなかった」との意味にとれる。直接、返事をするのは女性としての品性に欠けると、幻滅したことになる。ただし、その一文が線で消されていた。「他の写本と照らし合わせて消したのだろう」と伊井さんはみる。
終盤にあたる「蜻蛉巻(かげろうのまき)」では、物語の展開が違っていた。源氏の子の薫と、源氏の孫にあたる匂宮(におうみや)という2人の貴公子の間で悩んだ美女・浮舟が、宇治で行方不明となる場面で、写本で22ページ分、220行の部分が異なっていた。
標準本では、匂宮の従者が強い雨の中、都を出て小降りになったころ宇治に着く。その後、浮舟の母君が駆けつけ、遺体のないまま浮舟の葬儀をする。一方、大沢本では、まず母君が強い雨の中を宇治に駆けつけ、葬儀を計画。その後、小降りになったころに匂宮の従者が到着。夜遅くなって葬儀が始まる。
伊井さんは、「従来の本ではあまり意味を持たなかった雨が、大沢本では時間の経過を表す役割をしている。人物の登場順も、母親があわてて駆けつける方が、リアリティーがあるのでは」と語る。
源氏物語には紫式部による自筆本は現存せず、筆写が繰り返されるうちに、表現が異なる様々な写本が生まれた。約200年後の鎌倉前期に、藤原定家らがそれらの写本を集めて54帖(じょう)に整理。その系統が、標準本として最も知られている。そこに含まれなかった未整理の写本もあり、大沢本もそのひとつだ。
源氏物語を研究する島内景二・電気通信大教授は「写本によって違いはあるが、せいぜい言葉づかいぐらいで、物語の展開まで違うものが見つかったのは初めてだ。紫式部が執筆し、藤原定家らによって整理されるまでの間、物語は様々に伝えられていたはずで、そうした『物語の化石』のようなものなのだろう。謎と驚きにあふれた発見だ」と話した。
大沢本は11月29日まで、京都府宇治市の市源氏物語ミュージアム(0774・39・9300)で展示されている。(渡辺延志) 以上引用 リンクを貼ってもいいがいずれ見られなくなるので煩をいとわず全文引用する。
コメント
私は源氏物語は読んだことはないし、今後も読むことはないだろう(教科書で断片は読んだことがある)。従って以下は私の源氏物語論ではなく、井沢元彦氏の源氏物語論の紹介である。
源氏物語はストーリーとして一貫性に欠ける。これは最初輝かしい源氏の成功物語として書かれたが、後に仏教思想を取り入れた失敗部分を挿入したから。だとすると執筆者は少なくとも二人いたことになる。これを最初に指摘したのは昭和25年武田宗俊氏。但しまだ少数説にとどまる。
ここからが本論。平安時代藤原北家の摂関家としての権力が確立するまでに強力なライバルが二人いた。一人は菅原道真、もう一人は源高明(たかあきら)である。二人とも皇位簒奪の讒言によって大宰府に流され失脚。
そして藤原氏は道真の怨霊を鎮魂するため天神として祀った。このことに異論をはさむ人はいない。同じように源氏物語は源高明の怨霊を鎮魂するためであるというのが井沢氏の新説。
紫式部は道長の女(むすめ)彰子(しょうし)付きの女官であることを思えば、源氏物語の執筆に藤原氏の意志が働いたとみるのは道理がある。
物語の中で源氏は栄えて皇位を乗っ取る。現実には叶わなかったが、せめてフィクションの中では高明の夢をかなえてやるのが鎮魂になるのである。これを井沢は「顕幽分離主義(彼岸と此岸を分ける)」と命名する。
紫式部は源氏物語をひそかに書いたのではない。道長の支援の下で書いたのである。
なぜ藤原氏は、ライバルであった源氏をヒーローとする物語の創作を助けたか。歴史家や国文学者はこうした当然の疑問に応えてくれない。そうした問題意識すらないのだから応えられるはずもない。日本人の宗教観を知らない学者に歴史(特に古代、中世史)はわからない。
詳細は「逆説の日本史4ー中世鳴動編(小学館文庫)」 第三章「源氏物語と菅原道真」をご覧いただきたい。