5/12平成中村座の観劇は昼の部だったので、ご一緒したさちぎくさんと散策へ。道を挟んで真向いの「待乳山聖天」に行くのは2回目で、昨年12/11にも夜の部観劇前に散策した。
その時にひいたお御籤が1/8にひいた浅草寺のものと全く同じ版だったことだけ記事アップしている。
最近、電車の中で若い人の背中にしょわれたデイパックに紫色の「待乳山聖天」の巾着型のお守りがついているのが目にとまった。「違い鷹の羽」ならぬ「違い大根」ともいうべき2本の大根が交差した意匠は、良縁を成就、夫婦円満のご加護の功徳をあらわしている。前回は気が付かなかったけれど、あれなら欲しいなぁと思っていたので、近くに来たチャンスを活かすことにした。
待乳山聖天(まつちやましょうでん、本龍院)のHPはこちら
前回は本殿の外にあるグッズ販売コーナーをのぞき、お御籤も外でひいたのだが、今回は履物を脱いで本殿に入ってお参り。下の写真はその入り口を「違い大根」と「巾着」の
待乳山聖天の2つのシンボルが入るように撮影したもの。本殿にはお供えの大根も山と積まれていて堂内はうっすら大根のニオイが漂う。三浦大根の箱が積んであり、お供え用の大根の仕入れ先判明(笑)
欲しかった巾着型のお守りは本堂内で売っていた。赤と紫があったが紫を500円でGET!→このお守りは何かあった時用にデイパックに入れてあるミニホイッスルに取り付けた(高尾山のお守りと一緒になるが気にしない)。
待乳山聖天は江戸時代に造られた築地塀が残っているのも有名で、それが入るように庭園を撮影したのが下の写真。
ちょうど午後4時を回ったところで、外のお御籤やグッズ販売コーナーはシャッターが下ろされたりして店じまい。住職さんがお御籤などの売り上げの小銭を賽銭箱にまとめて入れるお金の音が鳴り響いたのには驚いた。まぁ、これもありということで(^^ゞ
「さんぽしようよ」さんのHPの待乳山聖天散策の記事の写真がよいのでご紹介させていただく。
お寺の前の石碑を以前デジカメで撮ったのがあります。それで思い出しました。こちらは石碑に掘られた名称の上に、巾着と違い大根の浮彫が並んでいたのです。
どなたかがブログに写真を載せていないかちょっと検索したら、やはりありました。
http://www.zekkeikana.com/kyoto/higasiyama/anyoji/kankiten11.html
見た石碑の場所は異なりますが、同じ形式です。
京都では、「聖天」を「しょうてん」と呼びますね。
聖天信仰は結構さかんだったのか、京都市内だけでも
上京区に雨宝院(西陣聖天宮):高野山真言宗
右京区の大覚寺塔頭・覚勝院の歓喜天は嵯峨聖天とも呼ばれているようです。
山科区に双林院(山科聖天)があります。
住んでいる宇治市にも天台宗延暦寺派の宝寿寺は「御蔵山聖天」として親しまれています。ご本尊が歓喜天像です。
序でにちょっとネット検索していて、
http://d.hatena.ne.jp/mminazuki/20051110
こんなページにも出会いました。
ちょっと、興味関心から。
こちらを最初に書くはずが・・・・
手許に、『新・江戸切絵図』(人文社)があります。時代小説、歴史小説を読む参考に買った本です。
この中に、嘉永六年制作の切絵図(改正新版の「今戸箕輪浅草絵図」)が載っています。
それを見ると、浅草聖天町という地名で表記され、「聖天社」として記載されています。
当時の地名の方が情緒がありますねえ。
わたしも「まっちやましょうてん」と読んでいたのですが、しょうでんと読ませると知ってちょっと意外でした。
真言密教では歓喜天を重視するのでしょうか。昔昔、北大路欣也さん主演の映画「空海」で、そういう場面があったのを見てかなり驚いたことを思い出しました(飾釦さんの記事のURLを私の名前のURL欄に入れておきます)。
散策の記事、その3までアップして完結しましたので、よろしければ続けてお目通しくださいませ(^_^)/
*<歓喜自在天><大聖歓喜天>ともいい、略して<聖天しょうでん>という。
→ 当辞典では、「しょうでん」と読ませていますね。
*密教では大日如来の眷属として両界曼荼羅の天部に位置し、儀軌により多くの尊形がある。
岩波仏教辞典には、有名な聖天として2つの名称が載っています。その一つは奈良県の生駒聖天、もう一つが、なんと、埼玉県所在のものでした(こちらは知りませんでした。)
妻沼(めぬま)聖天(歓喜院、埼玉県大里郡妻沼町)
関心事の波紋から、今回、「チベットの歴史と仏教」という6回シリーズの講座をその一つとして、11日から聴き始めました。
チベット密教の四大学派の一つにサキャ派があるそうです。この学派では、修行の中に性ヨガが取り入れられているという話です。
一方、現在主流であるゲルク派(ダライ・ラマの系譜)は、開祖ツォンカパが顕教と密教を統合し一つのカリキュラムにまとめていったとか。その過程で、それまでの性ヨガを実践的なものではなく、思考・想念としての象徴的なものに、転換していったのだということです。
これとは別の関心事から、池澤夏樹氏の小説『すばらしい新世界』を読み始めていました。ネパールに風車を建てることに関連したフィクションです。
この中に、こんな一節がでてきます。
明治時代にチベットまでお経を取りに行った河口慧海さんという偉いお坊さんがいましたね。・・・・慧海さんは日本の僧でしたから、仏教に性を持ち込むことを許さなかった。・・・男女合体の仏を慧海さんは認めない。性に関する教理を、教理ではなく修辞学だという。つまり説明のための便法だという。
チベット密教に(チベットの仏教は比叡山や高野山のお仲間、密教です)性の要素が入っていたのは、密教が日本に伝わった後だったから、慧海さんはそれを異質の要素として捨てるしかなかった。・・・性の要素はインドから入りました。ヒンドゥー経の一派を改宗させるためにその教義を取り込んだらしいのです。・・・・・
性はチベット密教の奥深く入っています。大日如来が金剛薩埵に語った内容を記したという理趣経は性愛を肯定的に扱っていますし(さっき勉強したの)、無上瑜伽タントラでは、父系つまり男性系の原理と母系つまり女性系の原理の合一が究極の真理把握につながると考えます。 p231ー232
思わぬ所で、話題がつながってしまいました。
この部分は、ネパールに調査に行った技術者の夫の旅行中、学生時代にインド哲学を学んだ妻が、夫との間でEメール交信する話題の一部として出てくるメール文です。
河口慧海:ウィキペディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E5%8F%A3%E6%85%A7%E6%B5%B7
この人の宗旨は黄檗宗だと記されています。日本の密教に歓喜天が伝わっていたことをどう受け止めておられたのか、また波紋が広がります。歓喜天は信仰の対象ということで、チベットで認知された「性の教理」と区別されていたということでしょうかねえ・・・・また、一つ波紋が広がってしまいました。
ちょっと長くなってしまいました。
ハイ、つづきも読ませていただきました。
子どもが産まれても成人する確率の低かった時代は、子授けや子育ての祈りは切実だっただろうし、そういう中で歓喜天信仰は民衆の中に根付いていたのだと推測しています。
チベットの問題には心が痛みます。ダライ・ラマの自伝も読みました(名前欄のURLに入れておきます)。是非ご一読をおすすめします。さすがの人物だと思っていましたが、ますます尊敬するようになりました。