「沖縄病」なるものの存在はよく知られていると思う。
ある日、沖縄に2泊3日で旅行にゆく。誘われただけでそれほど期待していなかったのに、あまりにもかの地が素晴らしすぎて魅了されてしまった。帰って来ても、楽しかった沖縄のことだけが思い出される。毎夜沖縄の夢を見て、起きているときも沖縄のことばかり考えてしまう。また旅行に出る。帰ってきたら沖縄の夢ばかり見て、また出かけてしまう。この無限ループ。気が付けば毎月沖縄に行っている。もう住みたい。全てを投げ打って移住する。ざっとこんな感じだろうか。類似疾病に「北海道病」なるものがあるが、沖縄病の方がたいてい深刻な状況になる。
僕も沖縄はかなり好きな方であると思うが、ここまでには至っていない。幸いというべきか。例えばもしも僕が億万長者になって一生遊んで暮らせるようになったと仮定しても、沖縄に移住することはないだろう。ただ、那覇に別荘は欲しいなと思う。ワンルームマンションでいい。んで、一年に四回くらい行く。トータルで一年のうち3ヶ月くらい居られれば満足だと思う。あくまで旅人のスタンスは崩したくはないし、泡盛とオリオンビールをこよなく愛する僕は、これ以上居ると確実に肝機能に問題が出てしまう。
僕はこの程度の沖縄好きであるので、あまり偉そうには語れない。思い出でも書くことにしよう。
最初に沖縄へ旅に出たのは20歳のときである。何故沖縄に行こうと思ったのかについては、ただ一点の目的しかなかった。
大学に行って長期のモラトリアムを手に入れていた僕は、その大半を自転車による旅行に費やしていた。その自転車旅行の目的は、簡単に言ってしまえば「日本のはしっこまで自力で走ってみよう」ということに尽きた。観光旅行とは少し趣きが異なる。もちろんその時々で美しい風景や名所があれば通りすがりに立ち寄ることはあっても、あくまで目的は「宗谷岬」であり、「佐多岬」だった。
そうして陸続きでの最北端と最南端に行ってしまった後、次の狙いとして浮上してくる場所がある。日本で行ける限りの端っこ。日本最西端の与那国島、そして有人島として日本最南端の波照間島。彼の地に立って、日本を感じてみたい。
ただそれだけの気持ちだった。沖縄についての知識は全く持っていない。そうして、自転車もオフシーズンである2月、沖縄(というより与那国島と波照間島)に行こうと思い立った。自転車で行くわけでなし移動に何週間もかかるわけでもない。3月になればまた帰ってきて自転車旅行をしよう。まだ行けていない四国が宿題として残っているから…そんなことを考えつつ那覇行きの船の切符を学割で買った。
この時点では、せいぜい10日くらいのつもりでいる。この旅が2月はもとより3月の末まで延び、僕にとって最長の旅行になるとはこのとき毫も思っていない。
2月といえばまだ冬。雪がちらついていた。しかし行く先は南国と聞いているので厚いコートなど着るわけにはいかない。重ね着で寒さをしのぎつつ神戸の埠頭に向かった。夕刻出航。那覇新港まで約40時間の船旅のスタートとなる。
船は悪天候のため少々遅れ気味ではあるものの、揺れに対する耐性があるのか酔うこともない。翌日2時頃には鹿児島佐多岬沖を通過。夏にここまで自転車で走ったことを思えばこんなにも早く…感慨もひとしお。南へ向かうにつれ、だんだんと暖かくなっていくのが体感出来る。
2日目夜半過ぎから船は奄美の島へと順次寄港する。船は直行便ではない。名瀬、沖永良部、徳之島、そして与論を過ぎてようやく沖縄。朝に着くはずがお昼を遥か回って、那覇に入港。
那覇に長く居るつもりは無かった。翌日の夜には石垣行きの船が出るので、その中継地点としか考えていなかった。しかし、港から街に出る途上で観る風景すら僕には珍しい。生えている木が違う。屋根が違う。古本で購入した文庫本サイズのガイドブックしか携行せず、あとは伝聞程度の知識しか無かった僕にとって、それは眩暈がするほどの異文化だった。これほど胸の高鳴りを覚えたことも記憶に無い。
僕は、少し腰を据えることにした。これは観て廻らねば損だ。
そして僕は、那覇を拠点として歩き始めた。
首里。琉球王国の王都。まだ首里城が復元される前で、比較的のんびりしていた頃だった。園比屋武御嶽、龍潭、弁才天堂、円覚寺。本土で類似したものは無い。観るもの全てが珍しく強い印象を残す。守礼之門で記念撮影。この古都は、戦争で多くを失ったと聞く。金城石畳道はその中でもわずかに残った戦前を偲ばせる遺構であり感動する。玉陵の圧倒的な迫力には、古墳好きの僕も襟を正さざるを得なかった。この荘厳さは何だ。
南部へ。バスを乗り継ぎひめゆりの塔。観光化されてはいるものの、胸が打たれる。健児の塔まで歩く。その荒涼とした世界に戦争の悲惨さを感ぜずにはいられない。摩文仁の丘からの美しい展望を見るにつけても、感じるものが多い。
同宿者とレンタカーを借りてみる。嘉手納飛行場、ムーンビーチ、東西植物園へ。今にして思えばチョイスが実に沖縄ビギナーであるとは思うが、こういった経験が後に沖縄の歴史や文化を学びたいという欲を産み出したのだと思っている。だが、印象に残る場面もある。アメリカナイズされたコザの街。英語看板の氾濫にクラクラした覚えがある。今のコザよりもさらに先鋭的であったような。
車は名護から今帰仁城へと向かった。当時は修復中であったのだが、「万里の長城を思わせる威容に圧倒」と日記に記している。僕は後年グスク廻りをするが、その第一歩となった。印象が今も鮮烈である。
また、盛んに街を歩いた。農連市場や公設市場で、見たこともない食材を発見して驚く。そして、迷路のような小道にわざと入ってみる。土地の人が「すーじぐわ」と呼ぶ小道は、実に多くの発見がある。石敢當って何だろう。ウタキって何だろう。いろんな疑問を持つ。暇そうなおばぁに訊ねてみたりもする。しかし意思の疎通が出来ない場合も多く、書店に入って郷土本を何冊か買う。どんどんのめりこんでいくのが自分でも分かる。
沖縄料理も食べに行く。20歳のビンボー旅行であってさほどの贅沢も出来ないのだが、安食堂も多いので助かる。らふてぇ。ゴーヤチャンプル。クーブイリチ。等々初めて食すものばかりであり、こんなに旨いものかと目を見張る。沖縄料理は口に合わない人も多く、行く前から「食べるものが不味くて…」という話をよく聞いていたのだがとんでもない。それに初めて呑んだ泡盛がまたしみじみ旨く、酔うにつれ沖縄の魅力の深さに埋もれていく。そばもたまらなく旨い。
そうして、祭りを見たり、呑んだり騒いだりして幾日かが過ぎた。このままでは居ついてしまう。また帰りもあるからと自らを納得させ、夕刻、石垣行きの船にに乗り込んだ。
揺れたが船旅は楽しい。船上で夜が明けると、天気は快晴でありかなり暑さが増す。宮古島に途中立ち寄る頃にはTシャツでなければ居られなくなる。日も落ちた頃、石垣島に入港。
一泊した翌日、高速艇で西表島へ向かう。どこまでも透き通る輝く碧色の海。そして、亜熱帯の神秘の島。ああ八重山はまた違う世界だ。僕は興奮を抑えきれなくなっていた。
この西表で過ごした日々のことを大いに語りたいのだが、話が長くなりすぎてしまう。それに、どこで話しても外したことがない大爆笑間違いなしの鉄板話も多く存在するが、それを書くには僕の描写力の欠如もあり、また登場人物に名誉毀損で訴えられる可能性もあったりしてうかつに書けない。惜しいが筆を抑えることにする。
西表島は島全てが見所だが、ヒナイサーラの滝は特に印象に残る。是非行くべきところだ。西表版那智の滝、というべき瀑布。
最近はカヌーで行ったり、ツアーも入っているらしいが、当時はそんなものがなく歩いて行った。干潮の時を狙って、膝下くらいの海の中を歩いてヒナイ川の河口へ。そこからはぬかるみの中草原のような地域を歩き、川にそってジャングルに分け入り、小一時間歩くと滝が見え、そのまま歩くと滝壷へと到達する。そして山を登って滝上へ。植生もマングローブからサキシマスオウまで亜熱帯の様相を呈している。頂で見る風景は日本とはとても思えない。密林と青い海が広がる。
海で泳ぐのもいい。マスクとフィンを着けてシュノーケリング。熱帯魚やサンゴがことさらに美しい。出てきたときは雪が降っていたことを思えば信じられないが。
この旅行で、西表島でやった僕の最大のイベントは、西表島徒歩縦断である。西表は周回道路とて無く、何かにチャレンジするにはうってつけの島である。
同宿者と連れ立ち、まず浦内川を遡る遊覧船に乗る。植生といい雰囲気といいまさにジャングルの様相の中、船はゆっくりと川を遡り船着場に。そこからは遊歩道を歩いて、西表最大の景勝地であるカンピラ、マリウドの滝へと向かう。迫力のある滝を見て後、普通は引き返して船に乗るのだが、僕らはそのまま島の中心部に向かって歩き出した。山道はさほどでもないのだが、ルートを間違えれば遭難する。慎重に歩を進めて、約7時間をかけて山向こうの古見の集落にたどり着いた。徒歩縦断完成である。
そうしているうちに瞬く間に日は過ぎ、様々なことを体験し、何もせず浜で寝ているだけの日があったりして、そろそろ先に進まねばと思い名残惜しい西表を後にした。八重山諸島は西表島が最大だが、それだけではない。そもそもの目的である最西端、最南端も行かねばならない。
石垣島に戻って、まずは宮良殿内その他の市内観光。石垣島は見るところが多い。最南端の市はもはや夏で、歩くとじっとりと汗が滲む。昼過ぎにバスに乗り、島東岸のサンゴで有名な白保の向こうにあるYHに投宿。
翌日は石垣の北部を徒歩で歩く。同宿者と連れ立ち、まずは北端の平久保崎へ。灯台を見た後徒歩で南下。東岸の石垣牛群れる牧場を縦断するような形で歩く。途中風葬跡などがあり、人骨も散乱している。独自の文化の片鱗だ。小高い丘に登るとサンゴ礁のリーフがことの他美しく、絶景と言えるだろう。約8時間歩いて、YHへと戻る。
八重山諸島は、どの島へ行くにも石垣島を経由しなければならない。以後も、あちこちへ行く度に石垣港がお馴染みとなる。
さて、いよいよ与那国島へと向かわねばならない。目的の最西端である。これについては以前記事にしたので参照してもらいたいが、ちょっと厳しい旅だった。
もちろん与那国島は最西端の碑だけではなく歴史ある島で景勝地も多いのだが、どうしても最西端に立つと嬉しい。幾度も記念撮影をした。あとは、酒を呑んで過ごし、また石垣へと戻った。
最南端も行かねばならぬのだが、他にも行きたい所がある。次は黒島へ。
石垣港から約40分。人口200人に牛2000頭といえ牧場の島であり、最初上陸した時は殺伐としてなにもない島という印象を持ってしまったのだが、歩き出すにつれ徐々に良さがわかった。人も見ない真っ直ぐな道を歩くにつれ、その牧歌的な雰囲気が心に沁みるようだ。町は島の真ん中にあり、キレイな瓦屋根の素朴な美しさが今も脳裏に蘇る。東筋を過ぎて灯台へ。人気もない海を見ながら、様々なことに思いが巡らせる。旅の醍醐味だ。当時は観光化もされておらず、とかくいい印象の島だった。
また石垣島に戻り遊んだ後、いよいよ波照間島への船に乗る。
波照間は最南端の碑以外何も見るものはないと言われ、当時は日帰りで行く人が多かった。この出航する船が約4時間かけて島に行き、一時間半停泊のあとまた石垣に帰る、その停泊中に最南端まで走り、そして来た船に乗り込むパターンが多かった由。それでは島を何も観ずに終わってしまうので、泊まると3日後まで船便は無いのだが、島での滞在を選んだ。(現在ではもちろん高速艇が就航している)
もちろん、結果的にはそれが良かった。「何もない島」という評価が多い波照間島だったが、そんな島に滞在できるほど贅沢なものはない。以前にも記事にしたことがある。
島に着くと、まずはやはり最南端の碑へと行く。島の南端(当たり前)に位置する高那海岸は波が激しく打ち付ける人気のないところ。そこに、素朴な碑が建っている。与那国島よりも荒涼としていた為か、感傷的になっている自分を見つけていた。思いが駆け巡る。ほんの2年前まではこんなところに立つなど夢にも思わなかった。今現実として居る自分をどう解釈していいか判らないまま佇む。
それにしてもいい島である。島には当時食堂も無く(今はいろいろ施設があるが)、民宿泊は1泊3食が基本だった。海岸に遊び、昼寝し、サトウキビ畑の中を彷徨い、数多くない道を散歩して日が暮れる。夜は宴会。同宿者と泡盛を酌み交わす。酔いがまわるにつれ皆解放的になり、うちあけ話をする人、歌う人、にぎやかな光景が広がる。南十字星が見える。
そんな日々。小さな悩みや抱えているものはみんな彼岸のことのように思えてくる。
それ以上やることはない。波照間はサトウキビが特産であり、他のどこよりも糖度が高いと聞く。製糖工場に遊びに行き手伝ったら、土産をいっぱいもらった。
島に遊んで4日目、船が来て名残惜しい波照間を去った。
八重山の真珠、竹富島へも行った。星砂の島。
石垣島からはあっという間の距離であり、小さな島で日帰りが相当だが、もう波照間でのんびり旅にすっかり馴染んでしまい、4日ほどをぼんやりと過ごした。美しく保存された街並みは、ある意味博物館的ではあったがそれはそれ、滞在するうちにどんどん素朴な良さが伝わる。観光客が多いがそれも昼間だけであり(石垣日帰り客が多い)、コンドイ浜で波と興じ、夜は泡盛、また時間を忘れたゆたうように過ごした。
徐々に、僕は何もしなくなってきた。石垣島でまた遊び、さらに西表島に再び帰ったりした。これは、下手をすればもう旅行ではなく放浪に近い。そのことにはたと思い当たり、沖縄本島行きの切符を買った。これが本土内の旅であれば、例えば周遊券などの期限などもあって旅を終了せざるを得ない外的要因がある。しかし、ここでは自分の意思を強く持たないと旅を終わらせることが出来ないのだ。
翌日、買い物をして午前の船で石垣島を後にした。
翌朝、那覇に到着。2月に始めた旅も、そろそろ4月の声を聞く。大学も開講する。帰らなくてはいけない。なに、また来ればいいではないか。
土産物を物色し、本土にはその頃殆ど売っていなかった泡盛を大量に買い込み、大阪新港行きの船に乗る。たくさんの思い出を抱えて、遠ざかる那覇の街を見ながら再訪を誓い、旅を終えた。
以来四半世紀。再訪の衝動は常に襲ってくる。そしてまた出かける。もう何度足を運んだことか。後に社会人となり所帯も持ったが同じことである。いつも沖縄の空を思う。
もはやこんなのんびりと船便で行くことも叶わず、飛行機でビュンと行ってしまうが、行けば、そこで流れている空気は同じである。街も以来変貌を遂げ、外見は変わってしまった場所や島もあるが、そこに沖縄があってくれる限り、肩の荷物を下ろせる地であることには違いがない。また空港に駆けつけひとっ飛び、那覇の空港に着いてA&Wでルートビアのイッキ呑みをして一息つく自分を今も夢想している。
関連記事:
泡盛に魅せられて
古酒(くーす)の深遠なる世界
りんけんバンド「ふなやれ」
喜納昌吉&チャンプルーズ「すべての人の心に花を」
もしも薩摩が琉球に侵攻していなかったら
もしも…番外編 沖縄の歴史その後
旅と読書 その6 北海道&沖縄
日本のはしっこを歩く2
聖域と出逢う2
旅行とコレクション1
沖縄から帰ってきました。
ある日、沖縄に2泊3日で旅行にゆく。誘われただけでそれほど期待していなかったのに、あまりにもかの地が素晴らしすぎて魅了されてしまった。帰って来ても、楽しかった沖縄のことだけが思い出される。毎夜沖縄の夢を見て、起きているときも沖縄のことばかり考えてしまう。また旅行に出る。帰ってきたら沖縄の夢ばかり見て、また出かけてしまう。この無限ループ。気が付けば毎月沖縄に行っている。もう住みたい。全てを投げ打って移住する。ざっとこんな感じだろうか。類似疾病に「北海道病」なるものがあるが、沖縄病の方がたいてい深刻な状況になる。
僕も沖縄はかなり好きな方であると思うが、ここまでには至っていない。幸いというべきか。例えばもしも僕が億万長者になって一生遊んで暮らせるようになったと仮定しても、沖縄に移住することはないだろう。ただ、那覇に別荘は欲しいなと思う。ワンルームマンションでいい。んで、一年に四回くらい行く。トータルで一年のうち3ヶ月くらい居られれば満足だと思う。あくまで旅人のスタンスは崩したくはないし、泡盛とオリオンビールをこよなく愛する僕は、これ以上居ると確実に肝機能に問題が出てしまう。
僕はこの程度の沖縄好きであるので、あまり偉そうには語れない。思い出でも書くことにしよう。
最初に沖縄へ旅に出たのは20歳のときである。何故沖縄に行こうと思ったのかについては、ただ一点の目的しかなかった。
大学に行って長期のモラトリアムを手に入れていた僕は、その大半を自転車による旅行に費やしていた。その自転車旅行の目的は、簡単に言ってしまえば「日本のはしっこまで自力で走ってみよう」ということに尽きた。観光旅行とは少し趣きが異なる。もちろんその時々で美しい風景や名所があれば通りすがりに立ち寄ることはあっても、あくまで目的は「宗谷岬」であり、「佐多岬」だった。
そうして陸続きでの最北端と最南端に行ってしまった後、次の狙いとして浮上してくる場所がある。日本で行ける限りの端っこ。日本最西端の与那国島、そして有人島として日本最南端の波照間島。彼の地に立って、日本を感じてみたい。
ただそれだけの気持ちだった。沖縄についての知識は全く持っていない。そうして、自転車もオフシーズンである2月、沖縄(というより与那国島と波照間島)に行こうと思い立った。自転車で行くわけでなし移動に何週間もかかるわけでもない。3月になればまた帰ってきて自転車旅行をしよう。まだ行けていない四国が宿題として残っているから…そんなことを考えつつ那覇行きの船の切符を学割で買った。
この時点では、せいぜい10日くらいのつもりでいる。この旅が2月はもとより3月の末まで延び、僕にとって最長の旅行になるとはこのとき毫も思っていない。
2月といえばまだ冬。雪がちらついていた。しかし行く先は南国と聞いているので厚いコートなど着るわけにはいかない。重ね着で寒さをしのぎつつ神戸の埠頭に向かった。夕刻出航。那覇新港まで約40時間の船旅のスタートとなる。
船は悪天候のため少々遅れ気味ではあるものの、揺れに対する耐性があるのか酔うこともない。翌日2時頃には鹿児島佐多岬沖を通過。夏にここまで自転車で走ったことを思えばこんなにも早く…感慨もひとしお。南へ向かうにつれ、だんだんと暖かくなっていくのが体感出来る。
2日目夜半過ぎから船は奄美の島へと順次寄港する。船は直行便ではない。名瀬、沖永良部、徳之島、そして与論を過ぎてようやく沖縄。朝に着くはずがお昼を遥か回って、那覇に入港。
那覇に長く居るつもりは無かった。翌日の夜には石垣行きの船が出るので、その中継地点としか考えていなかった。しかし、港から街に出る途上で観る風景すら僕には珍しい。生えている木が違う。屋根が違う。古本で購入した文庫本サイズのガイドブックしか携行せず、あとは伝聞程度の知識しか無かった僕にとって、それは眩暈がするほどの異文化だった。これほど胸の高鳴りを覚えたことも記憶に無い。
僕は、少し腰を据えることにした。これは観て廻らねば損だ。
そして僕は、那覇を拠点として歩き始めた。
首里。琉球王国の王都。まだ首里城が復元される前で、比較的のんびりしていた頃だった。園比屋武御嶽、龍潭、弁才天堂、円覚寺。本土で類似したものは無い。観るもの全てが珍しく強い印象を残す。守礼之門で記念撮影。この古都は、戦争で多くを失ったと聞く。金城石畳道はその中でもわずかに残った戦前を偲ばせる遺構であり感動する。玉陵の圧倒的な迫力には、古墳好きの僕も襟を正さざるを得なかった。この荘厳さは何だ。
南部へ。バスを乗り継ぎひめゆりの塔。観光化されてはいるものの、胸が打たれる。健児の塔まで歩く。その荒涼とした世界に戦争の悲惨さを感ぜずにはいられない。摩文仁の丘からの美しい展望を見るにつけても、感じるものが多い。
同宿者とレンタカーを借りてみる。嘉手納飛行場、ムーンビーチ、東西植物園へ。今にして思えばチョイスが実に沖縄ビギナーであるとは思うが、こういった経験が後に沖縄の歴史や文化を学びたいという欲を産み出したのだと思っている。だが、印象に残る場面もある。アメリカナイズされたコザの街。英語看板の氾濫にクラクラした覚えがある。今のコザよりもさらに先鋭的であったような。
車は名護から今帰仁城へと向かった。当時は修復中であったのだが、「万里の長城を思わせる威容に圧倒」と日記に記している。僕は後年グスク廻りをするが、その第一歩となった。印象が今も鮮烈である。
また、盛んに街を歩いた。農連市場や公設市場で、見たこともない食材を発見して驚く。そして、迷路のような小道にわざと入ってみる。土地の人が「すーじぐわ」と呼ぶ小道は、実に多くの発見がある。石敢當って何だろう。ウタキって何だろう。いろんな疑問を持つ。暇そうなおばぁに訊ねてみたりもする。しかし意思の疎通が出来ない場合も多く、書店に入って郷土本を何冊か買う。どんどんのめりこんでいくのが自分でも分かる。
沖縄料理も食べに行く。20歳のビンボー旅行であってさほどの贅沢も出来ないのだが、安食堂も多いので助かる。らふてぇ。ゴーヤチャンプル。クーブイリチ。等々初めて食すものばかりであり、こんなに旨いものかと目を見張る。沖縄料理は口に合わない人も多く、行く前から「食べるものが不味くて…」という話をよく聞いていたのだがとんでもない。それに初めて呑んだ泡盛がまたしみじみ旨く、酔うにつれ沖縄の魅力の深さに埋もれていく。そばもたまらなく旨い。
そうして、祭りを見たり、呑んだり騒いだりして幾日かが過ぎた。このままでは居ついてしまう。また帰りもあるからと自らを納得させ、夕刻、石垣行きの船にに乗り込んだ。
揺れたが船旅は楽しい。船上で夜が明けると、天気は快晴でありかなり暑さが増す。宮古島に途中立ち寄る頃にはTシャツでなければ居られなくなる。日も落ちた頃、石垣島に入港。
一泊した翌日、高速艇で西表島へ向かう。どこまでも透き通る輝く碧色の海。そして、亜熱帯の神秘の島。ああ八重山はまた違う世界だ。僕は興奮を抑えきれなくなっていた。
この西表で過ごした日々のことを大いに語りたいのだが、話が長くなりすぎてしまう。それに、どこで話しても外したことがない大爆笑間違いなしの鉄板話も多く存在するが、それを書くには僕の描写力の欠如もあり、また登場人物に名誉毀損で訴えられる可能性もあったりしてうかつに書けない。惜しいが筆を抑えることにする。
西表島は島全てが見所だが、ヒナイサーラの滝は特に印象に残る。是非行くべきところだ。西表版那智の滝、というべき瀑布。
最近はカヌーで行ったり、ツアーも入っているらしいが、当時はそんなものがなく歩いて行った。干潮の時を狙って、膝下くらいの海の中を歩いてヒナイ川の河口へ。そこからはぬかるみの中草原のような地域を歩き、川にそってジャングルに分け入り、小一時間歩くと滝が見え、そのまま歩くと滝壷へと到達する。そして山を登って滝上へ。植生もマングローブからサキシマスオウまで亜熱帯の様相を呈している。頂で見る風景は日本とはとても思えない。密林と青い海が広がる。
海で泳ぐのもいい。マスクとフィンを着けてシュノーケリング。熱帯魚やサンゴがことさらに美しい。出てきたときは雪が降っていたことを思えば信じられないが。
この旅行で、西表島でやった僕の最大のイベントは、西表島徒歩縦断である。西表は周回道路とて無く、何かにチャレンジするにはうってつけの島である。
同宿者と連れ立ち、まず浦内川を遡る遊覧船に乗る。植生といい雰囲気といいまさにジャングルの様相の中、船はゆっくりと川を遡り船着場に。そこからは遊歩道を歩いて、西表最大の景勝地であるカンピラ、マリウドの滝へと向かう。迫力のある滝を見て後、普通は引き返して船に乗るのだが、僕らはそのまま島の中心部に向かって歩き出した。山道はさほどでもないのだが、ルートを間違えれば遭難する。慎重に歩を進めて、約7時間をかけて山向こうの古見の集落にたどり着いた。徒歩縦断完成である。
そうしているうちに瞬く間に日は過ぎ、様々なことを体験し、何もせず浜で寝ているだけの日があったりして、そろそろ先に進まねばと思い名残惜しい西表を後にした。八重山諸島は西表島が最大だが、それだけではない。そもそもの目的である最西端、最南端も行かねばならない。
石垣島に戻って、まずは宮良殿内その他の市内観光。石垣島は見るところが多い。最南端の市はもはや夏で、歩くとじっとりと汗が滲む。昼過ぎにバスに乗り、島東岸のサンゴで有名な白保の向こうにあるYHに投宿。
翌日は石垣の北部を徒歩で歩く。同宿者と連れ立ち、まずは北端の平久保崎へ。灯台を見た後徒歩で南下。東岸の石垣牛群れる牧場を縦断するような形で歩く。途中風葬跡などがあり、人骨も散乱している。独自の文化の片鱗だ。小高い丘に登るとサンゴ礁のリーフがことの他美しく、絶景と言えるだろう。約8時間歩いて、YHへと戻る。
八重山諸島は、どの島へ行くにも石垣島を経由しなければならない。以後も、あちこちへ行く度に石垣港がお馴染みとなる。
さて、いよいよ与那国島へと向かわねばならない。目的の最西端である。これについては以前記事にしたので参照してもらいたいが、ちょっと厳しい旅だった。
もちろん与那国島は最西端の碑だけではなく歴史ある島で景勝地も多いのだが、どうしても最西端に立つと嬉しい。幾度も記念撮影をした。あとは、酒を呑んで過ごし、また石垣へと戻った。
最南端も行かねばならぬのだが、他にも行きたい所がある。次は黒島へ。
石垣港から約40分。人口200人に牛2000頭といえ牧場の島であり、最初上陸した時は殺伐としてなにもない島という印象を持ってしまったのだが、歩き出すにつれ徐々に良さがわかった。人も見ない真っ直ぐな道を歩くにつれ、その牧歌的な雰囲気が心に沁みるようだ。町は島の真ん中にあり、キレイな瓦屋根の素朴な美しさが今も脳裏に蘇る。東筋を過ぎて灯台へ。人気もない海を見ながら、様々なことに思いが巡らせる。旅の醍醐味だ。当時は観光化もされておらず、とかくいい印象の島だった。
また石垣島に戻り遊んだ後、いよいよ波照間島への船に乗る。
波照間は最南端の碑以外何も見るものはないと言われ、当時は日帰りで行く人が多かった。この出航する船が約4時間かけて島に行き、一時間半停泊のあとまた石垣に帰る、その停泊中に最南端まで走り、そして来た船に乗り込むパターンが多かった由。それでは島を何も観ずに終わってしまうので、泊まると3日後まで船便は無いのだが、島での滞在を選んだ。(現在ではもちろん高速艇が就航している)
もちろん、結果的にはそれが良かった。「何もない島」という評価が多い波照間島だったが、そんな島に滞在できるほど贅沢なものはない。以前にも記事にしたことがある。
島に着くと、まずはやはり最南端の碑へと行く。島の南端(当たり前)に位置する高那海岸は波が激しく打ち付ける人気のないところ。そこに、素朴な碑が建っている。与那国島よりも荒涼としていた為か、感傷的になっている自分を見つけていた。思いが駆け巡る。ほんの2年前まではこんなところに立つなど夢にも思わなかった。今現実として居る自分をどう解釈していいか判らないまま佇む。
それにしてもいい島である。島には当時食堂も無く(今はいろいろ施設があるが)、民宿泊は1泊3食が基本だった。海岸に遊び、昼寝し、サトウキビ畑の中を彷徨い、数多くない道を散歩して日が暮れる。夜は宴会。同宿者と泡盛を酌み交わす。酔いがまわるにつれ皆解放的になり、うちあけ話をする人、歌う人、にぎやかな光景が広がる。南十字星が見える。
そんな日々。小さな悩みや抱えているものはみんな彼岸のことのように思えてくる。
それ以上やることはない。波照間はサトウキビが特産であり、他のどこよりも糖度が高いと聞く。製糖工場に遊びに行き手伝ったら、土産をいっぱいもらった。
島に遊んで4日目、船が来て名残惜しい波照間を去った。
八重山の真珠、竹富島へも行った。星砂の島。
石垣島からはあっという間の距離であり、小さな島で日帰りが相当だが、もう波照間でのんびり旅にすっかり馴染んでしまい、4日ほどをぼんやりと過ごした。美しく保存された街並みは、ある意味博物館的ではあったがそれはそれ、滞在するうちにどんどん素朴な良さが伝わる。観光客が多いがそれも昼間だけであり(石垣日帰り客が多い)、コンドイ浜で波と興じ、夜は泡盛、また時間を忘れたゆたうように過ごした。
徐々に、僕は何もしなくなってきた。石垣島でまた遊び、さらに西表島に再び帰ったりした。これは、下手をすればもう旅行ではなく放浪に近い。そのことにはたと思い当たり、沖縄本島行きの切符を買った。これが本土内の旅であれば、例えば周遊券などの期限などもあって旅を終了せざるを得ない外的要因がある。しかし、ここでは自分の意思を強く持たないと旅を終わらせることが出来ないのだ。
翌日、買い物をして午前の船で石垣島を後にした。
翌朝、那覇に到着。2月に始めた旅も、そろそろ4月の声を聞く。大学も開講する。帰らなくてはいけない。なに、また来ればいいではないか。
土産物を物色し、本土にはその頃殆ど売っていなかった泡盛を大量に買い込み、大阪新港行きの船に乗る。たくさんの思い出を抱えて、遠ざかる那覇の街を見ながら再訪を誓い、旅を終えた。
以来四半世紀。再訪の衝動は常に襲ってくる。そしてまた出かける。もう何度足を運んだことか。後に社会人となり所帯も持ったが同じことである。いつも沖縄の空を思う。
もはやこんなのんびりと船便で行くことも叶わず、飛行機でビュンと行ってしまうが、行けば、そこで流れている空気は同じである。街も以来変貌を遂げ、外見は変わってしまった場所や島もあるが、そこに沖縄があってくれる限り、肩の荷物を下ろせる地であることには違いがない。また空港に駆けつけひとっ飛び、那覇の空港に着いてA&Wでルートビアのイッキ呑みをして一息つく自分を今も夢想している。
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沖縄から帰ってきました。
年に一回は行かないと気が済まないみたい
記事を拝読してやっぱり私も行ってみたい!と思いました。
>いつも沖縄の空を思う
「あの時見たあの空は何てキレイだったんだろ」
この気持ちってかの地が見せる夢なのかな?
空ってどこでも同じはずなのに不思議ですよね。
でもまた懲りもせず、折にふれて沖縄のことは書きついでいきたいと思っています。
思い出の中の空は、追憶に彩色されています。だから胸を突き上げるものがあるのですが、空は、本当はどこで見たって同じなんですね。砂漠や熱帯や極北にでも行けばそりゃ変わるかもしれませんけど、だいたい一緒。
だからこそ、かの空を思うのかもしれません。今見ている空も、あのいつかみた空とつながっている。そう思ったが最後、また思いがあふれ出す。
そんなことを繰り返しています。これがいわゆる病気ですね(笑)。