凛太郎の徒然草

別に思い出だけに生きているわけじゃないですが

もしも孝明天皇が攘夷論者でなかったら

2009年07月07日 | 歴史「if」
 最終的に徳川幕府を倒した尊皇攘夷というスローガンを考えるに、つくづく子供の寝言だと思う。
 いきなり挑発的な事を書いたが、何回考えてもそう思ってしまう。これに比べれば、まだ全共闘の共産主義革命闘争の方が心情的に僕には理解できそうに思える。これは、その後の歴史の流れを知っていて、なおかつ当時の情勢を神の視点から見ることが出来る現代人であるからそう言えるのだということは百も承知である。
 それでも、当時の人間の思考力・判断力が現代人より劣っていたはずはあるまい。それが証拠に、革命側の指導者層は尊皇攘夷が空論であることは十二分に認識していた。「あのときは、ああでなくてはいけなかったのだ」という井上馨の言葉がそれを端的に表している。にもかかわらず、とにかく時の為政者である幕府をただ困らせて弱体化させ自藩の影響力を強めようとするために、そして後には幕府を倒そうとするために尊皇攘夷という旗印を用いたということ。これは、政治手法としては卑怯であったと僕は思っている。こういうやり方は嫌いだ。
 つまり、黒船によって恐慌状態が日本にもたらされた。その危機意識は熱狂に繋がる。パニックと言ってもいいのではないか。その熱狂を、正確な情報を与えずにうまく利用した、ということである。一種の情報操作である。操作される側はたまったものではない。とっくに攘夷など終わった明治維新後にまでその洗脳は残った。何故横井小楠が暗殺されねばならなかったのか。マインドコントロールというものは誠に恐ろしい。
 こういう政治手法は、よく考えれば常套手段である。嫌なものだ。ヒトラーの扇動にどうしてドイツ国民が熱狂したのかということは、現代の歴史を知る視点から見れば実に分かりにくいのだが、危機意識が熱狂を生んでしまうのだろう。現代政治においても、こういう状況は散見される。郵政選挙とかそうだろう。

 そんなことはともかく。
 スローガンであるために「尊皇攘夷」とついひと括りで考えてしまうが、これは本来「尊王」と「攘夷」は別のものである。
 尊王論はもちろん儒教由来であるが、平田国学からも「日本民族固有の精神」に立ち返るべきであるとする思想が生まれ、その象徴として天皇の存在を支柱とすべきであるという思想に辿り着く。日本は神国でありその大元は天皇である。これはつまりナショナリズムだろう。
 また攘夷論は夷人排斥であり、優しく言えば、鎖国によって平和が謳歌されたこの国に外国勢力が入ることによってそれが乱されるので排除せねばならない、ということ。また言葉を変えれば、夷によって神国である日本が穢されるので足を踏み入れさせてはならない、ということ。排外思想であり、これも国粋主義と言える。どちらもナショナリズムが根にあり統合されてしまった。
 この尊皇攘夷論は水戸学が発展させたものであると通常は考えられている。徳川斉昭が「弘道館記」において最初に「尊王攘夷」とひと括りに使用したと言われ、その大元は藤田東湖である。この時点での「尊皇攘夷」を子供の寝言などと言うつもりは毛頭ない。天保年間であり、外国の脅威は伝えられてはいたものの、まだペリーの黒船による恫喝外交よりも15年も前のことである。高邁な理想論と解釈も出来る。
 東湖の父である藤田幽谷が唱えた「尊王敬幕論」、そして松平定信が言う「大政委任論」は、幕府の正当性の証明だった。幕府の権力行使の根拠は、朝廷が幕府に政権を委任されているからである。これによれば、朝廷の権威が高まれば高まるほど幕府は安定する。尊王論が倒幕に結びつくことは予想されていない。
 攘夷論が展開・発展したのは会沢正志斎の「新論」によってであると考えられるが、水戸学を論じていては先へ進まないのでひとまず措く。

 尊皇攘夷論は、本来倒幕論ではない。しかし、これが幕府の屋台骨を揺るがすスローガンに発展してしまう。それは何故だろうか。黒船の危機感はやはり大きいだろう。それに対して弱腰外交をしたと判断された幕府に対しアクションは生じても、それは幕政改革論で事足りるわけであり、そうあるべきである。そこに何故尊王攘夷論が突出してくるのか。
 それは、孝明天皇が存在したからである、と端的に言ってしまうことが出来るのではないかと僕は思う。
 もっと突き詰めれば、尊皇攘夷とは孝明天皇のことである。尊王論と攘夷論が結びつくのも、孝明天皇という存在があればこそである。尊王論の具体的対象者である孝明天皇が、攘夷論を奉じ翻さなかったからこそ、尊王=攘夷となった。この時代の最大のキーマンは井伊直弼でも水戸斉昭でも吉田松陰でも西郷隆盛でもなかった。孝明天皇こそが思想の具現者であり、全てを集約した人物だった。
 もしも孝明天皇が、最初から開国を是認していたならば。いや、最初からでなくとも、幕府の、当時の日本の立ち居地を鑑みて、頑なに開国を拒絶し続けなかったとしたら。
 尊皇攘夷という思想に矛盾が生じてしまう。現実と乖離して、幕府を弱体化させるための手段としては全く通用しなくなってしまう。水戸学の思想のひとつに留まってしまっただろう。孝明天皇が「何が何でも攘夷」という姿勢を崩さなかったがために、最終的に尊皇攘夷が倒幕運動にまで結びつく結果を生んだ。この意味で、孝明天皇は幕末史において最大の存在だった。

 それでは、何故孝明天皇が攘夷に固執したのだろうか。
 これについては様々な意見が跋扈し、定説はない、と言ってもいいのではないかと思うが、その中でも通説に近いものとして孝明天皇が「病的な西洋人嫌い」であったからだ、とされる説がある。生理的嫌悪感が天皇を攘夷に固執させたとする。
 もうひとつの柱としては、天皇としての責任感が攘夷論者にさせた、との意見。実は江戸時代初期から始まった「鎖国」という制度も、以来200年以上経っていつの間にか日本古来よりの伝統であるように浸透してしまい、その国是を覆すことはアマテラスをはじめとする神々や神武以来の歴代天皇に申し開きが出来ない、と考えたことから攘夷を翻せるはずもなかった、ということ。
 決め手がない以上反論などないが、孝明天皇の西洋人嫌いがどこからの由来かが分からない。一般的認識として、南蛮紅毛人は肉を喰らい血を飲むとされ、当時は獣のような認識であったとも言われる。絵画でも相当気持ち悪く描かれる。ただ、それは情報の無い一般庶民であればさもありなん、であるが、孝明天皇はそこまで無知であっただろうか。

 弘化3年、父仁孝天皇崩御により16歳で即位した孝明天皇は、早々8月に幕府に御沙汰書を発令する。内容は、外国船来航の噂を聞くので海防を堅固にせよ、というものだが、これが天皇の初勅である。これは5月に米国のビッドルが浦賀に来航したことを受けてであると思われるが、実に情報入手が早い、と驚いてしまう。朝廷は政治の事など蚊帳の外ではなかったのだ。
 にせよ、朝廷が幕府に政治的発言をすることは大政委任論から言っても前例に乏しい。しかも外交問題である。この朝廷、そして天皇の強気とも思える行動はどこから来ているのか。
 藤田覚氏は孝明天皇について著書「幕末の天皇」等で、豪胆な性格であると論じている。そして、それは祖父である光格天皇の遺伝子もあるのではと推測されている。
 光格天皇についてはjasminteaさんの考察が詳しいので参照していただきたいが、さらに孝明天皇は紫衣事件で名を残す後水尾天皇を尊敬していたともされる。そうした逸話、並びに後の違勅調印で「逆鱗」という文言を残すなど相当に気の強い人物像が一面では確かに浮かぶ。だが、僕などは豪胆と言えるほどの強気の人物であったかについては多少の疑問も持ってしまったりもするのである。

 孝明天皇は、あの通商条約調印問題が起こった安政5年、メシも喉に通らないほど悩んでしまう。一種のノイローゼであったとも言われる。気弱とまで言ってしまっては失礼かもしれないが、優しい性格であったのかもしれないなとも思う。あの時は一種の板挟み状況だった。攘夷は貫徹したい。だが、攘夷路線は戦争の可能性も孕み、民に犠牲を強いることにもなってしまう。そうして、孝明天皇は揺れるのである。皇統意識は十分に持ち合わせてはいたものの、いざ最終決断を迫られると辛い。なので、自ら攘夷を先頭きって言わず、勅は「御三家等広く意見を求めてもう一度考えなさい」という、最高裁の差戻し判決みたいにして出す。もちろん大政委任の幕府にそうはっきりと言えないことは分かるが。
 さらに朝廷内でも独裁者にはなれない。天皇という立場は確かにそういうものではあるのだが、孝明天皇が即位したときの関白は鷹司政通だった。父仁孝天皇の時代から30年以上も関白を務めた大ベテランであり、孝明天皇も鷹司関白の前では子供同然であるとまで言われた。その鷹司関白が開国論者である。これでは孝明天皇が揺れ動くのもしかたのないことである。

 話がそれるが、朝廷が幕府の奏上以上に情報を知りえていたのは、公家の多くが有力大名と姻戚関係を結び、そこからも情報を得ていたことがある。例えば三条実万室は土佐山内家からであり、近衛忠煕室は薩摩島津家からだった。そして、鷹司政通室は水戸徳川家であり、あの斉昭は義弟にあたる。水戸斉昭からは、書簡により相当量の情報が鷹司関白に伝えられていた。
 斉昭からの情報は当然のことながら攘夷が基調となっていた。だが、鷹司関白はそれに惑わされることなく開国を唱えた。これは不思議なことである。一つには鷹司関白の時勢を見る目が優れていたということもあろうが、それよりも幕府権力を恐れていたこともあるのではないだろうか。幕府に逆らって承久の乱の二の舞だけは避けなければならない。そういう意味で鷹司関白は十二分に老練な政治家だった。
 ここで着目しなくてはいけないのは、鷹司関白が斉昭からの書簡をほとんどそのまま孝明天皇に見せていたということである。斉昭の書簡は攘夷色で染められている。このことが、青年孝明天皇の皇統意識からくる責任感を強く刺激したということは言えるのではないか。頑なな攘夷論を押し通そうとする孝明天皇の意識の萌芽であるのかもしれない。
 鷹司関白は孝明天皇を教育しようとしていたとも考えられる。斉昭攘夷書簡だけでなく、例えば「おらんだ風説書」なども孝明天皇に見せていた。そうして様々な情報や意見を与え、英明君主として育て上げようとしていたとも読み取れる。だが、まだ年若いナイーブな孝明天皇にはもしかしたら刺激が強すぎたのかもしれない。同時に皇統意識も強く刷り込まれた青年君主である孝明天皇は、以後尊皇攘夷の具現者となっていく。この「未曾有の国難」の時期に自分が巡り合ってしまったことを憂いながら(これは想像)。
 孝明天皇の頭の中には、様々な心配が渦巻いていただろう。
 まずは、鎖国が続いたことにより外国に対する免疫が無い。異国は怖い存在である。アヘン戦争のことも知っていただろう。そして、米国の政治手段に対する反発もある。ペリー以降のアメリカのやり方は完全に威力外交であり、自分が正義であると思うことを押し付けてくる。今も昔もアメリカは変わらない。そして、既に和親条約以降、通商が内々で行われていた。水や食料、燃料だけではなく様々なものが異国へ流れ出ていく。物価の高騰などの経済的問題もあるが、日本から物が無くなってしまうかもしれない恐怖も感ぜられただろう。そして、国の意見は全くまとまっていない。水戸藩はじめ反対論が頻出している。
 このような状況下で、自分が条約調印にお墨付きを与えてもいいのだろうか。自分が日本国の大変革を認めてもいいのだろうか。
 そして、孝明天皇はその揺れ動く心を抑えつつ、傍から見れば豪胆とも言われることをせざるを得なくなったのではないだろうか。つまり、幕府の答申差戻しである。もう一度よく考えてはくれないか、と。

 この差戻し判決の時には、鷹司関白は辞任していた。年齢も70歳を過ぎ、疲れてもいたのだろう。孝明天皇が開国論の鷹司関白を罷免したとの説もあるが、むしろ慰留している節もあり、この調印問題以外では孝明天皇は鷹司関白を信頼しつづけていた。そこまで厳しい人事を孝明天皇は行わないだろうし独断も出来なかったと考えられる。
 だが、後任の九条尚忠は、井伊直弼、長野主膳に籠絡されて開国論者となっていた。またもや孝明天皇の意思が伝わらない構図が生じた。老中堀田正睦が上洛し調印の勅許を迫る。堀田は、天皇の心配する「人心の折り合い」つまり意見統一については、現在は諸大名にも意見が頻発はしているものの、最終的には幕府が責任を持つのでご心配なく、と宣言する。そして、板挟みの九条関白は、天皇の攘夷の思いを加えつつ、「この上は関東において御勘考あるべく様、御頼み遊ばされたく候事」と末尾に付けた勅答案を作成した。
 これはつまり、朝廷側は心配で攘夷を考えてはいるけれども、最終的には関東(幕府)に任せますよ、という文言である。つまりは勅許は出せませんが委任しますよ、ということ。これで幕府の顔も立つのである。
 この勅答案について孝明天皇がどう考えたのかについては分からない。ただ、揺れ動く孝明天皇は不承不承でも賛成はしたのだろう。少なくとも調印が自分の責任ではなくなる。そして、朝議はこの方向で一致を見た。
 もしも、このままの形で勅答がなされていたら。
 幕府は、「勅許」ではないにせよ「朝廷黙認」の形で調印を進めただろう。そうすれば反対派は「天皇が反対してるじゃないか」「違勅調印だ」という声は上げにくい。後の尊皇攘夷=倒幕運動にも大いに影響が出ただろう。そして、朝廷の権威も以後のように上がったかどうか。結局大政委任以上のことが言えない朝廷は倒幕の旗印にはなりにくい。ひとまず反幕の動きは鎮静化してしまう。井伊直弼が出てくる必要も(継嗣問題はともかく)多少薄れたのではないだろうか。
 しかし、この勅答案はひっくり返る。その種は孝明天皇が蒔いた。
 孝明天皇は、関白以下朝廷上層部に留まらずもっと広く意見を聞いて結論を出すべきだとの意思を伝えていた。それを受けてか新任議奏の中山忠能は、条約反対の意見書を7名の公卿連名で提出する。さらに、88名の公家が無断列参して勅答案反対のデモを起こす。
 これには岩倉具視が絡んでいたようだが、つまりは朝廷内下克上である。この圧力を恐れ、九条関白は最終的に調印反対の勅答を出さざるを得なくなるのである。ついに朝廷が幕府に反対し攘夷を標榜した。尊皇攘夷の嵐が吹き荒れる幕末の最初の一歩だった。
 この88人列参奏上事件は、朝廷内の身分秩序を破壊するきっかけとなった。三条実美ら過激攘夷公卿がこの流れから登場し、それが後に長州破約攘夷派や土佐勤皇党と結びついていく。孝明天皇が蒔いた種ではあるが、その流れは孝明天皇自身を置き去りにしてしまうのである。

 さらに孝明天皇は次の「豪胆」な一手を打つ。戊午の密勅である。しかし、これも孝明天皇の意思が一人歩きした結果であると言える。朝廷を尊皇攘夷派が席巻し、水戸藩がそれに結びつき勅が発動した。孝明天皇の意を汲んではいるものの、主体はもはや天皇には無かった。そして、その反動で安政の大獄。規模は異なるものの鷹司政通の恐れていた「承久の乱」の再現である。この後、水戸藩は勢力を失ってしまう。変わって突出したのが吉田松陰門下による長州藩の尊皇攘夷派であり、井伊直弼暗殺により急速に求心力を失った幕府に襲い掛かる。
 ここまでくると、完全に孝明天皇は概念上の存在と化してくる。その巨大化した孝明天皇=尊皇攘夷という概念は、凋落の一途を辿る幕府と反比例するかのように勢いを強め、「偽勅」なるものが横行する。尊攘派過激公家が尊攘志士と結びつき「天皇の意思」をバックに幕府を圧迫、ついに将軍家茂を京都に呼び付け期限付き攘夷を約束させるのだ。幕府は窮まった。
 ここに至り、孝明天皇はついに「いいかげんにしろ」という意思を示す。それが、八月十八日の政変である。長州藩及び過激尊攘公卿は京都政界から追い落とされた。
 しかしながら、これも孝明天皇の主体的行動であるとも言い難い。尊攘派と公武合体派の政争であり、薩摩藩そして会津藩と、当時孝明天皇が最も信頼を寄せていた中川宮(青蓮院宮)が結託した結果である。孝明天皇の本意は、おそらく自分の名で過激なことが次々と行われていくのを憂いてはいたのだろう。だがこの政変がまた反動を生み、禁門の変へと繋がっていく。
 
 孝明天皇の意思はどこにあったのだろうか。確かに攘夷は実現したかった。ただそれは、争いを望んでのことではなかったのだ。同時に、幕府への大政委任も崩したくは無かった。倒幕など露ほども望んではいない。
 結局のところ、孝明天皇の意思は全て「現状維持」に端を発していると言えよう。攘夷も、今まで国内だけで平和を謳歌してきたことを崩されたくなかっただけであったとも取れる。孝明天皇の攘夷は現状維持の裏返しであったのだ。全ては古法のまま推移すればそれでいい。皇統意識は十分に受け継いでいるものの、それを発展させようという野望も無かった。大政委任を最後まで崩そうとしなかったことからもそのことは知れる。
 孝明天皇はその後、一橋慶喜と会津松平容保に信頼を寄せ傾斜していく。慶応元年9月に長州再征に勅許、そしてついに10月には通商条約に遅ればせながら勅許を下す。この時点で、尊皇攘夷という思想は崩壊したことになる。
 もっとも、過激尊皇攘夷の長州においても、下関攘夷戦争の敗北によって既に事実上は開国論へと転向している。薩摩も薩英戦争に敗れて内々では攘夷は引っ込めている。しかし、尊皇攘夷=倒幕の動きはまだ表向きは連なっており、旗印となっている。
 攘夷はともかくとしても、孝明天皇は全く幕府を否定しない。尊王論で倒幕運動を継続するためには、孝明天皇は大きな壁となる。

 慶応二年正月に薩長同盟。薩摩藩は7月、征長軍解兵の建白をするが、孝明天皇はこれに反対する。ここに至って、孝明天皇は完全に薩長の敵となった。
 そしてこの年の12月。孝明天皇崩御。享年36歳。
 この後、重石が取れた倒幕運動は一気に加速していく。将軍慶喜による大政奉還も蹴散らし、薩長は武力討幕へと邁進する。このような急激な変革は孝明天皇が存命であれば間違いなく反対したはずで、薩長軍が錦の御旗を掲げて官軍となることも難しかったとも言える。
 そのことから、孝明天皇は毒殺されたとの説が当時からささやかれていた。現在でも毒殺説は根強い。ただ、証拠が無い。泉涌寺にある孝明天皇陵を発掘して検死でも行わない限り真相は闇の中である。宮内庁がそんなこと許可するわけがない。
 もしも毒殺が行われたのであるとすれば、それは倒幕勢力がやったことに間違いはないだろう。薩長は、孝明天皇の思想を利用するだけ利用し、邪魔になったら消した、ということになる。
 もちろん単に天皇は病死したのかもしれないが、倒幕派はさらに死後もその思想だけは利用し続けたとも言える。草莽の志士たちはそれに踊らされ、いつまでも尊皇攘夷が旗印だと信じていた。最初にも書いたが、こういう政治手法は嫌いだ。
 あくまで尊王攘夷で倒幕を成し遂げた明治政府は、その攘夷論を正式に引っ込めたのは明治になってからである。明治2年に政府は開国和親を国是とした。それまでは詭弁攘夷を続けていたとも言える。また、尊王論はさらに盛んで、その影響は最終的に明治憲法に盛り込まれて終戦まで続いた。現在もまだその影響力は残っているとも思われる。

 孝明天皇は、もしかしたら怨霊になったのではないか。古代であればともかく、明治の世にそうはっきりと史実としてあるわけではないが、中川宮(青蓮院宮)の日記によれば、明治天皇の枕元に「鐘馗ノカタチノヨウニ」現れ続けたという。これだけでは亡霊であり祟ったわけではないが、古代であれば例えば大久保利通の死などは祟りであると正史に記された可能性もある。日本史上最後の怨霊は実は孝明天皇であったのかもしれない。

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6 コメント

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リンク、ありがとうございました (jasmintea)
2009-07-12 22:36:58
読み応えがある記事ですね。
歴史が好きな人ならきっと「何故孝明天皇は攘夷論者だったのか?」は考えますよね。
理論だけでなく感情論にも言及されているところがより現実的ですごいなぁ、と感心しました。
ホント、説得力がありますね~

以前、孝明天皇暗殺の創作を途中まで書きかけました。
犯人かと思われる堀河紀子の視点で。
黒幕はもちろん上記の方の異母兄かなぁと。
春耕の話も面白いですよね。
どうも創作とは言え断じてしまうことに気がひけてお蔵入りになっています。

死の真相がどうあれ孝明天皇の思想が利用された、は卓見ですね。
そう考えるとまた違った歴史像が浮かんできます。
日本史最後の怨霊ですか……
それも納得。
と、結びの言葉がうまく見つからないほどぐうの音も出ませんので「そっかそっかぁ」と言ったままで失礼します


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>jasminteaさん (凛太郎)
2009-07-14 05:09:44
すみませんコメントまでいただいて。読み応えというより、長すぎますね。
本当は鷹司政通と青蓮院宮についてもう少し言及するはずだったのですが字数制限に引っかかりました。最近は10000字でも短い…(アホか)。
ところで、引用させていただいてありがとうございました。光格天皇についてはjasminteaさんのまとめが最も分かりやすい。助かりました。

孝明天皇暗殺については創作であれば別に書いても問題はないかとも思うのですが、やっぱり書きにくいでしょうか。
春耕の話はさすがに裏づけが無く信じるのに勇気が要りますけれどもね。刺殺が隠し通せるものかとも思えますし(でも宮中ってそういうことも可能かな?)。
最近ではむしろ病死説の方が強いようですね。どうしても毒殺説では決定的証拠が見出せないからでしょうか。さらに、わざと天然痘に感染させたのだ、とする言わば「生物兵器」的発想の説もあり、こうなると仮に未来、孝明陵が開かれたとしても証拠は残ってはいない。完全犯罪成立ですね。
いずれにせよタイミングの良すぎる死でした。
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革命には戯言が必要 (Kenneth)
2012-09-25 10:37:43
私、最近の反原発運動ニュース見るたびに、幕末の尊王攘夷運動思い浮かべてしまいます。
日本人の空論好きは朱子学からと言ったのは司馬さんだったと思いますが、孝明帝はそれこそ子供の寝言レベルでの攘夷論者だたっとも言われています。
攘夷論から倒幕論に至る過程はおっしゃる通りですから、
歴史的史実をたどってみても、恐らく帝が攘夷論者で有った事の問題はそれほど無かったと思います。
むしろ佐幕派で有った事の方が彼の数年間で有為の人材を弑した元になっていると思います。
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>Kennethさん (凛太郎)
2012-09-27 05:51:49
ありがとうございます。
現在の政治と動向のことはわかりませんけれどもね(まだ歴史としての検証がなされる時期ではありませんから)。
孝明天皇の攘夷論が子供の寝言レベルだったのかどうかは僕には判断がつきかねますが、仮に攘夷論者でなければ、どういう形で雄藩の示威運動、幕政改革要求運動、そしてそれに連なる倒幕運動がなされていったのかには興味はありますね。幕府を困らせるために別の思想が「空論」として現れたのか(笑)、あるいはやはり尊王攘夷論が最初から天皇の意思を超えて一人歩きする状況になったのか。
孝明天皇が佐幕派であったのはもう致し方ないと思うのですが、様々な変転は無駄な死者を生んでしまったとは思いますね。
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尊皇と攘夷 (たける)
2015-06-09 10:37:13
最近西郷隆盛に興味を持ち、幕末のことを調べているうちに、なぜ尊皇攘夷なのかという疑問を持った者です。尊皇と攘夷がなぜセットなのか不思議に思い調べているうちに、貴サイトにたどり着きました。尊皇攘夷とは孝明天皇のことというご説合点がいきました。またよろしくお願いします。
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>たけるさん (凛太郎)
2015-12-03 04:42:18
ありがとうございます。レス遅くなりまして大変失礼いたしました。
尊皇攘夷=孝明天皇というのは本当に極論なんですけど、僕は理解がしやすいのでそのようにとらえています。
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