凛太郎の徒然草

別に思い出だけに生きているわけじゃないですが

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松谷祐子「愛はブーメラン」

2014年12月28日 | 好きな歌・心に残る歌
 今年(2014年)は、珍しく僕の住んでいるところでも12月半ばに雪が降った。
 北陸に住んでいた頃は、12月どころか11月でも降雪があったものだが、西日本の平野部ではまずそういうことはない。爆弾低気圧、なんて言葉も出てきた。先んじて寒波がおそったため、例年のクリスマス寒波は来ず、今は比較的穏やかに推移しているが。
 過去の寒かった年のことを思い出す。
 北陸に住んでいたときは「三八豪雪」「五六豪雪」というえげつない雪害が半ば伝説的に語られていて、二階から外に出たとかいろんな話を聞いたものだが、その頃は京都に居たので全く覚えがない。ただ、昭和58年の暮れから59年にかけて降り出したいわゆる「五九豪雪」は、日本海側だけではなく山を越えて太平洋側でも降雪があったために、よく記憶している。
 この年は、大学受験の年だった。

 生来の怠け癖のせいか、受験というものをずっと薄くしか意識してこなかった。
 もちろん怠惰な性格のためであって、これを学校のせいにしてしまうと「馬鹿者」と言われてしまうのだが、なんとなく高校生活においてはずっと「進学」ということが遠い世界のように僕には思えていた。
 僕が住んでいた地域の公立高校には、当時、学校間格差というものがなかった。「十五の春は泣かせない」という言葉を今もおぼえているが、当時の京都の公立高校は「高校三原則(小学区制・総合制・男女共学)」を堅持していて、公立であれば近所の高校へ進学することになっていた(これが小学区制)。そのため公立高校のレベルはどこも同じで、高校入試も特に苦労した記憶も無く、その高校に入ればアタマのいいヤツからそうでないヤツまで様々なレベルの生徒が混在していた。ガリ勉から不良まで雑多で、制服も無くそれは面白い高校生活だったが、こと進学ということに関しては学校としてはあまり手を打っていなかったというのが実情だったろう。そりゃしょうがない。同じクラスの中に、国立大学を目指すヤツもいれば植木屋を目指すヤツもいたのだから。特別な授業など出来ない。
 なので進学のための勉強は、個人に委ねられていた。レベルの高い勉強をしたいヤツは予備校や塾に通う。
 僕は怠惰な性格なので、そういうことを放置して青春時代を謳歌していた。ぼんやりと大学に行きたいとは思っていたが、特別なことは何もしていなかったと言っていい。そうして、いつしか3年生になっていた。

 夏に、模試をいくつか受けた。
 そこで、これではダメだということを思い知らされた。歯が立たないのである。尻に火が付いた。
 しかし火はすぐに熾火となってしまう。こりゃ今からじゃ間に合わないんじゃないか。そしてすぐに、一年浪人すればなんとかなるかも、というところに思考が飛んでゆく。
 親にそのことを言うと「阿呆か」と言われた。そんな経済的余裕はないぞと。兄弟も居て、教育費だけでパンクしてしまうではないか。現役でどっか入ってくれ。最も望ましいのは、家から通える学費の安い国公立大学であると言う。
 しかし地元の国立と言えば京大である。そんなんは逆立ちしても無理や、あんたらの息子やでオツムのレベルくらい想像がつくやろ、と言うと、せめて安めの私立なら良い、しかし地方へやるのは無理だから、家から自転車で通えるところにしろ、と。
 18歳の僕は、岐路に立たされていた(遅いっつーの)。
 僕は、数学が致命的なほどに出来ない。
 ならば私立文系ということになるが、これもアタマを抱えることになる。英語が不得手なのだ(数学と英語が出来ないで進学を考えるなど身の程知らずも甚だしい)。
 ただ、国語と日本史は、模試では結構いい成績をとっているのである。古文も得意だし、当時から歴史ヲタクだった。しかし偏りが大きすぎた。
 私立文系の入試の形態は、大学により様々である。だが、困ったことに多くは英語の比率が大きい。英語200・国語100・社会100とか。英語150・国語150・社会100なんてのも。これでは受からない。その中で、英語国語社会で100点づつの300点満点の大学があった。それがどういう天の配剤か「自転車で通える大学」だった。そして、その大学は大学野球でいつも応援していてファンであり、父の母校だった。
 狙いは定まった。

 しかし定まっただけで、そこから受験モードに急に切り替わったわけではない。夏休みの宿題は9月1日に始め、試験は一夜漬けを得意としてきた僕だ。とりあえず問題集などを買い込んだが、なかなか勉強に手がつかない。ついTVを見てしまう。
 そうしているうちに、秋も過ぎ冬を迎えようとしていた。
 学校の授業は、あいかわらず平常営業である。特に受験体制ではなく教科書を追っている。僕は微分積分などどうでもいいので、内職をしていた。机の下の「試験に出る英単語」を暗記している。他にもそういうヤツはいっぱいいた。教師も黙認していた節がある。そのうち、欠席が目立つようになってきた。授業より受験勉強を優先しているのだろう。
 欠席という手もあるか。出席日数を計算すると、このあと2学期全休しても落第にはならないようである。僕は、ちょっと籠ろうと思った。
 その年、親父が滋賀県で中古の家を購入していた。
 京都の家は借家であり、仕事もありそのまま住み続けていたが、いずれ定年後のことを考えて安い家を買ったらしい(だから貯金が無くて浪人を許さなかったのか)。したがってその家は現状空家だった。
 その家は、電気水道ガスは何とか通じていたが、電話もTVもまだ無かった。余計なものは何も無い。意志の弱い僕には大変好都合である。TVがあるとつい見てしまう。
 12月も初旬を過ぎた頃、僕は親父の車にストーブと小さなコタツ、布団、参考書と問題集、食料を積んで、その家に送ってもらった。そして、自ら篭城を始めた。

 その家に年末まで20日間ほど居たのだが、よく生活していたなと自分でも思う。何食ってたんだろう。ほとんど記憶がない。冷蔵庫も無かったはず。外出もしなかったし、おそらくカップラーメンばかり食べていたのではないか。二度ほど親が来たが、食料と着替えを置いていったくらいだっただろう。だいたい電話も無く(もちろんケータイもない)、僕の人生であそこまで世俗を外れたことはなかったように思う。
 雨戸も閉めたまま。だんだんいつが昼か夜かもわからなくなっていた。眠くなったら寝る。ハラが減ったら何か食う。あとはひたすら、勉強。
 ただ、ここが僕の意志の弱いところなのだが、ラジオだけは小さいのを持ち込んでいた。疲れたら、スイッチを入れた。唯一の娯楽だったか。
 AMしか入らないラジオだったが、音楽は流れていた。
 よく聴こえてきたのは、松田聖子の「瞳はダイヤモンド」。小泉今日子の「艶姿ナミダ娘」。そして山下達郎の「クリスマス・イブ」。

  映画色の街 美しい日々がきれぎれに映る
  いつ過去形にかわったの

 これらを聴くと、あの孤独を感じる間もなかった受験勉強の頃が思い出される。それはそれで、充実した日々だったと今になって思う。

  夕暮れ抱き合う舗道 みんなが見ている前で
  あなたの肩にちょこんとおでこをつけて泣いたの

 トイレに行こうとして、ふと窓の外を見た。
 雪が降り積もっていた。全然気が付いていなかった。ここまで積もった雪をあまり見た記憶がなかった。冷えるはずだ。空からはまだ絶え間なく白い雪が降り続いている。

  心深く秘めた想い 叶えられそうもない
  街角にはXmas tree 銀色の煌き Silent night Holy night

 このうたは、あれから30年以上過ぎたのに、まだ命脈を保っている。僕にとっては、このうたはやはり1983年12月のうたとして鮮烈に記憶に残っている。
 
 年が明けると、すぐに共通一次試験。無駄とは知りつつ、マークシートだものどう転ぶかわからないので、一応受験した。
 結果、惨敗。100点満点の日本史の点数を200点満点の数学Ⅰの点数が大幅に下回るという恐ろしい結果となった。しょうがない。さあもう本命に絞っていこう。
 そして、その本命の受験日。また雪が降った。この冬は本当によく降った。
 僕は自転車で受験会場である大学へ向かったのだが、路面は凍結しており、途中坂道で思い切り滑り横転し、腕を痛めた。だがそんなことは言っていられない。動揺しつつも、何とか受験会場には間に合った。
 試験は、全然出来た気がしなかった。難しすぎた。駄目だ。やはり、付け焼刃の勉強では追いつかなかったか。僕は憔悴して空を見上げた。雪が少し小降りになってきた。

 それから合格発表までの数日間のことをまた思い出す。
 2月以降、もう学校も授業などはやっていない。だから行ってもしょうがないのだが、なんとなく顔を出すと、受かったヤツ、落ちたヤツらが報告に現れる。予備校の相談もしている。その悲喜交々とした様を見ているのも、まだ着地していない僕にはしんどかった。3月になればすぐに卒業式がある。就職組や合格組は様々に相談をしているが、輪に入る気にもなれない。
 僕はこれからどうなってゆくのだろう。先行きが見えず足が地に付かないこの中途半端な「あわあわ」とした気持ち。それは今まで味わったことのない時間だった。
 僕は、ひとりで街へ映画を見に行った。アニメーション「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」が封切りとなったので、ラムちゃんのファンだった僕は、せめてこれくらいは見ようと思った。
 映画は、傑作だった。非常に面白かった。公開は二本立てで、併映は吉川晃司主演のアイドル映画だったのだが、入替制でないのをいいことに吉川君の映画の間は居眠りをして、2回見た。映画など頭に入るかな、と最初は思っていたのだが、しばしそういうことは忘れた。
 外に出れば、もう暗くなっている。吉川晃司の映画を挟んで3本見たことになるので、ずいぶん時間も過ぎていた。
 空を見ると、また細かな白いものが舞っている。
 僕の頭の中ではずっと映画のエンディングテーマだった「愛はブーメラン」が繰り返し流れていた。

  今 あの娘の細い腰 手を回した 悲しいわ これっきりね
  今 想い出永遠に消しましょうか ため息で So long in my dream

 そのときの繁華街の風景を今もよくおぼえている。ポケットに手を突っ込みながら、帰りのバス停へ向かうでもなく、うつろな目で歩いた。
 湧き起こる「あわあわ」とした気持ちを「愛はブーメラン」がいっとき押し流す。そしてまた再び空虚感が襲ってくる。
 今、同じような状況に至っても、こんな気分にはなるまい。若かったのだろう。アーケードから出ると、また雪。

  もしか もしか 愛はもしかして 放り投げたブーメラン

 大学には奇跡的に合格していた。当日僕は合格発表を見に行く気にもならずフテ寝していたが、母と妹が見に行ったらしい。叩き起こされた。そして、春が来た。
 今も、あの気持ちが揺れた冬のことを懐かしく思い出すときがある。
 
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2 コメント

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あの冬 (よぴち)
2015-01-02 23:18:33
凜太郎さん

年末に この記事を読んで
あまりに いろんな思いがあふれて来て

けど ほどなく娘も帰省してくる、コメントは今、すぐにやっつけ仕事で書きたくはない、と思いました

今、この記事を再読して やっぱり 込み上げてくるものがある…
同い年だから、なおさらです

貧乏だから、大学へ行くつもりもなかったのに 突然 母親に「お金は出せないけど大学へ行ってほしい」と言われたのが3年次の10月(就職シーズン)、就職することを許してもらえなくて、そこから大学進学を考えました

私は いわゆる進学校、と呼ばれる高校にいたにも拘らず、福井のそれは 都会ほどシビアなものではなくて、私はバレーボールとギターに被れて、家が遠いこともあって教科書は全て学校に置いてありました
ただ、やはり進学校なので、毎日毎日、小テストなどがあって、それを受けているだけで国英数だけは なんとか標準以上を保つことが出来たのです
そんな状態だから やっぱり11月の、共通一次前の最後の模試でも理社(私は生物・化学・日本史・倫社を選択していた)などは惨憺たるもので、覚えてもいないけれど倫社などは30~40点だったような気がします
確か12月初旬くらいから「自由登校」になり、そこからはもう、学校へは行かず、さすがに家で勉強を試みる
しかし、集中して勉強する習慣も身についておらず、勉強の仕方も分からない私は、こたつで「傾向と対策」や、「マンガ日本史」「マンガ倫理社会」「でる順倫理社会」などを ひたすら読んでいました

だけど、とにかく不安でぼんやりとした気持ち
たまに学校に行く時に通る駅前のビルからは いつも「YaYa~あの時代を忘れない」が流れていました
今でも、この曲には何か、じーんと来るものがあってしまいます
そして、その年、年末~正月15日までの間に、何故か、「鎌田行進曲」が2度もTV放映されたのです
2度目は共通一次の2日ほど前でした
私は、TVのある部屋の障子のところに立って見ていましたが、「寒いから戸を閉めて炬燵に入って観ろ」という兄貴に「ちょっとしか観ないよ、勉強しないといけないから」と言って断っては、結局、最後は炬燵の布団で涙を拭きながら観ていたのも覚えています
だから今でも、「鎌田行進曲」は、私の中で何か特別…

同様に、高校受験の思い出には、松山千春のドキュメンタリーライブ番組が重なるのですが…

この記事を読んで、私は意外と、思い出って冬に多いな、って気付きました
2015年初春、降り積もる 雪の中で
静かに 自分なりに振り返ってみたいと思います

こんな機会を与えてくれて ありがとう
今年も お互いに 幸せな気持ちでいましょう
祈ります

追記
自慢(になるのか?)がてら、マンガ倫理社会とでる順倫社は、すごく効果的で、本番で私は90点取ることが出来ました!
>よぴちさん (凛太郎)
2015-01-09 21:36:34
誰もがさまざまな「18歳の冬」の物語を持っていると思うのです。
それはただ、高校卒業という青春の一区切りにとどまらない。社会に出る人はモラトリアムの終焉ということですし、進学するものは受験という絶対的イベントがある。生まれた場所から離れる人もいるでしょう。友人との別れもあるでしょうし、恋の行方に不安を感じる人もいるでしょう。その中で、先行きへの不安感は誰もが持っている。その不安定な中にも、いつも音楽は流れていて、心の隅に忍び込んでくる。
よぴちさんのお話をお伺いして、みな同じような、そしてまた違った18歳の冬を過ごしていたのだなぁとあらためて思いました。
しかし、こういう話は僕だけが読むのはもったいないですなぁ(汗)。記事にしてくれないかしらん(笑)。
夏が好き、と僕もいつも言ってるわりには、思い出は冬のほうが何故か濃い。それは、僕も思います。なんででしょう。

しかし倫社90点はすごいですねー。もちろん、僕の数学Ⅰの点数を遥かに上回っています(笑)。

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