凛太郎の徒然草

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もしも元寇のとき神風が吹かなかったら2

2010年03月29日 | 歴史「if」
 約5年前に記事としてもしも元寇のとき神風が吹かなかったらを書いた。この記事の主旨は、もしも神風が吹かず元の侵略軍が進攻すれば、鎌倉幕府は疲弊し幕府崩壊が早まる可能性がある、さすればどうなるか、後醍醐天皇の登場前に幕府が倒れれば南北朝の対立がおきなかった可能性がある、という話である。
 ただ、その前段として文永・弘安の役に当然触れる。その部分に事実誤認があるとして、大型掲示板でこの記事が取り上げられ、罵る内容の名無しコメントがいくつもついた。これは実にネットの暗部であり卑劣なコメントなどは即刻消去だが、こちらもあまりこの戦役については勉強せずに教科書的な通り一遍の記述をしている。なので、もう少し史料にあたって考え直してみようと思う。

 考えるにあたっては、まずモンゴル帝国の世界制覇というものがどのようなものかを知る必要がある。
 遊牧民族は、牧畜が主体の生活様式であり、基本的に定住性を持たない。家畜を率い牧草地を求め移住を繰り返し生活している。この遊牧民族が馬を移動手段に用いだして後、騎兵団が誕生してくる。機動力に優れた集団騎兵戦術は、ユーラシア大陸の定住民族にとっては脅威となっていった。
 スキタイ人の進入に始まり、秦の始皇帝に万里の長城を築かせた匈奴。ゲルマン民族の大移動を引き起こしヨーロッパの歴史を変えたフン族。これら民族はいずもユーラシア大陸の内陸に発しその集団移動能力と優れた騎射技術でユーラシア大陸を席巻した。
 そして12世紀末、モンゴル高原に端を発したチンギス・ハンが遊牧民を束ね、軍事集団を編成し版図を広げてゆく。それまで、遊牧民族の結集を恐れていた周辺諸国は、彼らの分断政策を続けていた。だが、ゴビの高原に割拠する民族を束ねたチンギスは、統一の果てに来る内部分裂を恐れ、戦い続けることによってその結束力を強めた。すなわち外征。そして戦闘能力の高いモンゴル騎兵集団は、極めて速いスピードでユーラシア大陸を覆うことになる。
 チンギス在世時に、まず中国北半分を制していた金を長城を突破して叩き、中央アジアからイラン高原をおさえていたホラズム・シャー朝を崩壊させ、中国西北部の西夏王朝を滅ぼした。
 チンギス没後もモンゴルは拡大を続ける。二代目のオゴディは金帝国にとどめを刺してのち、南宋への侵攻、そして西北ユーラシアへ派兵する。オゴディの甥バトゥは、キプチャク草原(カザフからモルドバに広がる平原)を制圧し、ロシア進攻、ハンガリーまで陥落させウィーンに迫った。ここでオゴディが死んだため一旦撤退したが、このままバトゥ軍が攻め続ければヨーロッパはどうなったか。歴史が大きく変わるifである。
 さらに、チンギスの孫にあたる四代目のモンケは、二度目の東西同時進攻を開始する。前回失速した南宋方面に次弟フビライ、三弟フレグを西アジアに派遣した。フレグはイラン方面からバグダッドまで進み、シリア・ダマスカスを陥落させた。その間、フビライは雲南・大理まで陥した後、長期戦に入ったためモンケはこれを不服とし自ら四川まで攻め入り、ここで急死する。ためにフレグは西征をストップ。シリア以降の部隊は本軍ではなかったためか、エジプトへの南下は失敗する。フレグがそのまま攻め続けもしもエジプトを陥落させていたらイスラム圏はどうなっていたか。
 一方フビライはその後も南宋攻略を続け帝位を握る。この結果、フビライがモンゴル帝国の五代目帝王として君臨し、元を建国、そして中央アジアにチンギスの次男チャガタイを始祖とするチャガタイ汗国、ロシア方面にバトゥの流れのキプチャク汗国、イラン方面にフレグのイル汗国が出現し、この四国によるユーラシア横断のモンゴル連邦帝国が生まれる。史上最大の版図だった。
 フビライは帝国の首都をモンゴル高原カラコルムから上都(現在の北京)に遷都する。そしてさらに世界戦略を開始する。日本への侵攻はこれ以降の事柄となるが、フビライ、つまり元の目的は当然ながら成しえていない南宋征服、中国統一が一義だった。

 では、なぜモンゴル帝国は日本を攻めようとしたのだろうか。
 フビライが帝位に就いたのが1260年、そして6年後には高麗を通じて日本へ使者を送ろうとしている。このときはまだもちろん南宋は陥落してはいないし、即位後はまだ進攻もしていない。実際使者が来たのは1268年、南宋作戦は開始されてはいた。モンゴルは同時作戦が常ではあるし、南宋貿易を続ける日本が目障りであったのかもしれない。しかし海を渡った山だらけの小さな島など、南宋と比してそれほど重要視する必要もないはず。
 また、モンゴルは日本で産出される金を狙ったのだ、という意見もあるが、そこまでちゃんと日本を調査していたのかどうかはわからない。 
 最初の使者がもたらした国書の内容は、通好を望む一見穏便な文にも見え、また高圧的にもとれる。論争がある部分であり、漢文に通じていないのでどちらなのかよくわからない。ただひとつ「至用兵夫孰所好(兵を用いるのは好むところではない)」というのが脅しに見える。これも修辞であるという意見もあるが、やはりどうも脅しに感ぜられる。モンゴルは、とりあえず威嚇し、この書状だけで属国になれば良し、と考えていたのではないか。世界を相手にするモンゴルとしては、ここは省エネでいきたい。軍隊を送るほど実益があるとも思えない。
 ここは、日本はどう対応すべきだったのだろうか。とりあえず朝貢国となるか。そうすればモンゴルは攻めてこない。後の対馬などの惨劇は避けられたが、南宋攻撃などに駆り出された可能性が非常に高い。高麗を見ればわかる。後の歴史を知れば、いずれ日本は独立を取り戻すことが出来るだろうが、未来は見通せない。
 日本は、モンゴルを無視した。返書も送らない。これで、宣戦布告をしたのと同じことになる。

 そして文永の役。戦況は史料が少ない。
 日本側の史料として「十月五日蒙古寄来、着対馬嶋、同廿四日、大宰少弐入道覚恵代藤馬允、於大宰府合戦異賊敗北(鎌倉年代記)」などがあるが簡略すぎる。吾妻鏡は文永の役直前で記述が終わっている。
 高麗側に「東国通鑑」「高麗史」、元側に「元史日本伝」などがあるがいずれも記述に乏しい。結局絵巻物である「蒙古襲来絵詞」と寺社縁起である「八幡愚童訓」が最も詳しく、これらから戦況を浮かび上がらせる以外に方法が無い。
 教科書や読み物の多くは八幡愚童訓を定本としている。これはかなり詳細に書き込まれ、文永・弘安の役ともども戦況を読み取れる。僕もそういった書籍を前回は参考にしている。
 ただし、これについては史料批判があるらしい。つまり宗教書であり、神の加護によって元を払いのけたところに主眼があり武士の戦功をないがしろにしているのでは、という視点。
 例えば前回僕が記事で「日本の戦法はまだ、やあやあ我こそは…であったらしくこれでは鉄砲も持つ元軍に勝てるわけがない」と書いたが、当時の武士団は集団戦法であり事実誤認がある、と噛み付いた人がいた。八幡愚童訓には「日本ノ戦ノ如ク、相互二名乗リ合テ、高名不覚ハ一人宛ノ勝負ト思フ処」という記述があり、これによれば鎌倉武士は一騎打ち戦法で立ち向かったことになる。だがこれは八幡愚童訓がおかしいのだ、ということらしい。
 八幡愚童訓には異本が多く、中でも「八幡ノ蒙古記」はこの部分の原本らしいとの評価がある。所蔵していた江戸の国学者橘守部によれば、筥崎宮の社官である圖書允定秀の筆で、成立は1289年、まさに見てきた筆であると考えることも出来る。これによれば、「日本の軍の如く、 相互に名のりあひ、高名せすんは、一命かきり勝負とおもふ処に」とあるらしい(孫引き)。つまり武士同士が名乗り合い恩賞の証人を得ようとしていることの描写である、と。これは、蒙古襲来絵詞とも合致する事柄であり、「やあやあ我こそは」は訂正したいと思う。
 ただ、鎌倉武士が本来の意味において集団戦法をとっていたかどうか。
 八幡愚童訓に、蒙古軍は太鼓を叩き銅鑼を打って兵をコントロールしている様が見受けられる。これは蒙古襲来絵詞にも描かれており事実だろう。対し鎌倉武士団は完全に集団戦法であったとは言いがたいのではないか。蒙古襲来絵詞の主役である竹崎季長は、郎党総勢5騎で「先駆け」を試みている。いかに許可を得たとはいえこんなの現在の尺度でみれば軍規違反だろう。結局季長は「討死・分捕(相手を死傷させ首を取る)」もなくやられるところを白石通泰軍に助けられ、しかも菊池武房軍が先に突撃し首も取っており「先駆け」でもない。だがこれで季長は鎌倉に恩賞を求めそれが認められている。これはつまり鎌倉が5騎による一種の個人プレーを良しとしたということであり、モンゴルの集団戦法とはかなり隔たりがあるのではないだろうか。
 蒙古襲来絵詞にある菊池武房や白石通泰は100騎を超える兵を率いており、指令系統もはっきりしていたであろうこの中では集団戦法がなされていただろう。ただ、各々の軍の集まりであり、緒戦は集団戦法であるとは言い切りにくい。
 ただし、蒙古軍がいかに整然とした戦法をとったとはいえ、個々の戦闘能力はまた別であろうと思われる。鎌倉武士の「御恩奉公」「一所懸命」の必死さは怖い。結局武士は個人の名を揚げるために戦うのであり、戦意が衰えない。竹崎季長がわずかの兵で死をも恐れず討ち入るような行為は、蒙古軍には脅威だっただろう。覚悟が違う。これは、個人戦の強みでもある。集団戦法>個人戦闘とは一概には言えない。
 
 そも、八幡愚童訓はそれほど歪んだ歴史を伝えているのだろうか。該当箇所を読んでも、どうもそのようには思えない。確かに八幡大菩薩の神徳称揚を前面に出してはいるが、個々の戦況、事実関係にさほど虚飾があるようには読めない。
 武士を貶めているとすれば、例えば矢合わせの鏑矢を放ったところ蒙古兵が「どっと笑い」と書かれているが、それを「古い戦法をとる鎌倉武士、神のご加護がないと勝てなかった」とまで解釈するのは行き過ぎであるような。そこまで詳細に貶める内容の架空の出来事を神社の社官が書き留められるだろうか。
 蒙古軍の戦法もかなりリアルに描写されている。また、蒙古軍の大将である流将公(これは蒙古軍の左副司令官、劉復亨であるとされる)を小弐景資が射た場面も、確かに八幡神の威光であると記述するものの、その神がかった部分を除けば事実関係はそのとおりだろう。武士団は奮戦し、敵将に深手を負わせたのだ。客観的な部分はさほど信用に値しないとは思われないのだが。日本軍は耐えかねて博多筥崎を打ち捨てて古来の水城へ落ちたと書かれているが、その憎々しげな部分は主観として、水城へ退却したのは事実であろうから。
 結局戦況を詳細に記しているのは八幡愚童訓と蒙古襲来絵詞しかないわけで、それらを総合して判断せざるを得ない。
 初日未明より戦闘を続け、鎌倉武士は奮戦した。が、夕刻20km離れた大宰府の水城へと退却する。日宋貿易で栄えた博多は蹂躙されたとみていいだろう。「博多ヲ逃シ落人ハ、一夜ヲ過テ帰リシニ、本宅更替果」と八幡愚童訓に記される。戦場であったのだからこれは致し方ない。筥崎宮も焼けた。蒙古軍優勢と言えるだろうが、武士団はまだ壊滅したわけではなく翌日も戦闘は続くと思われた。
 蒙古軍は日本軍が大宰府まで撤退したことを受け、博多に橋頭堡を築くことも可能かと思われた。戦略上はそうするのが当然と思われる。だが、蒙古軍は日没とともに帰船してしまう。そして、夜が明けたら消えていたのである。なんとも不可思議なことだ。
 鎌倉武士の猛進ぶりに恐れをなしたのか、と思わず考えてしまうが、日本軍は間違いなく20km離れた水城まで撤退している。博多を空けているのに。このことから今回の侵攻は「威力偵察」ではなかったか、との説が生じたのだろう。
 原因は明確ではない。「高麗史節要」は「至一岐島、撃殺千餘級、分道以進、倭却走、伏屍如麻、及暮乃解。會夜大風雨、戰艦觸巖崖多敗、金侁溺死」と記す。壱岐島で千余人を殺し、道を分け進み、日本は逃げ、伏せた屍麻の如く。日が暮れて戦闘を解き、夜嵐に遭い、戦艦は崖に叩かれ多くは敗れた。キンセンが溺れ死んだ。そう読めばいいのか。よくわからない。
 「高麗史金方慶伝」だともう少し詳しい。「倭兵大敗伏屍如麻」までもう少し細かく状況が記される。そして高麗の将、金方慶は忽敦(忻都とも モンゴル人将)と洪茶丘(高麗人)に「我師雖少、已入敵境(師は少なくても敵地に入ってる)」と言い、「即孟明焚船淮陰背水也」と説く。背水の陣で戦えと。しかし総司令官忽敦はこれを退けて軍は撤退となった、という。忽敦は、こちらの軍は兵が足りない、しかも疲れている、また敵軍が増えているとその理由を述べている。
 博多だけの合戦を見れば、一日しか戦っておらず敵軍が増えているとはおかしい。これは対馬、壱岐などの戦闘を踏まえてのことだろうか。いずれにせよこれ以上戦っても益はない、と言うかのようである。「元史日本伝」は「矢が尽きた」と記しており、これも戦力が整わないことを示している。
 そして、蒙古軍は自ら撤退した。そして帰還途中嵐にあったと考えられる。不還者は1万3500余人にものぼったらしい。

 蒙古軍の目的がわかりにくい。
 威力偵察であるのなら、太宰府まで攻め込んでおかないと「偵察」にはならない。そんな何百年も前に築かれたものなど役に立つはずがない、と既に蒙古軍は判断しており対馬や壱岐の戦闘能力、そして博多の防衛度合いが分かればそれでよかったのだ、とするむきもあるだろうが、それでは判断が甘い。当時大宰府よりも博多の方がおそらく栄えていただろうが、軍事となればそれは別だ。本当に大宰府が役立たずの遺物なのか確認せねばならないし、日本軍は退いたのだからそれが出来たはず。威力偵察説は首肯しがたい。
 示威的軍事行動であったとの考え方も出来る。もともと元は日本を朝貢国にしたかっただけであり、領土にしようとは考えていない(高麗も元の版図には含まれていない)。威嚇できればいいのだ。対馬、壱岐は蹂躙した。博多も一応攻め込んだ。怖さはわかったはず。これ以上は外交でいいだろう。こちらも消耗したくはない。
 一応、現時点ではこれに頷いておこうと思う。加えて「而官軍不整、又矢尽(元史日本伝)」つまり兵站に不安があったこと。また「復享中流矢、先登舟、故遂引兵還(東国通鑑)」つまり劉復亨負傷によることもあるだろう。予想以上に日本軍が抵抗したこともある。侮りすぎていたかもしれない、と。そういう理由も加味し、撤退。
 撤退は忽敦が決定。モンゴルの戦法として、退くときはさっと退く。高麗の将である金方慶はゴネたようだが、あくまで総司令は忽敦。
 これは裏目に出る。帰還途中に風雨で相当の被害を出してしまう。
 だが、「倭却走」「倭兵大敗」とあくまで戦争には勝ったことになっている。対馬、壱岐のことはあるにせよ博多においては一方的勝利にも見えないが、「伏屍如麻」「惟虜掠四境而帰」と記すとおり、蒙古軍は勝ったと判断していた。これは、そりゃ虚飾だろうと片付けることも出来る。日本だって「於大宰府合戦異賊敗北」と記しているのだから。
 しかし、蒙古軍は本気で大勝利と考えていた可能性もある。その理由は、後述する。

 文永の役は蒙古軍の撤退で一応、終わった。
 だが幕府は、当然これで終わったとみていない。文永の役で水際作戦がとれず博多湾に簡単に上陸を許した反省から、湾岸に石塁を築く。防御を固めそして、高麗へ出兵も計画する。戦時体制を崩すことはなかった。
 そして、元より使者が渡来する。杜世忠ら5名。合戦後すぐ、と言っていい。目的は、宣諭だった。諭しにやってきたということ。
 つまり、元は示威的軍事行動が成功したと考えていたということだろう。日本軍を一度は叩きのめした、と。
 これをもって文永の役は蒙古軍勝利だった、と短絡的には考えられないが、両国の意識の齟齬はあったのだろう。鎌倉は、この5名の宣諭使を斬首する。
 このことについて前回僕は「国際常識がない」と書いた。宣諭使であっても使者は使者。使者を殺しては話し合いにならない。また大国である元相手に、そんな二次出兵を焚きつける行動をするのは問題だろう、という観点である。
 これについて、元の使者に対しては、ベトナムが投獄して拷問、ビルマが処刑、ジャワが顔に入れ墨をして送り返す、と周辺国は一様に強硬な対応をしており 国際常識がないなんてのは、それこそ当時の国際常識を無視した全くの言いがかりである、という意見があった。お前が常識はずれである、と。
 だが、やはり当時は使者を処刑するのが国際常識だったという見方は首肯しがたい。それが常識なら「使者」というものが存在しなくなる。外交というものがこの時代は無かったのか。
 また、モンゴル帝国からの使者に限っては、どうせ攻めてくるので処刑が常識、との意見もあった。「モンゴルからの使者総数がいくらで、その中に殺されず帰国できた遣使が何回あって、だから鎌倉幕府は非常識だと言えば分かるが」との意見もあり、ここまで言われればもうこちらも白旗を揚げたくなる。そんな数字はモンゴル史学者じゃないので挙げられない。
 使者を殺害した例としては、チンギスの時代、ホラズム・シャー朝でのことがある。厳密には使者ではなく通商団だったが、これが虐殺された。モンゴルは報復に出た。むろんモンゴルはもともと攻めるつもりであり、口実のひとつに過ぎない。スパイ容疑もあった。そして広大なホラズム王国は、滅びた。
 だがそれ以外では、モンゴルと他国にはもちろん外交は成立していた。ローマ教皇も外交使節を送り、その報告書が残っている。フランスも使節を送りあっている。宋も高麗も、当初は苦慮しつつ外交を展開している。
 高麗は、外圧に苦労している。宋の朝貢国だったが、最初は契丹の遼に侵入され、女真の金の圧力を受け、そちらの朝貢国ともなった。モンゴルとの接触は、また契丹に侵入を受けたときに、モンゴルと共同戦線を張っている。一応、当初はモンゴルとの外交が成立していた。チンギスの時代である。
 高麗は王朝政権と武臣政権の対立があり歴史を振り返るのには紙面が足らないが、使者問題に限ると、1224年に高麗領内でモンゴル使者が殺される。以後国交が途絶え、7年後に高麗へ攻め込む。のち、徹底抗戦もむなしく服属することとなる。
 このような状況を踏まえると、使者の往来はそれほど珍しいことではなく、日本の杜世忠以下5名斬首はかなりギリギリの線ではなかったか。
 使者殺害で成功した例は、エジプト・マムルーク朝くらいではなかっただろうか。前述したように西征したモンゴル軍であったが、フレグが東遷したためキト・ブカ率いる12000の軍で南進し、対するマムルークは降伏勧告の使者を殺した。この戦闘においてマムルーク軍が圧勝した。これくらいしか出てこない。
 杜世忠らがスパイ行為を働いたために斬首したとの説もある。前回の趙良弼のこともあり、それならば多少は頷ける。ただ、石塁を見られたから、というのは時期的に合わない。石塁築造はまだ始まっていない。また杜世忠が訪れたのは長門である。それをわざわざ大宰府にまで連れて来て後鎌倉へ送っている。不備が感じられる。
 結果、フビライは怒った。そして本格的に日本侵攻を果たすため、高麗に征東行省を設置して準備を始めた。

 そして、7年後弘安の役が始まる。戦況は、石塁が功を成して水際作戦が成功したと見ていいだろう。
 元軍は高麗からの東路軍が900艘で4万人(蒙漢及び高麗兵中心)、宋からの江南軍が3500艘で10万人(南宋兵中心)という大船団。まずここで、これら14万の兵が一気に攻め込んだらいかに日本でも危ないと考えるだろう。
 だが、元軍は一気には攻めてこない。東路軍だけが先んじて接近、また対馬・壱岐を攻めた後に博多へとやってくる。ただ石塁があるため上陸出来ず、志賀島に到着した。ここで戦いが8日間続く。激しい戦闘の結果、東路軍を押し戻すことに成功する。東路軍は壱岐に逃げたがここでも日本軍が激しく攻撃し、東路軍は退却を余儀なくされる。東路軍には伝染病も流行り、兵糧も含め衰弱した。
 江南軍は何をしていたのか。そもそも6月15日に壱岐で合流のはずが出発は6月末、五島から平戸へ到着したのは既に7月だった。逃げていた東路軍も合流し、松浦の鷹島へ向かった。ここは石塁がないため、上陸に対し日本軍と激しい戦闘が広げられた。
 ここで「神風」である。台風が元軍を襲い、壊滅。日本軍は残った元軍を掃討した。
 前回記事では、この台風がなければ、戦力に勝る元に(東路軍は消耗していたが10万の江南軍はまだ現存していた)やはり攻め込まれていたと考えるのが妥当ではないか、と書いた。日本軍は約4万(一説には6万)。実際には1万に満たなかったとも言われる。
 だが、これを書くにあたって勉強しようと思い、杉山正明氏の著作を読んで驚いた。江南軍のほとんどは戦力にはならなかった可能性があるという。江南軍は日本への入植を考え鋤鍬種籾を用意していたとの話はよく聞くが、「どう史料をしらべてみても、この兵のほとんどは武装してはいなかったらしい(クビライの挑戦・杉山氏著)」。元は南宋を滅ぼし宋軍を手に入れたが、その宋軍の精鋭部隊はフビライが直轄、中央アジア戦線へ。次は広東・広西へ向けられ、江南軍は残った「弱兵」とでも言うべきやっかいもの的存在だったらしい。それら兵が武装をしていない。
 とあれば神風は全面的に見直さざるを得ない。単純に移民船団だった、と。金方慶は江南軍を当てにしてまた徹底抗戦を叫んでいるのでやはり戦力だったのかとも考えたりもするけれども、本当かと書けば研究者の杉山先生に失礼なので、その通りとして考えてみると。
 戦闘部隊は東路軍の4万だけだ。ならば先んじて進攻したのも当然である。先んじても何も、それが戦力の全てだったから。さすれば、これだけで制圧できると元は踏んでいたことになる。文永の役の戦力とさほど変わりがない。将も忻都、洪茶丘、金方慶と同じメンバー。「蒙古軍は本気で大勝利と考えていた可能性もある」と前述したが、「宣諭使」と共にその論拠となる。前回はこれで大勝利出来たのだから。
 これでは、弘安の役は元軍が勝つことは出来ない。
 仮に神風なくとも、元軍は撤退を余儀なくされていただろう。したがって表題の「もしも元寇のとき神風が吹かなかったら」は成立しないことになる。
 
 ブログの字数制限(10000字)があり、これ以上書けない。少し続きがあるので、以下コメント欄へ。
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もしも古事記が偽書でなかったなら 2

2009年12月13日 | 歴史「if」
 前回の記事において、古事記が偽書でなく上代より成立していた歴史書であったならば、疑問となる事柄があることを列記した。

 ①なぜ同時期の文献に現れないか。日本書紀は「一書に曰」と他文献を多く引用するが、古事記はどうして現れないのか。続日本紀は古事記成立をなぜ記載しなかったのか。
 ②古事記は、神代から始まり推古天皇で終わる。なぜここで終わるのか。序文は怪しいが一応荒唐無稽でもないとして、天武天皇期に勅がなされたとする。なぜ天武紀まで記さないのか。
 ③古事記は、推古朝までの記述はあるものの、実際は記述としては顕宗天皇で記事は終わっている。仁賢天皇以降は、淡々と系譜を記すのみである。見方によっては、古事記は未完成品である。なぜこのように中途半端な終わり方なのか。
 ④序文は偽作の可能性が高いが、なぜこのような内容なのか。太安万侶一人に編纂を託しているのはなぜか。稗田阿礼という人物を登場させたのはなぜか。
 ⑤なぜ二つの歴史書がほぼ同時期に、ほぼ同内容で存在したのか。

 これらについて考えてみたい。

 その「序文」は偽作の可能性が高いと前回考えたが、仮に多人長が書き上げたものだとして、人長がまさか夢に見た事を記したわけでもあるまい。なぜこのような内容にしたのかを考えなければならない。他の文献に記載がない以上、結局手がかりはこの序文と古事記本体しかないのだから。

 「古事記」序文は本文とは異なり漢文で書かれ、三段に分けられる。
 その第一段は、神代からのダイジェストである。混沌に始まり、神の系譜が語られ、ニニギが天孫降臨し、神武天皇が東征し、各天皇が善政を連ねる。崇神、成務、仁徳、允恭天皇の事績を見て取れる。
 第二段は、ほぼ天武天皇の話だ。前半は壬申の乱。非常に天武を顕彰する意気強く、スーパースターぶりが描かれている。殷の紂王を滅ぼし周を建てた武王になぞらえられており、正義の王朝交代であることを意識しているようにも見受けられる。そして戦を制し、即位することとなる。ここまで顕彰するか、と思われるほど天武を褒めてある(当然かもしれないが)。
 後半に至って、稗田阿礼登場である。天武は言う。「帝紀及本辭 既違正實」と。それぞれの氏族に伝わる帝紀(皇室の系譜伝承のことか?)と本辞(各氏族伝来の歴史書か?)は相当に間違い多く伝えられている。今ちゃんとしておかないと歴史が狂って伝えられるぞ。よって、よくよく調べ直して正しく伝えねばならない。そして天武は記憶力抜群の28歳の舎人稗田阿礼を召し、(正しい)帝皇日継(帝紀か?)と先代旧辞(本辞か?)を誦習させた。
 これは、なんで覚えさせたのだろうか。やまとことばを表記する文字がまだ確立されてなかったからだろうか。和語に天武は拘ったのか。それはともかく、稗田阿礼はそれを暗誦した。この時点で稗田阿礼は「人間古事記」である。だが、それが撰録されることがなかった。
 どうして撰録されなかったのか。この部分を序文は簡単に「然運移世異 未行其事矣(然れども運移り世異なりて未だ其の事行いたまはず)」と記すのみである。「運」は「とき」と通常訓される。運悪く、の運とはちょっと違うようだ。しかしこれだけでは事情が全く分からない。簡略化せねばならない事情があったのかもしれないが、もう少し詳しく記述してくれてもいいのに、と思う。阿礼の年齢とその英才ぶりまで詳しく記しているのに。それとも、このように抽象的に書かねばならない事情でもあったのか。
 第三段は、元明天皇の顕彰に始まる。素晴らしき天皇だ。この元明天皇が、旧辞(本辞か?)と先紀(帝紀か?)の誤りを惜しみ正さんと(結局天武の時代と変わっておらんのだな)、阿礼が覚えている(正しい)歴史を撰録せよと太安万侶に命じた。そして、安万侶が採録した、という次第が書かれる。
 後半は太安万侶の苦労譚である。和語を輸入物の漢字しかない日本でどう書くか。まだひらがなも何もない時代に。で、苦労の末何とか仕上げて三巻にまとめ献上した、ということである。
 
 帝紀だの帝皇日継だの先紀だの、また本辞だの先代旧辞だのと、これらは二つの伝承群なのか、統一されていないのでよく分からない。同じ文の中に書かれているのだから違う表記であればそれは違うもの、と考えるのが普通であると思うが、従来は同じものとしてとらえられているようだ。
 だが序文においては、帝紀・本辞は「間違って伝えられているもの」であり帝皇日継・先代旧辞は「正しいもの」である。そして先紀・旧辞はやっぱり間違ってるものだ。少なくとも序文においては、それぞれに異なりがある。
 なお、日本書紀には推古28年(620年)に聖徳太子と蘇我馬子が編纂したとされる「天皇記」「国記」があったとされている。これを帝紀・旧辞に対応させる説もある。これは、乙巳の変の際に焼け、国記のみがなんとか助かったとの話もある。
 さかのぼれば日本書紀欽明天皇2年3月に「帝王本紀多有古字 撰集之人」との文言が見える。この帝王本紀とは帝紀なのか。結局よく分からない。
 そもそも帝紀や旧辞とは何か。既に現物がないわけで、結局全て推論でしかない。倉西裕子氏の「日本式紀伝体」説は傾聴に値すると思うけど。詳細は著作に譲るとして。

 さて、日本書紀には注目すべき記載がある。天武10年(681年)、「令記定帝妃及上古諸事」の文言がある。川嶋、忍壁皇子、その他に命じ帝紀・上古諸事(また違う言葉だ)を記させたと。「大嶋 子首親執筆以録焉」とあり執筆は中臣連大嶋、平群臣子首だったことが分かる。中臣大嶋が出てきた。この人は実によくわからない人物で、不比等との繋がりをいう梅原猛氏などもいるが、深入りはしない。この詔が、後の日本書紀へ発展したのではないかという説もある。書紀が出来る720年よりまだ40年も前の話なのだが。
 この書紀の記載。古事記序文には日付がないのでよく分からないが、天武が稗田阿礼に誦習させた時期とほぼ重なるのではないかと思われる。見方によれば、書紀と古事記が同時期に出発したとも読める。この同時性にはどうも頷けない。
 序文が偽作だとする僕の立場からすると、稗田阿礼という人物を創作して誦習の時期をここに合わせたのだろう、と考えたくなるが、この書紀の記載だって解せないのである。書紀が出来る40年も前で、そもそも天智の皇子である川島皇子を筆頭に置いているこの記載は。
 古事記序文は確かに後世の偽作であるとは思われるが、その元になった伝承はあったのではないか、とは考えている。いきなり架空の人物を創造して託したりはしまい。天武は、稗田阿礼一人を相手にしたかどうかはともかく、この時期何か国史の作成作業に入ったのだ。それを書紀は、川島皇子や中臣大嶋らの作業に置き換えたのだ、とすら考えている。
 いきなり飛躍してしまった。
 
 僕は以前、天智百済朝と天武新羅朝という記事を書いたことがある。これはちょっと題名が扇情的に過ぎると反省はしているが、乙巳の変を経て成立した天智政権が、白村江に破れ亡命百済人を多く抱え、それが国際情勢にも国内世論にも合致せず、天武が立ち上がり親百済的王朝を倒したのでは、という話である。
 通説によれば、壬申の乱を挟むもののこれは兄弟間の帝位移動(弘文天皇は措いて)であり、王朝交代ではないとされる。
 しかしこれは、王朝交代だったと僕はみている。書紀では天智と天武は兄弟とされているが、これを疑う説は多い。僕もその説に与している。古事記序文もそうはっきりは書かないものの、天武を周の武王になぞらえ王朝交代を暗喩している。
 その後の天武朝については、形式上は称徳天皇まで続く。しかし、事実上は天武の後、高市天皇が続くものの(発見された木簡「長屋親王」の文言から高市皇子は即位したと考えている)、その後は親百済政権を担った天智天皇・藤原鎌足の子である持統天皇・藤原不比等に牛耳られ、天武朝は傀儡と化した可能性があるとみている。そのことについての詳細は、もしも高市皇子が即位していたら以下連載し既に述べた。

 そういった自説を踏まえつつ、古事記の立脚位置を考えてみる。
 古事記は、上代特殊仮名遣からみて、和銅5年(712年)成立を遡る可能性がある。おそらく、天武10年(681年)あたりに据えるのが妥当ではないかと考える。この時期に、正史編纂の目的で古事記が編まれたとしたら。
 古事記は、天武朝の正史だったのではないか。

 国史編纂事業というものは、律令の制定と並んで国家事業の基盤だろうと推測される。同時期に(天武10年2月)、飛鳥浄御原令制定の詔が出ている。古事記と飛鳥浄御原令は対の存在だったのではないか。
 この飛鳥浄御原令は、完成しなかった。飛鳥浄御原令が公布されたのは持統称制3年(689年)6月。ただし、律は結局制定されず、令のみが公布された。つまり、未完成品である。通説では、皇太子草壁皇子の死で朝廷が動揺し、天武朝の継承を明示するために、未完成ながら令だけが唐突に公布されたのだとする。
 へんな話である。正史では以後も編纂が続いたことになっているが、結局701年に大宝律令が公布される。もちろん大宝律令は飛鳥浄御原令の発展系ととらえられているが、一応は別のものである。
 これは、飛鳥浄御原令の編纂が途中で打ち切られたのではないか。
 689年は、僕が考えるところの高市天皇の最終年である。翌年持統天皇が即位し、高市天皇は太上天皇(上皇)となる。天武朝親政は一旦ここで終止符が打たれ、以後持統朝と称すべき藤原氏が重鎮となる朝廷に代わる。飛鳥浄御原令は危機意識を持った高市天皇がそれこそ「天武朝の継承を明示」するために令のみを無理やり途中公布したものの、結局政権を奪われ、未完成で終わる。
 そして、天武朝の国史編纂事業もここでストップしてしまったのではないか。
 ③の疑問に言う、古事記が推古朝までの記述はあるものの、顕宗天皇で記事は終わり仁賢天皇以降は系譜を記すのみという「未完」の状態におかれたのもここに原因を見つけたい。いわゆる「帝紀」の部分である系譜は成立したものの、「旧辞」の部分である記事は顕宗天皇までしか編纂が出来なかったのではないか。
 そして、古事記は封印される。以後アンタッチャブルな書物となったのではないだろうか。持統・藤原朝は、天武朝と一線を画した新たな国家基盤の律令と国史作成に向けて、不比等が大宝律令を編纂し、同時に日本書紀の編纂も始める。

 古事記・飛鳥浄御原令は天武朝の事績であり、日本書紀・大宝律令は天智朝の流れを汲む持統朝の事績である。
 こう結論付けたいと考える。

 これらの上で、疑問点を考える。  
 ①の、なぜ日本書紀、続日本紀に古事記が現れないかという疑問も、古事記を封印したのだとすれば解ける。実際は編纂に古事記そのもの、また古事記編纂のための収集資料を参考にした部分もあっただろう。だが、後世に伝えるべき史書ではないために記載を止めたことは想像出来る。古事記の名を正史に残してはいけなかったのだ。
 そして②の、古事記の記載が推古朝までであることも分かる。推古朝以後は舒明朝へと移る。舒明天皇は天智天皇の父(書紀では天武の父ともされているが)。この「百済大寺」を造営し「百済宮」を造り、崩御の際は「百済の大殯」と言われた舒明天皇は、親百済朝の始まりであると考えている。舒明・天智が百済からの渡来人であったか、とまで大胆なことは言えないが、相当に百済に近しい系統でありここでも一種の王朝交代があった可能性もあるとみている。この舒明・天智朝を打ち倒したのが天武であり、歴史は推古朝で一旦区切られるのだ。
 その後の歴史は、天武朝からすればどのように記述すべきか迷う場面となったと想像される。二転三転の王朝であったことも考えられるが故に。もしも「続古事記」が後年成立したとすれば、ここからの歴史が天武朝の視点で語られたことだろう。だが「ふることのふみ」は一応、推古朝で区切られる。

 その後古事記はどういうふうに生き延びたのだろうか。
 「アンタッチャブル」と書いたが、焚書されてもおかしくはなかった。結果として古事記はその後、秘された。おそらくは、多(太)氏がひっそりと、世に憚りながら伝えたのではないか。
 多品治という人物がいる。壬申の乱において、天武(大海人皇子)が吉野から東国へ逃れる時、美濃国で最も早く兵を挙げ不破道を塞ぎ、天武を勝利に導いた大功臣である。その後も天武天皇に近臣として仕えた。
 古事記はこの多品治が、天武・高市朝が「然運移世異(運移り世異なりて)」となった時に、焚書・抹殺を恐れ秘した。そして多(太)氏一族で守り伝えたのではないかと想像する。
 それから100年以上も時が過ぎ、壬申の乱の記憶も薄れ天武・高市朝ももはや天智・持統・光仁・桓武朝に完全に呑み込まれ歴史の一部となった。その天智・持統朝の史書である日本書紀さえ、時代が下ると読むのに苦労を伴う有様であったと考えられる。
 平安初期に、貴族対象で日本書紀を解読し講義する会が設けられることになった。古事記を門外不出として伝えてきた多(太)氏一族の末裔である多人長は、その「書紀講筵」に博士として選任される。その千載一遇の機会に、多人長は古事記を日の当たる場所に出そうとしたのではと考えられる。
 講義記録にあたる「弘仁私記」の序文には、古事記のことが顕彰され記載されている。これが、古事記が文献に載る初出である。この時に、古事記は歴史上に現れる。そして人長は、秘本であった古事記に上表文の形をとった「序」を付ける。そこには、多(太)氏に継承されてきた伝承を盛り込む。ただし、現朝廷批判を避け、形を変えて。天武天皇を周の武王に擬すだけである。ただ、祖である多品治が活躍した壬申の乱については明確に顕彰する。
 実際は天武10年(681年)前後に古事記は編纂が始まったのだろう。だが、そこでは稗田阿礼が誦習したと記すにとどまり(日付明記せず)、その経過については「然運移世異 未行其事矣(然れども運移り世異なりて未だ其の事行いたまはず)」とだけ。これ以上は書けないはずである。そして、元明天皇の代に撰録の時期をずらす。
 和銅5年(712年)撰録という日付はどこから出たか。それは様々に考えられるが、少なくとも日本書紀よりは前の日付にせねばならない。続日本紀には、和銅7年(714年)の「詔從六位上紀朝臣清人 正八位下三宅臣藤麻呂 令撰國史」と記載がある。おそらくはここからの由来なのだ、と偽書説は言う。詳しくは大和岩雄氏「古事記成立考」(と書けば孫引きなので本来は友田吉之助「日本書紀成立の研究」)を参照してもらいたいが、弘仁私記序は暦法を書紀の紀年法とたがえた別の暦法を用いており、これによると和銅5年正月28日の古事記序と、和銅7年2月戊戌(10日)の続日本紀が完全に一致するという。詳細は実は僕もよく分かっていないのだが、一応それに賛同しておく。
 紀清人と三宅藤麻呂の国史撰とはまた何のことかは分からない。だが、古事記序はこの日付で撰録とした。この時期に該当する多(太)氏ということで、太安万侶という人物を人長が浮上させたのではないか。
 太安万侶はしたがって、古事記撰録には携わっていない。人長が設定した古事記撰録期の多(太)氏の氏長だったということだけではないだろうか。だから、墓誌には古事記のことが一行も記されてないのだ。

 ⑤の疑問である、古事記と日本書紀がほぼ同時期に歴史書として存在する謎は、つまり序文の記載によって古事記の撰録時期が遅らされたために生じたものである、と考える。古事記が、本来撰録作業が始まったのは、天武10年(681年)あたり、そして持統称制3年(689年)頃にその作業は終わった。ただし未完である、と考える。
 そして、④の疑問については、その序文の性格と日付上、太安万侶しか名を記すことが出来なかったのである。しかし、実際は太安万侶が撰録したわけではないと推察する。編纂はもっと前代だ。

 古事記は、天武朝の正史として編纂された。おそらく681年あたりがその出発点。ただし、その編纂作業は未完に終わった。689年あたりで中断した。それは、運移り世異なりて天武朝が終焉を迎え、持統・藤原朝が始まったからである。その後、古事記は多(太)氏によって秘本として伝承された。持統・藤原朝は古事記に替わる正史として720年、日本書紀を編んだ。古事記は忘れられた存在だったが、平安初期(弘仁年間)に多人長によって再び歴史上に現れた。

 以上のように結論付けたいと思う。

 ここで、最後に解けない疑問が残る。稗田阿礼とはどういう人物か。
 全く架空の人物ではないとは思う。多(太)氏の伝承に残った、おそらく古事記編纂の中心人物である。そして天武朝において「爲人聰明 度目誦口 拂耳勒心」と称えられた聡明で記憶力抜群の人物で、681年頃に28歳。舎人。
 無論のこと日本書紀・続日本紀には全く姿を見せない。これは、墓誌などの新たな史料が見つかりでもしない限り絶対に判明しないだろう。
 一人だけ、681年頃にはおそらく朝廷に出仕していたとみられ(当時は多分まだ20歳代)、聡明の誉れ高く、しかも不思議なことに稗田阿礼と同様、正史に全く記載されていない人物を我々は知っている。それは、柿本人麻呂である。
 ただ、稗田阿礼=柿本人麻呂などということは全くのところ妄想に過ぎない。結局は、永遠の謎である。

 
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もしも古事記が偽書でなかったなら 1

2009年12月10日 | 歴史「if」
 冒頭のタイトルはちょっと見ればおかしい。書くならば「もしも古事記が偽書だったとしたら」が普通だろう。
 これでは、まるで現在の歴史学・古代史学で古事記を偽書だとする説が通説であるかのように見えてしまう。もちろん、決してそんなことはないはずだ。「先代旧事本紀」は一般に偽書とされるが「古事記」は現存する日本で最も古い歴史書として認知されている。
 古事記は、その序文によれば和銅5年(712年)に太安萬侶によって編纂されたとされる。対して勅撰の正史とされる日本書紀は、養老4年(720年)に舎人親王らの編纂で完成したことになっている。わずかに8年ほど古い。よって、現存する日本最古の歴史書であるとされる。

 ここで、僕にはひとつ疑問が生じる。
 和銅5年と言えば元明天皇の時期。古事記序文によれば、そもそも日本には古来、「帝紀(皇室の系統譜か)」と「旧辞(各氏族伝来の説話・伝承的な史料か)」が存在していた。しかしそれらが伝承過程で間違いも多くなってきており、それを遺憾に思った天武天皇が舎人である記憶力抜群の稗田阿礼に命じて正式に誦習させた、という。それを文章化しまとめることが天武の代では出来ず、後の元明天皇の代になって、太安萬侶に命じ存命していた稗田阿礼の暗誦を撰録させたという。これが古事記の由来である。
 対して日本書紀は、勅命により天武天皇皇子の舎人親王に正史として日本紀の編纂を命じ、養老4年に完成、奏上と「続日本紀」にある。時に元正天皇の時代。元正は元明天皇の皇女である。元明天皇はこの時天皇位を譲っていたものの、まだ存命だった。
 つまり、古事記と日本書紀の成立は8年差があるとはいえ、ほぼ同時期であるといっていい。しかも双方とも私的なものではなく、勅命により奏上された歴史書である。
 何故、同時期に同内容の歴史書が同時に成立し存在したのか。まずそれが、疑問である。
 素人が考えれば、これは無駄手間というものだろう。そんな簡単に作れるものではないからである。古事記は発起してから奏上まで相当に時間がかかっている。日本書紀とて同じこと。チームを編成して練り上げられて作られているのだ。

 これについては、もちろん様々な解説もなされている。曰く、古事記は天皇家の私的な歴史書であり、日本書紀は公的なものである。曰く、古事記は和文で綴られており、書紀は漢文である。対外的な歴史書として古事記では役に立たず、中国にも示せる日本書紀を成立させねばならなかった。等々。
 どうも納得がいかない。ならば古事記はいらなかったのではないか。懸命に暗誦した稗田阿礼には気の毒だが。日本書紀がいつ作業に取り掛かったのかは分からないが、8年前に白紙であったとも思えない。書紀は全30巻の大部なのである。そんな二系統の歴史書をわざわざ。不可思議だ。
 これらのことは、もしも古事記が偽書であったのなら雲散霧消してしまう。そもそも、正史はそのとき日本書紀しか作られなかったのだ、とすれば。

 「古事記」偽書説については、古来よりささやかれていた説であり、賀茂真淵ですら疑っている。本居宣長が「古事記伝」を著し、古事記の重要性を世に知らしめた後も、偽書説は絶えない。
 僕は全ての偽書説を読むことは出来ず、主として大和岩雄氏「古事記成立考」(偽書説側)と矢島泉氏「古事記の歴史意識」(本物側)に頼った。ここには様々な偽書説が網羅されている。以下、孫引きを勘弁していただきたい。
 偽書説の柱は、その「序文」についての疑義と、本文そのものに関わる疑義とに分類も出来る。まず「序文」について考えたい。
 ・序文の様式がおかしい
 序文は、序といいつつ上表文の形態を採っている。奈良朝は序と上表文の二本立てでないとおかしい。そして署名に不備がある(奈良朝の形式から外れる)。等々。
 反証として「太安萬侶」の表記が、発見された墓誌と同じであり続日本紀は「太安麻呂」となっていることから、より古い表記であり偽書ではないとの説もあるが、表記は氏族伝表記が異なる場合もあり、そもそも墓誌に古事記のことが全く書かれていないのは疑問に繋がる。
 ・序文の内容がおかしい
 勅撰であるにもかかわらず無官の太安万侶一人により編纂されている。また稗田阿礼が全く他文献(続日本紀)に見えない。正史にない稗田氏なるものが天武天皇と直に作業が出来たのか。また、序文の壬申の乱の記述に日本書紀の影響が色濃い。等々。
 私見だが、壬申の乱の記述は「ソースが同じ」ということでありうる可能性もあるとは思われる。だが、全般的に僕も後世の偽作である可能性は高い、と考えている。
 序文偽作説で最も大きい問題は、日付だろう。「和銅五年正月二十八日 正五位上勲五等太朝臣安萬侶謹上」。この和銅5年に奏上されたとされる古事記が、正史とされる続日本紀に全く書かれていないのだ。勅撰であるはずなのに。
 この問題については、理由があると考えているが後述する。もしも和銅5年ではなかったとしても、日本書紀、続日本紀には古事記は全く出てこない。ここから「秘密文書説」「機密文書説」なども登場するのだ。序文を信じれば秘密文書であるわけがないのだが。だから「偽書」なのだ、と考えられるのだが、少なくとも序文は怪しい。

 次に「本文」そのものについて考えたい。
 ・本文の用字、表記がおかしい
 本文の字音仮名が奈良朝以降のものである、という主張がなされている。これについては難しくて理解が及ばない。森博達氏の著作などを読むと非常に興味深く、言語学はそんな一朝一夕には学べないので今からでも大学に入りたいくらいだが、そんなことは無理なので諸説を読むよりしょうがない。なので薄いのを勘弁してもらいたいが、ここでの反証の決め手として「モ」音の書き分けがある。
 上代特殊仮名遣というものがある。昔は音節が50音よりも多かったとされている。
 平安時代の音節数は、いろは47文字とその濁音20音を合わせた67音。平安初期だとア行エとヤ行エも分かれていたので68音。ところが上代になると、イ段のキヒミ、エ段のケへメ、オ段のコソトノモヨロの13音、並びに濁音ギビゲベゴゾドの7音については万葉仮名において厳密に二種に書き分けがなされ、区別されていたことが研究の成果により分かっている。つまり88音あったのだと。これは奈良時代の文献全てで確認されている。前述したようにそれも奈良末期には乱れ、平安時代にはほぼ消滅したとされる。
 その中で「モ」音については書き分けられているのは古事記だけである。88音あるのは古事記だけで、日本書紀は87音しかない。よって、古事記の方が古い、とされるのである。
 これには説得力もあるが、偽書説としては、偽作側が上代古語に精通していればモ音までも使い分けて製作することは可能だとする。それは確かにそうだが。
 ・本文の内容がおかしい
 様々な説が出されている。氏族に関する記事が新しい(平安朝の「新撰姓氏録」に近似)。歌謡が新しい。神の概念が新しい(天御中主神、高天原、大国主神など)。
 これらについて「そうかもしれない」とは思うものの、古事記が書紀よりも新しい、奈良朝後半もしくは平安朝前半に著作されたとは一概には言えない部分もある。

 以上の事柄を考えて、少なくとも「序文」は偽作の可能性は高いと僕は考える。ただし本文、「古事記」そのものについては、古来からあった可能性を否定できない。「モ」音の使い分けから考えると、もしかしたら和銅5年を遡る可能性もあるのだ。

 偽書説で出される問題点はこれだけではない。古事記にはその成立における傍証があまりにも少ないことが最も大きな問題となっている。成立過程についてはその「序文(疑わしいと書いたが)」が唯一であり、他にどこにも(もちろん続日本紀にも)古事記成立についての記載がないのだ。
 全くどこの文献にも現れなかった、というわけではないとも言われる。例えば「仙覚抄」の註釈に書かれていたり。「土佐風土記」に引用されているとの記載もあるが、その土佐風土記はもう残っておらず真贋は判定できない。「琴歌譜」「令集解」にも「古事記曰」と残るが、それが固有名詞の古事記と同義だったかどうか。万葉集の巻2・90番の歌に古事記からの引用があるのが決め手だとも言われるが、これも成立当時からあったか。だが、傍証にはなるかもしれない。

 古事記が文献上に初めて出てくるのは、平安初期の「弘仁私記」である。これは「日本書紀」の講書である。講じたのは多人長。その「序」に古事記成立の謂れが記述されている。
 ここにはまず「夫日本紀者一品舎人親王、従四位下勲五等太朝臣安麻呂等」と日本書紀の編者にも太安万侶が名を連ねる(!)と記され、稗田阿礼のこと、そして安万侶が序文どおり古事記を撰したことが書かれている。
 多人長は太安万侶と同族、つまり太(多)氏であることから、一族である安万侶が撰したにもかかわらず忘れられている古事記を何とか世に出したかった説、そして人長自身が太(多)氏顕彰のために古事記を捏造製作したのだ、という説にまで広がっていく。
 決め手はないのだが僕も、人長が偽作に関わったと考えている。ただし人長は「序文」を作成し付与したのみであり、「古事記」そのものはやはり存在していたと考えたい。
 そして、この時(弘仁期)以降、古事記は流布したのではないかと考えている。それまで古事記はおそらく秘されていたのだ。そうでないと、100年間もどの文献にも現れないことの説明がつかない。 
 
 本文、つまり古事記本体については、偽書であるとはやはり言いきれないと考える。日本書紀と同時期、あるいはもう少し上代に一応の成立を見ていたと考えられるのではないか。
 そして表題のifに戻るが、もしも古事記本体が偽書でなかったならば。
 やはりいくつかの疑問が生じる。

 ①なぜ同時期の文献に現れないか。日本書紀は「一書に曰」と他文献を多く引用するが、古事記はどうして現れないのか。続日本紀は古事記成立をなぜ記載しなかったのか。
 ②古事記は、神代から始まり推古天皇で終わる。なぜここで終わるのか。序文は怪しいが一応荒唐無稽でもないとして、天武天皇期に勅がなされたとすれば、なぜ天智・弘文紀まで記さないのか。
 ③古事記は、推古朝までの記述はあるものの、実際は記述としては顕宗天皇で記事は終わっている。仁賢天皇以降は、淡々と系譜を記すのみである。見方によっては、古事記は未完成品である。なぜこのように中途半端な終わり方なのか。
 ④序文は偽作の可能性が高いが、なぜこのような内容なのか。太安万侶一人に編纂を託しているのはなぜか。稗田阿礼という人物を登場させたのはなぜか。
 そして冒頭の、
 ⑤なぜ二つの歴史書がほぼ同時期に、ほぼ同内容で存在したのか。

 これらの疑問について、次回、考察してみたい。

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もしも孝明天皇が攘夷論者でなかったら

2009年07月07日 | 歴史「if」
 最終的に徳川幕府を倒した尊皇攘夷というスローガンを考えるに、つくづく子供の寝言だと思う。
 いきなり挑発的な事を書いたが、何回考えてもそう思ってしまう。これに比べれば、まだ全共闘の共産主義革命闘争の方が心情的に僕には理解できそうに思える。これは、その後の歴史の流れを知っていて、なおかつ当時の情勢を神の視点から見ることが出来る現代人であるからそう言えるのだということは百も承知である。
 それでも、当時の人間の思考力・判断力が現代人より劣っていたはずはあるまい。それが証拠に、革命側の指導者層は尊皇攘夷が空論であることは十二分に認識していた。「あのときは、ああでなくてはいけなかったのだ」という井上馨の言葉がそれを端的に表している。にもかかわらず、とにかく時の為政者である幕府をただ困らせて弱体化させ自藩の影響力を強めようとするために、そして後には幕府を倒そうとするために尊皇攘夷という旗印を用いたということ。これは、政治手法としては卑怯であったと僕は思っている。こういうやり方は嫌いだ。
 つまり、黒船によって恐慌状態が日本にもたらされた。その危機意識は熱狂に繋がる。パニックと言ってもいいのではないか。その熱狂を、正確な情報を与えずにうまく利用した、ということである。一種の情報操作である。操作される側はたまったものではない。とっくに攘夷など終わった明治維新後にまでその洗脳は残った。何故横井小楠が暗殺されねばならなかったのか。マインドコントロールというものは誠に恐ろしい。
 こういう政治手法は、よく考えれば常套手段である。嫌なものだ。ヒトラーの扇動にどうしてドイツ国民が熱狂したのかということは、現代の歴史を知る視点から見れば実に分かりにくいのだが、危機意識が熱狂を生んでしまうのだろう。現代政治においても、こういう状況は散見される。郵政選挙とかそうだろう。

 そんなことはともかく。
 スローガンであるために「尊皇攘夷」とついひと括りで考えてしまうが、これは本来「尊王」と「攘夷」は別のものである。
 尊王論はもちろん儒教由来であるが、平田国学からも「日本民族固有の精神」に立ち返るべきであるとする思想が生まれ、その象徴として天皇の存在を支柱とすべきであるという思想に辿り着く。日本は神国でありその大元は天皇である。これはつまりナショナリズムだろう。
 また攘夷論は夷人排斥であり、優しく言えば、鎖国によって平和が謳歌されたこの国に外国勢力が入ることによってそれが乱されるので排除せねばならない、ということ。また言葉を変えれば、夷によって神国である日本が穢されるので足を踏み入れさせてはならない、ということ。排外思想であり、これも国粋主義と言える。どちらもナショナリズムが根にあり統合されてしまった。
 この尊皇攘夷論は水戸学が発展させたものであると通常は考えられている。徳川斉昭が「弘道館記」において最初に「尊王攘夷」とひと括りに使用したと言われ、その大元は藤田東湖である。この時点での「尊皇攘夷」を子供の寝言などと言うつもりは毛頭ない。天保年間であり、外国の脅威は伝えられてはいたものの、まだペリーの黒船による恫喝外交よりも15年も前のことである。高邁な理想論と解釈も出来る。
 東湖の父である藤田幽谷が唱えた「尊王敬幕論」、そして松平定信が言う「大政委任論」は、幕府の正当性の証明だった。幕府の権力行使の根拠は、朝廷が幕府に政権を委任されているからである。これによれば、朝廷の権威が高まれば高まるほど幕府は安定する。尊王論が倒幕に結びつくことは予想されていない。
 攘夷論が展開・発展したのは会沢正志斎の「新論」によってであると考えられるが、水戸学を論じていては先へ進まないのでひとまず措く。

 尊皇攘夷論は、本来倒幕論ではない。しかし、これが幕府の屋台骨を揺るがすスローガンに発展してしまう。それは何故だろうか。黒船の危機感はやはり大きいだろう。それに対して弱腰外交をしたと判断された幕府に対しアクションは生じても、それは幕政改革論で事足りるわけであり、そうあるべきである。そこに何故尊王攘夷論が突出してくるのか。
 それは、孝明天皇が存在したからである、と端的に言ってしまうことが出来るのではないかと僕は思う。
 もっと突き詰めれば、尊皇攘夷とは孝明天皇のことである。尊王論と攘夷論が結びつくのも、孝明天皇という存在があればこそである。尊王論の具体的対象者である孝明天皇が、攘夷論を奉じ翻さなかったからこそ、尊王=攘夷となった。この時代の最大のキーマンは井伊直弼でも水戸斉昭でも吉田松陰でも西郷隆盛でもなかった。孝明天皇こそが思想の具現者であり、全てを集約した人物だった。
 もしも孝明天皇が、最初から開国を是認していたならば。いや、最初からでなくとも、幕府の、当時の日本の立ち居地を鑑みて、頑なに開国を拒絶し続けなかったとしたら。
 尊皇攘夷という思想に矛盾が生じてしまう。現実と乖離して、幕府を弱体化させるための手段としては全く通用しなくなってしまう。水戸学の思想のひとつに留まってしまっただろう。孝明天皇が「何が何でも攘夷」という姿勢を崩さなかったがために、最終的に尊皇攘夷が倒幕運動にまで結びつく結果を生んだ。この意味で、孝明天皇は幕末史において最大の存在だった。

 それでは、何故孝明天皇が攘夷に固執したのだろうか。
 これについては様々な意見が跋扈し、定説はない、と言ってもいいのではないかと思うが、その中でも通説に近いものとして孝明天皇が「病的な西洋人嫌い」であったからだ、とされる説がある。生理的嫌悪感が天皇を攘夷に固執させたとする。
 もうひとつの柱としては、天皇としての責任感が攘夷論者にさせた、との意見。実は江戸時代初期から始まった「鎖国」という制度も、以来200年以上経っていつの間にか日本古来よりの伝統であるように浸透してしまい、その国是を覆すことはアマテラスをはじめとする神々や神武以来の歴代天皇に申し開きが出来ない、と考えたことから攘夷を翻せるはずもなかった、ということ。
 決め手がない以上反論などないが、孝明天皇の西洋人嫌いがどこからの由来かが分からない。一般的認識として、南蛮紅毛人は肉を喰らい血を飲むとされ、当時は獣のような認識であったとも言われる。絵画でも相当気持ち悪く描かれる。ただ、それは情報の無い一般庶民であればさもありなん、であるが、孝明天皇はそこまで無知であっただろうか。

 弘化3年、父仁孝天皇崩御により16歳で即位した孝明天皇は、早々8月に幕府に御沙汰書を発令する。内容は、外国船来航の噂を聞くので海防を堅固にせよ、というものだが、これが天皇の初勅である。これは5月に米国のビッドルが浦賀に来航したことを受けてであると思われるが、実に情報入手が早い、と驚いてしまう。朝廷は政治の事など蚊帳の外ではなかったのだ。
 にせよ、朝廷が幕府に政治的発言をすることは大政委任論から言っても前例に乏しい。しかも外交問題である。この朝廷、そして天皇の強気とも思える行動はどこから来ているのか。
 藤田覚氏は孝明天皇について著書「幕末の天皇」等で、豪胆な性格であると論じている。そして、それは祖父である光格天皇の遺伝子もあるのではと推測されている。
 光格天皇についてはjasminteaさんの考察が詳しいので参照していただきたいが、さらに孝明天皇は紫衣事件で名を残す後水尾天皇を尊敬していたともされる。そうした逸話、並びに後の違勅調印で「逆鱗」という文言を残すなど相当に気の強い人物像が一面では確かに浮かぶ。だが、僕などは豪胆と言えるほどの強気の人物であったかについては多少の疑問も持ってしまったりもするのである。

 孝明天皇は、あの通商条約調印問題が起こった安政5年、メシも喉に通らないほど悩んでしまう。一種のノイローゼであったとも言われる。気弱とまで言ってしまっては失礼かもしれないが、優しい性格であったのかもしれないなとも思う。あの時は一種の板挟み状況だった。攘夷は貫徹したい。だが、攘夷路線は戦争の可能性も孕み、民に犠牲を強いることにもなってしまう。そうして、孝明天皇は揺れるのである。皇統意識は十分に持ち合わせてはいたものの、いざ最終決断を迫られると辛い。なので、自ら攘夷を先頭きって言わず、勅は「御三家等広く意見を求めてもう一度考えなさい」という、最高裁の差戻し判決みたいにして出す。もちろん大政委任の幕府にそうはっきりと言えないことは分かるが。
 さらに朝廷内でも独裁者にはなれない。天皇という立場は確かにそういうものではあるのだが、孝明天皇が即位したときの関白は鷹司政通だった。父仁孝天皇の時代から30年以上も関白を務めた大ベテランであり、孝明天皇も鷹司関白の前では子供同然であるとまで言われた。その鷹司関白が開国論者である。これでは孝明天皇が揺れ動くのもしかたのないことである。

 話がそれるが、朝廷が幕府の奏上以上に情報を知りえていたのは、公家の多くが有力大名と姻戚関係を結び、そこからも情報を得ていたことがある。例えば三条実万室は土佐山内家からであり、近衛忠煕室は薩摩島津家からだった。そして、鷹司政通室は水戸徳川家であり、あの斉昭は義弟にあたる。水戸斉昭からは、書簡により相当量の情報が鷹司関白に伝えられていた。
 斉昭からの情報は当然のことながら攘夷が基調となっていた。だが、鷹司関白はそれに惑わされることなく開国を唱えた。これは不思議なことである。一つには鷹司関白の時勢を見る目が優れていたということもあろうが、それよりも幕府権力を恐れていたこともあるのではないだろうか。幕府に逆らって承久の乱の二の舞だけは避けなければならない。そういう意味で鷹司関白は十二分に老練な政治家だった。
 ここで着目しなくてはいけないのは、鷹司関白が斉昭からの書簡をほとんどそのまま孝明天皇に見せていたということである。斉昭の書簡は攘夷色で染められている。このことが、青年孝明天皇の皇統意識からくる責任感を強く刺激したということは言えるのではないか。頑なな攘夷論を押し通そうとする孝明天皇の意識の萌芽であるのかもしれない。
 鷹司関白は孝明天皇を教育しようとしていたとも考えられる。斉昭攘夷書簡だけでなく、例えば「おらんだ風説書」なども孝明天皇に見せていた。そうして様々な情報や意見を与え、英明君主として育て上げようとしていたとも読み取れる。だが、まだ年若いナイーブな孝明天皇にはもしかしたら刺激が強すぎたのかもしれない。同時に皇統意識も強く刷り込まれた青年君主である孝明天皇は、以後尊皇攘夷の具現者となっていく。この「未曾有の国難」の時期に自分が巡り合ってしまったことを憂いながら(これは想像)。
 孝明天皇の頭の中には、様々な心配が渦巻いていただろう。
 まずは、鎖国が続いたことにより外国に対する免疫が無い。異国は怖い存在である。アヘン戦争のことも知っていただろう。そして、米国の政治手段に対する反発もある。ペリー以降のアメリカのやり方は完全に威力外交であり、自分が正義であると思うことを押し付けてくる。今も昔もアメリカは変わらない。そして、既に和親条約以降、通商が内々で行われていた。水や食料、燃料だけではなく様々なものが異国へ流れ出ていく。物価の高騰などの経済的問題もあるが、日本から物が無くなってしまうかもしれない恐怖も感ぜられただろう。そして、国の意見は全くまとまっていない。水戸藩はじめ反対論が頻出している。
 このような状況下で、自分が条約調印にお墨付きを与えてもいいのだろうか。自分が日本国の大変革を認めてもいいのだろうか。
 そして、孝明天皇はその揺れ動く心を抑えつつ、傍から見れば豪胆とも言われることをせざるを得なくなったのではないだろうか。つまり、幕府の答申差戻しである。もう一度よく考えてはくれないか、と。

 この差戻し判決の時には、鷹司関白は辞任していた。年齢も70歳を過ぎ、疲れてもいたのだろう。孝明天皇が開国論の鷹司関白を罷免したとの説もあるが、むしろ慰留している節もあり、この調印問題以外では孝明天皇は鷹司関白を信頼しつづけていた。そこまで厳しい人事を孝明天皇は行わないだろうし独断も出来なかったと考えられる。
 だが、後任の九条尚忠は、井伊直弼、長野主膳に籠絡されて開国論者となっていた。またもや孝明天皇の意思が伝わらない構図が生じた。老中堀田正睦が上洛し調印の勅許を迫る。堀田は、天皇の心配する「人心の折り合い」つまり意見統一については、現在は諸大名にも意見が頻発はしているものの、最終的には幕府が責任を持つのでご心配なく、と宣言する。そして、板挟みの九条関白は、天皇の攘夷の思いを加えつつ、「この上は関東において御勘考あるべく様、御頼み遊ばされたく候事」と末尾に付けた勅答案を作成した。
 これはつまり、朝廷側は心配で攘夷を考えてはいるけれども、最終的には関東(幕府)に任せますよ、という文言である。つまりは勅許は出せませんが委任しますよ、ということ。これで幕府の顔も立つのである。
 この勅答案について孝明天皇がどう考えたのかについては分からない。ただ、揺れ動く孝明天皇は不承不承でも賛成はしたのだろう。少なくとも調印が自分の責任ではなくなる。そして、朝議はこの方向で一致を見た。
 もしも、このままの形で勅答がなされていたら。
 幕府は、「勅許」ではないにせよ「朝廷黙認」の形で調印を進めただろう。そうすれば反対派は「天皇が反対してるじゃないか」「違勅調印だ」という声は上げにくい。後の尊皇攘夷=倒幕運動にも大いに影響が出ただろう。そして、朝廷の権威も以後のように上がったかどうか。結局大政委任以上のことが言えない朝廷は倒幕の旗印にはなりにくい。ひとまず反幕の動きは鎮静化してしまう。井伊直弼が出てくる必要も(継嗣問題はともかく)多少薄れたのではないだろうか。
 しかし、この勅答案はひっくり返る。その種は孝明天皇が蒔いた。
 孝明天皇は、関白以下朝廷上層部に留まらずもっと広く意見を聞いて結論を出すべきだとの意思を伝えていた。それを受けてか新任議奏の中山忠能は、条約反対の意見書を7名の公卿連名で提出する。さらに、88名の公家が無断列参して勅答案反対のデモを起こす。
 これには岩倉具視が絡んでいたようだが、つまりは朝廷内下克上である。この圧力を恐れ、九条関白は最終的に調印反対の勅答を出さざるを得なくなるのである。ついに朝廷が幕府に反対し攘夷を標榜した。尊皇攘夷の嵐が吹き荒れる幕末の最初の一歩だった。
 この88人列参奏上事件は、朝廷内の身分秩序を破壊するきっかけとなった。三条実美ら過激攘夷公卿がこの流れから登場し、それが後に長州破約攘夷派や土佐勤皇党と結びついていく。孝明天皇が蒔いた種ではあるが、その流れは孝明天皇自身を置き去りにしてしまうのである。

 さらに孝明天皇は次の「豪胆」な一手を打つ。戊午の密勅である。しかし、これも孝明天皇の意思が一人歩きした結果であると言える。朝廷を尊皇攘夷派が席巻し、水戸藩がそれに結びつき勅が発動した。孝明天皇の意を汲んではいるものの、主体はもはや天皇には無かった。そして、その反動で安政の大獄。規模は異なるものの鷹司政通の恐れていた「承久の乱」の再現である。この後、水戸藩は勢力を失ってしまう。変わって突出したのが吉田松陰門下による長州藩の尊皇攘夷派であり、井伊直弼暗殺により急速に求心力を失った幕府に襲い掛かる。
 ここまでくると、完全に孝明天皇は概念上の存在と化してくる。その巨大化した孝明天皇=尊皇攘夷という概念は、凋落の一途を辿る幕府と反比例するかのように勢いを強め、「偽勅」なるものが横行する。尊攘派過激公家が尊攘志士と結びつき「天皇の意思」をバックに幕府を圧迫、ついに将軍家茂を京都に呼び付け期限付き攘夷を約束させるのだ。幕府は窮まった。
 ここに至り、孝明天皇はついに「いいかげんにしろ」という意思を示す。それが、八月十八日の政変である。長州藩及び過激尊攘公卿は京都政界から追い落とされた。
 しかしながら、これも孝明天皇の主体的行動であるとも言い難い。尊攘派と公武合体派の政争であり、薩摩藩そして会津藩と、当時孝明天皇が最も信頼を寄せていた中川宮(青蓮院宮)が結託した結果である。孝明天皇の本意は、おそらく自分の名で過激なことが次々と行われていくのを憂いてはいたのだろう。だがこの政変がまた反動を生み、禁門の変へと繋がっていく。
 
 孝明天皇の意思はどこにあったのだろうか。確かに攘夷は実現したかった。ただそれは、争いを望んでのことではなかったのだ。同時に、幕府への大政委任も崩したくは無かった。倒幕など露ほども望んではいない。
 結局のところ、孝明天皇の意思は全て「現状維持」に端を発していると言えよう。攘夷も、今まで国内だけで平和を謳歌してきたことを崩されたくなかっただけであったとも取れる。孝明天皇の攘夷は現状維持の裏返しであったのだ。全ては古法のまま推移すればそれでいい。皇統意識は十分に受け継いでいるものの、それを発展させようという野望も無かった。大政委任を最後まで崩そうとしなかったことからもそのことは知れる。
 孝明天皇はその後、一橋慶喜と会津松平容保に信頼を寄せ傾斜していく。慶応元年9月に長州再征に勅許、そしてついに10月には通商条約に遅ればせながら勅許を下す。この時点で、尊皇攘夷という思想は崩壊したことになる。
 もっとも、過激尊皇攘夷の長州においても、下関攘夷戦争の敗北によって既に事実上は開国論へと転向している。薩摩も薩英戦争に敗れて内々では攘夷は引っ込めている。しかし、尊皇攘夷=倒幕の動きはまだ表向きは連なっており、旗印となっている。
 攘夷はともかくとしても、孝明天皇は全く幕府を否定しない。尊王論で倒幕運動を継続するためには、孝明天皇は大きな壁となる。

 慶応二年正月に薩長同盟。薩摩藩は7月、征長軍解兵の建白をするが、孝明天皇はこれに反対する。ここに至って、孝明天皇は完全に薩長の敵となった。
 そしてこの年の12月。孝明天皇崩御。享年36歳。
 この後、重石が取れた倒幕運動は一気に加速していく。将軍慶喜による大政奉還も蹴散らし、薩長は武力討幕へと邁進する。このような急激な変革は孝明天皇が存命であれば間違いなく反対したはずで、薩長軍が錦の御旗を掲げて官軍となることも難しかったとも言える。
 そのことから、孝明天皇は毒殺されたとの説が当時からささやかれていた。現在でも毒殺説は根強い。ただ、証拠が無い。泉涌寺にある孝明天皇陵を発掘して検死でも行わない限り真相は闇の中である。宮内庁がそんなこと許可するわけがない。
 もしも毒殺が行われたのであるとすれば、それは倒幕勢力がやったことに間違いはないだろう。薩長は、孝明天皇の思想を利用するだけ利用し、邪魔になったら消した、ということになる。
 もちろん単に天皇は病死したのかもしれないが、倒幕派はさらに死後もその思想だけは利用し続けたとも言える。草莽の志士たちはそれに踊らされ、いつまでも尊皇攘夷が旗印だと信じていた。最初にも書いたが、こういう政治手法は嫌いだ。
 あくまで尊王攘夷で倒幕を成し遂げた明治政府は、その攘夷論を正式に引っ込めたのは明治になってからである。明治2年に政府は開国和親を国是とした。それまでは詭弁攘夷を続けていたとも言える。また、尊王論はさらに盛んで、その影響は最終的に明治憲法に盛り込まれて終戦まで続いた。現在もまだその影響力は残っているとも思われる。

 孝明天皇は、もしかしたら怨霊になったのではないか。古代であればともかく、明治の世にそうはっきりと史実としてあるわけではないが、中川宮(青蓮院宮)の日記によれば、明治天皇の枕元に「鐘馗ノカタチノヨウニ」現れ続けたという。これだけでは亡霊であり祟ったわけではないが、古代であれば例えば大久保利通の死などは祟りであると正史に記された可能性もある。日本史上最後の怨霊は実は孝明天皇であったのかもしれない。
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もしも安政の大獄が無かったら

2009年06月15日 | 歴史「if」
 安政の大獄の直接の原因は「戊午の密勅」であろうと考えられる。だが、それは膨らみきった風船を刺す針と同じことであっただろう。それまでに積載された事象があった。
 少し整理してみる。
 前回書いたように、井伊直弼を中心とする勢力と水戸斉昭を中心とする勢力に、様々な対立軸があった。その中で、日米通商条約調印に関する開国・攘夷の問題と、幕府継嗣をめぐる南紀派と一橋派の問題を中心に状況を見てみる。時間は、ペリーによって日米和親条約が結ばれ、そしてアメリカからタウンゼント・ハリスがやってきて、米国総領事として今度は通商条約の調印を幕府に迫っている時である。
 もう和親条約の締結は終わっている。ここに及んで通商条約は、現実的にはもはや拒否出来ることでは無かった。ただ、この条約は実は関税自主権もない不平等条約であり、簡単に結んでもいいものでは無かったとも言える。しかし、アメリカの圧力はいかんともし難かった。戦争だけは避けたい。
 しかし反対論は多い。通商をすれば、日本に売る物資は無くただ一方的輸入に留まり日本がやせ細る、侵略の糸口になる、アヘン戦争の二の舞となるのでどうしても駄目だという攘夷論。
 さらに、もっと単純な反対論もある。和親条約は漂流民の救助や、さらには燃料、食料、水などの補給を要求するものであり、人道的にも納得がいき、さらには開いた港だけで事足りるために異国と付き合うという感覚が希薄だった。だが、通商条約となれば、異国ともっと深く付き合わざるを得なくなり、夷人が上陸し、神の国たる日本が穢されてしまう、という主張。攘夷の感覚とはそういうものだろうか。
 それらの反対論を抑えるためもあってか、幕府は朝廷の権威を借りようとする。天皇の勅許をもって通商条約を結び、反対派を押さえ込もうとしたのだ。
 幕府の権威もずいぶんと落ちたものだが、これが失敗の元であった。幕府首脳は、勅許など簡単に得られると思い込んでいたのだろうか。そして、政局は京都へ移る。朝廷にうんと言わせなくてはいけない。激動の安政五年が始まる。
 
 ここで「京都入説」なる行為が行われる。本来は朝廷への窓口は幕府一本に絞られており、幕府の使者以外が朝廷へ直接説諭工作をするのは御法度であるのだが、各有力者もこの時は大いに(建前上は秘密裏に)朝廷工作を行った。
 その朝廷工作における論点は、当然条約調印問題に絞られて然るべきであるのだが、ここにもうひとつの対立軸も登場する。それは前述した将軍後継者問題である。紀州家茂を推す南紀派と、一橋慶喜を推す一橋派。これも天皇の勅をもって解決しようとする動きが生じたため、京都入説は二つの論点を持つこととなってしまった。これが、糸を縺れに縺れさせる。
 整理してみる。
 まず、入説を受け入れる側の朝廷。これは、基本的には調印問題は否である。攘夷論が席巻している。もちろん中心たる孝明天皇が全く開国を受け入れていない。継嗣問題については白紙である。これは基本的に幕府の問題であって、朝廷が継嗣を決めるなどということはこの時点では考えていない。
 次に幕府。老中首座の堀田正睦が京都へ来た。つまり首相が直接説得にあたるわけであり、政局が京都へ移動したというのも大げさではない。堀田は「蘭癖」とも言われた開国論者である。そして、サブに川路聖謨と岩瀬忠震。両者とも幕府の外交官僚のエースだ。どんな細かな説明もこなす。基本的には調印に勅許を得るのが目的であり、継嗣問題にはあまり関わらない。
 ここからは、外野の京都入説である。
 彦根藩井伊直弼。この時点ではまだ大老ではなく譜代大名のトップである。国学者長野主膳を送り込む。論点は、調印問題は開国派であり幕府の説諭を助ける。継嗣問題では南紀派。関白九条尚忠に食い込む。
 越前藩松平春嶽。片腕である英才、橋本左内を送り込む。調印問題は開国派であり、幕府、彦根藩と同目的である。継嗣問題では一橋派。内大臣三条実万を筆頭に公卿多数、青蓮院宮など有力宮家にも食い込む。
 薩摩藩島津斉彬。調印問題には開国派であったが深く関わらず、継嗣問題に尽力する。一橋派。左大臣近衛忠煕の妻は島津家から来ていて、天璋院篤子は忠煕の養女になって後家定に輿入れしているため縁が深い。斉彬は書簡で入説し、西郷隆盛も送り込む。
 水戸藩徳川斉昭。調印問題は攘夷派であり、幕府と異にする。継嗣問題では当然実子である一橋派。前関白(太閤)鷹司政通は義兄(妻が斉昭の姉)にあたるが、それほどの強い食い込みは見せていない。
 京都在住の尊皇攘夷派。梅田雲浜や梁川星巌、頼三樹三郎ら。調印問題は当然攘夷、継嗣問題は一橋派。
 主なところはざっとこのくらいだろうか。
 入説の方向性、強弱は多少異なる。調印問題については、朝廷側は当時開国派は太閤鷹司政通くらい(後に変節する)でほぼ攘夷。取り付く島もないと考えた越前橋本左内は、ほぼ入説を継嗣問題に絞り、ほとんどの有力者を賄賂ではなく弁舌によって一橋派にしてしまう。幕府使者の川路聖謨も取り込んでしまう。これでほぼ南紀派は関白九条尚忠と武家伝奏くらいとなり内勅降下が具体化したが、その関白九条尚忠が土壇場で一人でこれを引っくり返す。この左内の敗北は、営業経験のある人なら辛さが分かるかと思うが(余計な話だな)。
 だが調印問題は関白九条尚忠ではどうにもならず、岩倉具視らが扇動して公卿88人の調印反対デモを起し、勅許ももちろん降りなかった。堀田正睦は悄然として江戸に帰ることになる。

 この後を時系列的に。
 4/27井伊直弼が大老となる。と、直弼は大目付土岐頼旨、勘定奉行川路聖謨、目付鵜殿長鋭、京都西町奉行浅野長祚を立て続けに左遷。皆阿部正弘に引き上げられた英才たちである。浅野長祚など何故左遷なのか全く分からない。掘割問題を引きずっているとしか思えず、直弼の公私混同振りが少し見える気がする。
 6/1継嗣内定の発表。ただ家茂決定とはまだ言わない。そして6/19条約調印。続いて内閣改造を行い、堀田正睦、松平忠固を罷免。後任にイエスマンを据える。違勅調印と継嗣問題で水戸斉昭、松平春嶽、尾張慶勝らが登城して直弼に抗議するも取り合わず、家茂を継嗣と発表する。さらに7月に入ると直ぐ、斉昭、春嶽、慶勝、一橋慶喜らを不時登城のことで謹慎、隠居などの処分とする。恐怖政治だ。同時に、将軍家定死去。
 一橋派並びに攘夷派は当然怒る。京都では水戸藩がついに暗躍し始める。越前、薩摩藩も動く。攘夷志士梅田雲浜らも動く。そしてついに、島津斉彬が兵を率いて上洛、というところまで来る。越前藩もまた呼応して出兵となる運びだった。
 もしもこれが実現していたら歴史は大きく変わったはずだ。
 おそらく兵力を背景に、幕政改革の勅が出ていたに違いない。さすれば、井伊直弼も独断専行は出来まい。同調する雄藩が続く可能性もある(土佐藩や佐賀藩、宇和島藩など)。そして、圧力によって幕政改革が行われる。それは橋本左内の構想通り、将軍家茂は変わらずとも後見職に一橋慶喜、大老に春嶽、斉昭、斉彬が国務大臣、佐賀藩鍋島閑叟が外務大臣。その他雄藩による内閣の誕生となった可能性が高い。そして幕府は左内の構想に沿って富国強兵の道へ邁進する。産業の近代化は、既に薩摩や佐賀藩に雛形がある。そして、いずれは統一国家へと進むことになっただろう。薩長による倒幕、明治維新より以前に近代化日本が誕生することも夢想とは切り捨てられない。
 だが、島津斉彬はこのクーデター直前、7/16に死ぬ。
 暗殺説が根強いが、このタイミングではそういう説も出るだろう。日本は変わり損ねた。
 この薩摩藩の上洛は、4年後に島津久光によって実現する。そして慶喜は将軍後見職、春嶽は政治総裁職(つまり大老みたいなものか)となった。左内の構想通りのようだが、この4年間で世の中は劇的に変わってしまっていた。時すでに遅し、と言えばいいのか。そもそも、4年後に橋本左内は居ない。そして幕府が自ら主導して維新を実現出来る程の力を相対的に失っていた。

 話がそれた。
 斉彬の死去を受け、武力を背景とした改革が頓挫したため、水戸藩は次の手を打つ。「戊午の密勅」の降下だ。8/8、水戸藩に勅諚が下賜される。幕府派の関白九条尚忠を外して事が運ばれたため、密勅と言われる。内容は、違勅による無断調印を責め、どういうことか説明せよ、そして攘夷に邁進せよ、公武合体を強化せよ、ということでさほど驚くようなものではない。例えば以仁王の令旨とは相当違う。しかも、同様の勅を2日後の8/10には幕府にも降下している。
 ただし、幕府の頭越しに水戸藩へ先に直接下賜したという所に問題があった。しかも、上記内容を水戸藩は諸藩に廻覧せよとの副書が付いていた。幕府としては面目丸潰れといったところだろう。
 井伊直弼は怒り、安政の大獄がスタートする。
 8/16新京都所司代酒井忠義が上洛のため出発。9/3老中間部詮勝が出発。間部が京都に着く前に、梅田雲浜が逮捕。直弼の懐刀長野主膳が摘発の主体となっている様子が伺える。そして、次々と逮捕、処分が続いていく。
 主だった処分対象者は以下。
 公卿側は、鷹司政通、輔煕、近衛忠煕、三条実万が辞官、謹慎、そして落飾。落飾とは出家だ。他、青蓮院宮の隠居永蟄居など多数。公卿家臣らも、飯泉喜内が死罪、小林良典が遠島など多数。水戸藩では家老安島帯刀が切腹、京都留守居役鵜飼吉左衛門、藩士茅根伊予之介が死罪。吉左衛門子息の幸吉は晒し首という苛烈さである。
 そして、京都での扇動者頼三樹三郎は死罪。梅田雲浜は獄死した。梁川星巌は逮捕前にコレラで死去。さらに、越前橋本左内、長州吉田松陰が死罪となる。西郷隆盛も逃げてなければ危なかった。勤皇僧月照と入水自殺を図り、西郷は蘇生したが公的にはこの時死んだことになっている。ので、助かった。藩の方で遠島。
 幕府内部でも、岩瀬忠震、永井尚志は禄を召し上げられ永蟄居。岩瀬は2年後に病死している。憤死だ。他にも幕臣に処分者多数。
 井伊直弼再評価論も知っている。だが、やはり独裁者と言わざるを得ない。足利義教に擬しては行き過ぎだろうか。

 橋本左内という若きリーダーの下、岩瀬忠震ら英明幕臣、江藤新平ら佐賀の秀才が並び立つオールスターキャストの新政府というものをやはり見てみたかった。個性派ばかりで衝突もあるだろうが、彼らが作る日本は、また大久保利通が作る日本とは一味違っただろう。惜しい。

 さて、吉田松陰である。松陰は、なんでこの大獄に連座したのか本当に分からない。処分者は主として一橋慶喜を擁立しようと実際に奔走した、井伊直弼の政敵(もっと突き詰めれば長野主膳の敵)ばかりである。ところが、松陰だけは少し毛色が違う。結局、梅田雲浜との関係を疑われ取調べを受け(なんせ黒船に乗って国外飛翔しようとした前科持ちだ)、その部分はシロだったものの、自分から別件の老中間部詮勝暗殺計画などを滔々と喋ってしまいクロ判決、斬首である。
 誘導尋問に乗ってしまったようなものであるが、口が滑らなければ松陰は生き延びていただろう。取調掛もまさかそんな計画など関知していなかったのだから。

 吉田松陰のifは山ほどあるのだが、新たに記事を書くよりもこの場で少し簡単に考えてみたい。何故かと言えば、逃げである。吉田松陰という人物が僕にはよく分からないのだ。難しすぎる。何冊本を読んでも分からない。そもそも何で、あの佐久間象山を師として、国禁を犯してまでアメリカやロシアに渡って先進技術を学ぼうとした人が、尊皇攘夷の巨魁とされるのか。それには水戸学から勉強しないと理解が及ばないと思われ、荷が重過ぎる。
 さて、吉田松陰が安政の大獄に連座しなかったとしたら。
 長州藩へ還れる可能性もあるが、それでも、良くて蟄居生活は免れまい。野山獄に再び収監されることも考えられ、松下村塾は閉鎖だろう。ただ、久坂玄瑞や高杉晋作との交流はずっと続くかと。普通に考えれば、長州過激尊皇攘夷派のリーダーとして君臨すると考えられる。
 しかし、だ。長州藩の尊攘派のその後の激流は、松陰の死をきっかけに成立したのではないのか、との考え方もしてみる。弟子が過激に走り出したのは松陰が処刑されて後のことである。それまでは比較的慎重で、松陰の「狂気」とは距離を置こうとしていた節もある。松陰の死、ということが起爆剤となり、久坂玄瑞がその狂気の部分を継承し、「松門党」のようなものが結成されていったのではないか。
 長井雅楽の「航海遠略策」にせよ、さほど松陰の主張と差異が見出せない。長井は松陰と仲が悪かったとされるが、松陰の大攘夷的思想と航海遠略策には多少の方法論の違いなどがあるかもしれないが、結局は同じことであり、さらに言えば航海遠略策の骨子は後の坂本龍馬の主張とも近く、さらには明治維新の富国強兵・殖産興業も筋道は同じである。つまり「正論」だった。これを葬ったのは、久坂以下の松門党である。
 久坂らは、航海遠略策の中に「謗詞」があるとして朝廷工作を行い、これを引っ込めさせる。しかし、その謗詞とは「昔を思い国威を五大州に振るうの大規模なかるべからず」という文言が、昔の国家朝廷と現在とを比較し誹謗しているという、いわば「言いがかり」みたいなものであり家康の「国家安康・君臣豊楽」のいちゃもんとさほど変わりはない。ここには、長井に対する怨恨のようなものが内包されているのではないか。長井は、松陰を庇うことなく幕府の松蔭江戸償還令を伝えた、松陰の仇。それが「藩論」である航海遠略策を葬り、長州藩に過激尊皇攘夷思想で突き進む道を選ばせ、ただ破約攘夷を唱え、唱えるだけでなく外国船に砲撃を加え、それが八月十八日の政変、池田屋事件、禁門の変、連合艦隊下関攻撃、第一次長州征伐と続き追い詰められて最終的に暴発して倒幕へと連なっていく。
 これらは、松陰の死によってその思想(死去した時点の過激思想)が神格化され一人歩きしてしまった結果であるような気もする。
 松陰はまだ若かった。変節という言葉は穏当ではないが、その考え方も徐々に変貌する様子が見て取れる。生きていれば、もう少しその考え方にも発展が見られたかもしれない。その晩年は倒幕論者となったが、松門党の思想が破約攘夷一辺倒のまま推移したかどうかは疑問だ。
 そして何よりこの流れの中で、長州藩の人材は次々と失われた。周布政之助、長井雅楽の両巨頭をはじめ、高杉晋作、久坂玄瑞、吉田彦麿、入江九一らも皆死んだ。木戸孝允はよくぞ生き残ったとも思うが、他は前原一誠や伊藤博文、井上馨や山県有朋らだけが残った。
 松陰の刑死によって、大きく運命が変わったということも考えられるのではないか。あくまで可能性ではあるが、また違った維新というものも浮かび上がってくるのである。大久保利通の独壇場だけではない明治政府というものが。

 ただ、明治政府の成立には、尊皇攘夷思想というものが強烈に関わってくる。尊皇攘夷無くして倒幕は在り得たか、というifを考えざるを得ない。だがそれを考えるには紙面が尽きた。文字制限もあるのでまた改めて書いてみたい。

 
 
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もしも井伊直弼の大老就任が無かったら

2009年05月31日 | 歴史「if」
 徳川幕府は倒れるべくして倒れたのか。その問いには、そうだろうとしか言いようが無い。
 世界史の情勢を見れば、あれ以上封建制の社会が日本で続いていくことは難しかったと考えられる。いかに極東の国であったとしても世界の流れには抗うことは出来なかっただろう。確かに、日本と比べ清朝や李氏朝鮮はもう少し生命を永らえたが、日本もその態で封建制とその中心である徳川幕府があと4、50年命脈を保ったとしたら、列強の中で植民地化、或いはそれに近い歴史が刻まれていた可能性も少なくはない。
 だが、徳川幕府及び封建制社会が倒れ中央集権制の政府樹立は必然であったとしても、それが薩長によって幕を下ろされなければならなかった必然性はさほど強くなかったのではないだろうか。結局は薩長による革命戦争によって政権奪取がなされ明治政府が誕生するのだが、方法論はまだいくつも道があったのではなかったか。
 徳川幕府は天保の改革以来、確かに疲弊していた。そこへペリーがやってくる。鎖国という祖法(と考えられていたもの)は否応なしに変更せざるを得なくなる。その中で、幕政改革がまた声高に叫ばれ始めた。このままではいけない。国としてどういう方針を採って列強と対峙していくのか。開国か、それとも攘夷か。あるいは第三の方法か。
 ペリー・ショックによってそうした論議(多分に思想論かもしれないが)が巻き起こる中、「倒幕」という考えはまだ表には出てこない。ベクトルはまだ「幕政改革」によってこの危機的状況を乗り越えようとする考えが多数であったと考えられる。これが「倒幕」に移り変わるのはいったいいつの事か。
 いろいろ考えていくと、どうもそれは井伊直弼が大老に就任して後のことではなかったか、とも思えてくる。

 井伊直弼の大老就任によって歴史はどう動いたか。
 ペリー来航時の幕府は、老中阿部正弘を首班とする内閣だった。アヘン戦争などによる列強の帝国主義の恐怖は既に伝わっており、そしてこのペリーによるアメリカの開国要求に対し阿部は、挙国一致内閣で乗り切ろうとする。具体的には、開国は避けられぬ状況下にあって、攘夷論者と言われる御三家で水戸藩の徳川斉昭を取り込み、さらに譜代の有力大名であった松平春嶽や外様の島津斉彬とも連携し、さらに大胆な人材登用で有能な官僚を配置して国難を乗り切ろうとした。これにより、筒井政憲や川路聖謨、岩瀬忠震などの人材が登場し、大久保一翁、永井尚志、また勝海舟らも連なって後に表舞台に出てくる道が出来る。
 逆に言えば、幕政秩序を崩したとも言える訳で、譜代大名中心幕政から外様大名の侵入も許し、また身分の壁も低くなってしまった。
 日米和親条約調印後、阿部正弘は死去する。享年39歳。心労によるものか、若すぎる死だった。
 この阿部正弘がもしももう少し長生きすれば、井伊直弼がどうなったかは興味のあるところだが病死はしょうがない。幕閣は堀田正睦が首班となる。

 ここらへんから、話がややこしくなる。対立軸が数多く出てくるからだ。
 対立軸その一。守旧派と改革派という軸。
 阿部正弘は幕政秩序を崩した、と前述した。これが我慢ならない一派も当然存在する。特に水戸の徳川斉昭の幕政参与は、従来の幕政を担ってきた譜代大名と当然ぶつかる。斉昭は水戸学をバックにした強烈な攘夷論者であり(そう言い切っていいかどうかは判断が難しいがここではとりあえずそうする)、開国を推し進めていた幕閣とぶつかり、松平乗全・松平忠固両老中更迭という結果となる。これに譜代大名は反発する。その筆頭は、譜代の名門中の名門である井伊家当主、直弼である。
 対立軸その二。将軍後継の問題。一橋派と南紀派という軸。
 ペリー来航時の将軍は12代家慶。直ぐに亡くなって後を家定が継ぐ。この家定は、虚弱体質だったと言われている。一説には判断能力も無かったとされ、脳性麻痺だったとも言われる。このことはアメリカ側からの史料からも伺えるが、そうではなかったとの説もあり、TVドラマの影響で家定聡明説を言う人も多い。だが、それはどちらでもいい。家定は将軍就任時30歳だったが、実子が無く後継を持ってこなくてはならなかった。
 その継嗣となる候補は二人居た。一人は、御三卿一橋家の慶喜であり、もう一人は御三家である紀伊の家茂。簡単に言えば、血筋は家茂が近いがまだ若年(子供である)。年齢的にもまた英明さでも慶喜が勝るが血筋は遠い。その対立である。一橋慶喜側には、阿部正弘(既に死去)、松平春嶽、島津斉彬、徳川斉昭。南紀家茂側には直弼を筆頭とする譜代大名と大奥。慶喜は斉昭の実子であり、斉昭は大奥改革を唱えておりその反発もあった。
 対立軸その三。攘夷派と開国派。この話は実にややこしい。
 これは前述したように攘夷の水戸斉昭と開国の直弼という単純化はなかなかしにくい。斉昭は攘夷であるが内面では打ち払いは無理と考えており、直弼は開国を推し進めるが実は心情的攘夷であったとされる。ただ、水戸藩としては攘夷論を大前提にしていて、藩士はその方向で動く。直弼ら譜代は開国は規定路線でありそう動かざるを得ない。さらに、ここには朝廷が絡んでくる。時の天皇である孝明天皇は、徹底した攘夷論者である。この孝明天皇をめぐる勅許問題が、話を実にややこしくさせる。
 さらに第四の軸として、彦根藩の運河開削反対問題がある。これは敦賀と琵琶湖北岸間に掘割と新道を造り、若狭から物資を直接京都に運びこむ事が出来る計画であり、これが実現すれば近江国そして彦根藩は経済的に大打撃を受けることになる。なので井伊直弼は大反対をする。そして、開明的幕府首脳及び官僚と対立構造が生まれる。これは国家的対立軸ではないが重要な問題となっていく。

 ここでは攘夷・開国の話はひとまず措く。対立軸を第一、第二に絞る。特に一橋派と南紀派の対立を見る。
 家定の継嗣は、一橋慶喜が実は規定路線であったとも言える。12代家慶の次は慶喜と既に考えられていたとも言われ、家慶ですら実子の家定が薄弱であることを懸念し慶喜を養子に、という案もあったとされる。これは実現しなかったがその次は慶喜、となるはずだった。ましてや国難の時期である。英明君主を望むのは至極当然だろう。
 しかし、水戸斉昭の幕政への参与が実子、一橋慶喜の障害となった。これ以上斉昭に牛耳られては困る。将軍の親ともなればその権力はいかばかりのものになるか。譜代大名や斉昭嫌いの大奥は何とか巻き返したい。しかし、慶喜を推すのは松平春嶽や島津斉彬ら雄藩であり、阿部正弘もそう考えていた。彼ら有力者に対抗馬を立てたい。それが、井伊直弼の大老就任であったと考えられる。結局、話を単純にすれば徳川家茂の将軍就任と譜代大名らの既得権保守(あくまで単純に言えばだが)のために、井伊直弼は大老になった。
 直弼は大老になると、権力をいかんなく発揮する。家茂を将軍とし、朝廷の勅許なしに諸外国と通商条約を結び、さらに一橋派を弾圧した。安政の大獄である。
 この独裁的政治が、桜田門外の変に繋がり、現役大老の暗殺により幕府の権威は地に落ち、皇女和宮嫁下による公武合体策も虚しく「倒幕」の動きが生じて、幕府崩壊、明治維新に繋がると考えられる。強引な手腕が逆に幕府の命脈を縮めた。

 井伊直弼が出てこなければ、独裁者として君臨しなければ、対立軸はあるにせよ一橋慶喜の14代将軍就任の目が強かったということも出来る。そして、大老は松平春嶽。そうなれば、幕末の風景は相当に変わったはずだ。
 では、井伊直弼が出て来れない可能性はあったのだろうか。

 井伊直弼は、実は井伊家13代藩主直中の、何と14男なのである。普通なら井伊家当主になれるはずもない。ここにifがある。
 井伊直中は、21人の子をもうけた。男子だけで15人。
 長男直清は庶子でありまた病弱であったため(結局21歳で死去)、三男直亮が嫡子となり、後に第14代藩主となる(二男、四男、五男は早世)。細かく書くと、六男中顕は家臣中野家養子となる(後に井伊姓に復す)。七男直教(久教)は岡藩中川家の養子となり藩を継ぎ、八男直福(政成)は挙母藩内藤家を継ぐ。九男勝権は多胡藩松平家を継ぎ、十男親良は家臣木俣家の養子。十一男直元は、兄である三男直亮の養子となる。つまり、井伊家の継嗣である。十二男義之は家臣横地家の養子、十三男政優は、挙母藩内藤政成(つまり八男直福)の養子となり継ぐ。
 ここまでは、直中の子は順調に片付いている。多くは他家の養子となり藩主となり、また家臣となり井伊家を支える立場になった。さて、残るは十四男直弼、十五男直恭である。ところが、元服前に直中死去。直弼17歳、直恭12歳が残された。この二人は「部屋住み」という立場になる。喪が明けて直弼は元服するが、井伊家は兄直亮が藩主となっており、父直中の庇護もなく捨扶持でその後15年を過ごすことになるのだ。
 ただ、チャンスはあった。直弼20歳の時、弟直恭と共に江戸に呼ばれ養子縁組の口を探すことになる。ここで他家の養子となれれば、わずか300俵の部屋住の立場から脱却できる。江戸滞在は1年に及んだ。
 だが、弟直恭は延岡藩内藤家を継ぐことになったのだが、直弼には養子の声が掛からなかった。原因は分からない。直弼は「一生埋れ木で朽ち果てる覚悟」をして失意のまま彦根に戻ることになる。
 この時点で、兄である藩主直亮には子がなく、養子のやはり兄直元(当時26歳)にも子が無かった。もしかしたら直弼は井伊家後継のためのスペアとして残されたとの推測も出来ることは出来るが、年齢を考えればまだ直元の子供を諦めるには早く、残すのなら弟直恭(当時15歳)の方が適う。直弼自身も「埋れ木の覚悟」を決める程の悲壮感を持っており、やはり単にお声掛りが無かったのだろう。就職活動に失敗したのだ。もしも、ここで直弼が他家に首尾よく養子に迎えられたとしたら。後の大老井伊直弼はなかったことになる。
 ただ、養子の口が無かったと言っても、直弼がすぐ継嗣になったわけではもちろん無い。直元はまだ若い。30歳の時に、女児をもうけている(結局早世したのだが)。直元にもまだまだ継嗣が生まれる可能性があったのだ。
 直弼は27歳の頃(直元33歳)、長浜大通寺へ、法嗣が絶え住職が空席となったために迎えられようとしたことがある。これは具体化し直弼もようやく捨扶持の不遇から脱却できると乗り気になった。しかし、この話も頓挫する。これは、直元の健康がすぐれず結局まだ継嗣も生まれなかったために井伊家がストップをかけたのだとする説もあるが、直弼は相当惹かれたようである。もしも直弼が出家して大通寺の住職に納まったとしたら、これも後の大老井伊直弼は無い。
 この話は、約4年もすったもんだしたあげく、井伊家が大通寺に正式に断ることで決着が着く。その時直弼31歳、直元36歳。そして翌年、直元が死去、直弼が井伊家継嗣と正式に決まる。

 もしも直弼が他家の養子になったり、出家したりしていたとしたら、井伊家はどうなったか。この場合、直弼が戻ったり還俗したり、ということはまず無かっただろう。どこかから別に養子を迎えていたに違いない。例えば、六男中顕は井伊姓に戻っており、井伊筑後となっている。直元の兄の中顕が継ぐことはないが、中顕には二人男子がおり、一人はまた挙母藩内藤家に養子に入り、一人は家督を継いでいる。このうちどちらかが井伊家宗家を継ぐ、なんてことも考えられる。他にも血筋を辿ればいくつかパターンは考えられるだろう。何も直弼でなければならないということは無かったはずだ。
 父直中は15人の男子を残したのに、兄である直亮、直元両者に後継者が生まれなかったのも必然ではあるまい。直弼が養子に行けなかったのもまた必然ではない。数奇な運命の中、直弼は井伊家藩主となり、そして時代がその直弼を大老にまで昇らせた。
 この「部屋住み15年」という、エネルギーを満杯に充填した直弼が、壮年で藩主になりその積もり積もったパワーを思う存分発揮してしまう。そのパワーは、表層上は幕府の権力強化に見えて、内実は幕府の持てる力を削ってしまった。

 もしも井伊直弼が、例えば大通寺の住職になるなりして、幕政の中心に座ることがなかったとしたら。家茂擁立を図る南紀派はかなり苦しかったに違いない。
 この時点で、幕政は阿部正弘が死に、堀田正睦が老中首座。彼は、当初南紀派的発言をしていたがこの時は一橋派に傾いていたと考えられる。斉昭と対立して一度は老中を罷免された松平忠固は幕閣に戻ってはきているものの、老中というものは基本的に合議制であって独走は出来ない。溜間詰の譜代大名は南紀派だが、外野に過ぎない。最も奔走していたのは紀州藩付家老の水野忠央だっただろうが、これも基本的には外野である。
 もちろん、継嗣を決定するのは将軍家定であるのは間違いないのだが、家定がどこまで自分の意思を持っていたかは分からない。家定の意思を左右できるのは大奥であり、大奥は水戸斉昭嫌いと水野忠央らの工作で南紀派だったが、これだけでは継嗣決定の決め手にはならない。家定の絶対的意思表明が必要だった。しかし外野勢力は直接、将軍である家定工作をするわけにはいかない。
 外野と言えば、それは一橋派も同じである。一橋派の主体は、水戸斉昭や松平春嶽、島津斉彬らであり、南紀派よりもさらに外野だった。継嗣決定はまず将軍家定の内意であり、それを左右するのは大奥であるから、一橋派も大奥工作を実施した。具体的には島津斉彬の養女である天璋院篤子を家定の室としたが、大奥の意思は南紀派で動かない。なので一橋派は朝廷を抱き込もうとする。勅許による継嗣決定である。松平春嶽は橋本左内を京都へ送り込み、島津斉彬も西郷隆盛をもって工作にあたった。これは、日米条約問題も複雑に絡んでややこしいのだが、一橋派は左内の活躍でかなりの線まで追い詰める。しかし、関白九条尚忠が南紀派に抱き込まれギリギリのところで阻止された。
 歴史ではここで、井伊直弼の登板があってそれら一橋派の工作を一気に反故にして家茂擁立となるのだが、それがなければまだ平行線を辿っていた可能性が高い。どちらに転んでいたかは分からないが、天皇の内勅が左内らの工作により「英明・人望・年長」である継嗣を望むとされていたのを、ただ継嗣を速やかに決定しろ、と肝心の一橋慶喜を指す部分を削らせたのは関白九条尚忠であり、尚忠に工作したのは直弼の腹心である長野主膳である。直弼がいなければ慶喜継嗣の内勅が下り、これをタテに一橋派は慶喜擁立を決定付けていた可能性がある。もうすぐ家定は死去する。14代将軍徳川慶喜が生まれていた可能性も高い。

 井伊直弼は「日本開国の父」とも言われるが、直弼でなければ条約は結べなかったかといえばそうではあるまい。確かに慶喜の父水戸斉昭は攘夷を標榜しているが、そんなダダをこねられる状況ではなかったはずだ。ことに、大老に松平春嶽が就任していれば、まず違いなく調印は行われていると考えていいだろう。春嶽の頭脳は、天才・橋本左内に負っている。開国、西欧の技術導入、国力増強路線へと幕府は進むことが予想される。
 この時点で攘夷を強く訴えるのは水戸藩と朝廷、特に孝明天皇であろう。長州藩はまだそれほど尊皇攘夷色は濃くない。問題は水戸藩だが、斉昭も老体だ。水戸学というのは難しくて素人の手には負えないが、ここで水戸藩さえ取り込めれば、あとの抵抗勢力は弱い。朝廷も、後に長州藩長井雅楽の「航海遠略策」には賛同している。国内が異国勢力に蹂躙されるようなことが無ければ、さほど問題は生じないだろう。
 幕府の有能な開国派官僚たちは、井伊直弼による弾圧も無くまだまだ活躍し続けると考えられる。倒幕の必要性がなければ雄藩はそれを支える立場にもなり得る。そして、この幕府は徳川慶喜によって発展的解消し、郡県制をしき中央政権政府にと生まれ変わる。それは過渡的に大統領制かもしれないが、封建制が幕を下ろせば民主政府は流れの中で生じる可能性も高い。橋本左内が首班となる内閣が生まれる可能性もある。明治維新の富国強兵・殖産興業といった方向性とさほど変わりはないだろう。そして、日本の人材は失われること無く豊富に残っている。
 実際は、安政の大獄に始まり幕末の嵐の中で多くの有能な人材が失われ、最終的には明治に薩長の政府が成立する。新政府の中核が山口県と鹿児島県出身者で占められるという事態を「歪んでいる」とは一概には言えない。ただ、惜しい。他にも新生日本を担うべき人材は多数居たはずなのだ。そういう日本の精鋭を集めた政府をふと夢想したりする。安政の大獄などの弾圧、天誅などのテロリズム、幕長戦争や戊辰戦争などの内乱は本当に必要だったのだろうか。

 本当は尊皇攘夷のことも書きたかったのだが筆が進まなかった。機会を改めてまた記事にしたいと思う。
 
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もしも梶原景時が粛清されなかったら

2008年12月20日 | 歴史「if」
 平安・鎌倉時代の「乳母」「乳母夫」というものの存在の重要性はなかなか分かりにくい。頼朝が比企尼の厚情を忘れず、最後まで比企氏を頼りにしたことを考えれば足るとも言えるが、実母よりも乳母が優先するという実態。そして乳母夫、乳兄弟はその側近となっていくという過程。
 このシステムは、高貴な生まれだけに通用するシステムだろう。庶民に乳母など居ない。そして、鎌倉武士団も当初は庶民みたいなものだった。もしかしたら北条氏は、頼朝の嫡子頼家の養育に比企氏一族があたるということの重要性を最初はそれほど理解してはいなかったのではないか。素人の想像ではあるが。
 無論、そのことは徐々に時政、義時、政子にも理解が進む。成長した頼家は、最早北条氏一族とは言えない存在となっていく。せめて次弟の実朝は我が北条の手に置くことはしたが、嫡子ではない。政子は、頼家の成長を素直には喜べない母となる。富士の巻狩りで鹿を射止めた武勇高き頼家を突き放した話は有名。

 頼朝が亡くなり、頼家が鎌倉殿を継ぐ。18歳とはいえ一流の武士としての鍛錬も積み、棟梁として申し分の無い青年に育っていた。政務、ことに御家人の所領についての判断などは確かに経験不足であったことは否めないが、さりとてボンクラであったとも思えない。
 この頼家がトップとして君臨出来たのはわずか三ヶ月である。頼家は政務の決定権を剥奪され、幕府の宿老十三人がこれに代わった。「十三人の合議制」である。頼家にいったい何があったのか。
 頼家が所領争いの裁断で、地図に一本の線を引いて簡単に片付けた、などの所業によって御家人の一所懸命の心が離反した、などと言われているが(それが事実かどうか僕は疑問視しているが)、三ヶ月程度で何が分かるのか。これはやはりクーデターと見るべきではないのか。
 クーデター説において、仕掛け人は北条時政であったとよく論じられる。しかしながら、前回書いたように時政にそれほどの力があったとは思えない。首謀者は時政にしても、協力者が居るはずである。
 それはやはり御家人トップの座を占める三浦氏だろう。三浦氏と時政は連携していたのではないだろうか。時政の孫であり義時の嫡子泰時と、三浦氏総帥の義澄の嫡子義村の娘が婚姻し、また義時の娘は義村の嫡子泰村に嫁いだ。そして三浦・北条の強力タッグが生まれた。比企氏の台頭を恐れた三浦・北条の思惑が合致し、頼家を追い落としたのではないだろうか。
 だからと言って北条氏が頼家に代わって政務を執り権力を握るわけにはいかない。なのでこの十三人の合議制は、第一段階に過ぎないと考えられる。十三人とは以下のメンバーである。北条時政、北条義時、三浦義澄、和田義盛、安達盛長、比企能員、梶原景時、八田知家、足立遠元、大江広元、三善康信、中原親能、二階堂行政。
 北条氏、三浦氏が二名づつ(和田義盛は三浦義澄の甥)。このクーデターの主体であろうことが想像出来る。しかし、ライバル関係にある比企氏を入れないわけにいかず、比企能員と安達盛長(比企尼女婿)が入る。だが少数派だ。八田知家と足立遠元は思惑あれど中立と言っていいだろうか。大江、三善、中原、二階堂は官僚。そして、梶原景時が名を連ねる。
 この梶原景時をメンバーに加えざるを得なかったところに、この時点での北条氏の力の限界が見える。北条氏が最も排除したかったのはこの景時であったと想像出来るからだ。
 
 梶原景時。義経を讒言で陥れた人物として悪名が高い。ただ、この讒言が史実として、対平氏部隊の目付として従軍したということは、頼朝の信頼が相当に厚かったことの証しでもある。そして、頼朝が義経と景時のどちらを信用したかと言えば、景時である。思えば、頼朝絶体絶命の石橋山合戦において頼朝を救ったのは景時。この勇猛果敢で頭も切れ弁舌巧み、和歌もたしなむ器量を持ち、そして主人に対してはとことん忠誠を尽くす景時は、頼朝にとって最高の懐刀だっただろう。
 鎌倉政権維持において、景時は各種奉行や侍所所司などの政務の他に、ずっと「影の部分」も担当してきた。上総広常を討ったのも景時であり、義経も追い落とし、さらに範頼追討にも関わったとも言われる。非常に重要な仕事をしている。人間性云々についてはよく分からないが、この時点では時の鎌倉殿である頼家に完全に仕えていた。反頼家の立場の三浦・北条側にすれば、比企能員よりもやっかいな存在だっただろう。

 ここから、北条派と頼家派の綱引きが始まるのだが、これは頼家には荷が重かっただろう。相手は百戦錬磨である。この十三人の合議制に対して、頼家は自分の側近(比企氏の若者など)を押したてようとするが、宿老と若手ではいかんともしがたい。徐々に頼家は追い詰められる。
 頼家の犯した失敗その一は、安達氏問題である。
 宿老安達盛長の長男、景盛の妾を頼家が奪って寝取るという事件が「吾妻鏡」に細かく書かれている。こんな三面記事的事件をこうまで詳細に公式史書が書くものかと呆れるが、この記述を信じると結局痴話喧嘩であり、景盛も怒りまた頼家も怒って、頼家が安達氏追討の兵を出さんとするところを北条政子が止めたとされる。本当なら実につまらない話であるが、こうして比企尼以来味方であったはずの安達氏を頼家は失うことになる。
 女の奪い合いの話は小説的で僕にはピンとこないのだが、ここでは安達氏の離反と並んで、政子が頼家に恥をかかせたということも重要ポイント。鎌倉殿の威信は「北条」政子に劣ることを知らしめたのだ。僕には頼家がうまく嵌められたような気がしてならないのだが、これは想像。

 そして頼家の最大の失敗である梶原景時排斥事件へと続く。
「結城の七郎朝光御所侍に於いて、夢想の告げ有りと~」と書き出す吾妻鏡を読むと、何ともドラマティックであり作者の筆が乗っていると思うが、要は結城朝光が「頼朝様のご恩は忘れられないなぁ。亡くなられた時にワシも出家すればよかった」と思い、つい「忠臣は二君に仕えず(こんなの言葉のアヤだろう)」と言った事に対して、北条政子の妹阿波局が「景時が、あなたが頼家殿を謗っているから殺した方がいいと言ってましたよ」と告げ、びっくりした朝光が三浦氏の下へ相談に行った、という話である。それを聞いた三浦義村が「景時を糾弾せよ」と老臣たちに呼びかけ騒ぎが広がり、ついに御家人衆66人の連判状を作成して訴えた、という顛末に繋がる。
 この連判状は「鶏を養う者狐を蓄えず、獣を牧う者狼を育ざる」と相当立派なものだが、千葉常胤、三浦義澄らを筆頭に御家人の重鎮が名を連ねる中、北条氏の名前が無い。火を付けたのは時政の娘、阿波局であるのに、うまく隠れている。脚本北条、演出三浦だろう。それに、景時は本当にこんな言葉のあやのような部分を抽出して殺せと言ったのか。何だか僕は、家康が豊臣家を陥れた「国家安康」の鐘銘事件を思い出す。
 そうして景時追放が決定するが、これを何を措いてでも止めなければならなかったのは頼家だった。実権失いたりと言えども、これを諫止出来たのは鎌倉殿である頼家ただ一人。しかし、せっかく大江広元が連判状を取り次ぐのを控え時間稼ぎをしたのに、頼家は手を打てず景時は追放、後に討たれることになる。
 「第一の郎党」と言われた景時を失ったのはあまりにも大きい。何故なら、北条氏の暴走を身体を張ってでも止められたのは梶原景時しか居なかったからだ。上総広常を斬ったように。景時は、自らに非難が集中しても主人御為なら泥を被る男。時政を誅することも可能だったろう。
 吾妻鏡は景時抹殺を当然のことのように記述するが、慈円は愚管抄で、景時を庇えなかったのは頼家の不覚と記す。また慈円の兄九条兼実は、景時が頼家追討、実朝擁立の計画を掴んだのだと記す。吾妻鏡の裏に何か陰謀が覆い隠されているのだろうか。
 これで、頼家の味方は比企氏だけとなった。同時期、御家人衆の中では、最大の長老である千葉常胤が亡くなり、また十三人の合議制の中でも、三浦義澄、安達盛長が亡くなり、景時も亡き今、重石の取れた北条時政の勢力がさらに強まっている。

 比企氏の勢力がどれほどであったか、それは勉強不足でよく知らない。ただ、人材的に多少残念な部分はある。
 頼朝の最大の庇護者であった比企尼。その女婿には安達盛長や平賀義信などの面々が並ぶが、夫である掃部允を早くに亡くし、嫡子が居ない。いや、比企朝宗が嫡子であったかもしれないのだが、後年姿が見えなくなる。戦死したのだろうか。家督は、比企尼の猶子である能員が継ぐ。甥であるとも言われる。しっかりした嫡子と何人かの兄弟がいればまた様相が変わったのではとも思うが、それは無いものねだり。ではあるが、能員がだらしなかったというわけでもない。
 乳母夫となった能員は、頼家を庇護し、その娘である若狭局との間には一幡という嫡子が生まれている。この能員の孫が、将来鎌倉殿を継ぐはずである。そして、比企能員は頼家の最後の砦だった。

 ここで、頼家は逆襲に出る。阿野全成事件である。
 建仁3年5月、頼家は阿野全成を謀反容疑で捕えた。全成とは、あの義経(牛若丸)の兄の今若である。この時は北条氏の入婿のようになっていた。妻は、景時を陥れた阿波局である。そしてこの夫婦は、実朝の乳母・乳母夫である。
 全成の謀反の内容は吾妻鏡には記されていない。書けなかったのか。前述の慈円や兼実の論評が思い出されるが、ともかくも頼家は全成を捕え流罪とした。
 この時、頼家は阿波局の引渡しも要求したが、これは何と拒否されてしまう。また北条政子がストップをかけたのだ。あの安達氏事件の時と同じである。
 ただ、このことは実朝擁立の陰謀がもしもあったとしたら、相当な痛手のはずである。頼家の逆襲はある程度成功したかに思われたが、何と実朝の乳母夫の後釜には北条時政自らがなるというウルトラCの離れ技を用いる。あちらの方が一枚上手か。
 頼家は全成を流罪先で命じて討つ。何とか北条氏に対抗したい。しかしこのすぐ後、頼家は何と急に病に倒れてしまうのである。恐るべきタイミングの悪さ。邪推とは分かっていても、僕などはどうしても「一服盛られたか」と考えてしまう。頼家も学習し経験を積み、北条に次の一手を打ってくる可能性もあったからだ。

 頼家の危篤状態は続く。もはや助かる見込みは無いと判断されたのか、後継の話し合いが比企、北条間でなされる。
 ここで比企能員は頑張った。頼家の嫡子一幡はまだ幼少の身。だが実朝とて幼い。地頭職こそ一幡が関東二十八国、実朝が関西三十八国と分割されてしまったが、日本惣守護職は一幡が獲った。領地のことはともかく、惣守護職は鎌倉殿の証しである。実質、後継は一幡と決定したわけだ。おそらく道理で押し通したのだろう。吾妻鏡は「御外祖比企判官能員憤り怨み、叛逆を企て千幡君並びに彼の外家已下を謀り奉らんと擬すと」などと真逆の筋違いのことを記述しているが。
 このままでは鎌倉殿は一幡が継いでしまう。北条氏はついに実力行使に出る。時政は比企能員を自宅に呼び寄せて暗殺し、次いで比企氏謀反を宣言して討伐軍を放ち、比企氏は一族諸とも滅亡した。鎌倉殿の正統な後継者と先般決まったばかりの一幡も焼死したと考えられる。わずか六歳。この悲劇はどうだろうか。
 さらに藤原定家の日記によれば9月7日、京都に「左衛門の督頼家卿薨ず」と使いが来て、一幡も死んだから実朝に将軍を継がせろと朝廷に言ってきている。冗談ではない。頼家はまだ生きているのだ。また間の悪いことに、その後頼家は危篤状態を脱し正気を取り戻してしまう。
 もはや頼家を生かしておくわけにはいかない。頼家は修善寺に幽閉され、後に死ぬ。吾妻鏡は死因を書かないが、愚管抄は明確に殺されたと記す。その殺され方は、祖父である源義朝と同様、入浴中だったとされる。またか。
 その頃、北条時政は政所別当となり、ついに「執権」の道を歩き出す。

 書いていて嫌になるが、頼家は結局負けた。それでも、精一杯の抵抗は見せたと僕などは見たい。惜しむらくは、やはり景時を失ったことである。彼が頼家の近くに居れば、時政を誅する機会は何度でもあった。最初は頼家も分からなかったのだろう。しかし、経験を重ねるにつれ状況が見えてくる。何故あのとき景時を助けられなかったかについて、後悔しただろう。おそらく、時政を斬れる胆力を持つ男は、景時しか居まい。
 景時は現在、さまざまな評価のされ方をしている。ただ、以前のように「讒言の卑怯な男」という見方は廃れたと言っていいだろう。平家物語にも「梶原の二度駆け」など泣かせる話は多い。案外涼やかな男だったのではないか。
 また嫡子の景季も、宇治川の先陣争いの話などで「気持ちのいい男」と書かれている。景季も景時と運命を共にし、討たれた。景季は、例の二度駆けの一ノ谷の合戦で、箙に梅の花の枝を挿して戦い、その風流は語り草になったという。
 時は移って太平記の時代、足利尊氏と直義が仲違いし合戦となったとき、尊氏側に梶原孫六、そして梶原弾正忠なるものが居た。戦いは直義側に分があり、孫六と弾正忠らは敗走を余儀なくされたが、勇猛果敢な梶原景時、景季を祖にもつものの矜持として、後ろを見せるのを恥とし、たった二騎で敵軍に斬り込んだという。孫六は突き抜けたが、弾正忠は奮戦虚しく討たれた。この武者は誰かと見ると、斃れたなきがらには梅の花が挿されていたといい、あの豪傑梶原景時、景季に連なるものであればこの奮戦振りも合点、とされたという。この話を僕は司馬遼太郎氏の著作で知ったのだが、この合戦は僕が今住んでいる兵庫西宮での出来事であり、中世の史跡が近所に少ないために親しみを持った。合戦の当地である越水城址にはもう石碑が残るのみだが、梶原氏に思いを馳せつつ歩いたことがある。
 また遡ると、梶原氏の祖は鎌倉氏だった。大庭氏や長尾氏と共に「鎌倉党」を形成していた。この鎌倉氏にはあの有名な「鎌倉権五郎景政」がいる。後三年の役で、右目を射られ矢が刺さりながらも怯まず奮戦した逸話が知られ、後に神として鎌倉に御霊神社として祀られている。
 これは「御霊」神社であるから怨霊を祀ったものと考えられるはずだが、鎌倉権五郎が怨霊とはとても考えられない。なので、鎌倉・梶原・村岡・長尾・大庭五氏の五霊神社とか、権五郎神社が訛って御霊神社となったのだとか巷間言われる。
 だが、僕はここにどうしても梶原景時の無念を見てしまうのだ。讒言の男と言われながら、皮肉にも自らが讒言によって滅ぼされた男。そして、それを助けられず自らもまた散った源頼家。かの男たちは「御霊」と呼ばれても全くおかしなところは無い。
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もしも源頼朝が北条氏排除に動いていたら

2008年12月17日 | 歴史「if」
 源頼朝は建久10年、53(満51)歳で死んだ。死因は不明である。鎌倉幕府の公式記録として「吾妻鏡」があるが、頼朝が死んだとされる部分の記事が欠落している。よって理由は各種推測されているが、落馬説、糖尿説、怨霊にとり憑かれた説から暗殺説まで様々である。いずれにせよ、心残りであったことは想像に難くない。
 無論、頼朝は鎌倉幕府を開き、武士の政権を全国規模で樹立した英雄でありその生涯の仕事量は充分に満ちたものであった。ただ、後継者が十分に育たぬまま世を去らねばならなかったことについては、返す返すも残念であっただろう。

 頼朝の後継は嫡男頼家。頼朝が急死したときに18歳で既に元服も終え、年齢的に不足は無い。ただし、政権の二代目としてはいかにも若年で経験不足であったとは言える。二代目は難しいのだ。
 創業者は多くの場合、カリスマである。頼朝もその例に漏れない。そのカリスマが急に消えたとき、18歳の若武者では簡単に代替は出来ない。
 成功例はいくつもあるが、例えば足利幕府は、初代尊氏は54歳で死んでいるが、二代目義詮が継いだときには彼は28歳。しかも、幼き千寿王の時代から戦乱に身を投じ、尊氏在世中から政務を担当していた。経験豊富である。また徳川幕府では、初代家康が長命し、在世中にしっかりと筋道が形成され、二代目秀忠も既に征夷大将軍として幕閣の中心に居た。急に政務の中心に祭上げられたわけではない。
 逆に二代目で潰れてしまった例としては、天智天皇の政権がある。この時代の平均年齢を考えると決して若くはないかもしれないが、後継の大友皇子は異説もあるが24歳。既に太政大臣を経験していたとはいえ母の家柄、支持勢力ともに不足し、大海人皇子に敗れてしまった。また、織田政権は後継者としての教育を受けていた嫡男信忠も本能寺の変と同時に戦死してしまい、清洲会議で信忠の遺児三法師が擁立されたものの僅か3歳、簡単に秀吉に乗っ取られた。その秀吉政権も、秀吉自身は長命したものの秀頼はやはり幼すぎ、これも家康に乗っ取られた。
 結局、初代のカリスマが在世中に後継者として筋道が立ち、政権を既に移譲されているといった「急ではない」状況が絶対条件で、その上で二代目の資質が問われる。
 頼家は、その絶対条件すら満たしてはいなかったのではないか。なので、資質を問われるのは気の毒であるという見方も出来る。仮に頼家が非常に有能な人物であったとしても、これは難しかったのではないか。
 
 困難であった理由のひとつとして、鎌倉政権が必ずしも一枚岩ではなかったことが挙げられる。
 幕府機構はある程度完成を見ていたと言えよう。鎌倉殿を筆頭に、政所、問注所、侍所などの職制。守護・地頭。経済基盤としての関東御分国、関東御領他。しかし、それらを構成する御家人の力関係等は必ずしも整備されていなかった。
 頼朝は途中までそれをやった。突出した勢力である上総介広常らの粛清。源氏一門である義経、行家、範頼らも消された。しかし、これで御家人が全てドングリの背比べになったわけではなく、火種は残った。
 頼朝はヒエラルキーを完全整備したかったのだろうと思う。「鎌倉殿」である自分をトップに、その下を源氏一門で固める。「御門葉」といわれる人々。それらを知行国主である頼朝のそれぞれの国司に任命する。当初は範頼(三河守)や義経(伊予守)もそこに加わっていたが、安田義定らを含めそれらが危険となると排除し、平賀、大内、加賀美、足利、山名といった源氏一族の面々で固めた。
 幕府運営には官僚を登用する。大江、三善、中原氏らである。そして、幕府の実質上の担い手である御家人衆。幕府機構では侍所を唯一のポストとして与え、ここに三浦氏一族である和田義盛を据えた。これは、義盛が御家人のトップということであると思われる。
 関東における御家人の力関係においては、最初はおそらく上総広常が№1だっただろう。しかしこれは頼朝の対抗勢力にも成り得る実力があり、排除された。あとは、幕府成立に尽力した千葉氏、三浦氏、そして安達氏らが続くと考えられる。頼朝を棟梁と仰ぐ千葉常胤と三浦義澄は核とも言える存在で、土肥実平らと共に重鎮である。安達盛長は頼朝が流人時代から仕えた股肱の存在でもある。
 その御家人の勢力分布以外に、頼朝との主従関係も加味される。前述の安達盛長は、頼朝の乳母であった比企尼の女婿である。比企尼は、流人時代の頼朝をずっと支え、20年間も仕送りを続けた。この時代の乳母との関係の濃さというものは、実母を凌駕する場合があったのではないか。頼朝の母方である熱田大宮司家も無論頼朝を支援して来たが、熱の入り方では比企氏に軍配が上がる。その比企尼の女婿として盛長だけでなく、河越重頼、伊東祐清、後に平賀義信も居る。彼らは頼朝を押したてたかけがえのない存在である。平賀義信は子の大内惟義ともに御門葉であり、相当の信頼が置かれていた。そして比企氏の家督を継いだ能員。
 こうして書き出せば磐石であるようにも思える。しかし、ここに挙げなかったもう一つの勢力がある。無論それは、頼朝の岳父である時政率いる北条氏だ。

 鎌倉政権発足時の北条氏の位置づけについては、様々な説がある。
 もちろん、北条氏無くして頼朝は成功しなかった。旗揚げの初期勢力であり、共に辛酸を舐めている。頼朝の妻は北条政子であり嫡子を産んでいる。時政は岳父でありその子義時は頼朝の側近。前述した御門葉や幕府官僚、御家人衆の枠に収まらない「別格」の存在であったとする考え方が主流だと思われる。
 しかし、別格というのは逆に中途半端である。身分的に低く、また動員力も低いため御家人の上位でもない。御家人のトップは、やはり三浦氏だろう。頼朝の征夷大将軍任命の勅使の除書を受け取ったのは御家人代表の三浦義澄であり、侍所別当は和田義盛。御行始や垸飯などの儀式も、千葉常胤や三浦義澄、安達盛長らの名前が並び北条時政はその列に入ってはいない。時政は本当に別格だったのか、との疑問も浮かぶ。
 御家人を超えた存在だった、との考えを裏付けるものとして、文治元年(1185年)に頼朝の名代として朝廷に出向き、守護・地頭の設置を認めさせたという功がある。この仕事は鎌倉幕府の根幹に関わる大仕事である。名代となれる資格を有していたということは、確かに別格ではある。舅という立場は絶大なものだったのかもしれない。しかし、これ以外に時政の仕事に目立ったものは無い。
 しかし、である。朝廷への使者は身分が必要で、当時は誰も官位も持たず、一人頼朝だけがその資格を有していた。しかし頼朝は関東を動けず、名代と成り得るのが「舅」である時政以外にいなかったのが実情ではなかったか。武士など本来目通りが叶わぬ朝廷で、頼朝の舅であれば朝廷も会わざるをえない。もしも大江広元らに目通りが叶う身分があれば、頼朝は広元を派遣していたのではないだろうか。
 時政の鎌倉での位置は、ひとえにこの岳父であるということだけに寄り立っていた。逆に言えば、頼朝に疎んじられれば終わりである。
 そして、もしかしたら頼朝は実際、時政を疎んじていたのではなかっただろうか。

 1182年、嫡子頼家誕生。この後継者の養育を頼朝は比企家に託す。乳母として比企尼の娘である河越重頼の妻を登用、養育係としての乳母夫に比企能員、平賀義信を充てる。いずれも比企一族である。頼朝と比企家との繋がりの深さを思わされる。
 頼朝とすれば、信頼できる対象としては比企家>北条家だったのだろう。思えば、流人である頼朝を援助しつづけた比企一族と、旗揚げ初期勢力とはいえ当初は頼朝と政子を引き離そうとした時政。温度差があったことは想像出来る。そして同時期にあの「亀の前事件」が起こる。
 愛妾亀の前を政子が嫉妬で攻撃し、その攻撃主体となった牧宗親(時政の舅)を頼朝が罰したことで時政が伊豆へ引き上げるという痴話喧嘩のような話だが、結局頼朝は北条氏に恥をかかされたわけで、「鎌倉殿の威厳」を重んじる頼朝にとっては「やってられない」話であったろう。顔を潰されたのだから。
 頼朝は時政を確かに名代として活用はしたが、これも登用は消去法のようなものであり、本当は重用したくなかったのではないか。頼家の代となれば北条氏は外したい。義時は確かに有能ではあるが、抜きん出た存在にはしたくなかったのが本音ではなかったか。頼朝が構築しようとしていた鎌倉政権のヒエラルキーの中には、北条氏がトップに立つという構想は想定してはいなかったのではないか。

 頼朝がもしも長命すれば、時政外しは進行しただろう。何より義父であり頼朝より先に没する可能性も高い。頼朝在世中に頼家に筋道を作ることが出来たなら、もう将軍家外戚の地位は比企氏へと移行していく。義時は有能であり幕閣として生き残るのは間違いないが、それ以上の地位は望めまい。
 もっと想像を逞しくすれば、時政は頼朝にとって目の上のタンコブのような存在であったかもしれない。そういう意味においては確かに「別格」であった。
 頼朝は、鎌倉政権維持に邪魔なものは容赦なく切り捨てていく。自らの弟である範頼、義経でさえ消した人物である。あくまで可能性であるが、北条時政は上総広常と同じ道を辿った可能性も全く否定することは出来ないのではないか。
 そして頼朝は、北条時政を力付くででも排除しておいた方が良かった。守護・地頭設置の功など立てさせない方が良かった。理由は言うまでもない。しかし非情に成り切れなかった。糟糠の妻の父でもあり、自分よりも9歳上であり先に消えていく存在であるとでも思ったか。

 だが、時政に先んじて頼朝は死ぬ。原因は不明である。そして、ここから北条氏の逆襲が始まっていく。
 頼家の話を書こうと思っていてそこまで進まなかった。次回に続く。

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もしも鎌倉仏教が興らなかったら 3

2008年04月20日 | 歴史「if」
 前回の続き。
 浄土教は、もちろん鎌倉仏教以前より日本に伝来している。長野善光寺の秘仏本尊は、百済伝来の日本最初の仏像だということだが、これは阿弥陀三尊である。もっとも日本書紀には公伝のときの仏像は釈迦如来だったと記されているが、いずれにせよ相当古いことは想像に難くない。
 むろん比叡山延暦寺でも当初から教学のひとつとされている。最澄を継ぐ天台座主三世の円仁は「常行三昧堂」を建て、天台僧は「南無阿弥陀仏」と念仏しながら修行した。
 ここから後に法然が登場するのだが、その前に「往生要集」を著した恵心僧都源信が現れる。源信は観想念仏(後述)を重視したとされ、貴族用仏教と思われてしまう節もあるのだが、称名念仏の重要性もしっかり説いている。
 称名念仏で思い出すのは空也だろう。民間救済としての浄土教の先駆者であり、念仏を唱えつつ社会事業を行った。ただ、空也は10世紀、源信も11世紀初頭までである。末法思想が席巻し、また民衆の救済欲求が飽和状態に達した12世紀後半にもしも空也や源信が登場したのであれば、また浄土信仰もどういう道を歩んだか。だが歴史はこの時期に法然という天才を配剤する。

 現在では「極楽浄土」「大往生」「他力本願」といった言葉が頻繁に日常会話に登場するほど浸透しているとも言えるが、そもそもそういう言葉の原点である浄土信仰というものは、いったいどういうものか。これが難しい。
 浄土信仰の根本経典と言えるものは「無量寿経」「観無量寿経」「阿弥陀経」のいわゆる浄土三部経であるが、こんなの難しくて読めない。僕も解釈本を読んだ程度であると先に言い訳をしておく。
 物語として読めば観無量寿経などは相当に悲しい。マガダ国の王子である阿闍世(アジャセ)、彼が提婆達多(ダイバダッタ)にそそのかされて父である国王頻婆娑羅(ビンバシャラ)を幽閉する。国王夫人であり阿闍世の母の韋提希(イダイケ)は、ひそかに身体に密を塗り幽閉下の国王に会いそれを与えて永らえさせる。それを知った阿闍世は母親も幽閉する。
 韋提希は釈迦に泣き濡れて叫ぶ。この悲劇は如何、と。私はこの濁悪の世を願わない。憂い無き処を説き願えないか、と。釈迦はそのとき、韋提希に十方世界の浄土を示現させる。韋提希はその中で、阿弥陀如来の極楽浄土を望むのである。
 韋提希は釈迦によって極楽浄土を観た。だが衆生はその術がない。どうすれば極楽浄土へ往生出来るのか。その方法を釈迦は説くのであるが、その方法は「観想」なのである。太陽が西方に沈みゆく姿を心に焼きつける「日想観」から始まり、水を、土を観て浄土を想い、そして順々に極楽浄土を観想する。阿弥陀仏を想い、自在身観に至るまで13の段階を追う。その観法は「狂気に近い想像力の訓練」と梅原猛氏は言う。確かに極楽浄土が目前に現れるまでには相当の精神集中が必要だろう。韋提希は極楽世界の姿を観て、歓喜に包まれ迷いが晴れ、極楽浄土への往生を願うのである。
 長々と書いてしまったが、では何故に極楽浄土へ往生出来るのか。本来は自力で修行して解脱するのが悟りであるはずなのに、浄土へ生まれ変われればどうして悟りが開けるのか。それは阿弥陀仏がそう本願を立てたからである。無量寿経では、阿弥陀仏が法蔵菩薩として修行していたとき四十八の誓願を立て(本願)、一切衆生の救済を願い、自らの国(浄土)に来る者は全て悟りを得られるものとし、この願いが成就せねば悟りを開かないと誓った。そして阿弥陀仏は既に菩薩から如来となっているのだから、この本願は叶えられているということである。故に、死して阿弥陀仏の極楽浄土へ生まれ変われば(往生)、悟りを開き成仏出来るのである。極楽浄土へ往生することを願いさえすれば。
 そう言われれば、皆極楽浄土への往生を願うだろう。これが浄土教であると僕は一応理解するが、これではなっていないと叱られるかもしれないが。

○もしも法然が出家していなければ
 法然は美作国(岡山)の押領使であった漆間時国の子として生まれた。母親は秦氏の出身である。幼名勢至丸。漆間時国は地方豪族であり、武士と定義していいと思う。押領使(令下の官)に任命されるのであるからかなりの実力者であっただろう。その長男として生を受けた法然は、このままであれば出家など考えられなかったはずである。当然漆間家を継ぐ立場である。
 だが、漆間家を突然不幸が襲う。対立勢力であった明石貞明の夜討によって、父時国が落命する。時に法然9歳。このとき法然は幼子ながら矢を射て貞明の眉間に突き刺さったともいう。法然もここで殺されても不思議ではないのだが(これもif)、生き延びた。武士としては家を再興、そして仇討ちを目指す生き方になろうかとも思えるのだが、時国の遺言により出家の道を選ぶこととなる。
 法然は出家し後比叡山に入ることになるのだが、法然がこの道を選ばなければ仏教の歴史は相当変わったことになったに違いない。以下それを考えたい。
 法然は勉学を重ね、ついに専修念仏に辿り着く。
 それまでの浄土信仰は、多岐の方法があった。源信は前述した「観想念仏」を重視していた。観無量寿経に説かれる観想である。極楽浄土に念をこらせよ。だから、貴族は浄土を思い浮かべ易いように、藤原道長は法成寺を、頼道は平等院を建立し、浄土を再現した。確かに源信は観想を理想としたが、しかしそれが出来ない人々には、様々に段階を設け、最終的には称念をせよ、と説いた。阿弥陀仏を心に念じ、声に出して称えるのである。
 これを法然は、称名念仏一本槍にした。観念は難行である。易行の方が勝っていると。そして、その他の行を全て捨て、念仏を選択し、専修に念仏を称えなさいと。
 この根拠は前述の無量寿経にある阿弥陀仏の四十八の誓願の第十八願にある。「設我得仏 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚」と記され、私が仏になれば、十方世界の全ての人々が、信楽(シンギョウ 教法を信じこれに喜び従う)に心至り、私の浄土に生まれたいと願い、十念(十回念仏)をしても、若しも生まれない者あれば、私は正覚(悟り仏に成る)にならない、と阿弥陀仏は言うのである。
 十というのは、数少なくても、という意味であろう。ここに至り法然は敢然と他の行を捨て称名念仏に帰するのである。そして、比叡山を下り大衆に説き始める。
 これは「易行・選択・専修」の始まりである。誰にでも出来る方法。これは法然より始まる。この方法論は、親鸞はもとより後の道元や日蓮もこの影響下にあると言ってもいいのではないか。
 そして大衆救済。歴史的に見れば、民衆の救済を目指したのは法然が最初ではなく、念仏には空也が既に居る。また、古くは行基の存在が光る。仏教は鎮護国家のためにあった、とはこの話の最初に書いたが、民衆の救済のために立ち上がった先達は鎌倉仏教以前にも存した。
 だが行基の活動した時代は、ようやく三世一身法が世に出た時代。後に墾田永年私財法が発布されるが、まだまだ民衆が力を持てる時代ではなかった。それでも行基は教団を形成し民衆と共にあったが、国家はこれを弾圧し、後に国家はこれを取り込もうとする。そして行基は大仏造立のための勧進(資金集め)に従事することになる。
 国家公務員である官僧に対し、そこから飛び出た行基のような遁世僧には、布教の基盤となるべき教団が必要だが、それを後押しする民衆は被搾取側でありまだ力が無かった。ところが、平安時代も後半になると、地方の民衆は豪族となり力を蓄え、それが武士となっていく。荘園が増え国家は先細り、民衆の時代がやってくる。後にその労働者階級は強力な労働組合(幕府)を作り上げて国家(朝廷)を凌駕する。その流れの中で法然は登場する。
 法然の思想は、多くの人に受け入れられた。保元・平治の乱。源平合戦。戦争が続き末法の世と言われた。人は皆救われたい。だが、戦争に明け暮れる武士、米作りに追われる農民には寺に入って修行など出来ない。法然は念仏さえ称えれば極楽浄土に往生して、その浄土で悟りを開ける、成仏出来るのだと説くのだ。こうして浄土宗は教団を形成し隆盛していく。
 そうして考えれば、法然は鎌倉仏教そのものであるように思える。このタイミングに、専修念仏を説いた法然無くして、その後の仏教は考えにくい。日本の仏教思想を解脱から救済へ、また倫理哲学から宗教へと決定付けたのも、最終的には法然であるようにも思える。そして、法然無くして親鸞はまず生まれなかったのではないか。

○もしも蓮如による浄土真宗復興がなかったら
 僕の家は真宗門徒ということである。そんなことじいさんが死んで葬式をするまで知らなかった。「門徒もの知らず」という言葉がありこれは他宗(の信者)が「仏教の作法を知らない」と揶揄する言葉なのだが、自分の家の宗旨も知らないとはもの知らずにも程がある。
 だが自分が真宗門徒に生まれたと知っても、いまだに僕は浄土宗と浄土真宗の違いについて明確に知らない。両宗とも南無阿弥陀仏と称名念仏をすることが往生の要であるからである。同じように思える。
 「他力本願」という言葉は、浄土真宗の核心でもある。
 前述した無量寿経の四十八の誓願の第十八願は「念仏往生の願」であり、だから極楽浄土往生を願って例え10回でも「南無阿弥陀仏」と称えれば往生出来るのだ、と法然は説く。
 仏教で悟りを得て成仏するには「自力」でその境地に達することが必要だった。だから修行をした。禅宗が坐禅をするのも法華宗が題目を唱えるのも、それ一本に絞っているために易しい修行ではあるが、あくまで自力による成仏を目指す。だが浄土信仰は、阿弥陀仏の本願によって救われるので(他力)、その教えにすがるために念仏を唱える。
 ここから先は僕にも誤解があるかもしれないし頭から信用しないでいただきたいが、その法然の説く南無阿弥陀仏の称名念仏はやはり「易行」であるということではないだろうか。阿弥陀さま私を助けてくださいと願って念仏を口に出して唱える。さすれば救われる。それが、最も簡単な行なのである、ということではないだろうか。
 親鸞は、さらにそこから一歩進めたと思われる。つまり阿弥陀仏は、四十八願を既に実現して如来となっているのであり、極楽浄土は既に開かれていると考えられる。したがって、その本願によって衆生全て救済は約束されている、いやもう既に現時点で救われているのだ、と説いたのではないか。
 だから、救われたいがために唱える念仏など、阿弥陀仏の慈悲を理解していない行為である。本願によって衆生は救われているのだから、この上何を求めて念仏するのか。それは阿弥陀仏の「絶対他力」を信じていない行為である、と真宗では説くのではないだろうか。
 真宗で「南無阿弥陀仏」と唱えることは、阿弥陀さまにすがるための行ではない。それは、救っていただいたことに感謝する念仏なのである。絶対他力を信じ感謝の心を忘れないことが最も肝要なことである、と親鸞は説いていると僕は理解しているが、違うかな。自信はないけれど難しいのでとりあえずそう思っている。
 親鸞は相当革命的であったと言える。親鸞の思想を突き詰めれば、既に救われているにもかかわらず自力の修行など弥陀の本願を信じていない行為である。戒律も修行のひとつでありこれも捨てる。この捨律によって、親鸞は妻帯するのである。女犯戒は戒律の中でもかなり重要なものであるが、それを捨てる。よっぽどのことだろう。
 このことによって、親鸞には子孫が出来る。戒律護持の仏教において、子孫を持つ僧侶などあくまで公的には存在し得なかったのだが、親鸞はそれをやった。かくして、親鸞の子孫はその血脈を受け継ぎ続いていくことになる。

 親鸞は、既に衆生は救われているのだ、だから安心しなさい、そして阿弥陀仏に感謝の心を常に持ちなさい、と自らの生ある限り布教に勤めた。だがこの考え方により、教団を持とうとはしなかった。教団を形成して念仏行を勧めなくても既に衆生は救われているからである。なので、親鸞の死後はこの教えは徐々に消え行く運命にあったと言える。このままでいけば、親鸞は法然の高弟のひとりとしてしか認識されず、その教えもしっかりと伝わったかどうかは疑問である。よくて浄土宗の一派として残った程度だっただろう。しかし、親鸞には子孫が居た。
 親鸞の曾孫にあたる覚如は親鸞の伝記を編み、本願寺を成立させ、教団を形成した。浄土真宗はここから始まったと言っていい。覚如は事実上の開祖である。そしてこの血脈から、室町時代に布教の天才、蓮如が登場することになる。
 蓮如の時代は、本願寺も衰亡し、浄土真宗も親鸞の弟子の系譜となる他派が隆盛し、また他宗の勢いも強く本流であるはずの親鸞の血脈は消えんとしていた。だが蓮如は青蓮院の一末寺に転落していた本願寺を中興し、布教活動に尽力し、福井に吉崎御坊を建立して北陸での布教を大いに広げるなど勢力を拡大し、最終的には大阪に石山本願寺を建立するなど教団を確固たるものにした。その急激な伸張はすさまじい。そして、この本願寺真宗教団が、歴史的に重要な役割を果たすことになる。
 衆生は全て救われていると定義する浄土真宗。死しても極楽浄土が待っている。これは力強い。本当に親鸞の言う教義と合致しているのかは僕にはわからないが、領主に対する忠誠は現世のうたかたであるが、弥陀の本願は永劫である、とすれば、死をも恐れぬ集団が形成されることも可能性としてある。事実、加賀一向一揆は守護大名を倒して真宗門徒が一国を支配した。一向一揆は全国に波及し、最終的には石山本願寺で織田信長と対峙するまでに至る。
 織田信長の天下統一を妨げたもの。その最大のものは、毛利でも武田でも上杉でもなく、この石山本願寺を中心とする真宗門徒である。
 三河一向一揆は家康の家臣も取り込み家康を窮地に陥れ、長島一向一揆では信長の弟も戦死している。本拠である石山本願寺の攻防戦、その戦闘は10年に及び、最終的に天皇が仲裁に入って和睦したが、決して信長に屈してはいない。信長は宗教勢力と対峙し、比叡山焼き討ちは有名であるが、この真宗門徒との戦いは最も精力を遣ったはずだ。もしも一向一揆が無かったとすれば、信長はもっと早くに天下統一を成しえただろう。信長は浅井長政に裏切られて三年足踏みしたが、この本願寺勢との戦争はそれ以上に影響があったかもしれない。本能寺もあったかどうか。信長が自ら天下統一を成しえていたとしたら、日本の歴史は全く違う側面をたどった可能性が高い。

 さらに、この浄土真宗の隆盛ということにおいて、僕はもうひとつの可能性を考えてしまうのである。
 浄土真宗という宗教は、もちろん仏教であると考えられるし、その教義は「解脱から救済へ」と前述したけれども、現世においては弥陀の本願を信じて安心し感謝するわけで、それも一種の解脱であると考えられなくはない。往生すれば極楽浄土であるが、現世においてはそれを信じることによって穢土である現世に光明を見出すわけであるから。しかし、この時期の浄土真宗は、多くの人が指摘しているが一神教に近い様相を呈していたという側面も否定は出来ない。
 もちろん仏教に唯一神は居ない。居るのは数多くの悟りを開いた如来である。だが、浄土信仰はその中から阿弥陀如来を「選択」し、その本願を唯一の拠りどころとする。これは、生半可に考えれば、感覚的には一神教に近づいてしまう。
 仏教の教義(仏教に教義は無いとも言われるが便宜的にそう言う)は難しい。僕もこの記事を書くのにさんざん考えている。それより「阿弥陀さまを信じなさい。皆を救ってくださっているのだから」と単純に言われると分かりやすい。一神教に近づくのもある程度可能性として考えられることなのではないか。また、時代がそれを望んでいたとも言える。とくに戦国時代はそうだろう。弱肉強食の下克上の時代に、絶対的な力に帰依したいと願う民衆の思いは飽和していたのではないか。救ってくれる神を見つけてすがりたいのだ。そこに浄土真宗が合致したとしても不思議ではない。
 様々な本によると、この当時真宗門徒は全国の人口のかなりを占め、一説には6~7割を占めたのではないかという試算もあるそうである。
 そこで考えられるのだが、もしも蓮如が登場せずこの浄土真宗がここまで浸透しなかったとしたら。日本の民衆は、これ以降に伝来したキリスト教へとかなり傾斜したのではないか。
 乱世で飽和していく救済への欲求。それを浄土真宗が埋めていたことは考えられることだと思う。もしもここに阿弥陀信仰がなければ、人々は救いを求めて唯一神であるGodへと雪崩を打っていた可能性もゼロではない、と思えてしまうのである。人々は追い詰められていたのだ。
 もしも日本にキリスト教がもっと浸透していたならば。これを考えると様々なことが想起されるのである。表層で捉えれば、この大航海時代のキリスト教布教活動は欧州の植民地化政策と表裏一体であり、日本はかなり危なかったかもしれないという想像がまずある。むろん武力装備の極致にあった日本の戦国時代であり、欧州との距離、またスペインやポルトガルの以後の没落過程を考えると、そう一朝一夕に日本占領を想像することは出来ないのだが、可能性は否定できない。
 信長は南蛮貿易を推進していたし、キリスト教も黙認していた。ただしそれは数の論理であって、クリスチャンが日本を席巻する勢いにでもなれば、これを敢然と叩き潰す側に回ったであろうことは想像に難くない。本願寺を潰そうとしたのを照らし合わせればまずそうなっただろう。そうすれば、西欧はどういう態度に出るか。本願寺を支援した毛利のような立場に立つだろう。これはややこしいことに成りうる。そして、信者たちの激しい抵抗は、後の島原の乱を考えても想像がつく。日本はどういう方向へ行くだろうか。完全なキリスト禁教など不可能であったかもしれない。さすれば、天皇制などはどうなったかな。尊皇攘夷なんて思想はありえたかな。こういうことを考えるのは「歴史if」の醍醐味なのだが、様々な問題がありそうなのでこのくらいにしておく。
 そして、もっと根本的なことも考えられる。日本人の思考の方向性にも影響が出たのではないかということ。
 日本は、諸外国と交流の歴史は長いとはいえ、島国であることも影響し独自の文化を成熟させてきた。遣唐使の廃止や鎖国政策など、国を閉ざして内部熟成を続けた期間も長い。しかしてこの時期に、西欧的思想、倫理哲学がどっと入り込んでいたとしたら、果たしてどうなっていたのか。聖徳太子以来の和の思想は滅びたか。また島国根性が消え、グローバル的視野を持つ国民が育ったか。
 いろいろ考えることは出来る。明治以降の文明開化の波を想像すれば足る、とも言えるかもしれないが、僕は戦後の、現在の若者の思考の様相に雛形が見えるような気がしてしょうがない。むろん、これ以上書くことは僕の筆に余るのでここで止める。
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もしも鎌倉仏教が興らなかったら 2

2008年04月16日 | 歴史「if」
 前回の続き。

○もしも道元が長生きしていれば
 鎌倉仏教と呼ばれる様々な宗派は多種多様である。仏教というものは釈迦が説いたただひとつの教えであったはずだと素人には思えるのだが、何故にこうも分かれるのか。その答えはひとつではないし、大乗仏教が日本に最初に伝えられた時点でそれは既に救済を求める宗教となっていたと言えるかもしれないのだから、解脱を説く哲学であった釈迦の教えとは多少の趣きが変わっていたとも言える。
 その中で、道元が開宗した曹洞宗は、本来の釈迦の思想に近いように素人には思える。道元の仏性についての考え方は単純なようで実に奥深く、今日分かったと思っても翌日にはよく分からなくなってしまったりする僕なので全然当てにはならないのだけれども。坐禅を組んで考えないとやはり無理か。
 禅宗は、比叡山延暦寺にももちろん存在したし、道元よりも以前に栄西が臨済宗を開宗している。道元は天台教学を修めた後比叡山を出、建仁寺(臨済宗)に入る。栄西から見れば孫弟子に相当する。宋に渡り天童山で如浄に師事して帰国、曹洞宗(当時はそう道元は名乗らなかったが)を開宗することになる。
 鎌倉仏教の特色として、教科書的に言えば「易行・選択・専修」が挙げられる。寺に入って修行するのがそれまでの仏教であるが、武士や庶民はそんなことは出来ない。庶民は寺も建てられないし学問もやれない。よって誰でも出来る易行を説いた。修行ではなくひとつの道を選び取り(選択)、ひたすらその道を進む(専修)。これによって、大衆にも道が開けた。
 道元は「只管打坐」を説いた。ひたすら坐禅をするのである。これもある意味「易行・選択・専修」である。臨済禅は公案を用いるが(いわゆる禅問答)、曹洞宗はともかく坐禅。釈迦が解脱について考え続けた瞑想と、既に仏性がある道元の坐禅とは違うのかもしれないが、共通項もある(悉有仏性について、如来蔵思想や本覚思想ともまた違うように思えるが僕も分かっていない)。
 道元は京都で布教し、また後年は福井の永平寺を拠点として、鎌倉でも教化活動を行ったが、残念ながら54歳で死去する。法然が80歳、親鸞が90歳まで永らえたことを考えると、いかに早熟であったとはいえあまりにも早すぎる死だった。ただ、このことが今に至っても曹洞宗が隆盛しているひとつの要因であるとも思えるのである。それは何故か。
 道元は求道者であり、宋の如浄の戒めに従い権力者との結びつきは拒絶していた。臨済宗が鎌倉幕府の庇護を得て五山十刹制度の中核となっていったのに比して、あくまで大衆のものであろうとしていた。北条時頼が一寺を寄進しようとしたのを固辞し、永平寺領の寄進状を受け取り衆中に触れまわった(とされる)弟子の玄明を破門、彼の坐禅の席下の土を七尺も掘って取り除いたと言われる。伝説であるかもしれないが高潔すぎる人物像である。
 この迎合しない姿からも想像出来るように、純粋すぎた。このためごく限られた人物しか理解し得ず、早くに亡くなってしまったことから教団の進む道が安定しなかった。分派、合派があり、騒動宗などと言われたこともある。結局道元の遺風を継ぐ保守派と、民衆教化のために大伽藍を建造し布教活動を推し進めようとする改革派の争いであり、三代相論と呼ばれる。結果改革派の三世義介が永平寺を出ることになるが、この義介が加賀に大乗寺を開き独立、こちらの改革派が隆盛して永平寺側は衰退していくことになる。改革派から後に瑩山紹瑾が出て、祈祷なども取り入れ民間禅として栄えることになる。
 道元が法然や親鸞並みに長生きしていれば、おそらく三代相論はおこらなかったと考えられ、純粋な只管打坐の教えがまだ続いただろう。しかしそうであれば、現在約15000の日本一の寺院数を誇り800万の檀信徒を擁する大宗団曹洞宗は在り得たか、と考えるとまた難しい問題となるのだ。

○もしも日蓮が討たれていたら
 法華宗は日蓮が宗祖である。この法華宗の開宗にあたっては、ほぼ日蓮のスタンドプレーで行われた。千葉の漁村で生まれたと言われる日蓮は、幼少時より寺に入り後出家、約二十歳で比叡山に登り学ぶ。日蓮は研鑽を続け、法華経(妙法蓮華経)こそ釈迦の教学の本道であるという結論に達した。
 そもそも比叡山の天台教学は法華経を円教とし、中心教学である。だが最澄は他に戒律、禅、密教も重視し、後に浄土教も含め総合大学的様相を呈している。しかし日蓮は、法華経以外は全て邪教であるとして認めず、自らを末法の世に出現するとされる法華経の行者、上行菩薩の再誕として布教活動を始める。その方式は、「南無妙法蓮華経」と法華経のタイトルを唱えることである。これもやはり「易行・選択・専修」である。ひたすら題目を唱える。
 日蓮、そして法華経の説く、釈迦は久遠実成の存在であり、菩提樹の下で悟りを開く前から既に仏陀であったということ、そして信仰を持つもの全てに成仏が約束されるという教義は理解出来る。しかし、それが題目を唱えることによって成就するのだということまではまだ僕には勉強不足でよく分かっていない。
 日蓮の激しさは、「念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊」という四箇格言によってよく表現される。他宗を批判し、自ら辻説法を行いとにかく法華経を信じよと「折伏」に励む。対義語の「摂受」が穏やかに説得するやり方に対し、折伏は激しい。これが当然他宗を信仰する層から反発を食うのは自明のことで、日蓮は何度も生死の境目を潜ることになる。
 時は末法と言われ、日蓮が布教活動を展開する13世紀後半は飢饉、地震など天災が相次ぎ疫病も蔓延していた。日蓮は「立正安国論」を著して北条時頼に提出した。邪教がはびこることがこれら天災の原因であり、このままでは内乱、侵略が起こると。その後も天災が続き、朝廷の持明院統と大覚寺統の対立、さらに北条家の内紛(北条時宗と時輔の対立等)、そして元の使者による臣従の牒状などから、予言が的中したとみなされ支持者の数が急増した。
 反発勢力は当然黙ってはいない。時代は前後するが、この間に日蓮は「四大法難」に代表される危険に遭い続ける。まずは草庵焼打。鎌倉の松葉谷に居を定めていた日蓮を反対勢力が襲撃した。日蓮によると数千人押し寄せたと言われるが、そこまでではなくともかなりの大人数の計画的襲撃であっただろう。当然武装していなかったはずの日蓮が、よくぞ生き延びたものと思われる。鎌倉は城塞都市であり逃げ場が少ない。何故討たれなかったのか全くのところ不思議である。
 逃げ延びた日蓮は再び鎌倉で辻説法を始める。が、伊豆へ流罪となる(伊豆法難)。これも岩礁に置き去りにされ、満潮に溺れんとするところを漁船に助けられたとされている。伝説でないとすれば相当に危ない。
 後に赦免された日蓮は、生地である千葉の小湊に帰るが、ここでかねてより対立していた念仏信者の地頭、東条景信が待伏せ襲撃をかけた(小松原法難)。
 この襲撃が事実とすれば、日蓮が生き残ったのは奇跡というしかない。武装していない日蓮一行が(10人ほどだったと言われる)、戦闘者である武士の攻撃(日蓮は数100人と記す)に晒され、矢を射られ斬りかかられて生き延びたのである。むろん日蓮は頭部に傷を負い腕を折られ、弟子一人(鏡忍坊日暁)は死亡、二人は重傷。駆けつけた支持者工藤吉隆他下僕は討死。史実とすれば凄い。武士団に待ち伏せされ囲まれて、僧侶一行が生き延びられるわけがない。工藤吉隆や弟子の鏡忍坊は相当の剛の者であったと思われる。鏡忍坊は松の木を引き抜き奮戦したと言われるが、本当なら武蔵坊弁慶以上だろう。
 この後、高名な龍口法難が起る。内管領平頼綱が日蓮を捕らえ斬首に処そうとしたが、まさに処刑のその時、暗闇に光明が走り太刀取りの目を眩ませ、兵たちは恐れおののき処刑が断念されたという事件である。
 あまりにも伝説めいてにわかには信じられないが、刑を敢行出来ない何かは起ったのだろう。結果日蓮は佐渡流罪に処される。
 こうした受難をことごとく撥ね返してきたことから当然支持者は増えていくことになり、法華宗は隆盛していくことになるのだが、この法華宗の弘教はやはり日蓮のカリスマ性とバイタリティーに因る部分がかなり大きい。もしも前述の法難により日蓮が絶えてしまうという事態になったとしたら。
 ことに、草庵焼打は立正安国論を提出して40日後の事件である。建白は北条時頼が無視した。ここで日蓮が討たれてしまったら、法統は果たして途絶えずに広まっただろうか。立正安国論は歴史に残っただろうか。
 この時点で、日昭、日朗、日興は既に弟子となっているがまだ日が浅い。日向、日頂、日持はまだ弟子入りしておらず後の六老僧と呼ばれる高僧たちは揃っていない。カリスマ日蓮無くしてこの時点での法華宗の未来は考えにくいのである。
 この状況は4年後の小松原法難でも変わっていない。そして小松原法難は生き残ったのが信じられない奇跡である。ここで日蓮が絶えることになっても客観的には全く不思議ではない。そして、日蓮の名を高らかしめる元寇はまだ後のこと。これより4年後に元の国書が届くのである。ここで日蓮が歴史から消えていたとしたら、法統が途絶える可能性が強いのではないか。
 現在では「南無妙法蓮華経」という題目は子供でも知っているし、法華宗の法統は各派に分かれて隆盛を極めている。法華系の新宗教も、創価学会をはじめ立正佼成会や霊友会など巨大なものが多い。創価学会は800万世帯を超えると言われ、折伏を旨とする日蓮以来の習いで海外にも信者を多く獲得し、公明党は政治のキャスティングボードを握る。これらの勢力がもしも無かったとすれば、という仮定はなかなか考えにくいのである。

次回、浄土教系仏教について。
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もしも鎌倉仏教が興らなかったら 1

2008年04月08日 | 歴史「if」
 日本の仏教史において、鎌倉仏教の誕生は一種のエポック・メーキング的な出来事だったろう。もしも鎌倉仏教が興らなかったら、日本史は、そして現代の日本社会はまた別の側面を見せていたはずだ。
 しかし、この鎌倉仏教が中世の幕開けとともに興ったということは、ある意味歴史の必然とも言える。そう言ってしまうとifにならないのだが、鎌倉仏教が興った背景には、もちろん日本に既に仏教の伝来があった、ということと、かつて庶民階級であった武士が政権を所持し国家の在り方が中央集権政治ではなく封建制に移行したということがある。
 つまり社会に「個の救済」を求めるニーズが広まったということが重要条件であるということ。しかしそう言っても話を端折りすぎているので、もう少し詳細に見たい。
 
 そもそも日本に伝来した仏教はどういう発展の仕方をして、中世までにどう変貌してきたのか。
 素人ながら例えば「釈迦の生涯」的な本を読むと(手塚治虫氏の「ブッダ」でいいけど)、初期の仏教と現在日本で流布する仏教との違いが如実に分かる。そもそも釈迦の仏教というのは、宗教というより哲学に思える。それは「信仰」ではなくどうすれば「解脱」出来るのかという教えであるからだ。
 人間は、生きていくことが苦しい。まさに四苦八苦だ。六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)を輪廻し続け、そこから逃れることは出来ない。その輪廻から逃れる方法を釈迦は考え続け、菩提樹の下で悟りを開いた。それが「解脱」であるわけだが、僕のような煩悩だらけの人間にはその真理はなかなか理解出来ない。まあ理解できれば悟れるわけで、解脱し如来となれるわけだからこれは仕方がないことだけれども。
 「仏陀(ブッダ)」といえば「目覚めた人」ということで悟りを開いた人のことである。しかしこれが今では死んだら「仏さんになった」と言う。ずいぶんと違うなと感じる。違うと感じるのは僕の理解が足らないだけで根のところは同じであるとも言えるのだが。ただ、これも鎌倉仏教から広まった考え方であると思う。こういうことひとつ取ってみても表題のifは現代社会に続いているように思う。

 哲学や宗教の話は難しすぎて手に負えないので、歴史的に表層だけを追いかけていくことにする。
 日本に仏教が公的に伝来したのは538年とも言われ、その後蘇我vs物部の崇仏・廃仏戦争があり蘇我が勝ち日本は国家として仏教を信仰していくようになる。聖徳太子を経て、聖武天皇の時世に全国に国分寺・国分尼寺を設け、総本山として東大寺建立に至る。これらの寺は国家鎮護の役割を担うこととなる。
 その東大寺の本尊は「奈良の大仏」であるところの盧舎那仏である。釈迦如来ではない。なんで開祖の釈迦ではないのかと言えば、それは日本に伝わった仏教が大乗仏教であり東大寺は華厳宗などの寺であるからだ。大乗仏教という言葉の解説は僕には手に余るが、自己の解脱(成仏)のみならず一切衆生の救済を目的とする仏教の一派のことだと考えていいのだろうか。
 なお「東大寺は華厳宗など」と書いたが、奈良時代当時は華厳宗・法相宗・律宗・三論宗・成実宗・倶舎宗といういわゆる「南都六宗」兼学の寺院とされていた。この当時の宗というのはつまり「学派」のようなもので誤解を恐れずに言えば「科目」だろうか。六学部の大学に近いかもしれない。
 この他にも興福寺などの大寺は数多くあるが、これら大寺は基本的には「官寺」である。国家が建立運営、もしくは寺領を与えられたり荘園所有の権利を認められている。僧侶は官僧であり前述のように国家鎮護の役割を担う。国家と言えば突き詰めれば天皇だろうか。

 後に、日本仏教界は最澄、空海という巨人を生み出す。最澄は天台宗、空海は真言宗の開祖となるが、いずれも官僧であり国家鎮護の役割を持つことには変わりがない。最澄は比叡山に延暦寺を開き、ここが平安京遷都によって都の鬼門に位置することもあり、奈良の南都六宗に代わり栄え一大勢力となっていく。独自の戒壇を設立出来たことが大きい。これによって延暦寺は国家公認の官僧を世に送り出すことが可能になった。
 延暦寺は「円・戒・禅・密」という四つの思想を学べる総合大学としての色彩が強く、その中心は「円教」である天台法華宗にせよ、国家鎮護の要請が密教であった時代は台密も盛んで、このことが数々の名僧を輩出する要因ともなった。特に鎌倉仏教の担い手と言われる法然、栄西、道元、親鸞、日蓮らがこの比叡山から生まれたという事実は大きい。比叡山延暦寺無くして後の仏教を語るのは難しい。

 話がそれるが、この時代、最澄と空海が現れなければ日本仏教のあり方はずいぶん変わっていただろう。最澄と空海は、804年に唐に渡る。当然遣唐使船に乗り込むわけだが、この時の船は四艘、うち二艘しか唐に到達していない。波濤を越えるのは当時は大変なことだったのである。最澄が乗った第二船は比較的順調に到着したが、空海の乗った第一船は漂流し相当離れた場所に漂着している。後の二つは一艘は沈没しもう一艘は行方不明である。
 もしも乗った船が異なっていたらどうだったか。1/2の確率で船は沈んでいるのである。二人とも難破、もしくはどちらか一方でも生きて日本に帰れなかったとしたら。このifはどうだろうか。相当日本文化は違った道を行く可能性がある。最澄がもしも居なかったとしたら、比叡山はどうなったか。極端な話鎌倉仏教は生まれただろうか。

 最澄は無事日本に帰国し、延暦寺を開き、旧仏教とも言える奈良南都仏教と対立していくことになる。ここが日本仏教のひとつの分かれ目であったと言える。
 最終的に最澄は南都仏教側と「三一権実論争」という論争を繰り広げることとなる。三乗説(声聞乗・緑覚乗・菩薩乗)と一乗説の対立である(書くと長くなるので詳しく書きません)。
 相手は法相宗の高僧、徳一である。この論争は5年に渡って続き、決着が着かないまま最澄は死んでしまった。最澄も徳一もこれで寿命を縮めたとも言えるのではないか。それほど激しい論争だった。ちなみに徳一はあの藤原仲麻呂の子供であると言われている。さすれば不比等の曾孫であり、そうとう頭の切れる人物であったことは想像に難くない。この論争は、徳一が会津に居たため主として書簡で行われそのためその論争の中身がある程度残っている。
 余談だが、徳一が会津に居たというのは、やはり仲麻呂の失脚を受けてであろうと考えられる。徳一は十一男と言われるが、一族皆死を賜ったはずである反逆者仲麻呂の遺児が生き残っているというのはにわかに信じがたいことで伝説と切り捨てることも出来るが、こんな高僧が都から遠く離れた場所に居たというのが信憑性を生む。南都仏教側には最澄に対抗出来るのは徳一しか居なかったために、わざわざ会津在住の徳一に南都側は託したのだ。徳一が永らえていなければこの論争は成立せずまた歴史は別の方向へ向かったかもしれない。

 この論争は、法相宗の「五性各別説」と天台宗の「悉有仏性説」の論争である。五性各別説は、衆生には能力に違いがあり、菩薩定性・緑覚定性・声聞定性・不定性・無定性と分かれ成仏出来るかはその人の素質による、としている。詳しい解説など出来ないので検索してください。カースト制のあるインド的思想で初期仏教を連想させる。対して悉有仏性説は、誰でも悟りを開き成仏出来る素質がある(仏性がある)とする立場である。
 どっちが正しいとは僕には分からないが、この論争があり、天台教学の中心問題は仏性論となっていく。この問題を突き詰め、天台宗には「本覚論」が生まれる。最終的には「山川草木悉皆成仏」である。生きとし生けるものは全て仏に成りうる。
 正しい正しくないはともかく、この思想は受け入れられやすい。一本の草木にも神が宿る日本古来のアミニズムにも通じる。後の神仏習合にもすんなりと入りやすい。ただ、これは堕落に繋がる危険性も内包していることが難しい。みな仏になれるのなら修行などせずともよかろう。そう短絡してしまう可能性もある。
 ともかく、この本覚思想が鎌倉仏教の母体になった。徳一との論争に端を発した叡山の思想はそういう意味でも重要なのである。
 
 前段が長くなったが、鎌倉仏教の開祖たちは皆、この比叡山に学び、そして「山を降りて」教えを広めている。それは何故か。
 延暦寺は前述したとおり官寺であり鎮護国家の寺である。そこに居る僧は官僧であり、制約が多い。簡単に言えば個人救済には官僧では対応出来ないのである。
 既に神仏習合が成されておりその影響かもしれないが、官寺は穢れを嫌う。例えば死穢。官僧は弔いをしない。現在でも葬式を東大寺に頼んでも受け付けてはくれない。なので、古墳時代を過ぎて平安時代になると、墓というものが極端に少なくなる。皇族の陵はあるが、藤原道長や頼道の墓などもっと大々的に祀られていていいはずなのに無い。鳥辺野や化野が葬送の地として知られている程度である。
 また、女人救済。延暦寺も東大寺も高野山も女人禁制である。女性には穢れがあると当時は考えられていた。不思議なことだと思う。確か仏教伝来時の日本最初の僧は三人の尼僧だったはずなのだが。国分尼寺もあったのに。これも神仏習合以来だろうか。また病人救済。ハンセン病など不治の病とされた病人、身体障害者などは仏教は手を差し伸べようとはしなかった。前世の報いなどと本気で信じられていた時代である。光明皇后は施薬院を造りマザーテレサのような活動をしていたはずだったのだが。

 ともかくも、これらのことを鎌倉仏教の開祖たちは官僧という身分を捨てることによって実行した。広く支持を集めるのも道理だと思われる。現在「葬式仏教」などと言われお寺さんは身内が亡くなったときに世話になり墓を作り戒名をもらうことが重要な役割のように思われているが、その根の部分はこの鎌倉仏教にあると考えられる。仏教の葬送従事はここから始まったのだ。仏教が葬送にもしも関わらない立場を貫いていたとしたら、日本の文化もかなり違った様相になっていたのではないか。
 そして教団の組織。なぜ鎌倉仏教が教団を組織したのかと言えば、それは官僧でなかった開祖たちには経済的基盤が無かったからである。官寺官僧は言わば国家がそれを保証していた。だが鎌倉仏教以来、運営は在家信者の寄付、布施に頼ることになる。この教団を組織することが隆盛に繋がり、それが江戸時代の檀家制度を経て現在にも続いているわけである。現在の仏教のイメージの萌芽はこの時代にあったと言っていいのではないか。

 長くなったので次回に続く。次回は各論的に、出来るだけ思想に踏み込まず(難しいんですよ)それぞれの教団の歴史を見てみたい。
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もしも西南戦争に西郷軍が勝利していたら

2007年12月16日 | 歴史「if」
 西郷隆盛は、時勢というものの怖さを身に沁みて知っていたはずである。
 倒幕を決定付けた鳥羽・伏見の戦い。この時は、単純に考えれば官軍側は勝てるはずがなかった。薩長軍(後に官軍となる)は、土佐300人を加えても約4500。対して、幕府軍は会津、桑名兵を加え総勢約15000。火器の優劣はあったにせよ劣勢は免れない。西郷は「みな死せ」と兵を送り出した。西郷に勝算があるとすれば、それは「時の勢い」という一点であっただろう。そして、錦の御旗を仰ぐことによって薩長軍は数の論理を乗り越えた。
 戦争はタイミングである、と西郷は知っていた。

 前回書いたように、明治六年の政変以降、反政府運動は士族挙兵、民権運動、農民一揆と三つの流れを生み、全て反有司専制で統一していた。思想形態は違えど憤懣は同じベクトルを向いていたと言っていい。
 西郷隆盛さえ起てば、これらは全て統一した革命軍になっていただろう。
 思想形態の統一がなされなくては協力体制はとれない、とも考えられるかもしれない。しかし、西郷の存在はそれらを超越したところにあっただろう。時代は前後するが、西南戦争勃発の際、熊本の宮崎八郎率いる熊本民権党、また増田栄太郎率いる中津共憂社などが参戦している。宮崎八郎は、西郷は民権ではない、としつつ「全ては政府を倒して後」と参戦。野合であるが、有司専制に反対する以上、思想形態は違えど勢力としては結集しうるのだ。
  
 西郷は結果として明治十年に起つのだが、何故それまで雌伏していたのか。戦争は時勢、タイミングであるということを誰よりも知る西郷が、その時勢を逸し続けたとも見えるのだが。
 明治六年の政変後、西郷が下野して鹿児島に帰ったそのときは、時勢は間違いなく西郷に向いていたと考えられる。しかして西南戦争を起こす明治十年までに、その勢いはどんどん鎮火していった。待っていれば待っているだけ不利だったと言える。
 ひとつは、士族挙兵があらかた終わってしまったということ。最も不満を持ち、そして最も戦力を保持している官軍側の士族が鎮圧されてしまっていた。薩長土肥のうち、肥前は佐賀の乱を起こし鎮圧。長州は萩の乱で鎮圧。土佐はまだ戦力を保持していたとも言えるが、自由民権運動という言論活動が主体となり、武闘派の勢いは終息に向かっていた。無くなった訳ではないが三年の間に弱体化したとも言える。
 また、農民蜂起の勢いも、その最も大きな題目であった租税の問題で、政府は明治九年に地租軽減を行い不満を解消する政策をとり、これも沈静化させた。
 さらに、この間政府は、徴兵制による軍備の充実を図った。当初はなかなか弱かった鎮台兵もこの期間に戦力は確実にアップした。また海軍力も充実し、西南戦争時には大量輸送を可能にしていたのである。
 そして、警察力の増加も挙げられる。川路利良は大久保配下で警視庁大警視として、治安維持への実力を蓄えた。現在の警察と比べて、内偵、密偵を多用し情報収集能力を重視し、また扇動、攪乱、情報操作などあらゆる手段を講じて国家政府を守護した。これにより未然に防がれてしまった挙兵や反政府行動も多い。
 さらに、反政府活動のスローガン的役割を果たしていた征韓論および外征論。これも、政変後にすぐさま政府が行った台湾派兵、そして明治九年の江華島事件による日朝修好条規締結で、一面骨抜きになってしまった。外征を題目にすることは難しくなったと言える。

 以上のことにより、武力による反政府活動はもはや手足をもがれた状況になっていたと言えるのではないか。西郷が鹿児島で待ち続ける間に。
 時勢を見るに敏な西郷が、これを座して見ていたのだ。とても蜂起する気があったとは思えない。時期を見ていた、という通説はどうも頷けない。少なくても反政府という題目で蜂起しようとするならば。待てば待つほど不利になる状況で。
 やはり西郷は、武装蜂起する意思などなかった、と考えるのが常套だろうと思う。

 それならば、何故西郷は鹿児島を軍事政権化したのか。
 前回、私学校は「鹿児島幕府」である、と書いた。地租改正も無視し、士族特権も奪わず、軍備に磨きをかけていた。鹿児島は一種治外法権であり、それは日本に二つ政府があったのと同じことであったと思う。
 私学校は、西郷は将軍であるが多分に象徴的存在にあり、桐野利秋が執権。銃隊学校(篠原国幹が指導)と、砲隊学校(村田新八が指導)からなり、さらに賞典学校(つまり士官学校)も所持していた。これらは軍事訓練所であり明らかに軍隊を育てている。牙を磨いている。
 前述したように、これは叛乱のためであったとは考えにくい。ではいったい何のために。
 ここからは想像になってしまうのだが、まず第一点として、私学校は日本軍の別働隊たらんとしていたのではないか。
 西郷が考え、恐れていたものはおそらくロシアであっただろう。西郷の遣韓論も、対ロシアが念頭にあったことは容易に想像できる。
 西郷の思想として、島津斉彬の亜細亜主義、そして勝海舟らが考えていた東亜連盟に近かったのではないか。19世紀のアジアで、日本だけが近代化に成功した。これが侵略・植民地化に対する防波堤になったわけだが、ロシアの膨張政策、南下政策はそういうものを無視してやってくる。現に樺太では大いに揉め、日本は千島・樺太交換条約というものを結ばざるを得なくなっている。いずれロシアは日本を欲して攻めて来ると考えていただろう。
 そのためにどうすればいいか。まず、東アジアは手を結んで対露にあたるべきだと考えていた。しかし朝鮮半島は未だ旧態然としている。ここに維新を輸出して、共に対露にあたるべきと西郷は考え、遣韓論を打ち出したのだろう。日・中・朝が同格として互いに結んで西欧の侵略を防ぐ。ロシアにもまだシベリア鉄道は無い。大量輸送は出来ないだろうから、この東亜同盟で防ぐことは出来るだろう。
 西郷は鹿児島隠棲中はほぼ沈黙していたが、江華島事件の折は「遺憾千万」と怒りを顕わにしている。もともと征韓論であればこの怒りは理解できない。西郷は不平等条約ではなく、同盟を結びたかったのだろう。
 しかして、西郷の遣韓論は既に葬られている。この上は、ロシアが攻めてくることも想定しなくてはいけない。徴兵制はまだ始まったばかりで不安が残る。日本国軍が充実するまでは、戦力を保持していなくては危ない。そう考えて、鹿児島に士族軍隊を残す。ただし、それは政府の方向性(国民皆兵)と相反するため、治外法権的に存在させたのではないか。
 そして、これは治外法権でなくてはならない。将来的に日本の軍備が整えば不要になる戦力であるのだから。日本の法制に組み込めない。組み込んだとしたら、それはまた明治初期の雄藩勢力に頼った国家への逆戻りであるが故に。

 大久保は、そのことが分かっていたのかもしれない、と思う。彼はこの鹿児島軍事政権(幕府)を放置したが、それは島津久光に対する遠慮だけではなかったのではないか。木戸孝允にさんざんせっつかれても無視し続けたのは、この戦力を担保にしたかったのではないか。
 富国強兵という概念がある。明治政府のスローガンと言ってもいい。ただ、この「富国」と「強兵」は同時には達成できないものである。双方とも予算がかかる。紡績業を充実させようと思っても、機械は外国から購入せねばならない。大久保は内務省を設置し、まず「富国」を第一目標に置いた。後に秩禄処分で予算が浮いた時にも、大久保は殖産興業にその予算を充当しようとしていた。
 列強が国家予算の1/3を軍事費に当てているこの帝国主義の時代に、軍備充実は避けて通れないものである。その国軍の弱さを補完するものとして、大久保は鹿児島の軍事政権をアテにしていたのではないだろうか。 
 アテにしていたとは暴論にも見えるが、現に台湾出兵の折は、鹿児島から徴集兵を受け入れている。西郷も協力体制をとっている。そればかりか、もしも日清に戦争が起こらんとした時は、西郷隆盛を総元帥として迎えねばならないと黒田清隆や川村純義、西郷従道は考えていたようである。鹿児島の軍事政権を完全に頼りにしている。いかに薩摩閥とは言え、この考えは「アテにしていた」としないと理解しにくい。
 大久保は、「富国強兵」の「強兵」の部分を、予算が追いつくまでは西郷に託していたのではなかったか。

 さらに、第二点。
 西郷が時期を待っていた、とされる通説において、「いずれ政府は瓦解する。その時には兵を率いて東上する」と西郷が考えていたとする説がある。僕はこれは、当たらずとも遠からずなのではないかと思っている。ただ少し解釈が異なるのは、西郷は瓦解を望んでいたのではない、と考えていることである。
 明治六年以降、確かに反政府活動は飽和していた。西郷起ちせば全てがひっくり返る危機にあった。西郷自身は無論起たないのだが、もしかしたら自らが立たなくても政府に危機が訪れるやもしれない。そのときは、自らが出馬しようと考えていたのではないか。これは、当然現政府を守るためという意味合いにおいて。
 実は、鹿児島軍事政権は、近衛兵的意味をまだ持ち続けていたのではないだろうか。
 桐野も御親兵で陸軍少将、篠原は少将で近衛長官だった。私学校は国家鎮撫の兵で成立していたと言っていい。大久保に取って代わろう、との意識を持っていた兵も多かっただろうが、少なくとも西郷は、最後の手段として自分が出馬することによって瓦解を防ごうとしていたのではないか。そのために戦力は保持していなくてはいけない。現政権補完の役割を担っていたのではないか。

 以上二点が、鹿児島軍事政権(鹿児島幕府)の立脚意義であったと僕は考えている。
 そして、明治十年の西南戦争である。この戦争の理由について僕は考え屈している。
 以前は、以下のように考えていた。士族暴発も終り農民一揆も緩和され、政府瓦解の危険性も無くなり、国軍も充実し、もはや鹿児島に軍事政権が存在する意味が無くなった。残された旧態の存在は、官軍の生き残りである自らの軍事勢力だけである。これを無くしてこそ明治日本政府の統一が達成される。なので、最後の官軍を消滅させるために自ら負け戦を起こして散ったのであろうと。最後は自爆して明治維新を完結させる、と。
 こう考えれば実に分かりやすく完結するのであるが、どうもそれだけでは理解しにくくなってきた。確かに鹿児島軍事政権を無くすのには鎮圧されるのが最も簡単である。しかし、この時点で西郷は本当に「もはや鹿児島幕府は無用となった」と考えていたのか。ロシアの脅威は決して去ったわけではない。そして、士族挙兵も全て鎮圧されたわけでもない。長州と肥前は鎮圧されたが、官軍の一端を担った土佐がまだ残っているではないか。自由民権運動は、完全に言論だけではなく武装蜂起もありうる状態で残っている。しかも、板垣退助は西郷が最も恐れる軍事司令官ではないか。そしてそれぞれは微力でも、まだまだ全国の士族は不満を持ち続けている。一斉蜂起の可能性も残っていた。農民運動は民権運動と結びつき始めている。鹿児島の軍備はまだ必要なのではないか。

 やはり、西南戦争は西郷にとってイレギュラーではなかったのか。
 西南戦争の導火線は、私学校党が陸軍の火薬庫を襲撃、弾薬を略奪した事件に端を発する。これを聞いた時西郷は
 「シモタ!」
 と叫んだという。この「しまった!」という言葉の意味は何か。まだ軍事蜂起する時期ではない、と解釈することも出来るが、真意はやはり西郷は軍事蜂起など考えていなかったのではないだろうか。そのまま推移することを考えていたのではなかったか。自爆して消滅、というストーリーは念頭に無かったのではないか。私学校の兵力は、みんなかわいい西郷の弟子たちなのである。
 ただし、この兵力をどうするか、ということについて、西郷は具体的なアイディアを持っていなかったのではないか、と考えられる。茫洋と「対ロシアの義軍として果てる」程度にしか考えていなかったのではないだろうか。
 西郷にはそういうところがある。討幕運動にせよ、その後の具体的ビジョンを所持してはいなかった。政体もぼんやりと「雄藩連合」を考え、焦土の中から新しい国家が生まれる、と抽象的な理念しか持ちえていなかった。
 以上に書いたことは、僕も遂に確信を持って書いていない。最後まで分からなかった部分である。

 大久保はどうだったのだろうか。
 この西南戦争の導火線のもうひとつの側面として、大警視川路利良の放った密偵が火を点けた、との説がある。通説だろう。西郷暗殺を企て、それに私学校党が怒って兵を挙げた、という話。これも事実である可能性が高い。本当に暗殺計画があったのかはともかく、警視庁の密偵は潜入したのであるから。
 川路利良がこれを独断でやったと考えればすんなりいくのだが、それはちょっと考えにくい。やはり大久保の意を汲んでいたと見るべきだろう。何故大久保はそっとしておけなかったのか。
 そっとしておきたくてもおけなかった、とは考えられることだろう。鹿児島軍事政権は日本の矛盾である。自らの立場としては一刻も早く消滅させなくてはならない。そして、士族挙兵も農民一揆も、軍事力も警察力も、外征論に至るまである程度クリア出来た。もう残る大勢力は鹿児島だけ。時期は今しかない。苦渋の決断だった、と解釈も可能である。ただ僕はなんとなく釈然としない。
 大久保の子息である牧野伸顕の談。
 「(火薬庫襲撃の一報に)父は果たして薩摩の連中が蜂起した、しかし西郷は決して出てはおらぬと言っていました。(西郷蜂起の情報にも)父は決して信じませんでした」
 これが真実であるかどうかはわからない。もしも川路に命令を下していたとしたら、こんな二枚舌はない。ただ、大久保の心中を察するに、私学校はこの世から消したくても、西郷を消したくはなかったのではないか。そして西郷自身は叛乱することはないと信じていたのではないだろうか。
 「(征討軍を出すときにもまだ)イヤ西郷は出てはおらぬ、しかしあの男のことだから進退去就には迷っているだろう」(同前、牧野談)

 まだ様々なことについて確信が持てない。しかし、現実に西南戦争は勃発してしまった。西郷はどうしたか。
 西郷はここにおいて、負け戦を始めようと決意したと思われる。それしか考えられない。ここで勝って日本を転覆させることは選択肢としては無かった。
 西郷は軍略家ではなかったにせよ、この戦争の戦略戦術は愚としか言いようが無い。それは誰しも認める部分だろうと思う。やはり負けることを前提としないとこの戦争は考えにくい。自爆であったのだ。
 
 西南戦争の概略を述べることはもうしないが、西郷軍はまず熊本城を落とすことだけを考える。こんなもの無視して進めばよかったのに。ここで足止めされているうちに、輸送力に長けた政府軍が次々と兵力を送り込む。そして、敗戦へと向かうのである。
 「熊本城参謀長の樺山資紀は城を明け渡し露払いをするだろう。下関で海軍中将の川村純義が迎えの船をよこすだろう。さて、花見をしつつ上京しよう」
 こんなことを本気で考えていたはずがない。
 山県有朋は薩軍の動向を以下のように予測している。
 一、汽船に乗って、東京もしくは大阪を突く
 二、熊本城および長崎を襲い、全九州を従え後中原に出る。
 三、鹿児島に割拠し、全国の動揺を伺い、国内の人心を測りつつ時機を見て攻め入る
 山県でなくともそう考えただろう。山県は「この三策のうちどれを取っても薩軍に勝機があった」と言う。そして、正面衝突すれば陸軍総勢力は3万ほど。薩兵は1万~2万(補充されるため)。個人力は圧倒的に薩兵。さらに、山県はこの蜂起が成功すれば全国20数ヶ所でまだ士族挙兵があったと踏んでいた。
 しかし、西郷軍は熊本で留まってしまう。自殺行為に似ている。例えば、薩軍が熊本を無視して一路小倉を衝いていれば、様相はかなり変わっただろう。無数の歴史が変わる「if」がある。
 もちろん薩軍内部にも「一軍は海路を持って長崎を押さえる(西郷小兵衛)」「まず若狭に上陸する(野村忍介)」などの意見があったが一蹴される。
 熊本城に吸着する意味がどこにあったのか。それは、ここで足止めを喰らうことによって「薩軍の勢力は大したことがない」と喧伝し、全国の反政府勢力に二の足を踏ませることくらいしかない。
 説によると、この戦闘は桐野利秋と篠原国幹が全て仕切り、有能な永山弥一郎や村田新八は黙り、戦略眼を持つ野村忍介らは前面に出られなかったと言う。ただ桐野や篠原が無能だったのだろうか。
 しかし、象徴化していたとはいえ西郷が桐野らに任せていたのであるし、最終的には西郷の責任に帰するべきだろう。桐野無能説もあるが、僕は(個人的にだが)桐野は最も西郷の意を汲んでいたこともありうると思っている。負け戦にするという西郷の意図を。そう考えれば、熊本城に拘るのが、全国の反政府勢力を沈静化させるのには最も都合がいいのである。確信は持てないけれども。

 西郷軍は熊本から宮崎に転進し、最終的に鹿児島に戻り城山に籠って玉砕する。西郷は、死に臨んで徴兵制による鎮台兵の強さに満足したとも言われる。今後は我ら士族兵がおらずとも大丈夫、と確信を持ったのかもしれない。
 こうして、日本の雄藩による倒幕、支配者階級による「革命」で抱えざるを得なかった矛盾であり負の遺産であった「勝者となった支配者階級」の抵抗は終焉を迎え、同時に明治維新も終わる。西郷と薩兵たちが全てを負って逝ったと言えば感傷的に過ぎるだろうか。

 大久保は、西南戦争鎮圧後、さらに独裁色を強め内治に邁進する。大久保はこの有司専制をどう考えていたのだろうか。
 「絶対主義国家は、大久保の理想国家の像へと向かうための過渡的なもの」と司馬遼太郎氏は推論している。大久保は、国家基礎固め30年説を持っていて、それは、10年は創業の時期であり内外の兵事解決。次10年は内治整え国内充実に向かわせる。そして次の10年は後進に任せる、と言った。そして、実はこの言葉がほぼ遺言となった。これを朝に語った後、太政官出勤途中で暗殺される。
 西郷と大久保、この仲の良い二人は、かつて幕末時に行き詰まり刺し違えようとしたことは有名な話である。結局、維新創業を経て最終的に刺し違えた。
 大久保の有司専制が、司馬さんの言うように過渡的絶対主義であったのかどうかは分からない。意思を継いだと自負しているであろう山県有朋は、その後も絶対主義をとり続け、反政府者の弾圧を続けた。大久保の20年後、30年後を山県の政治に擬しては大久保にも不満が残るかもしれない。もしも大久保がその後も政権をとりつづけたならば。しかしもう答えは出ない。
 西郷がもしも政権をとっていたらどうだっただろうか。外遊組は、欧米を見て戦慄していた。だから、何とか列強に対抗しようと絶対主義への道へと進んだ。それが帝国主義に連なり、一方で天皇の地位を向上させそれを後ろ盾に重い行政国家を作った。西郷は、そこまで天皇制を強めただろうか。天皇が好きな西郷であればこそ、象徴的位置におくように進め、責任を負わねばならない統帥権などは持たせなかったのではないだろうか。また、ロシアを恐れてはいたものの、欧米諸国に戦慄と言えるほどの感情を持っていなかった西郷は、東亜同盟を始めとしてアジアには対等外交路線をとっただろう。そうすれば、日本のアジアでの立ち位置も変わっていただろう。現在にも繋がる反日、嫌韓の不幸な歴史も少しは変わっていたかもしれない。

 「if」はいくらでも出てくる。しかし、今回はなかなかその「if」が成立しそうにない。この「if」は、あくまで西郷と大久保が対立構造にあれば、という前提だからである。
 前述した牧野伸顕は語る。
 「(大久保と)大西郷との友情は、普通(なみ)なものではなかった」
 また、長岡監物の子である侍従長米田虎雄は語る。
 「世の中に西郷と大久保ほど仲のよかったものはあるまい。実に兄弟以上であった」
 最後まで、大久保と西郷は一心同体であったのではないだろうか。
 福沢諭吉は、西郷に「野党」の原型を見たと言っている。そして、日本に健全な野党が育たなかったのは西南戦争で西郷が敗れたからだ、とも。司馬遼太郎氏もそれに賛成している。
 しかし、一見野党に見えて、西郷は実は最後まで与党だったのではないか。大久保と西郷は離れてはいなかったのではないか。そんな思いが今もどうしても抜けずにいる。

 明治維新と西郷どんの話を終ります。ありがとうございました。


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2007年12月11日 | 歴史「if」
 江藤新平の人物像など簡単に語れるほど勉強もしていないし、とても言及など出来ないのだが、それを承知で、僕はこの人が嫌いではない。もちろん現代に生きていたとしても親しみが沸くわけでもないしとても友達にはなれないとは思うが。
 巷間言われるところによれば、彼は理念先行であり融通が利かない印象がある。だが、それほど策を弄せる人物ではなかったのではないか。その征韓論抗争の中で西郷を担いだのも、「薩摩閥分断」を謀ったのだろうと言われるが、そこまで考えていなかったようにも見える。大久保の政権構想とは著しく異なる部分はあって、彼に政権を主導させたくないという意識は十分に持っていたとは思うが、それがために西郷を持ち上げた、とはなんだか思えないのだ。そういう派閥抗争などには無頓着だったのではないか。
 同様に、司法制度を確立させたのも、長州閥の汚職(井上馨の尾去沢銅山や山県有朋の山城屋事件)を摘発ないしは追及しようとしたのだ、との意見もあるが、そうではなかろう。もしも佐賀閥の要人に汚職疑惑があればかまわず摘発したに違いない。単純に「曲がったことが大嫌い」ではなかったのか。
 自身は清廉潔白であったと思うし、清濁併せ呑むという政治家に必要な資質がなかったためにああいう末路となってしまったのではないかと思っている。極めて優秀な人物だったと思う。こういう人物を使いこなせる度量のある人物が首班として政権運営出来ればよかったのだが。
 方向性としては、民権重視志向であったと思う。四民平等に尽力し、民法典編纂に力を注ぎ、司法の独立を目指した。その民権思想家で文官だった江藤が、士族蜂起の旗頭となって擁立されてしまうというのも実に皮肉な歴史の流れである。

 板垣退助という人物は、そもそも軍人であり戊辰戦争で司令官として大いに名を上げ、明治政府に土佐藩閥を作る基となった。軍人的素養は大いにあったとされ、征韓論の場でも派兵を主張したことで知られる。これだけを捉えれば、在野の大物では最も武力蜂起に近い人物のように思えるのに、実際はこの板垣が、日本の自由民権運動を推進していく原動力となるのであるから、これも皮肉と言えば皮肉である。

 征韓論を葬った明治六年の政変の後に、士族の武力蜂起と民権運動の流れが同時に起こってくるが、これはもしかしたら表裏一体のものではなかったのだろうか。字面だけ追えば全く反対の思想のように(少なくとも現代的視点で見れば)思えるが、これは方法論が違うだけで根のところでは繋がってくるのではないだろうか。
 ちょっと乱暴な話になってしまった。
 佐賀の乱に始まる士族の武力蜂起と、自由民権運動には共通の敵が居た、と考えれば、少し繋がりが見えてくる。その敵とは、有司専制を敷く明治政府であり、特に明治六年の政変の後、独裁政権を担った大久保利通ということになる。

 士族、特に官軍側士族に不満が鬱積するのはよく理解できる。倒幕のために頑張ったのに、廃藩置県により失業させられ、そして四民平等の政策の下、武士という身分も失った。廃刀令はその象徴である。特権は徐々に失われ、後に秩禄処分というリストラも待っていた。また、徴兵令によって、さむらいとしての矜持も奪われたとも言える。
 この「明治維新」という名の革命は、幕府を薩長が倒すということによって成し遂げられたものであり、敗れたのも支配階級であるなら勝利したのも支配階級という構造であったことは以前にも書いた。その支配階級による政府が廃藩置県や四民平等という「勝利者である支配者階級」潰しをやらなければならなかったところに、壮大な矛盾が生じてしまうことは自明であったとも言える。
 俺たちは革命戦争に勝ったのに何故冷や飯を食わされなくてはいけないんだ。この思いが明治政府、特に大久保に集中したと言ってもいい。
 こういう状況を見ると、大久保というのはよく耐えたなと感嘆の思いも浮かぶ。その使命感と責任感を支えていたものはなんだったのだろうか。国を植民地にしたくないとの一念だったのだろうか。権力欲だけでは計り知れない。

 ともかくも、単純に考えれば大久保の有司専制を「あいつらだけおいしい目をしやがって」と恨む一群が士族蜂起に繋がる。
 さて、自由民権運動である。この運動とはいったい何か。
 民権思想というものは、幕末よりずっと存在している。江藤新平も民権思想に傾斜していたことは前述した。その思想が具体化するのは、明治六年の政変のすぐ後である。明けて七年正月、下野した板垣ら前参議たちは、政治結社「愛国公党」を結成する。
 後藤象二郎は、そもそも坂本龍馬とともに大政奉還の立役者であり、公議政体論を主眼としていた。もともと議会制政治推進の中心人物であったとも言える。その後藤の下に、イギリス留学で議会制を研究して帰った古沢滋(土佐)と小室信夫(徳島)が出入りしており、板垣退助にこの二名を紹介した。この両名の意見を取り入れ、板垣は政党結成を考えるのである。
 この愛国公党は、結成すると即座に「民撰議院設立建白書」を提出する。
 建白に名を連ねたのは、板垣、後藤、古沢、小島以外に、江藤新平、副島種臣、由利公正、岡本健三郎の8名。西郷を除く下野した参議4名とブレーンの2名の他に由利(つまり三岡八郎)と岡健。これらの名前を見ると、どうしても坂本龍馬を思い出してしまう。龍馬はんが存命であれば、この名簿のトップに居ただろうか。それとも、こんな建白書を出さずとも既に政府を議会制民主主義体制にしていただろうか。

 感慨はともかく、自由民権運動の端緒も、経緯を見ると結局これも「反有司専制」「反大久保」であったことがわかる。士族挙兵と同じ動機だ。
 但し、その「民撰議院設立建白書」は高邁なものである。

「夫人民、政府ニ対シテ租税ヲ払フノ義務アル者ハ、乃チ其政府ノ事ヲ与知可否スルノ権理ヲ有ス。是天下ノ通論…」

 ここに謳われている事柄は現代でも十分通用する。完全な「民権」である。士族も平民もなんも関係ない。納税者は政治に口出しできるはずだ、という論理。
 ただ、「今政権ノ帰スル所ヲ察スルニ、上帝室ニ在ラズ、下人民ニ在ラズ、而独有司ニ帰ス」と有司専制を批判し、それじゃいかんのだと繰り返す。根底に「反大久保」が貫かれている。しかし「お前じゃダメだ引っ込め」では全く説得力がないために、高邁な民権論を持ってきたとの見方も出来る。
 建白したのは士族である。しかしこの時点では建前は四民平等であり、士族が建白したからと言って「士族寄り」と一概には言えないところがミソなのでは、とも思う。
(よくよく考えてみればこの時点ではまだ「所得税」の概念もなく、税は地租、つまり農民に完全に頼っており、商工業者や士族は納税者ではないとの見方も成り立つので面白いのだが。士族は秩禄から天引きも行われたので納税しているとの見方も出来るが、ありゃ天引きと言うより引き下げとも言えるので、納税者かどうか…)

 さて、有司専制に対する反政府運動は、士族蜂起と民権運動が大きなものだが、もうひとつの核を忘れることが出来ない。一揆である。
 一揆は農民の蜂起であり、徴兵令、学制、太陽暦なども反対の対象ではあったが、特に地租改正反対一揆がかなりの勢力を擁した。このことについて僕は教科書以上の知識を持たなかったのだけれども、ちょっと調べて驚いてしまった。相当な広範囲である。実数は掌握しにくいのだが、もっとも凄かったとされる明治九年の伊勢暴動は、東海各地に飛び火し鎮台兵が出動、処分者だけで五万人を超えている。
 実際地租改正は、税制としては不十分な制度であり、幕藩時代と比較しても税の軽減にはならず農民には不条理であったと言える。また金納であり米価が下がるとさらに負担増となる。民衆運動の壮大なうねりが起ころうとしていた。
 この動きは、一部自由民権運動と結びつく。この連携は組織化を孕み、各地で一斉蜂起の可能性も有り得た。木戸孝允は「一揆の竹槍は士族の刀よりも恐ろしい」と警戒感をありありと述べている。

 これらの反政府活動は、連携して起これば間違いなく政府を転覆させるだけの力を秘めていたと言えよう。第二革命の萌芽は確実に存したのである。
 だが、これらは一斉蜂起することなく、最終的に鎮火してしまった。何故か。
 統合する核が無かったからである。
 フランス革命に擬してはかえって話がややこしくなるかもしれないが、革命の道筋は多少似ている。日本の倒幕、戊辰戦争と同様、フランスも王政打破を叫び国民会議が人権宣言を採択、革命政権が樹立される。しかし、ルイ16世をギロチンにかけた革命政府は、ジロンド派とジャコバン派が対立し、権力を握ったジャコバン派が独裁恐怖政治をしいた。日本でも明治六年の政変で征韓論派が下野し大久保の独裁が始まった。大久保をロベスピエールに例えては思想が違いすぎるが、道筋はなんとなく似ている。
 このロベスピエールは後に倒される。専制政治は行き詰るのだ。人々は新たな指導者を求め、ついにナポレオン・ボナパルトが登場、第一帝政が生まれる。
 日本にもこのナポレオンに該当する人物が現れれば、士族蜂起、民権運動、そして農民一揆が連携統合して一大勢力になる可能性があったが、残念ながらナポレオンは出てこなかった。江藤新平や前原一誠、板垣退助では求心力に欠けたのだ。
 もちろん、僕が何を書こうとしているのかはもう分かっていただけていると思うが、日本にもナポレオンに相当する人物は居たのである。陸軍大将西郷隆盛。かの御仁が動けば日本はひっくり返る、と。
 西郷は、明治六年以来、反政府運動を展開する全ての人々の希望の星であったことはまず間違いない。皆「大西郷起ちせば」と考えていた。虚像崇拝的な部分もあったにせよ。
 だが、結果として西郷は最後まで起たなかった。

 板垣は、自由民権運動を発足させる際に、西郷を誘っている。これに対し西郷は冷たく断ったという。
 これは、従来の説明だと、西郷は武闘派であり、言論での打倒政府には興味がなかったのが原因、とされているが、本当だろうか。士族蜂起も自由民権も根のところでは同じであり、現に江藤新平も建白に名を連ねている。西郷が民権に理解を示さなかったという説もあるが、留守政府の首班として開化路線を走った西郷が全くの士族偏重、議会否定であったとも思えない。廃藩置県にも直ぐに賛成し、徴兵令にも理解を示したのに。この拒絶には何の意味があるのか。
 また、士族蜂起にも全く呼応しない。皮切りは江藤新平の「佐賀の乱」であるが、これを全くの見殺しにする。江藤は戦い敗れた後、西郷を頼って鹿児島まで逃げるが、これを冷たく突き放す。江藤は大久保によって梟首という法治国家としては考えられない刑に処される。

 江藤は何故西郷を頼ったのか。何故西郷が呼応してくれると信じたのか。
 それは、当時西郷が鹿児島に軍事政権を布いていたからであると見ていいだろう。鹿児島は、当時中央政府に全く応じておらず武装解除もしていない。後に「鹿児島私学校」が設立され、それは県庁の上位にあり、地租改正も無視した一種の独立国の様相を呈する。いつでも西郷は起てる準備をしていたのだ。

 ここで、ちょっとだけ言葉遊びをしてみたい。
 西郷隆盛は、政府から下野する以前は、参議であり、兼近衛都督・陸軍大将であった。近衛都督とは廃藩置県の時に国軍として組織された親兵の発展系である近衛兵の統括者である。宮城護衛の役割を持つ。まず古来の官職に例えれば近衛大将であろう。
 そして陸軍大将というのは、後に言う陸軍の階級のひとつではない。この当時は日本でたった一人であり、西郷のために作られた役職であったと言ってもいい。日本国軍全てを統括し得る特別職である。これはつまり、武士の総大将である征夷大将軍に該当すると言っていい。
 西郷は、下野するとき(つまり参議を辞任するとき)、近衛都督と陸軍大将も辞任を申し出た。しかし、政府は参議と近衛都督辞任は受理したものの、陸軍大将は辞職を許さず、西郷は陸軍大将現職のまま鹿児島へ帰った。
 この経歴を見て、どうしても思い出す事柄がある。源頼朝は、前右近衛大将・征夷大将軍として鎌倉に幕府を開いた。西郷も前近衛都督、陸軍大将である。「遠征軍の司令官が現地で政庁を持つ」ことを幕府の定義とするならば、この鹿児島私学校という名の軍事政権は、まさに幕府ではないのか。
 日本の幕府機構の歴史は、平泉幕府に始まり、この鹿児島幕府を最後とする。
 もちろん、これはただの言葉遊びであり、こんなことを真面目に主張している人は居ない。僕は実は半分真面目なのだが(その実かなり真面目なのだが)、一応笑ってすませておく。私学校は遠征軍ではないではないか、と反論が当然あるだろうが、僕は実は遠征軍であったと思っている。

 閑話休題。
 士族蜂起は、一種のモグラ叩きであったと言える。一斉に起これば当然政府は対応しきれなかったと考えられるが、これは少しづつ起こるためにその度政府軍に鎮圧される。神風連の乱。秋月の乱。萩の乱。まだおこる可能性もあったが未然に防がれている。
 神風連の乱を除き、これらの士族蜂起は皆西郷挙兵をあてにしていたと言ってもいい。西郷は今度こそ呼応してくれるのではないかと。しかし、西郷は全く動かなかった。
 何故西郷は動かなかったのか。通説では「時期を見ていた」「雌伏していた」と言われる。しかし、いったい何の時期を見ていたのか。残念ながら満足いく解説に出会ったことがない。
 しかし、西郷は確かに時期を待っていたのだ、と僕も考えている。その時期とはいったい何か。

 次回、最終話。西南の役。
 
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もしも西郷遣韓使節が実現していたら

2007年12月07日 | 歴史「if」
 ここしばらく、ずっと西郷隆盛という人物について考えている。
 この人は本当によくわからない。歴史上の人物で言えば、藤原仲麻呂や豊臣秀吉ら解釈に苦しむ人物は多いのだが、西郷どんは史料も多い近時代の人物であり、何故茫洋としてしまうのかもわからない。
 そのため、時間を見つけてはいろいろな本を読んだ。学者の書いた本から伝記、解釈本まで様々。それでもわからなくて、僕は歴史を考える際は小説を読まないようにしているのだが(作家のイメージが固定されるため)、例えば昔読んだ「翔ぶが如く」なども読み返してみた。しかしそれでも姿が浮かばない。司馬遼太郎さんもよくわからなかったのだろう。
 もう面倒になったので、まあわからないなりに書き出してみる。キリが無い。

 西郷隆盛でわからないと言われる最大の事柄は、歴史の表舞台に立って以来の、とくにその前半(討幕まで)と後半(西南戦争に敗れるまで)が、まるで人格が違ったように見えてしまう、ということだろう。
 西郷は、英明藩主として誉れ高い薩摩の島津斉彬に見出されて歴史の表舞台に出てくる。その後斉彬の死去(毒殺説あり)により一時失脚するが、嵐を呼ぶ幕末に再び要請されて復活、紆余曲折あるものの禁門の変、第一次長州征伐などで実力を発揮、薩長同盟を経て王政復古に尽力し、戊辰戦争の中心人物となる。
 ここまでは西郷の最も光り輝く経歴であり、確かに西郷なくして幕府の終焉はありえなかったかもしれない。時代のヒーローと呼んでいいだろう。
 ところが戊辰戦争が終結の後は、西郷は鹿児島に引っ込んでしまう。さも自らの仕事は終わったかのように。しかし明治四年、再び要請されて中央政府に登場、親兵を組織し廃藩置県を成し遂げる。その後岩倉、大久保、木戸らの外遊中は留守政府の首班として学制、徴兵令、地租改正など開明施策を次々と実現させるが、帰国した大久保らと征韓論を巡って対立、下野する(明治六年の政変)。しばらく沈黙の後、薩摩精鋭軍団を率いて西南戦争を起こし、敗れて自刃。
 駆け足で見た西郷の軌跡だが、こうしてみると実に精力的である。
 前半は、そのイメージに合わない陰謀家の一面もよく現れる。大政奉還後、公議政体派に巻き返しを食らうと「短刀一本で事足りる」と脅してひっくり返したり、江戸で幕府を挑発して鳥羽・伏見の戦いを誘発して徳川側を賊軍に仕立てるなど、かなりの策謀ぶりが伺える。
 後半生も字面を追えば頑張っているように見えるが、しかし実情は、「しょうがないからやるけど早く引っ込みたい」的な様相で、戊辰戦争終結後は中央政府に請われてもなかなか出馬せず、薩摩藩の副知事みたいな役職に就き、どうしてもと頼まれて廃藩置県から留守政府までは中央政界に居るが、それも開化政策は佐賀藩出身の秀才たち(大隈重信や江藤新平ら)がこなしたのであり、唯一主張した征韓論で大久保ら帰国組に敗れてまた政治の表舞台から消える、とされる。
 
 こんな話は歴史教科書的でもあり終わりが見えないので中断するが、中でもよくわからないのが「明治六年の政変」である。果たして「征韓論」とは何だったのか。それが実にわかりにくい。
 そもそも征韓論は、この時期に急に出てきたものではない。尊王攘夷運動のときから既にある。古来、日本は朝鮮半島を支配していたという主張(そんな事実を立証するのは難しいのだが)。神宮皇后が三韓征伐を成しえたという記紀の記述から、朝鮮を日本が支配することが従来の姿であるという我田引水の主張がなされていた。実際は白村江で敗れ秀吉の唐入りも失敗しているのだが、吉田松陰らは征韓論を自説とし、木戸孝允もかつては征韓論の先鋭的論者だった(これは後に変節する)。
 この明治初期の征韓論は尊皇攘夷的な無茶論ではなくなり、主として二点の理由から説明される。
 ひとつは「恐露」ロシアの南下政策への対抗である。ロシア国土膨張計画は凄まじく、既に日本は樺太を巡って対ロシア防衛対策を講じなければならないようになっていた。その生命線は満州であり、朝鮮半島は防波堤であるという考え。
 もうひとつは、朝鮮が維新政府と国交を結ぼうとしないという苛立ちである。対馬厳原藩を通じて徳川幕府とは付き合いがあったが、鎖国状態にある李氏朝鮮は開国路線をゆく明治政権を快く思わず、また明治政府が国交文書に「皇上」「奉勅」という言葉を遣い「天皇」を前面に押し出すことで、中国を唯一の宗主国と仰ぐ朝鮮は「他の皇帝」などというものは認められないという立場からさらに快く思わず国交を拒絶する。「日出処天子」だな。なので明治政府をシカトする朝鮮はけしからん、という観点である。

 だから朝鮮に攻め込んで平らげよ、が征韓論だが、こんな乱暴な主張が本当に西郷はじめ明治政府の主要メンバーに横溢していたのか。
 政府はともかくとして、在野に視点を向けると、西郷の懐刀とも言える薩摩近衛兵のリーダー、桐野利秋は「征台論」であったとの見方が坂野潤治氏からなされている。先走るが、後に薩摩兵の鬱憤晴らしとも言われた戦争が台湾出兵であったことはこのことを頷かせるに足る。また薩摩閥の有力者黒田清隆が開拓使長官であることから対露論を主張していたことは周知。薩摩閥において征韓論はさほど有力ではなかったとの見方も出来る。
 この当時の征韓論の出自はどこなのか。強硬主張は誰がしていたのか。そこがよくわかりにくい。板垣退助であろうとの見方も出来るが、板垣では全国的沸騰ということの想像がつきにくい。
 どうも征韓論は、例えば幕末の「尊皇攘夷」のようなスローガン的なものに過ぎなかったのではないかとも思えてくる。新政府へのさまざまな不満鬱屈がそのスローガンで代表されていたような。具体的なものではなかったのではないか。
 あるいは、「征韓論」などというものの存在は後付ではなかったのか。後に勝者が歴史を分かりやすく説明するための。実際は征韓論など存在しなかったのではないか(暴論)。

 少なくとも西郷隆盛が征韓論者ではなかった、ということは、もはや通説になりつつあるようにも思う。前述したように薩摩閥からの突き上げにも疑問符がつき、さらに西郷は政府内で一度も征韓を主張していない、という「事実」である(もう事実と言ってもいいだろう)。西郷は「遣韓論」だった。
 明治六年の四月くらいから、実際に釜山において日韓の摩擦もおこり、外務省が朝鮮対応策を要請、六月になって初めてこの朝鮮問題が閣議に諮られることとなる。
 板垣退助は派兵を主張した。しかしこれは居留民保護が主眼であり、最終的には討伐などではなく修好条約締結を目的にしていたとされる(だから板垣征韓論も疑問符が付くのだが)。対し西郷は派兵に反対、全権大使として自らが赴きトップ会談にて決着をつける、と主張する。しかも護衛なしに単身乗り込むと言う。
 この場面で、西郷を征韓論者であるとする見方の証拠になるものとして、西郷の板垣退助宛書簡というものがある。これは板垣に宛てて西郷が「自分が単身で乗り込めば必ずや朝鮮は自分を殺す(これにより征韓の理由付けが出来る)」と説く手紙であるが、これを持って確証とするのはどうだろうか。軍人板垣を自らの「遣韓大使」に賛成させるための方便であったようにも見える。情勢から言って、北条時宗が元の使者を切り捨てた頃とは時代が違うのだ。行けば必ず殺されるなどということはよっぽどのことを仕出かさない限りありえないように思うのだが。西郷は自らの死に場所を求めていた、というのはこの書簡からもよく言われることだが、それはちょっと乱暴すぎるのではないか。
 結局、西郷を征韓論者とする見方の証拠はこの板垣書簡しか見当たらないのである。
 それに、単身乗り込んで話し合い決着をする、というパターンは西郷の得意とするところである。江戸城無血開城を思い出す。「誠意を持って胸襟を開き話し合えば道は開ける」と西郷は本気で考えていたのでは、と考えられるし自信もあったのではないか。

 当時、西郷は留守政府の実質首班であった。太政大臣三条実美は居るのだが象徴的役割でしかない。この政府首班を派遣することに三条は難色を示し、あるいはそれ以前に日清修交条規を批准した副島種臣を推す意見もあり、政府は西郷大使派遣にすんなりとは決定しなかったが(この間の工作のために板垣書簡があるのではないか)、八月に正式派遣を決定し天皇に奏上する。
 
 西郷はこの派遣により日本を離れるについて、無責任であるとの意見もある。首班がカッコ書きにせよ死を賭して行こうとすることに。まだまだ問題積載の政府はどうなるのか。
 ここからは想像だが、僕はもしかしたら西郷の脳裏には既に大久保利通が居たのではないかと考えてしまう。大久保は遣欧使節団として外遊中であるはずだが(だから留守政府なのだが)、実は五月(征韓の件が朝議に乗る以前)、もう既に大久保は単身帰国しているのである。西郷遣韓で政府が揉めている間も沈黙を守りつつ待機している。
 薩摩藩時代から役割分担として西郷は外交官であり大久保は官僚だった。内政は一蔵どんにまかせれば良い、と考えたとしても不思議ではない(異論が出てきそうだけど)。西郷と大久保がこの頃連絡をとっていたという歴史的事実は無いが、もしかしたら通じていたのではないかという想像もしてみる。

 大久保は何を考えていたのか。 
 この当時、大久保は有り体に言えば遊んでいた。政府には参画していない。これは、入りたくても入れなかったのだとする説が多い。大久保は遣欧使節で特にこれと言った実績を残せず帰国している。それどころか、対米条約改正でヘタを打ち失敗している。結果外遊期間も延び、その間に留守政府が目覚しい国家建設を実現させていた。四民平等、法治国家建設、学制、地租改正、徴兵制。近代国家に日本を生まれ変わらせた政治の渦中に大久保は居らず、主として佐賀藩出身の秀才連がこれをやってのけている。ために、大久保は機会を狙っていたのだ、とする説。
 ある程度これは正鵠を突いているかもしれない。ただ、この近代化路線は廃藩置県をやった大久保が敷いていた路線であったとも言える。しかし思想的には少しく違いはあったかもしれない。
 これもよく言われる説だが、江藤新平との対立構造が強かったという説。肥前の大秀才であった江藤は、日本を欧米に対抗すべく法律の制定を徹底し、日本を冠たる法治国家にしようとしていた。もしもこのまま外遊が長引き留守政府がさらに政権を担当していたとしたら、江藤は憲法制定までやっていたかもしれない。
 ごく大雑把に言ってしまえば、江藤は共和制、議会制民主主義を目指しており、大久保は官僚主導の立憲君主制を想定していた。この対立構造について言及すると無限に話が伸びるので次回に回したいと思うが、対立構造は実際にあったと思う。日本国家をどういうかたちにしていくか、ということについての見解の相違が。
 江藤新平の薩長閥解体についての謀略というものもよく言われるところであるが、それはひとまず措く。少なくとも、江藤は大久保が設立しようとしていた「内務省」には反対だった。こういう内政の絶対権力を握る行政機関の出現には。

 大久保は、この江藤排除のためにおそらく征韓論を利用したのではないか。
 西郷はそのとき、江藤らに担がれている。彼らの薩摩閥分断作戦という見方も出来るが、大久保は逆に西郷を担がせるだけ担がせ、その西郷を人身御供にして切ることによって江藤の失脚を狙ったのだろう。江藤と正面対決をするよりはそちらの方が御しやすい。
 西郷は、それを分かっていたのかどうか。
 これはまた想像であるし歴史的検証もなにも出来ないのだが、西郷は最終的には承知であったのではないか。やはり大久保を信用していたのではないか。

 もちろん、そのときは西郷は本気で遣韓使節になるつもりだっただろう。表題にも書いたとおり、もしも西郷遣韓使節が実現していたとしたら、朝鮮とは修好条約を結べた可能性が高いとみている。これは対等な国家間条約。そうすれば、後の明治8年江華島事件によって結ばれる不平等条約などではなく、勝海舟や坂本龍馬が夢想した「日本・朝鮮・中国の東アジア三国同盟」に向かって進んでいた可能性もゼロではあるまい。後の日韓併合という不幸な出来事も起き得ず、日韓はもっと違った歴史を歩んでいたかもしれない。
 ただし、その場合は江藤ら佐賀藩閥の活躍もそのまま続くと考えられる。そうであれば、日本は(あくまで可能性だが)、こんな行政権の強い、天皇の権威を背景にした重い国家にはならなかったのではないか。この国家が、最終的には統帥権を生み出し第二次世界大戦まで行くのだ。あくまで極論だが、早い時期の憲法制定と国会開設、そして政党政治が花開いたかもしれないのだ。(もちろん必ずそうなるとは言っていない)

 大久保は、帰国した岩倉具視とともに遂に巻き返しに出る。主として工作は伊藤博文が担当する。後の史観で言えば、「征韓論派」「外征派」と「内治優先派」の争いということになる。こんなふうな色分けも勝者視点であるなとつくづく思う。外征派が派兵戦争を唱えてもいないし、内治優先派はこの政変後すぐに台湾出兵をやるのであるから。
 だが、この争いは外征派(つまり西郷)がいったん勝利を収める。大久保、伊藤の再三の工作にも関わらず、岩倉、そして三条が寝返り西郷遣韓を認めてしまうのだ。そして天皇に奏上、ということになる。
 ここから、史上まれに見る大久保の陰謀工作が始まる。大久保の日記にはただ「一の秘策あり」と記されている。
 
 大久保は、木戸、大隈重信らとともに辞表を提出する。三条や岩倉が撤回を要求しても全く応じない。また、西郷は「早く奏上しろ」と迫る。双方の脅し(強烈なプレッシャー)である。ここに至って、奏上すべき太政大臣三条実美はひっくり返ってしまうのである。昏倒、人事不省と言われる。一説には錯乱したとも。これで三条の奏上は不可能になる。
 三条はプレッシャーに負けた弱い公家だったのだろうか。いやしかし、三条には七卿落ちも経験し断固として考えを曲げなかった強い印象もある。もしかしたらこれは芝居ではなかったのか。
 だが、三条は策を弄さない清廉な印象もある。さすればこれは本当にぶっ倒れたのか。芝居でなかったとすれば、ここが歴史の分岐点であった。
 早速大久保、伊藤らは手を打つ。天皇に近いところに手を回し、右大臣岩倉を太政大臣代理として奏上させるように画策するのである。そして岩倉にはよく言い含める。つまり、朝議の決定とは異なるものを奏上させるのである。
 こういうことが許されるのかどうか。政治の暗黒面である。この謀議は、かつての王政復古時の数々の権謀術策を思い出す。

 西郷側も不穏な空気を読み取り、抗議に行く。岩倉邸には副島種臣、江藤新平、板垣退助、そして西郷。
 ここで岩倉は、朝議の結果如何ではなく自らの考えで奏上する、と、とんでもないことを言い出す。そして、「俺の目の黒いうちは勝手なことはさせんぞ」と歴史に残る一言を言い放つ。しかも非は完全に岩倉にあるのだ。
 西郷はどうしたか。
 なんとここで折れてしまうのである。
 この経緯は実に不思議だと思う。かつて西郷は王政復古の時期「短刀ひとつあれば解決する」と言ったこともある男。こんなことで折れるとは実に考えにくい。正論は西郷側なのに。西郷が変わってしまったと思える瞬間である。
 しかし、西郷は本当に変わってしまったのだろうか。人というものはそんなに簡単に変わるものだろうか。「短刀ひとつ」からまだ数年しか経っていないのに。
 西郷はもしかしたら、この時点で「もう一蔵どんに任せよう」と思ったのではないか。そして、自分の役割について理解したのではないか。
 ここで西郷が遣韓使節となって赴き、大久保を失脚させ政府を江藤新平らに牛耳らせるより、長年の信頼関係を築いている大久保に日本の今後を任せたほうが良いと判断したのではなかったか。そして氷解し、未来への道筋を見たのではなかったのか。
 考えて見れば、この抗議の訪問は副島らが企てたもので、西郷は言わば誘われたのである。西郷抜きであれば、舌鋒鋭い江藤、理論家の副島らと岩倉は絶対に相容れなかっただろう。夜が明けるまで議論である。ここに西郷が居たからこそ、「もうよか」となったのである。江藤らなら折れなかっただろう。結局西郷が最後は「征韓派」を葬ったのだ。

 西郷は岩倉邸を出たとき、「右大臣(岩倉)はよく踏ん張りもしたな」と笑ったという。この不思議な逸話から、諦念だけを抽出するのは難しい。何か晴れ晴れとしたものまで感ぜられる。もうこのとき、西郷の決心は固まっていたのかもしれない。今後は大久保に全てを任せる。そして自らはその援護射撃に回る、と。
 「征韓派」はそうして一斉に下野した。

 このあと大久保の完全独裁が始まる。そして西郷の大芝居も開始されたのではないかと思っている。
 次回、士族挙兵と民権運動。

 
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もしも廃藩置県が漸進的におこなわれたなら

2007年12月01日 | 歴史「if」
 前回、明治維新という「革命」が非常に矛盾を多く孕んだものであったという話を書いた。
 戊辰戦争は、封建制度のトップであった幕府を無くした。いや、正確には戊辰戦争時には既に大政奉還が行われていて幕府は消滅していたのだ。したがって、旧勢力を打破するためだけの戦争であり、それはつまり薩長を中心とした雄藩勢力を勝利者と確定するために行われた戦争と言っていい。そして、その雄藩勢力は封建制に依拠している。

 戊辰戦争は、全然必要のない戦争だったか、とまでは言わない。利点は、確かに明治新政権の力を見せ付けられたこと。旧幕府の勢力を潰し、敵対する藩を叩けたこと。まあ実際敵対した藩は長岡と会津、庄内、二本松、棚倉、請西藩他くらいではあったのだが。そして「錦の御旗」によって旗幟を鮮明にさせ、ほとんどの藩を薩長を中心とした雄藩連合政府に靡かせたこと。
 そして、重要な点は、戦争をさせることにより各藩の財政状況をボロボロにしたこと。この戦争は明治太政官政府の軍隊が行ったものではなく(まだそんな軍隊は無い)、封建制に依拠した各藩武士団の持ち出しで行われたものである。なので、各藩が疲弊した。ただでさえ幕末、経済状況はどの藩も悪化していたのに。これにより、各藩の経営が行き詰まり、版籍奉還及び廃藩置県への抵抗が最小限になったとも言える。
 しかし、こんなのは結果論であるとも言えるのではないか。各藩の力を削ぐために戊辰戦争を始めたわけではあるまい。そしてこの各藩の疲弊(主に借財)は後に政府に圧し掛かってくるわけである。自分で自分の首を絞めているのも同じだ。その上で戊辰戦争の最も大きな弊害は、雄藩連合の力が増大してしまったことではないか。

 話が先走ってしまった。
 雄藩連合(また公家の一部も含む)は、天皇制を押し出して中央集権政府樹立に乗り出す。この太政官政府と言われる政権は、制度や人事をコロコロと変え、最終的に戊辰戦争の中核であった薩長土肥の人材を中心として成立していく。この間の動きについて書き出すと止まらないのだがそれは控えて、この明治政府は当初から廃藩置県を念頭に置いていたのだろうか。
 
 もしも戊辰戦争が無く、坂本龍馬が画策した大政奉還に基づき、公議政体論の元に新政権が発足していたとしたら、行き着くところは廃藩置県であっただろう。公議政体論(立憲政体論と言い換えてもいいかもしれない)は、そもそも幕臣大久保忠寛(一翁)が唱えた政体論である。坂本龍馬を始め、横井小楠や弟子の三岡八郎、そして大政奉還を推進した土佐藩の後藤象二郎や福岡孝弟らもこの考えを唱えている。
 当然徳川慶喜も公議政体を押し出しており、慶喜の政治顧問をしていた西周は、命により「憲法草案」を提出しているが(実に早期だ)、そこには既に三権分立が謳われ、象徴天皇制も打ち出している。行政権の長に慶喜を比定している(大君独裁制)ことから反動的にも見えるが、実に民主的政体を考えていることがわかる。
 小栗上野介忠順は大統領制を理想としていたようだが(アメリカの政体を規範としたのか)、いち早く幕藩体制を終結させて郡県制を敷くべきであると唱えている。小栗の論は先取りしすぎの感もあるのだが、明治の発展がほぼ小栗のガイドライン通りであったことを思えば、小栗を生かせなかったことは損失であったとも言える。
 
 薩長を中心とした雄藩連合には、そういった構想はなかった、と言っていいのではないか。脱藩浪人坂本龍馬は政体構想を所持していたが、慶喜側とかなり近似しており、結局潰されている(そのための暗殺であったかどうかはさておき)。
 政体構想を持たなかった(持たなかったとは言いすぎであろうが、慶喜や龍馬はんと比べれば見劣りしていた)雄藩連合は、大政奉還によって慶喜一派が政権を担うことを恐れ(慶喜側の方が筋が通っていたとも言えるので)、それを潰すために戊辰戦争を起す。理屈で負けるから手を出した、と言えば批判されるだろうが。
 結果、雄藩連合が勝つのだが、その政府は封建藩に依拠した政府とならざるを得ない。それは前回に書いたとおり。
 なので、その立脚点である「藩」を廃止することは当面考えられなかったのではないか。
 ひとつの証拠としてあげてみたい。政府は五箇条の御誓文の「公論」の具現化として、諸藩選出議員による議事機関として「公議所」を設けた。ここで明治二年、郡県制が議論されている。ここでの議論は決着がつかず、概ね小藩郡県、大藩封建支持であったらしいが、大久保利通は郡県論を空論であると退けている。「公議所での郡県論は無用の論であり国体にあわない」と言い切っている。薩長に依拠した政府の考え方が見える。

 政府は、その後版籍奉還を実行する。これも明治二年。
 明治政府は旧大名領を「藩」として大名統治を継承してきたが、藩閥政治の中心である薩長土肥各藩が版籍奉還を建白する。雄藩がそうしたことで、雪崩現象的に他藩も版籍奉還を行い、これにより一応土地と人民の支配権は朝廷に帰することとなった。しかし、これは形だけのことであり、藩主が知藩事と名称を換えたくらいの認識であったろう。封建藩主の支配はまだ続く。今まで幕府に承認してもらっていた土地人民支配権を朝廷にやってもらう、程度のことであったかもしれない。太政官の命令は届きやすくなったかもしれないが、知行地である実態は変わらない。
 果たしてこの版籍奉還は、二年後に実施される廃藩置県への布石であったのかどうか。過渡的措置であったのか。

 過渡的であったとも言えよう。郡県制を「空論」であると言った大久保も、このままではいけないと思い始めていたのかもしれない。政府は明治三年「藩制」を公布する。ここで、職制などに規制を加えた上で、歳入(年貢だな)の一割を知藩事の収入と定めている。
 しかしこれは、政府の威光を示した(命令に従わせる)とも言えるが、よく見ると封建制の是認でもあるのではないか。藩運営に統制を加えてはいるものの、構造は変わっていない。
 これは藩を府県と並ぶ行政区画として明確に位置付けたわけで、府藩県三治制の徹底が要請されている。政府の統制を強くするものの、この時点で廃藩は方針として考慮に入れられていないことがわかる。歴史を知っている後世の僕らから見れば、あの急転直下の廃藩置県の一年前に出された政令とはとても思えない(異論はあると思うが僕はそう思う。まだこの時点で封建制是認の政令を出すとは)。

 好意的に見て、政府はこの時点では「漸進的」な廃藩を考えていたのだろう。いずれは中央集権にしたい。しかし、戊辰戦争をやってしまって革命の勝利者を作ってしまった以上、勝利者に腹を切れとは言えない。ましてやその勝利者である雄藩の上に乗って大久保も木戸も今のポジションに居るわけだから。
 その構想通り、廃藩は漸進的に進んでいく。
 まず、藩制によって藩財政が画一化され自由にならなくなったことにより、藩運営が困難になった。藩経済は窮乏しており(戊辰戦争や凶作により)、かなりの負債を抱えていた。これを藩札発行や借金で賄っていたのだが、債務整理を期限付きでやるよう命じた。足らない分は藩主・士族の家禄や経費を削って返せと。これにより藩財政が立ち行かなくなった藩は、自主廃藩を願い出ている。その数13藩。
 帰農法や禄券法で凌ぐ藩もあった。帰農法は士族の農民化であり、土地や一時金等で便宜は図るものの、家禄返上などを伴った。また禄券法は、家禄に応じた禄券を与えてその売買を認めるものである。いずれにせよ士族解体が進行することになる。
 このように、漸進的に廃藩、士族解体は進むのである。これは痛みを伴うものの比較的穏やかに封建制の解体を促すことになる。いずれなし崩しに封建制が終焉を迎えることになったかもしれない。「藩制」の公布は、そういう利点も持っていた。

 しかし、その翌年、政府はこれに逆行するような施策を行う。またも雄藩の担ぎ出しである。
 府藩県三治体制では中央集権化が漸進的にしか進まないと苦慮した政府は、政府の力を強めようと画策する。そのために、薩長土三藩の藩力によって強化しようとしたのである。雄藩による政権支援策。
 これは、雄藩の政治参画によって、諸藩を統御し、府藩県三治体制を徹底しようとするものである。ここにおいても、政府は藩の存在を全く否定しない。藩を御するために藩を当てる。
 この結果、さらに雄藩(薩長土)の力が増大するのである。政府も、発足当時は親王、公家、諸侯(藩主)、そして各藩の徴士が朝廷の臣となって運営されていたのだが、この頃になると親王や諸侯は外れ公家(三条や岩倉)、そして薩長ら雄藩の士(大久保や木戸)らが中心となっている。どんどん雄藩に傾斜していることが分かるが、さらに彼らのバックボーンである雄藩を前面に押し出すのである。
 具体的には様々なことがあるが、親兵の創設は大きい。政府には直轄軍が無かったため、力が弱いと解釈されていた。諸藩は封建依拠であり各藩はそれぞれ軍隊を保有している。これに対応するため、政府軍を創設した。それは薩長土の三藩から8000人の藩士の提供を受けて成立する。恐怖政治である。この親兵創設のため、ついに西郷隆盛が鹿児島から出てくる。
 力(軍事力)が政府だとすれば、この政府は完全に薩長土の政府である。どんどん公議政体から離れていく。この時点で、藩(雄藩)の力が最高潮に達したと考えていいのではないか。これは逆行ではないのか。

 と、ここまで藩力で政府の威光を高めた上で、政府は急に「廃藩置県」をやるのである。これはいったいどういうことか。驚天動地の出来事としか思えない。
 理由は以下のように考えられる。
 雄藩(主として薩長)の力を最大限に押し出したために、薩長の主導権争いが起きたのだ。具体的には大久保利通(薩)は行政権の強い政府を主導しようとし(後に有司専制と呼ばれる)、木戸孝允(長)は立法権を拡充しようとした。このため政治に空白期間が生じた。こう単純に書いてしまっていいのかどうか迷うが(実際は複雑)、政府がこの時期混迷していたことは間違いない。人事、制度改革において双方が対立し、西郷隆盛が間に入るが政治が進行しない。中央集権政府に向けた政策が進行しない。三藩提携で政府の威信は強化されたというのに具体的に何も進まない。
 この間、反政府運動が起る。一揆や打ちこわしは頻繁に起る。また、民主化において、例えば熊本藩などは政府に先んじて、横井小楠以来の実学党が政権を握り、革新的な政治を行った(税制改革や公選議会等)。これは政府とすれば開明すぎており、市民革命に発展する可能性もあった。他にも尾張や鳥取、徳島藩など。中央政府へ改革的建白が出る。有司専制を目指す大久保には受け入れ難い(何でダメなんだろう。結局薩長でやりたいだけなのか)。
 ともかくも、政府は行き詰まった。これを一気に打開する方法として「廃藩置県」が浮上するのである。なんだよ、ついこの間まで藩を肯定し雄藩の威力を高めておいてからに。

 結局、行き当たりばったりであったのではないか。
 自分たちの政府が立ち行かなくなることへの恐れ。反政府の機運は高まり、民主化路線も興る。行き詰まりを打破するためにいきなり伝家の宝刀を抜いた。藩力に依拠した親兵をバックにして。民主化と改革路線の非薩長系藩を封じるために。
 この廃藩置県、提起したのは長州の鳥尾小弥太、野村靖である。二名はこれを山県有朋に打診し、井上馨、木戸孝允へと話は進み長州閥で同意を得る。そして山県は薩摩の承認を取るため西郷へ具申する。西郷は「それは宜しい」とだけ言って(相変わらず口数が少ない)、大久保へ話を持っていった。この間わずか2、3日。
 完全に薩長の密室政治である。公議公論はどこへ行ったのか。土佐藩関係者はもとより、三条実美、岩倉具視でさえ寝耳に水のこの決定、それから約一週間後に天皇の勅をもって断行されるのである。
 これで歪みが出ないはずがない。

 しっかりとしたビジョン無しに政権運営をしてきたツケが回ってきたようなものだろう。廃藩置県を最終目標とするなら、それ相応に政権運営をすべきであったが、藩体制の維持が前提にあった政権であったためにこうして無理をせざるを得なくなる。
 こんないきなりの廃藩置県断行では、内乱が起こってもおかしくはなかった。それが何故粛々と行われたのかには様々な要因があると思う。
 まず版籍奉還を行っていたことによって、理屈上は天皇の勅は受け入れなければならないという前提がある。しかしそんなの関係ないという場合もあるだろう。
 第一は、親兵の威力がある。各藩はもちろん軍事力を保持していたが、なんせ疲弊していた。精鋭8000の政府軍には太刀打ちできないと判断されたのだろう。
 そして、この廃藩置県は封建制の廃止であるわけで、藩主、そして士族という封建制依拠の人々が一斉に失業するのである。これに対する手当てとして、知藩事(藩主)は華族として爵位を与え家禄を保障する。士族も同様に家禄支給を政府が肩代わりする。これで不満解消である。
 さらに、負債まみれであった藩財政の後始末も政府がやる。藩債と藩札はやはり政府が肩代わり。これだけの優遇政策を採れば、反乱は確かに未然に防げただろう。
 しかしこんなことで良かったのか。

 廃藩置県は、もっと漸進的にやるべきではなかったのか。
 断行の時期は明治四年でもよかった。日本の政体、国策を考えれば、これは最良のタイミングであったとも言える。封建制を打破しないことには国が一元化せず、税制もまとまらない。しかし、もっと漸減的に行えばこんな負債を背負い込むことはなかった。そもそも大久保など、郡県論は無用の論と退けていたのである。この時に進めておけば、藩財政をもう少し整理出来たはず。この藩の債務整理を命じたのは「藩制」であり一年前のこと。年貢は一年に一度しか取れないのに出来るわけが無い。ビジョンに欠ける。藩政の掃除の時間は取るべきだった。家禄の改革(帰農法や禄券法など)も随時行われていたことであるし、もう少し早めに着手すればよかったものを。
 根拠があって言っていることではないが、藩制の施行が明治三年であり、このまま3年くらい、明治六年くらいに廃藩であればかなり様相が変わったのではないか。債務償却は進んだだろう。僕は明治四年の廃藩はタイミング的に良しと思っているので、せめて明治二年、版籍奉還の頃に藩改革に着手すべきであった。それを雄藩に依拠していた政府は不可とした。
 順序を踏まないからこうなるのではないか。

 藩士の数は、その家族を含めると国民の5%であったとも言われる。これらを政府は一手に引き受けることとなった。これは大変な負債である。藩が無くなれば彼らは無為徒食である。彼らの家禄で政府は困窮し、明治9年に結局秩禄処分となる。つまり打ち切り。これは大久保がやった。こうなるのは目に見えていた。
 単純に僕などは考えてしまう。何故士族を志願兵として国軍に編入しないのか。それで仕事がひとつ出来るではないか。徴兵制など無用ではなかったのか。これについてはまた機会を改めて書きたいとは思うが。

 もっとひどいのは、旧藩の負債である。
 「藩制」以後藩は負債を償却すべく努力したが、いかんせん一年ではなんともし難くその負債は政府が肩代わりした。負債額は当時の歳入の倍とされ、えらい荷物を背負い込んだことになった。もっと漸進的に旧藩に処理をさせて後の廃藩であればここまでにならなかったものを。
 外国債などは絶対に償還されなければならない。日本の信用問題である。だが、国内での債務はどうなったか。いわゆる商人の「大名貸」である。
 これを、新政府はかなりの部分踏み倒してしまったのである。
 こんな非道なことが行われていいのか。曲がりなりにも一国の政府である。鎌倉時代の徳政令じゃないんだ。このため、破産に追い込まれた商人も多い。一説には、当時の経済の中心であった大阪の商人がこのことでかなりの打撃を受け、これが後の大阪の地盤沈下の一因であるとも言われる。本当の犠牲者はここにいるのではないか。ある意味封建政治よりずっとタチが悪い。

 徳川慶喜に政権を任せておいた方がもしかしたらよかったのではないか。もう少し漸進的にうまくやれたのではなかったか。この廃藩置県をめぐる政府対応を見ていてそんなことも思うのである。

 次回、征韓論。



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