凛太郎の徒然草

別に思い出だけに生きているわけじゃないですが

黄昏のブランデー

2024年02月25日 | 酒についての話
 先般引っ越したときに、サイドボードを処分してしまった。
 サイドボードにももちろんいろんな種類があるのだろうが、我が家にあったのはつまり、おしゃれな食器棚である。飾り棚といっていいかも。横長で背は低め、装飾が多めの、大きなガラス戸がつく収納棚だった。
 僕は、家具の好みとしては基本的には質実剛健であればよく、飾り付けされたものとかはまず買わない。これは、貰い物だった。
 世はまだ昭和。就職で実家を出て、最初に一人暮らしをした某都市の某マンション。家具はほぼコメ兵でそろえたが(何が某都市だ)、まだまだ部屋の中はスカスカの状態だった。そんなにモノも無かったしね。
 しばらくして、隣のご主人が訪ねてきた。「これ要りませんか?」
 見れば立派な装飾棚だった。なんでも転勤なのだという。そのご主人と会ったのは最初の挨拶以来二度目だった。
 「いいんですか?」と思わず言った。いや貰っていただけるなら寧ろありがたい。うちじゃもう使わないもので、と。
 いま考えれば、引越の処分品を体よく押し付けられたのだ、とも言える。まあそこまで悪く考えずともいいが。人に貰ってもらうほうが家具も喜ぶというもの。エコともいう。そうして、このサイドボードは我が家にやってきた。
 しかし何か目的があって入手したものではないため、困った。最初は入れるべき何物もない。寂しいので、何でも入れるようになる。当初は模型や置物、土産品などが並んだ。そのうちに、のんべであるためにそこには洋酒が何本か並ぶようになる。さらに、当時は気前がいい時代だったせいもあり、酒を買ったときにおまけで貰う景品グラスがずらりと並んだ。メーカー名が入った安物ばかり。ともかくも、酒専用の家具へと進展した。
 そうしているうち僕も引っ越しし、結婚し所帯を持ち、また引っ越しし…世は昭和から平成、令和とうつり、それでもこのサイドボードとは一緒にやってきた。中身も、ことあるごとに入れ替わってきたが、酒棚であることは変わりがなく、21世紀以降はPC机の隣に位置した。
 これはPCを買ったときに、サイドボードの隣にしかスペースがなくそこに台を置かざるを得なかっただけで意図したことではないのだが、以来ネットと酒が一体化した。僕が最もネットに出没していた時代は40代前半だったと思うが、夜更けにサイドボードのガラス戸を開け、気分の蒸留酒を取り出してはグラスに注ぎ、それを舐めながらブログを書くのが日課になった。あまりよろしくない習慣だろうとは思うのだが、当時は愉悦だった。酒に関する話も、数多く書いた。 

 そうした日々にも、徐々に変化が出てくる。
 まず、生活が朝型にかわった。
 こうなるに至る話はとても要約して書けないので放置するが、つまり夜にブログ書きながらスピリッツ、なんてことはしなくなった。酒は、晩酌で終わり。
 外で呑んでもスナックやカラオケにはもう誘われても行かない。二次会なし。家では言わずもがな。そして早ければ10時台に寝る。朝は5時前に起きることも。PCに向かうのはその時間。
 今でいえば「朝活」というヤツだろう。いや、違うか。とくにスキルアップなど目的とはしてなかったしな。
 というわけで、酒を舐めながら夜更けのPC、という悪癖はなくなった。コーヒーを飲みながら、に替わったかな。
 そのうちに体調問題や様々な出来事もあり、歳もとって、早起きしても朝活すらしなくなったのだが、それはさておき。
 サイドボードは、形骸化した。
 サイドボードに並んでいたものは、棚の左半分は酒器。右半分は洋酒(蒸留酒)である。ウイスキー、ジン、ウオッカ、ラム、テキーラ、ブランデー、etc.。
 このうち酒器は、ほぼ飾りである。むかーし酒器の話で書いたとおり。僕は酒を呑むのに酒器は4つしか使わない。あとは、ただ置いてあるだけである。若い頃は来客もいたが、今は訪ねてきて酒を酌み交わす人なんていない。友人もみんな歳をとった。
 中には上等のもの、思い出が付随するものもある。世話になった人の形見の薩摩切子。結婚祝いに貰った九谷焼のワイングラス。義理の兄に貰ったビアマグ。沖縄で買った抱瓶やカラカラ。しかし大半は、貰い物や景品であり、ほとんど使ったことがない。アイスペールや水差しも、来客時だけのものだ。普段氷は、直接冷凍庫を開けて掴んでグラスに放り込む。いちいちアイスペールに入れてられるか。また洗って乾かしてしまわねばならない。そんなことがひとつひとつ面倒になってくる。二人の暮らしの中では登場の機会は失われている。
 しかし捨てる機会もなく放置していただけだったのだが、前回書いたように引っ越しを余儀なくされた。
 もうええわ。処分しよ。suntoryとか銘が入った6個セットのタンブラーとか、使こた事ないがな。こんなん並べてるだけやんか。
 そうやってカミさんと仕分けしていたら、置いておくグラス類はみな食器棚に入ってしまうことが判明。

 「どうする? もうサイドボードいらないんじゃない?」
 「そやなぁ…」

 実は、右半分に並べてあった酒瓶も、激減していたのである。夜更けの一杯をしなくなったため、新しく買い足さなくなった。今あるのは洋酒の瓶が6本だけ。これは一応、消耗品と考えられる。
 従い、サイドボードは洋服箪笥やステレオラックなどと共に、処分品リスト入りした。
 考えてみれば、このサイドボードは、既に中古品で入手以来35年くらいか。頑張ったと思うよ。底面裏にシールが貼ってあったのをこの度初めて発見した。なんかのキャラクターみたいだがよくわからない。おそらく隣の家の子供が貼ったんだろう。その子もおそらくはもう壮年…おっとこんなことを考えていてはいけない。何事にも感傷的にならないのが引越の掟である。

 さて…。
 引っ越して4ヶ月を過ぎ、もちろんグラス類は減らして食器棚に収まっている。
 さらに先ほど書いた「消耗品としての洋酒の瓶」だが…こんなの引越前にのんでしまえば良かったのだが、1本だけのんで5本は持ってきてしまった。うーむ。
 有体にいえば、のむ機会を失ったのである。それに相応しい場面を作れなかった、というか。
 内訳は、ウイスキーが5本。ブランデーが1本。だいたい750㎖くらいで量的には大したことはないのだが、かなり僕にしては上等の酒なのだ。ウイスキーはオールドパー12年が2本。シーバスリーガル12年。シーバスのロイヤルサルート21年。バランタイン30年。
 なんというか、えげつない。こんなの、成功者がのむ酒である。
 もちろん、買ったものではない。いただきものである。こんな高い酒買わないよ。
 これらを入手したのは、ずいぶん昔だ。僕が若者といっても差し支えない時代。詳細は書けないが、つまりは、こんな感じ。
 仕事上で、相当な社会的実力者に会いに行く。話がしにくいので休日、自宅へ行く。もちろん手土産は経費で買って持っていく。何度か通ううちに気に入られる。

 「君は酒はのむのかい?」
 「はい、ウワバミでございます(笑)」
 「じゃこれあげるよ。あちこちからもらってのみ切れないんだ。あんまりうちじゃのまないからさ」
 「いやいやこのようなものを(汗)」

 そうして頂いた酒である。社会的実力者には、中元歳暮はもとより、賄賂的意味合いも含めこういうものがダブつくほど集まるのだ。ふぅ。
 こういう機会が何度もあった。
 ロイヤルサルートをもらったときの場面を今も記憶している。君は独身かね。うちには君と同じくらいの娘がいるんだが…と言われた。その娘さんも出てきた。うわぁ(汗)。しかしここでロイヤルサルートを返すわけにはいかない…。
 今とは時代が違う。昔話である。そのロイヤルサルートをまだのみそびれている。結婚前のことだし、あれは30年以上前か。

 閑話休題。
 「酒は食べ物に奉仕する」と昔から僕は書いてきている。いちいちリンクは貼らないが、そんな話をずいぶん書いてきた。ウイスキーやブランデーも食事時にのむ。しかしそういう時にのむ酒は、極めて廉価なものである。まあペットボトル入りのヤツ(レッドとかトリスとか)。ウイスキーはビール代わりに。ブランデーは紹興酒代わりに。水割りでガブガブのむ。
 そういう場面で、バランタインをアジフライと共に水割りでのむわけにはいかないではないか。もったいない。僕だってそれくらいはわかる。こういう上質なものは、ストレートであるがままにのむのが正しい。なのでそういう酒は、だいたい夜半過ぎの酒としてストレートで消費していた。
 しかし、朝型となって、そういう「食事後に舐めるようにのむ」機会を封印してしまったため、残ってしまったのである。
 引っ越しに、割れ物は梱包が面倒臭い。だが近距離引越であるため、僕はこれらを全て消費するのを諦めた。業者さんの手を煩わせなくてももこのくらい自分の車に積めばいい。ただ、オールドパー12年は2本あり、昨年の夏以降精神が疲弊していたこともあり、1本封を切った。自分にご苦労さんの意味も込めて。
 
 うわ、美味ぁ

 当たり前であるが、普段のむブラックニッカとは違う。いやブラックニッカももちろん旨い酒ではあるのだが(いつも世話になっている酒なのでフォローしないと)、なんだか別ジャンルの酒に思える(フォローしきれなかった)。
 カミさんはウイスキーをのまないので、僕一人でのんだ。オールドパーといえば、田中角栄がのんでいた酒である。田中角栄と言えばすき焼きとオールドパー。まあ頂点の酒とも言える。今検索したら、吉田茂が愛飲して、それが田中角栄に受け継がれた、ということらしい。ひぇー。
 ボトルは、3日で空いてしまった。
 しかし、だいたい3日くらいで空くと予想していたのである。だから、引越の3日前に封を切った。
 家の中は既に段ボール箱だらけになってきていて、さらに台所用品も梱包を進めていてちゃんとした料理も出来ず、この日からテイクアウト的な感じになっていたため、食後酒の出番があると踏んだのである。
 それだけではなく、もちろん25年住んだ我が家への惜別の意味もあった。…なんか理由つけないとのみにくいやないの。

 以来、しばらく経った。ここからリアルタイムっぽくなる。
 カミさんが帰省する。コロナ禍以降、盆と正月の里帰りは止めて、シーズンオフに動くようにしている。今回は10日間ほど。で、2月某日。カミさんを伊丹空港まで送った。
 さー何をのもうか。
 
 うちの食事形態が一般的なのかどうかはよくわからないが、まず何品か料理が出てきて、それで酒をのむ。僕が「料理は系統を統一してくれ」と希望しているので、和食なら全部和食、中華なら中華に揃える。煮魚とポテサラと青椒肉絲みたいな組合せはしない。何のんでいいのかわかんなくなるから。
 で、のみ終わったらシメのメシ(回文)。ここまで統一感を持たせなくてもいいけど、だいたい流れで食べている。麻婆豆腐があれば半分は残してご飯と食べよう。この刺身の半分は海鮮丼にしよう、とか。麺類にすることもあるし、洋食ならパスタで〆ることも多い。もう30年二人で暮らしているので、流れが完全に出来上がっている。
 かつてはこのあとに更にスピリッツ系の酒、だったのだが、それはもう止めてしまっている。
 然るに、一人で食事となれば、こういう流れは無視していい。短い期間だから栄養バランスとかも考えない。一人前の料理を何品か並べるのも面倒だ。
 うちに帰る途中スーパーに寄ったら、総菜売り場でロースかつが半額になっていた。しめしめ。これを買って帰って今夜はカツ丼を食べよう。
 米を研ぎ、風呂に入ってしばらくして台所へ。カツを甘辛く煮て溶き卵でとじ、炊き立てのめしの上にのせる。むふふふ。
 なお関係ない話だが、僕はカツ丼に玉葱を使わない。葱を使う。これはどういうことかと言えば、経験値の問題かも。
 僕はカツ丼デビューは遅く、大学の学食が初めてだった。それまでは何故か機会がなかった。野球の試合を見に行く前、必勝祈願で注文したのだが、それが葱使用のかつ丼(しかも後のせ方式)。
 おそらくは、学食という回転重視店舗の関係上、玉葱を煮ていると時間がかかるからだろう。しかし初めてがそれで、そのあと何度もこの330円のカツ丼を食べ続けたので、刷り込まれてしまったのか。後に他の店で食べることももちろんあったのだが、何か違和感を感じるようになってしまった。洋食ぽくなるというか。
 僕が生涯で最も食べた、金沢は南町の「あさひや(再開発で今はもうない)」のカツ丼。ここは葱すらも無い。薄いトンカツと卵だけ。これは本当にうまかった。そば屋のカツ丼であり、やはり出汁の力なんだろうか。わしわしと掻っ込む。ひどい時は二杯食べた(若かった)。今でも食べたくてたまらなくなる。
 不思議と、今住む西宮のカツ丼の名店として名高い「たけふく」、また神戸の行列店「吉兵衛」、いずれも玉葱ではなく葱あとのせ学食方式である。客の回転の問題かな。で、僕はこちらのほうが好き。

 関係ない話を長く書いてしまった。そうして美味い自家製大盛りカツ丼を平らげ、腹もくちたところで、今夜の一杯をやろうと思う。夜も更けてきた。
 ブランデーが一本ある。これをのもう。
 何とコニャックである。ヘネシーV.S.O.P。これ買えばいくらくらいするんだろう。そりゃブランデー通になれば、ヘネシーはX.O.からだ、なーんて言うんだろうけどねぇ。僕からすれば、どっちも突き抜けてる酒ですよ。ひと瓶1万円以上する酒も2万超えも、いずれも上質。だってワシが普段のんでるブランデーって、ペットボトルやで。
 また関係ない話だが、邱永漢氏が昔、香港での飲食について書いていた。曰く、

「料理屋は料理を売るところで、酒を売るところではないという観念があるので、どこのレストランでも酒は自由に持ち込めるようになっている(中略)広東料理を食べに行く香港の人たちが一番好んで持ち込む洋酒はブランデーである。なかでももっとも人気のあるのがヘネシーのXOである(中略)日本のデパートで三万五千円で売られているXOも、免税店では八千円くらいで売られている」

 僕はちょっとプリン体の摂取に気を付けなければダメだと医者に言われたことがあり、痛風は怖いので、のむ酒のかなりの部分を蒸留酒にシフトしたときがあった。中華を食べるときにブランデーをのもうとしたのは、こういう邱永漢氏の影響がある。しかし料理にXOを合わせるのは無理なので、極めて廉価のブランデーを水割にしてのむようになった。ブランデーは廉価であってもブランデーであり、もちろん芳醇とまでは書けないが独特の甘い香りはするので、紹興酒の代わりにはなるような気がした。
 そりゃ僕だって、上質のブランデーを水割りにしたりはしませんよ。薄めたら香りがたたなくなるしもったいない。
 けれども、メーカー側が水割りを煽った時代があるのである。「ブランデー 水で割ったら アメリカン」というコピーをご記憶の方は多いと思う。→CM
 シェリル・ラッドのポスターを酒屋で貰ってきて壁に貼っていた青春時代。懐かしい。シェリルは今でも憧れの大人の女性である。この頃まだブランデーをのんだことは無い。
 メーカーとしては、ブランデーを売りたかったんだろうなあ。割ってでも。
 ブランデーという酒は、当時は高嶺の花。かつては舶来品であり、高級イメージが強かった。
 サントリーは、かつてウイスキーを売るために一大イメージ戦略を打ったことがある。そして「トリスを飲んでHawaiiへ行こう!」という山口瞳のコピーは柳原良平のアンクル・トリスというキャラクターとともに流行語となった。そして後年には、小林亜星の「夜が来る」という最高のBGMを擁してCMを打ち、ボトルキープという新しい文化(これもサントリーが仕掛けている)も背景にして、酒場にずらりとオールドのボトルが並んだ。
 ウイスキーに続いてブランデーも、という戦略だったのだろうかとは思う。詳しいことは別に掘ったわけではないからよくわかんないけど。
 '70年代末から80年代初頭にかけて、今にして思えばブランデー販売のイメージ戦略がやっぱりあったのかな。石原裕次郎の「ブランデーグラス」という曲が流行ったのもこの頃か。
 VSOPという言葉すら、流行っていた。これをVery Special One Patternだとすぐにわかる人は、いったい何歳以上だろう。本来のVery(非常に) Superior(優れた) Old(古い) Pale(澄んだ)というブランデー等級よりもずっと人口に膾炙していたのではないか。
 しかしながら、日本文化として「居酒屋でのむ」「小料理屋でのむ」という、食事と共に味わう酒になりきれなかったところがブランデーにはあるのではないか。70年代は、割烹にすらオールドがずらっと並んだのだ。だからこそ「水割りにしてのんでほしい」とサントリーはシェリルに託したのだろうけれども…結局中華料理にブランデーの水割りを合わせてる僕のような奴は珍しい部類じゃないだろうか。シェリルより邱永漢をCMに出していればよかったのでは…なわけはないか。

 話がどんどんへんなところへ流れる。いよいよヘネシーを開けることにする。
 封を切り、栓を抜く。ああぁ開けちゃった。
 そして、スニフターを一脚、処分せずに持ってきている。いわゆるチューリップ型のブランデーグラスのこと。このために持ってきたのだ。そのスニフターに、丁寧に注ぐ。そして、手のひらで包むように持つ。

 うわ~いい香りだ。

 ブランデーの身上は何といってもこの豊かな香りである。ヘネシーのV.S.O.P.だと、だいたい30年の熟成を経たものと言われる。そうして瓶詰されて、おそらくさらに30年の時を経ている(汗)。瓶に入れば熟成されることはなく劣化していくのみだが、アルコール度数の強いスピリッツは有難いことになかなか悪くならない。
 この香りを満喫するために、スニフターはある。手のひらで少しだけあたためられたことにより揮発していく成分を籠らせ、逃がさない。
 やっぱりこれは、冷やしたり水割りにしたり氷を入れたりしちゃダメだな。シェリルには悪いけど。
 よく考えてみれば、このヘネシーは僕より年上なのだ。そう思うと、なにやら悠久な気分になってくる。この歳月を経た芳醇な美酒は、やはりあるがままに味わうのが正解であり本道だろう。
 ひとくち、含む。そしてしばらく抜けていく香りを楽しみ、ゆっくりとのどに流し込む。

 はああぅぁぁぁ

 至福とはこういう状況を言うのか。僕は今、幸せなのだ。


 翌日。休日でもある。
 朝からブランデーがのみたい。誰も止める人はいない。
 しかし、それはいかになんでも人として何か失ってはいけない何かを失うような気もする。自重しよう。
 昨晩はボトル1/3ほど空いてしまった。700㎖瓶だから、230~250㎖くらいのんだか。40度の酒だから、僕にしては結構のんでしまったな。しかし、二日酔い要素も全くなく、すっきりとした目覚め。上質の酒ってこうなんだな。
 そうしてなんやかやしているうちに、夕刻となった。冬のことであり、夜が来るのが早い。
 ちょっと早いような気もするけど、始めるか。

 だいたい、ブランデーというものは、食後酒としてのまれる場面が多いはず。いわゆる、ディジェスティフとして。
 確かに、あの度数と強い香りは、食後酒に相応しいと思われる。「食後は3C」なんて言葉もあった。僕はこの言葉を森須滋郎氏の著作で知ったが、それはフランスでの食後の定番であるコーヒー(Café)、葉巻(Cigare)、そしてコニャック(Cognac)。
 まあヘネシーはコニャックだが、コニャックでないブランデーは相応しくないのかといえば、そんなこともあるまい。語呂合わせだけのことだろう。語呂合わせならケーキでもいいのかな。だいたい葉巻なんて喫しないよ。ジャイアント馬場さんじゃないんだから。シガール(フランス語)ならヨックモックでもいいのか?
 戯言はさておき、コニャックが食後に最もふさわしいということが常識であるとした上で、今日は食前酒(アペリティフ)としてのもうと思う。普通食前酒はシェリーやカクテルだが、別にフレンチ食べるわけじゃなし。

 ブランデーをのむときに、何をつまめばいいのか。もちろん食後酒なら何も食べなくてもいいし、それこそ葉巻の一本でもあればそれで事足りるだろう。ただ空腹時は、チェイサーとしての水以外に、何か口にいれたい気もする。もちろん邱永漢式に中華料理ではなくて。
 普通言われるのは、チョコレートだろう。昔はよく酒場で、グラスに氷を満たしてそこにポッキーをたくさんさして供されたものだったが、今でもそういうことやるのかな。松田聖子が「ポッキーオンザロック」を歌っていたのはいつだったか…あれも'70年代末から80年代初頭だったような気がする。ブランデー戦略の一環と考えるのは穿ちすぎだが。
 今日は、いいものがある。林檎クリームチーズ。
 これは、妻の叔母さんが送ってくれたものだ。細かくしたリンゴのコンポートとクリームチーズを和えたもの。カミさんはこれを最初トーストにのっけて食べていたが「あんまりあわないなー」と言っていた。どれどれと一口舐めてみると…うまい。「うまいじゃないかバカヤロー」と言って、僕はその瓶を冷蔵庫に即座にしまった。その時から僕は「これはブランデーだな」と思っていたのだ。
 うししし。いよいよその日が来た。
 ブランデーを先ずはひとくち。ふぅぅ。そして林檎クリームチーズをひとなめ。ああ、やっぱり相性抜群である。美味い。さらにブランデー。至福とはこういう状況を言うのか(昨日もそう言った)。
 バレンタインの義理チョコも、まだ残っている。こうして、夕刻から天国へと向かうのであった。


 そして、今日。ブランデーも残り1/3となった。
 池波正太郎に、「夜明けのブランデー」という随筆集がある。池波さんのエッセイは読み込んでいるほうだが、この作品は晩年のものである。書いているのは60歳代に入ったころだと思うので、普通にまだまだ盛りであるようにも思うが、しかし池波さんは67歳で亡くなったので、やはり晩年か。
 
 「午前一時から明け方の四時までが私の仕事の時間だ。朝のうちに、今日はこれをやろうときめたことは必ずやってしまう。以前は、その後でウイスキーをのんだものだが、この夏からは少量のブランデーにした。そのほうが体調がよい。何といっても、私の一日は、この三時間にかかっている」

 池波さんはその晩年、明らかに老けていた。もともと老け顔の方ではあるが、それにしても60歳そこそこでこれか…と思ってしまう。小説を書くのは、やはり激務なのだろう。僕も、還暦がみえてきた。なのに僕なんぞは、こうやってブランデーをのみながら阿呆な長文のブログを書いている。この差に愕然とする。
 だいたい、池波さんが仕事終わりに「ブランデーをなめているうちに、頭へのぼった血も下ってくるので、それからベッドへ入る」と、クールダウンで夜明けのブランデーをのむのに対し、僕はもはや夜更けのブランデーでもなく、夕暮れのブランデーだ。宵の口のブランデー。薄暮のブランデー。黄昏のブランデーだ。なんたることか。
 そのブランデーも、もうすぐ終わる。せっかくうまい酒をのんだのだから、せめて何か書いておこうと思ってPCに向かったのだが、酔っているせいかもう10000字を超えた。ここまで誰も読む人はいまい。しかし、つかの間の幸せだったとは言えよう。

 ああもう最後の一杯だ。こんな機会がまた来るかなあ。まあ来ることを楽天的に信じて、終わるとするかな。黄昏のブランデーを。

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