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駅弁の話

2015年01月31日 | 旅のアングル
 最近、駅弁を食べる機会が何度かあった。この1ヶ月で3回。
 これを多いと見るか少ないと見るかは、マニアのいる世界でもあり何とも言えないが、僕は昨年末まで、たぶん一年以上駅弁を食べていなかった。ずいぶんご無沙汰してしまったものだと思う。
 別に駅弁離れ、というつもりもなくただ機会がなかっただけだと一応は考えてみる。そうだよなあ。別に駅弁が嫌いになったわけでもなし。でも思い返してみると、ここ14~5年は昔と比べてかなり利用回数が減ったように思われる。どうしてかなあ。

 まずは旅に出ることが少なくなったというのが第一義的にあるのはもちろんだと思うけれども、他にもいくつか要因があるように思う。
 ひとつは、僕が新幹線・特急列車に乗る機会を減らしているということ。旅行に行くときの交通機関の選択としてどんどん車のパーセンテージが上がっていることに加え、遊びであまり速い列車に乗らなくなっている。以前は「時間を金で買う」という意識が強かったが、移動も旅行の楽しみであるに間違いは無く、今はよく普通・快速列車に乗る。新幹線というのは、車窓風景が均質的なので飽きる。あれは出張用だ。在来線のほうが楽しい。
 ところが鈍行列車の車内というのは、今は食事をする場所ではなくなっている。
 田舎の路線でも、座席はベンチシートが増えた。あの席では弁当などは実に食べにくい。また快速列車は前向き座席が多いが、近郊線なので混雑する。立っている人からじろじろ見られるのもまた食事に相応しくない。
 また他に、食事の選択肢が増えたということ。
 それでも特急に乗る機会もあるにはあって、特急列車は座席にテーブルもついていて弁当を食べるに不自由はないが、乗車するのはターミナル駅から、ということが多く、食事をテイクアウトするのに駅弁だけではなくデパ地下やエキナカなど目移りして、そっちのほうがコスパが良いことが大半なので困ってしまう。昔は長い汽車旅だと、駅弁か立ち食いそばくらいしか選択肢がなかったものだが。

 さらに、昔と比べて駅弁が手軽に手に入りやす過ぎる、ということがある。
 昔からデパートの催事で「駅弁大会」というものは盛んにあって、現地に行かなくても手に入ったものだったが、それがさらに昨今はスーパーなどでも企画されるようになった。僕が住む徒歩圏内のスーパーでも、年に何度も各地方の名物駅弁を特集して販売している。そうなると、逆に買わなくなるのである。 
 この心理を説明するのは難しい。いつでも手に入ると思うと購買意欲が失せるという心理を。
 例えば別のことで書くと、僕は名古屋に多い「コメダ珈琲店」という喫茶店の「シロノワール」という大きなデニッシュパンにソフトクリームを乗っけてシロップをかけて食うというデザートが好きで、名古屋に昔住んでいたときにハマり、その後名古屋を離れて後も愛知県に行くことがあれば必ず探して食べていた。ところが、そのコメダ珈琲店が全国チェーン展開を始め、とうとう僕の最寄駅のそば、つまり徒歩5分くらいのところにも開店してしまった。そうなると、もう行かなくなるのである。東海地方に行っても「うちの近所で食べられるものを何もここでわざわざ」と思い、また地元の店にも「また今度ね」と思って行かない。結局、地元に店が開店してから一度もシロノワールを食べていない。
 つまるところ今までも「せっかくここまで来たんだから食べよう」という心理が働いていたのだろう。駅弁についても同じ。例えば鳥取に行けば「元祖かに寿しを食べなくちゃ」とかつてはやはり思ったが、今はスーパーの広告に載っていると、鳥取で食べなくてもいいかと思い、また駅弁をスーパーで買わなくてもいいだろう、とも思ってしまう。

 駅弁を食べていない言い訳に字数を使いすぎた。思い出話を書く。
 初めて駅弁を食べたのはいつだったかということを思い返すと、小学校一年のときに家族旅行で南紀に海水浴へ行ったときの帰りだった。今にして思えばおそらく、田辺駅で購入したのだろう。普通の幕の内弁当だったと記憶している。
 これがうまかった。
 家族で列車に長時間乗るときは、たいてい母親は弁当を作る。この旅行も、行きはおかんが作ったおにぎりや卵焼きを車内で食べたのだろう。だが帰りはそういうわけにはいかない。で、駅弁の登場となったのだが、とにかく子供にはモノ珍しい。それに僕は幼少時からネリモノが大好きで、そこに入っていたカマボコなどがもう嬉しくてしかたがなかった。
 しかし、その後は長らく駅弁を食べる機会がなかった。食べたかったのだけれど。

 子供の頃、うちの書棚に保育社のカラーブックスシリーズの一冊である「駅弁旅行」という本があった。これはカラーブックスだから一種の駅弁の写真集である。
 これを、僕は何度も何度も、それこそ舐めるように読み、眺めた。そして憧れた。うまそうだな。石井出雄氏の文章も魅力的で、この本はいま僕の手元にはないのだが(既に絶版であるようで、実家にはまだあるのではないかと思うが)、その記述のひとつひとつまで思い出すことが出来る。
 ちょっと検索してみるとどうも昭和42年発行で、改訂版もその後出たようだが、僕が見ていたのは42年度版。なので、今はもう無い弁当も多いだろう。したがって、その本に載っていた駅弁で今も販売しているものは、なんせ50年ほども前からずっとロングセラーになっているものだから、もう駅弁界のレジェンドと言ってもいいだろう。
 厚岸の「かきめし」。森の「いかめし」。長万部の「かにめし」「もりそば弁当」。八戸の「小唄寿司」。大館の「鶏めし」。高崎の「鳥めし弁当」「だるま弁当」。横川の「峠の釜めし」。千葉の「やきはま弁當」。横浜の「シウマイ弁当」。大船の「鰺の押寿司」「サンドイッチ」。静岡の「鯛めし」。富山の「ますのすし」。神戸の「肉めし」。岡山の「祭すし」。三原の「たこめし」。広島の「しゃもじかきめし」。宮島口の「あなごめし」。鳥取の「かに寿し」。松山の「醤油めし」。折尾の「かしわめし」。人吉の「鮎ずし」。適当に挙げているが、これらは当時、本当に憧憬の弁当だった。
 大人になったら食べよう。そう思い続けていた。

 だが、駅弁というものは、高い。現在、駅弁の値段は普通に1000円を超えている。もちろん、昔はそんなにはしなかったが、当時の物価と照らし合わせると高価であったことには違いはない。
 駅弁初の「1000円弁当」として「しゃぶしゃぶ弁当松風」が売り出されたことがニュースになったのを今も記憶しているが、それはまだ僕が小学生ではなかったか。つまり40年くらい前に既に1000円超えの弁当が発売されたということは、通常の駅弁すら5~600円はしていたのだろう。そして、その後も値段は上がってゆく。
 大学生から周遊券を使った汽車旅を始めるが、金銭的には切り詰めた旅行であり、とても手が出るものではなかった。当時の日記を見ても駅弁を買った記録がない。ただ逡巡した記憶は、何度もある。
 今ではあまり見かけなくなったが、当時は駅弁はよくホームで「立ち売り」をしていた。首から弁当が入った大きな箱をストラップで吊るし、大きな声で「べんとぉー べんとぉー」と声を出す。立ち売りのおじさんの声はだいたい練れたいい声で、僕は子供の頃よく聴いた、大徳寺の托鉢のお坊さんの声を思い出した。
 その立ち売りのおじさんが北海道の長万部駅で憧れの「かにめし」を担いで売っているのを見た。列車の停車時間に思わず駆け寄ったのだが、その「700円」の値札にどうしても躊躇する。僕はおじさんの前でしばらく立ち尽くしてしまった。
 「買うの? 買わないの?」おじさんは僕に言った。おそらく営業妨害だったのだろう。ごめんなさい。あわてて僕は立ち去った。
 そんな幾度かの記憶がある。
 
 社会人となって、一応フトコロに小銭は持てるようになった。僕は、旅に出るたびに駅弁を求めた。
 ただ、これは僕にとっては一種の「文学散歩」だったような気がする。子供の頃に憧れたレジェンド弁当を食べてみたい。そんな思いが強かった。したがって、食べたら必ず弁当の掛け紙は持って帰る(峠の釜めしは当然ながら容器も持ち帰る)。
 もちろんロングセラーの弁当というものは、うまいから生き残っているのであり、味は当然折り紙つきである。だが、当時は味よりもやはり「経験したい」という思いが強かったと思う。高崎でとりめしを食べたときには大変旨いと思い、もう一度食べたいとは思ったが、次回に機会があったときはやはり「だるま弁当」を買ってしまった。こっちも食べてみたいじゃない。で、包み紙は持ち帰る。コレクター的要素が強くなってきた。
 なので、複数回食べた弁当はそんなに多くない。例外的に金沢の「お贄寿し」と福井の「越前かにめし」はよく食べたが、これには出張がからんでいる。純粋に旅行先で食べたとは言えない。
 また、例えばその頃小淵沢駅で「元気甲斐」という弁当がTVの企画によって売り出され、大変に評判を呼んでいた。とにかくうまいらしい。だが、僕はそういう新しい弁当には一瞥もくれず「高原野菜とカツの弁当」を買った。こっちのほうが歴史があるから。何というか、面倒くさい男だった。もちろん高原野菜カツ弁当もうまかったし、後になって食べた元気甲斐も上等だったが。

 そのうちに、結婚する。妻が僕の駅弁の掛け紙のコレクションを見て「これ何? 」と言った。
 僕がかくかくしかじかと説明すると、僕の趣味にはほぼ興味を示さない妻が、これには乗ってきた。僕の歴史の話などはいつも耳を塞ぐ妻だが、食べ物となると違うらしい。また、妻にも多少の蒐集癖はあり(飽きやすいのだが)、駅のスタンプなども集めている。
 そのため、二人で旅行に出ればそこに「駅弁」を組み込むことが多くなった。
 しかし、これは僕にとっては堕落の一歩だったと思っている。

 僕は、とにかく子供の頃に憧れた、レジェンド級の駅弁を食べたいと思って動いている文学散歩的食べ歩きである。なので、明治時代から続く静岡の鯛めしや大船の鰺の押寿司などは何よりも優先すべき弁当であり、伝統と歴史を重んじている。
 ところが妻はそうではない。何よりも「おいしいかどうか」を重視する(当然だが)。なので、雑誌の特集やTVなどはよくチェックし、評判の駅弁を食べたいと言う。
 僕は新しく発売された「黒田如水弁当(仮)」や「山里のこだわり弁当(仮)」などといったものには全然興味がない。うまいにこしたことはないが、うまい、うまくないは別問題としているので、チョイスに齟齬が生じる。
 そりゃ女房が推薦する弁当はうまいですよ。池田の「十勝牛のワイン漬ステーキ辨當」なんてのはびっくりするくらいうまかったなあ。僕は昭和40年代以前からある弁当を主にターゲットにしているので、こういうのは誘われなければ食べなかったと思う。おそらく僕の食べた中では5本の指に入ると思われ、その点においては妻に感謝なのだが、もうひとつ問題がある。
 このステーキ弁当は、実は車で買いに行っているのである。北海道は池田駅に止まる列車も少なく、完全予約制となっていて途中下車でフラリと買えない(今はどうなのかな…20年くらい前の話)。なので、電話して車でお店に行って、どこかの景色のいい場所で食べた。
 駅弁は、列車で食べてこそ。車窓を見つつ味わうものであると頑固に信じる実に面倒くさい男である。なので、うまかったのは抜群にうまかったが「駅弁を食べた」という気が全くしない。普通にレストランのテイクアウトである。
 妻にとっては、食べてうまくて掛け紙を持ち帰ることが出来ればそれでよいので、その後も車で購入に走ることが多くなった。ことに北海道などは列車の便が悪いので、どうしてもそうなることが多い。
 なんだかなあと思うのである。
 そうしているうちに妻はついに禁断の場所である「デパートの催事」に手を出した。そうなると食べる場所は、我が家の茶の間である。旅情など一切介在しない。
 
 「だってこうでもしないと進まないじゃない」
 「あんた駅弁が全国に何種類あると思てんのや。2000種類できかへんぞ。3000くらいあるかもしれん」
 「えーそんなにあるの」
 「だいたい全部食べようなんてはなから無理な話なんや。新しいもんはどんどん出てくるし。コレクションはいいがコンプリートは一生かかっても無理や」

 妻は、その後憑き物が落ちたように駅弁に興味を失った。飽きたのかもしれない。そういう僕も、レジェンド弁当をある程度食べ終え、徐々にペースが落ちた。そのうちに前述の理由などが重なり、もう駅弁に目の色を変えることはなくなってしまった。
 しかし駅弁というものはなかなか味わい深いものであって、こうしてたまに食べると、旅情とともにいろんなことをまた思い出すのである。

 この話は、最初は「駅弁で呑む」という記事のマクラにするつもりで書き始めたのだが、思わず長くなってしまったのでここまでにする。呑む話はまた次の機会に。
 
 
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情報過多時代

2014年04月30日 | 旅のアングル
 旅行に必要なものとは何か。突き詰めて考えると、それは旅に出たいと思う気持ちである。それさえあれば、他のものはあとからついてくるかもしれない。
 ただこういうのは理屈であって、受動的に旅行に行かざるを得ない人もいる。出張が最たるもので、あとは社員旅行や友人に誘われてどうしても断りきれない人、付き添い、いろいろなパターンがある。そういうものまで考えていては話が全く進まないので、能動的に旅に出る人に限る、という注釈つきになってしまうが、とりあえずはそう考える。
 次に必要なものは、時間と予算である。
 これは相関関係にあることが多い。稼ごうと思えば時間がなくなる。逆もしかり。そしてどっちもゼロでは成り立たない。「無銭旅行」という言葉もあるが、全くの無銭ではメシを喰うこともできない。なので、なんとかやりくりする。昔は、大金持ちのドラ息子に生まれたかったと夢想したものだが、そんなことを考えていてもしょうがない。
 さらに、体力の問題もある。だがこれは旅の形態にもよるので一概に言えない。

 さて、ここまでは大前提の話。気力体力金ヒマがあれば、いくらでも旅は出来る。
 次に必要なものは何か。それは、情報である。
 どこかに行きたいと思えば、どうやってそこに行くのかを知らねば行けない。自分が今住んでいる場所から東なのか西なのか。それは極端としても、どの道を行けば到達できるのか。そのために古来より地図というものが発展してきた。交通網が広がる現代においても、例えば列車は何時に発するのか、宿泊先はどうかetc. 旅行社というものに丸投げするにしても、取捨選択はせねばならない。
 ましてやフラリと一人旅であれば、情報が最も大事である。いかに気まぐれ旅であっても、その時々で情報は絶対に必要なのだ。昼に一本しか来ないバス路線で夕方にバスを待っても旅は進まない。
 僕が若い頃に旅を始めた時代は、その情報を得るために四苦八苦したものだった。自転車で旅をするには、地図だけは必須である。道がわからなければ走れない。それ以外に使用した情報ツールは、列車なら時刻表、宿泊先を予約しようとすれば電話帳、観光するならガイドブック。それ以外は、口コミ。いかに「行き当たりばったり」であっても、それくらいは必要だった。

 その情報を得る手段が、近年ガラリと変わってしまった。
 インターネットというものの登場は、確かに画期的だったと思う。それまで地図を見、時刻表を繰りガイドブックを積み上げて計画を練っていたものが、全てPCから情報を得られるようになった。列車の乗り換え案内も料金も一瞬で出てくる。宿泊の予約など、条件を出せば最良の物件を提示してくれる。クリックで予約だ。観光情報も揃っている。
 さらに移動式端末の登場によりその情報活用が飛躍的に展開できるようになった。カーナビがその嚆矢だと思うが、タブレットPCそしてスマホへと瞬く間に時代が進み、情報提供側もどんどん進化していった。もう地図はいらない。スマホが全て案内してくれる。知らない町でも、食べログ上位の店を検索すればうまい店に簡単に行き着ける。そして宿泊予約もレンタカー予約も、人件費の問題だろうが電話するより圧倒的に廉価で済む。いろんなクーポン券も出てくる。優位性が半端ではない。
 隔世の感、というのは、まさにこのことだろう。

 昔の話をしようと思う。
 昭和の時代には、そんな打出の小槌みたいなツールはもちろん無い。何かを知ろうと思えば、それなりにいろんなことをせねばならなかった。欲しいものはすぐには出てこない。
 旅の情報といえば、主体はガイドブックを見ること。
 しかし、ガイドブックというものはそんなに何でもかんでも載っているわけではない。そりゃそうだろう。
 例えば北海道は日本の国土の1/4を占める。それを、観光地や宿泊や食事処まで一冊に収めようとすると、どうしても最大公約数の情報しか入れられない。僕が最初に旅立ったときに手にしたヤマケイのガイドブックは、わずか150ページしかなかった。しかしそれ以上分厚いものはもって歩けない。
 その30年前のガイドブックを、僕はまだ所持している。久々に開いてみると、中には書き込みがぎっしりとなされている。主として、口コミの情報を書き記したものである。
 ユースホステルや廉価なドミトリー式の宿では、旅人同士の交流が盛んだ。

 「どっから来たの? へー京都か春に旅行したぜ」
 「いつ来たの? もう10日目か結構ベテランだね」
 「何で動いてんの? 周遊券? バイク? えっ自転車かよパワーあんな」
 「いつまでいるのよ? 何、決めてないって? そりゃ旅じゃなくて放浪だな(笑)」

 こんな自己紹介的会話がひとしきり終われば、たいてい話は情報収集と情報開示に移ってゆく。

 「どこ周ってきたんや? ほう摩周から阿寒、オンネトーか。ええなあ」
 「阿寒バスは高くてね。ありゃアカン(笑)」
 「オンネトーってよく知らんのやわ。どないやった」
 「そりゃ綺麗だよ。湖の色が刻々と変わってゆくんだ」

 僕は、阿寒湖の近くにあるオンネトーという小さな湖の存在は、ギリギリ知っていた。ただ、ガイドブックには3行しか情報が無い。どうやって行くのか、道筋(舗装路かどうかなど)や泊まるところ、近くに湧いてる無料の滝壺温泉のことまで聞く。体験談に勝るものはない。

 「帯広から襟裳へ向かって。豊似湖に寄った」
 「え、トヨニコ? それ何やねんな?」(全く聴いた事の無い情報である。)
 「知らない? すっげーきれいな湖だぜ。ハート型してるんだ。女の子と行ければ最高なんだが、俺はヒッチで乗せてもらったおっさんと一緒に行った(笑)。でも有難かったけどな。あそこは交通手段がないから」

 こういう話がわんさか出てくる。

 「雨竜沼湿原行った?」
 「小樽は三角市場より鱗友市場だよ。定食むっちゃボリューム」
 「薫別温泉は最高!」
 「裏摩周から湖畔に降りられるよ」
 
 最後の情報は国立公園特別保護区を侵すことになるのでやってはいけないが、みなガイドブックに無い情報だ。こうして、僕のペラペラのヤマケイ本は書き込みだらけとなってゆく。
 しかし、なんでみんなこんなに詳しいんだろう。だんだん疑問に思えてくる。そのネタがしばらくして割れた。特別なガイドブックが旅人達の間に流布してしたのだ。
 そのガイドブックは、今はもう伝説と化している「とらべるまんの北海道」という冊子。

 ガイドブックにも、いろいろなものがある。戦前の旅行案内などを図書館などで閲覧すると、内容のほとんどが名所旧跡で占められる。昔のものほどそうで、グルメ情報などほぼ無いので、内容に普遍性があり今でも活用が可能であるように思える。
 交通公社のポケットガイドやエースガイド、また実業之日本社のブルーガイドなどは歴史が古いが、今でも現役で出版されている。こういうのが一般的なガイドブックだろう。だが、こういう網羅的な形のガイドブックの他に、あるときから雑誌が旅情報を発信しだす。
 版の大きな雑誌は、写真を多く使用しているので、心が動かされやすい。行きたいところがあってガイドブックを購うのではなく、旅雑誌を読んで行きたくなる場所ができるという逆転現象が起こる。その代表が「アンノン族」と言っていいだろう。「an・an」と「non-no」が特集した場所に、若い女性達が殺到した時代があった。
 飛騨高山、津和野、清里、倉敷…こういうところは、アンノン族がメジャーにしていったと言っていいのだろうか。それまでの旅行といえば温泉地か京都奈良というイメージを破った。僕らよりもずいぶんお姉さん世代。このアンノン族を生んだ情報雑誌系のものは、ガイドブックと融合してのちに「るるぶ情報版」や「まっぷる」といったムック(magazine+book=mook)が生まれる。浸透はしなかったが僕らの間では「るるばー(るるぶを脇に抱えて旅行する人)」という言葉もあった。
 そういうおしゃれなアンノン族に対し、「カニ族」という人たちが居た。登山用のキスリングを背負い、周遊券を持ち夜行列車に乗る旅人たち。主に貧乏系旅行者で(時間たっぷり金ナシ)、行く先は大自然が広がる北海道が多かった。
 「とらべるまんの北海道」というガイドブックは、そのカニ族の延長線上から生じたように思える。
 「もしあなたが若いなら、荷物を背中に担いで旅をしよう」から始まるこの手書きの写真もない同人誌のような青い表紙のガイドブックは、完全に旅人の視点から生まれた、口コミが幾重にも重なって生みだされたガイドだった。完全に一人旅、ホステラー、探究心旺盛だが金はない層に向けられて執筆されていて、まず80年代に僕と同じような旅をしていた人で知らない人はいないだろう。バイブル的だったとも言える。
 例えば知床半島の山中に羅臼湖という湖がある。僕は高校時代に読んだ本多勝一氏の本でこれを知ったが、どんなガイドブックも載せていない。正確には案内地図に「羅臼湖」と書かれているものはあったが、言及はなかった。そもそも、現地にすら入口の案内もなければ標識もない。
 どうやって行けばいいかを示していたのは「とらべるまん」だけだった。知床横断道路、峠から羅臼側に3kmほど入った山側の路肩に草に隠れて階段状になっている場所がある。そこを行け。山に入ればも木道が出てくる。クマが多いから気をつけよ。
 そうして僕は、羅臼湖に行った。

 以来、30年経った。
 僕は「とらべるまん」について最初にブログで書いたのは9年前になる。その頃は、検索しても大した紹介もしていない僕のブログが上位にあらわれるほどだったが、以来10年弱経って、もう僕の書いたものなど出てこず、もっと詳しく書かれたものがいくらでも出てくる。10年の間に「とらべるまん」への思いがネットに蓄積されたのだ。よく紹介されたものも多いので、知りたい方はそっちをご覧下さい。
 しかし、もうとっくに世から消えて久しいのに、まだこの本について語りたい人がこれだけいるのかと思う。それだけインパクトのある本だったわけなのだが…。
 つまり、Webは巨大な口コミ集合体であると言える。「とらべるまんの北海道」も、語りたい人がたくさん居て、その語った口コミが集積され、結果どんな本だったかが分かるようになっている。さらに、前述の羅臼湖も、どうやって行くのかを示したページがいくらでも出てくる。かつて「とらべるまん」が唯一示していたものが、「羅臼湖 入口」で検索すれば。

 そういう時代を、寿ぐべきなのだろう。
 旅に出るのに、もう事前準備は全く必要なくなった。時刻表も地図もガイドブックもいらない。端末ひとつあればいい。道に迷えばGPS機能が進むべき方向を指し示してくれる。情報も即座に示せる。店の選択も宿泊も困らない。全て、その場で検索してやればいい。端末ひとつ持てば「風のむくまま気の向くままの行き当たりばったり旅」がついに可能となったのだ。ついでに写真も撮れれば音楽も聴けるし本も読める。スマホ万歳。気まぐれな旅人にこれほど適したツールはない。

 で、僕はいまだにガラケーを持っている。
 セコいのでスマホの維持費がもったいない、ということもあるが、どうしてもまだ積極的に持つ気になれない。持てば、僕のような意志の弱い人間はおそらく端末に支配されてしまいそうで怖い。ただでさえPC中毒の傾向があり、パソ前に座る時間を限って自制しているのに、持ち歩けるようになったらどうなるか。
 旅に出れば、汽車に乗っても車窓を見なくなってしまうかもしれない。そういうのは、嫌だ。
 なので、アナログな旅をしている。
 昔のような長い旅はもうなかなか出来ずショートトリップが多いから、計画くらいは立てられる。列車の時間などはメモしてゆく。行く先の周辺地図だけはプリントアウトして、そこに必要事項を書き込んで持っていく。なんと旧式であろうか。宿泊予約くらいはWebでやるが、あとは鉛筆を持っているのだから。
 ただその書き込む情報は、相当吟味している。昨今はマニアックな歴史散策が旅の目的になる場合が多いので、専門書も読めば大きな図書館で市町村史なども閲覧する。そして地図に見るべき場所を書き込んでゆく。
 不思議なことに、こういう作業をすると現地でそのメモをあまり見返すことがない。たいていは頭に入ってしまっている。
 ここ何年も、そんな感じで旅をしている。
 もちろん、旅に口コミは重要。それは、書いたとおり僕もそうやって動いてきた。北海道を例に出したが、情報はその「とらべるまん」と口コミに頼っていた。
 Webが巨大な口コミ集合体であるのはよくわかっている。
 しかし、その情報が多すぎるんよね。いろんな人が口々にあそこがいいここがいいと言ってくるから、取捨選択が必要になってくる。もう大変なんですよ。しかしその選択をグーグル君に丸投げするのもシャクだしねぇ。
 そりゃ道に迷うこともあるよ。でも、陳腐な物言いを許してもらえれば「それも旅の味」とも言える。事実、そういう経験は記憶に残る。
 旅行は思い出作りである、という定義をするなら、旅先の夜の繁華街でアテがなかった場合、いきおい食べログ見て上位の店に入るよりも、自分の嗅覚で探してみるのもいいように思う。昔はそうやったもんだわ。その結果を逆に食べログに書き込んだほうが、思い出をなぞる事になって記憶がより鮮明になるような気がする。

 この話は、旅行に限って書いているのであり、他の場面では情報過多に困ることなど無いのだが、不思議だな。昔の旅が楽しかったので、どうしてもなぞりたくなってしまうのだろうか。不自由さまでなぞらずとも良いように思うのだが。
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夕陽を追いかけて

2014年03月31日 | 旅のアングル
 普段、日没などはほぼ気にして暮らしていない。だいたいは、日常生活の中のひとつの流れの中に埋没している見慣れた風景に過ぎない。ビルの向うに大きくなって沈む夕日をたまたまみて、ふと美しさを感じることはある。だが夕刻高速道路を西に向かいながら、まぶしくてたまらないギラギラした太陽を疎ましく感じる日もある。いずれにせよ、特別なものではない。
 ところが、旅に出るととたんにsunsetが素敵なものにかわる。旅とは日常を離れることなのだとつくづく感じる。

 自転車で旅をする場合、基本的に夜は走らない。知らない暗い道を走るのは危険を伴い、だいたい楽しくない。なので、日のあるうちにその日の走行は終えるようにする。
 しかしながら旅に出始めた最初の頃は、ペース配分がよくわかっていなかったのか、宿への到着時間が夕刻にかかってしまうことがあった。こういうときは、焦る。日が暮れれば、宿を探すのも一苦労になる。
 19歳の僕は、自転車で日本海側を北上していた。その日は新潟市泊りの予定で既に宿も予約していて、新潟市内には午後4時頃には着いた。
 家を出て5日目、着替えの予備が尽きていた。まだ時間も早く、街中にちょうどコインランドリーがあったので、洗濯をしてから宿に入ろうと思った。ところが、僕はコインランドリーというものを使用するのは、そのときが初めてだったのである。だいたい、実家暮らしのため洗濯というものもほとんどしたことがなかった。
 手間取っているうちに、時間が経ってしまった。ようようのことで洗濯機が回り始めたが、約40分かかると説明書に書いてある。えっそんなに時間がかかるのか。ふと外を見ると、少しづつではあるが日が傾いてきている。洗濯が終われば、乾燥させねばならない。今日風呂に入って履き替えるパンツもないのだ。乾燥機に洗濯物を入れ、最小時間でも10分。うわどうしよう。しかし自分の力ではもうどうしようもない。10分が経ち、なんだか生乾きのような気がしたがかまわずビニール袋に入れ、一路宿を目指した。海岸近くの日和山というところに、予約した宿がある。
 ところが焦ったのか、道を間違えてしまった。海岸をただ目指せば着くと思ったのだが、どうやら信濃川の東側を走っていたようだ。海岸は西側である。ところが、河口近くに川を渡る橋がない。
 今にして思えば、子供だったなとつくづく思う。オマエもっと落ち着けよ。19歳の経験浅いガキというものは、こういうものか。薄暗くなった頃、ようやく宿を見つけた。
 宿は、ほぼ海の家のような立地だった。ふと海を見れば、日本海の向うに佐渡島が大きく広がっている。そこへ、夕陽が沈む直前だった。
 なんと美しい夕陽だろうと思った。
 間抜けな状況でみた夕陽だったのだが、心を動かされた。新潟の人、日本海側に住む人にとっては見慣れた夕陽なのだろうけれども、盆地に生まれ育った僕にとっては、海に沈む夕陽というのはそのときが初めてだったのだ。紅色にみなもが染まり、ゴウと音を立てるように日が沈む。あまりにも、大きい。僕はカメラを向けることも忘れ、見入ってしまっていた。
 強烈に印象に残った。その後僕は日本海側に住むことになって、海に沈む夕陽を何度も見たけれども、そのときの感動を凌駕することがなかなか出来ずにいる。生乾きのパンツとともに、旅の思い出として鮮明に今も残る。

 TVなどの青春ドラマでは、若者は夕陽に向かって走る。演出としては古典的なものになっていて、今はパロディとしてしか使われないかもしれない。
 実際に、夕陽を追いかけて走った人はいるだろうか。僕は走ったことがある。
 以前に人力移動の旅3で書いた話だが、出雲→萩の行程約200kmを一日で走ったことがある。なんでそんなことをしたのかと言えばそれは書いたように実に粗忽なことなのだが、それだけではなく、自己挑戦的意味合いもあったらしい。
 らしい、というのは、昔の旅日記を見ているとどうもそんなことが書いてある。前日の日記。
 「朝5時発はムリ。YHの朝食は7時から。いくら早くても7時半発。向かい風。砂つぶて。アップダウンキビしい。これで、おれは落陽より早く走り抜けられるだろうか。でもやるんだ。ここで絶対に200kmを超えておきたい」
 まあ恥ずかしい文章だが(だって日記やもん 汗)、このあたり、少し記憶がある。
 それまでも旅の話題として「一日何km走るの?」とよく聞かれた。そんなときはまず「100km平均ですねー」と答える。これはそんなに間違っていない。一応その数字を目途にしている。ただそのあとたいてい「最高どれだけ走った?」と続けられる。
 どうして人はそんなことに興味があるのかよくわからないのだが、だいたいそう続く。僕はそういう記録的なことは意識していなかったので即答できない。多分距離が伸びるのは旅の初日だよなー。夜明けとともに家を出発するから。でも何kmだろう?
 こういう話のとき、他にサイクリストがいるとすぐに答えている。「230kmかな?」とか。それを聞いて女の子たちは「すごーい」とか言う。うーん、即物的に示せるのは距離なんだな。
 もちろん、僕は距離をかせぐために自転車に乗っているのではない。それはスポーツだろう。僕は旅行をしているつもり。なので、あちこち観光もする。寄り道多し。しかし世間のイメージとしては、ひたすら突き進むサイクリストの方がどうも格好いいらしい。
 ひとつの旅を終えて、家に帰って地図に載る数字で計算をしてみると、一日の最高距離は142kmしかなかった。旅の初日である。うーんそんなもんなのか。これでは「一日最高どれだけ走った?」の答えとしてはちょっと物足りない。やっぱり「すごーい」と言われたいじゃないですか。それには、200kmを超える必要がある。
 20歳のその旅の初日は、京都から兵庫県浜坂まで。張り切って走った。ところがこれが、182kmにしかならない。山を越えてゆくため、ルート的にしんどかったのである。うーん。どっかで200kmを超えなくては。
 そんなこんなの出雲~萩だったように記憶している。女の子を追いかけて走るのが一義だったかもしれないが、距離も一度出しておきたかった。

 ただ、これは結構大変な距離だった。山陰の海岸線というのは、結構リアス式なのである。道のアップダウンが実に多く、体力を消耗する。海岸線なので風も強い。
 その日は、ただひたすら走った。夏のことであり、暑さも敵である。そしてこれは、日没との戦いでもあった。何とか日のあるうちに到達したい。僕は、ずっと太陽を見ながら走り続けた。
 益田市あたりで、日が傾きだした。いかん。まだ萩には60kmくらいある。僕はずっと太陽を見ながら走った。そのため、日が徐々に赤く染まっていくその行程を見た。そんなこと初めてだった。ちょっと待ってくれ。昔平清盛が厳島神社を建築するときに日没を扇で防止したという逸話があるが、そんなことが出来るならやりたいと思った。道は、海岸線。目前に夕陽が沈む。それに向かって僕はひたすら走った。厳しかったが、夕陽に向かって走る青春ドラマを地でやっている気もそのときはしていた。気持ちも高揚した。アドレナリンが出ていたと思う。
 その夕陽が沈む風景は、実に美しかった。空の色も海の色も刻々と変わってゆく。それをずっと見ながら走ったことは、強い思い出となっている。結局間に合わなかったのだが、黄昏時、萩に到着した。
 この話は、先のリンクでも書いたとおりネタにしやすい。その後も僕は「一日最高どれだけ走ったことがあるの?」と問われ続けたが、「いやー旅行だから観光も寄り道もするしいつも移動は100kmくらいを目途にしてるよ。そうでないと面白くないし。けど一度だけ210km走ったことがあるんよ。何でかというとかわいい女の子を…」てな話をすると、たいていは「すごーい」と同時に笑いもとれる。実際は地図上で計算すると203kmくらいだったのだが、ゲタを履かせて210kmといつも言っていた。まあそのくらいは誤差としていいでしょう。
 ちなみに、現在はいろんなサイトがあって、二点間の距離など簡単に表示してくれる。試みにMapFanで測ってみると、なんと出雲の宿~萩の宿間は194kmしかない(笑)。これは、あれから30年経って初めて知る真実である。うーん、あのときは手持ちの地図に記載されていた距離を単純に足したつもりだったのだけど、何か間違いがあったか。しかし今さら訂正はできない。まあいいか。わはは。
 夕陽を追いかけて走った話を書こうと思ったのだが、何の話かわからなくなった。

 朝日も夕日も、風景としては似たようなものである。山際や水平線に太陽が接する時間帯。色合いも同じ。どちらも美しい。
 朝日にも思い出は多く、機会を改めて書きたいとは思うけれども、sunsetというのは、日が昇るときよりも何故か感傷を伴う。それは、一日のフィナーレということもあるし、そのあと漆黒の闇がやってくるから、ということもあるだろう。
 旅先で見る夕陽と都会で見る夕陽の何が違うのか、と言えば、その闇にかかわる部分もあるような気がする。街は、日が沈んでも明るい。なので感傷を伴いにくいのかもしれない。もちろん旅先が都会である場合も多く、人によっては地元のほうが暗い、という人もいるだろうから、あくまでこれは主観的なことではあるのだが。
 人によっては、都会の夕陽のほうが美しい、と言う。それは空気がクリアでないために、陽の光がいろいろな大気の汚れや塵に乱反射して想像を超えた色彩を生み出すことがある、と。
 確かに、紫色の西の空なんてのを見たことが何度もある。見方によってはあれは不気味なものであるが、美しいといえば美しいかもしれない。しかし僕にとっては旅先の夕陽を凌駕することはない。やはり、それを見る気持ちの問題もあるだろう。
 僕が見た夕陽の中でベスト5に入る光景を考えると、その中にある日の大阪南港の夕陽がどうしても入る。あれは、本当に美しかった。都会の、しかも「悲しい色」と言われる大阪湾に沈む陽なのに、どうしてあの日はあんなに美しく映えたのか。
 それは沖縄からの帰りのフェリーが接岸するときに見た夕陽だったからであるかもしれない。何十日かの長旅が今終わる。そのセンチメンタルな気持ちが、思い出とともにどっと押し寄せた結果、感動を呼んだのだろうと振り返れば思う。
 日が暮れる、という状況は、どこであっても同じなのだ。もちろんとりまく自然環境によって見え方は全然違うものであるし、だから夕日の名所というものが存在するのだが、やはり見る側の気持ちという部分も大きく影響することは否めない。

 思い出に残るいくつもの夕陽がある。
 例えば、与那国島の夕陽。この日本最西端の島で見た夕陽は、旅の者にとってはどうしても感動を伴う。この夕陽は、日本で一番最後に沈む夕陽。そして沈む先は、もう日本じゃないのだ。
 そうした付加価値もあって、さらに天候に恵まれ、海と空の色が刻々と変わってゆく光景を間近にしたあの日の夕陽を忘れることは出来ない。
 また、潮岬の夕陽。御前崎の夕陽。知床の夕陽。みんなで見たクッチャロ湖の夕陽。全てが、宝物として心の中にある。
 その中で一番を決めるのはまことに難しい話なのだが、僕は北海道の日本海側の町である羽幌から見た夕陽を、どうしても忘れることができない。

 最北端宗谷岬を目指した旅は、僕にとって最初の長旅だった。最初に書いた新潟の佐渡に沈む夕陽を見てからも僕は自転車を漕ぎ続け、北の端まで到達し、そしてその帰路だった。もう幾日かで旅も終わる。そんな中で、僕は羽幌という町で投宿した。
 その日は早いうちに宿に入り、風呂に入ってくつろいでいた。三々五々、いろんなところから旅人が集まってくる。談話室にギターが一本置いてあり、みんなで歌をうたったりして楽しく過ごしていた。
 外にいた誰かが叫んだ。「陽が沈むぞ!」と。
 夕陽か。見に行こうぜ。僕たちは外へ駆け出した。
 ここに来るまでも、いくつもの忘れがたい夕陽を見てきた。それらは決して色褪せない思い出である。そんな夕陽の記憶を反芻しつつ、宿の前の広場へと出た。宿は高台にあり、西側に海が広がっている。
 そこで見た夕陽は、ちょっと信じられないほど美しかった。
 羽幌の沖には、天売島と焼尻島という小さな島が浮かんでいる。羽幌からは並んで見えるのだが、その島の間にわずかに隙間がある。その短い水平線に向けて、太陽がじりじりと音をたてながら沈んでゆく光景が目前に広がった。
 太陽がなぜ沈むときに大きく見えるのか。それは、比べる対象物があるからだと聞く。真昼間の太陽と夕陽の大きさは全く変わらないはずなのに、何かが隣にあると普段は気付かないその大きさが実感できるのだという。
 島と島の間に沈む夕陽は、巨大だった。そして、真っ赤に染まっていた。その大きな夕陽が、じわりじわりと短い水平線に没してゆく。僕は、息を呑んだ。陽は半分隠れ、そしてそこからはスピードを上げるようにして、最後のひとかけらまで鮮明に輝きつつ沈んだ。あとには、夕映えが残った。
 まわりを見ると、泣いている人もいた。こんな夕陽は見たことがない、とみな口々に言った。僕らはそのまま立ち尽くしていた。徐々に、夜の帳があたりを覆ってきた。
 
 今までで見た最高の夕陽が、これだ。言葉ではなかなか書きつくせないが、今もその光景は鮮やかに脳裏によみがえる。
 それから何年も経って。
 僕は旅行で、再び羽幌へとやってきた。今度は妻が横にいる。時期も、あの日と同じ頃。これは狙ってきたのだ。ちょうど晴れてくれている。日没前に僕らはキャンプ場にテントを張り、そして高台に上った。
 同じように、あの日と同じように陽は島の間をめがけて沈んできた。これを見せたかったんだ。最高の夕陽を。
 わざと大きな前振りをせず連れてきたため、妻は感動してくれたようだ。こういうのは、共有したいじゃないですか。
 陽が落ちた後、二人で飲んだビールのうまかったことも記憶に残る。いつかまた行けるだろうか。そんなことを今ぼんやりと考えている。
 
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夜汽車を待つ時間

2014年02月28日 | 旅のアングル
 夜行列車が、現在(2014/2)壊滅状態となっている。
 これは、もうしょうがないとしか言いようが無い。新幹線網が発達し、飛行機便も充実し、夜行列車に乗る必然性がなくなった。ここ20年は、もう夜行列車は飛行機が怖い人たちと一部の愛好家のためのものになっていて、採算がとれない存在になっていた。最後まで頑張っていた「あけぼの」ももうすぐ消える。
 列車に乗ること自体を目的とした、いわゆる贅沢列車なら存続の可能性もあったが、北斗星も臨時扱いになり、カシオペア、トワイライトエクスプレスも廃止の報が入っている。あとは出雲と、はまなすくらいか。これもどうなるかはもうわからない。
 とにかく、18きっぷで乗れるムーンライトだけは、臨時でもなんとか存続してほしいと願うのだが、これも採算はおそらく取れまい。
 新しい可能性として九州で「ななつ星」という観光寝台列車が運行され始めたが、僕などはこういうのに何の興味も無い。結局トワイライトも北斗星も乗ったことが無い。そういうのは、求めていない。僕が近年乗っているのは、もうムーンライトだけである。
 僕個人としては、夜行列車の良さは廉価でしかも夜のうちに移動できることにある。寝台など無くても良い。かといってバスはしんどいし旅情に欠け、しかも繋がりが無い。まあそんなことは個人の繰言であってどうでもいいのだけれど。

 夜行列車には、昔はよく乗った。
 夜汽車に乗ること自体も楽しいのだが、その夜汽車を待つ時間、というのがまた楽しかったおぼえがある。
 若い頃は、ブルトレなど滅多なことでは乗らなかった。たいていは、座席である。よく乗った「ちくま」などは、そもそも寝台が繋がっていないものもあったのではなかったか(記憶)。
 その「ちくま」や「能登」「きたぐに」などは乗車頻度が高かったと思うが、寝台ではないものの指定座席券を持っていれば、列車には直前に乗り込めばいい。なので、待ち時間は自由に使える。その時間をどう使うか。
 もちろん駅前で一杯やる、というのが常道だろう。ことに夜汽車に乗る場合は、旅の始まりか或いはフィナーレであることも多い。当然、気分も高揚している。旅への期待、また楽しかった旅を振り返りながらのむ。これはこたえられない。
 だが、僕は酒場では長っ尻なので、発車まで一時間くらいしかないと腰が浮いてしまう。せわしない。頼んだ湯豆腐がなかなか出てこないとイラついてしまう。こういうのは、せっかくの愉悦の時間がもったいない。
 そんなとき、もうひとつの手段もある。買出しをして車内へ持ち込むのだ。
 もちろん、時間がないときは駅で雑誌と駅弁とビールとウイスキーのポケット瓶を購入してすぐに、ということもあったが、小一時間あればターミナルをうろつく。
 まず本屋へ行って、旅の友となる文庫本を求め(これも慎重に選ぶ)、そして地下の食料品売り場へ。まずこのシューマイでビール、次は焼き鳥でワンカップにするか。〆にはこの折り詰め寿司を…楽しい。実に楽しい。
 夜行バスだと、こうはいかない。バスはすぐに消灯してしまうし、何よりあの密閉空間で酒をのみ肴をつまみ出せば周りに迷惑なのはいかに厚顔の僕でも承知している。その点列車は、完全消灯しないし、何より広い。多少の飲み食いはみんなやっている。また軌道で揺れが安定しているのも好都合である。
 列車の良さだ。そうして、街の灯りがちらほらする車窓を見つつ酒をのむ。
 
 さらに、奮発して寝台を確保していたら。
 カーテンを下ろせば、自分だけの空間がそこにあるのだ。さらに、食べ物を広げる場所もあり誰にも文句は言われない。意気揚々とデパ地下にゆく。
 まだ「日本海」の発車には一時間ある。余裕だ。さー何を食べようか。この専門店の揚げたての天ぷらは実にうまそうだ。これ食べたいな。さすれば、酒か。ちょっとくらい奮発してしまえ、居酒屋でのむより安いぞ、と銘酒を思わず買ってしまう。この山廃純米の四合瓶を買うから、その試飲用のプラコップちょうだい。
 さらに…この穴子の押し寿司もなんとも魅力的。しかし海鮮丼も食べたい。どうしよう。おっと明日の朝食も仕入れておかなくては。最後に冷えたビールを買って…楽しい。実に楽しい。
 この悦楽感は、飛行機やバスなどでは味わえない。強いて言えば、長距離フェリーに乗る前には近い感覚になる。

 しかしもっと若い頃は、ブルトレに乗るなんてことは無かった。もちろん相応の料金がかかるからであるが、寝台はおろか座席指定券ですら全然縁がなかった。夜汽車に乗る機会は、たいていは周遊券や18きっぷを手にしているときだからだ。
 例えばワイド周遊券のルールとして、当該区域に行くまでは急行が使え、区域内では特急も乗れる。ただし、自由席に限る。寝台に乗るならもちろん、座席指定も別料金で、さらに自由席なら無料のはずの急行(特急)料金も上乗せされてしまう。もちろん余分な予算は無く、夜行列車に身を投じるのは宿に泊まるのを節約するためという要素もあったくらいだから、そんなところに余分なお金は使わないし使えない。
 つまり乗れるのは夜行快速自由席と、周遊区間内での夜行急行自由席のみである。すなわち大垣発鈍行夜行(ガキドン)、上諏訪夜行などと、「日南」「かいもん」「八甲田」「津軽」「利尻」「大雪」「まりも」など。フリー切符で追加料金無しで乗れるのは、自由席車両を繋いでいるこういう列車だ。
 当然のことながら、自由席は取りあい必至。並ばなければならない。
 若い頃は、夏は自転車で旅をしていたので、列車の旅の多くは冬だった。北海道などでは、ホームはそれは寒い。しかし、並ばないと席はない。昔はこうして周遊券で旅していた若者が本当に多かったのだ。
 稚内や網走から乗り込む場合はまだ席に余裕があったが、札幌発の場合はやはり混む。それは、札幌で泊まると高いから。地方だとYHや民宿などの安い宿泊施設が結構あったが、札幌は大都会なのでなかなか廉価な宿が少ない。そしてやっぱり札幌だと夜の街で遊びたい。だがそういう安い宿は門限があったり飲酒して宿に入ることを禁じている場合があったために宿泊が難しい。だから、夜行に乗る。移動目的ではなく、ねぐらを求めて夜行列車を選んでいるのだ。

 まあしかし、これが辛いだけかといえばそうでもない。
 並んでいると、必ず知った顔の一人や二人はいる。旅も長いと、袖摺りあう旅人も多くなる。そりゃそうかも。道内広しといえ、同じ周遊券で行ったり来たりしてるんだもの、どこかでまた出逢う。どころか、一年や二年前に出逢ったヤツが前に並んでる。毎年来てるんだな(ワシもだけど)。久しぶりだな。まだ汽車が来るまで時間あるよ。そうか、ウイスキーなら持ってるぜ。じゃ少しだけやるか。
 そうしてザックを降ろしてその上に腰掛け、とりあえずの乾杯。あれからどうしてた? 何だ夏は沖縄に行ってたのか? オマエそりゃ逆じゃないのか(笑)。
 話は尽きない。気温は氷点下だと思うけれども、なんとなしに温かくなる。そんなことを、何度もしたような気がする。女性でもいれば、氷点下の宴はいっそう華やかになる。そのまま列車に乗り込み隣り合わせの席に座って、カップルになったヤツらを僕は知っている(残念ながら僕ではない)。
 北海道に限らない。郡山の駅で八甲田を待ちながら、振り返ると知った顔。なんだ何でこんなところにいるんだよ(笑)。
 2月の上野駅というのは、さながら同窓会と化す。そんな話は、前にも書いたことがあった。

 夜汽車を待つのは、楽しい。
 それは、一人であっても仲間がいても。夏であっても冬であっても。また、懐ろが暖かくても寒くても。
 何度も書いたことがあるような気がするが、僕は北海道の旅では、北の果ての浜頓別という小さな町を最後にすることが多かった。それにはいろいろな理由もあり、まず楽しいことが多かったというのが一番にあるのは間違いないが、ギリギリまで遊んでいられる場所だということも要因としてあった。
 周遊券の期限が切れる日。僕はまだ浜頓別に居て、雪で遊んでいる。クロカンやったりかまくらつくったり。そして、宿でみんなで夕食を食べて、さあ消灯時間だというころに「じゃさよなら」と言って宿を出る。周遊券の期限が切れるまであと2時間くらいしかない。しかし、これで帰れるのだ。
 周遊券は、期限が切れるその日のうちに改札を通りさえすれば、あとは駅構内を出なければ乗り継ぎを続けることが可能。したがって、浜頓別の駅を22時半くらいの列車に乗って天北線で宗谷本線の音威子府駅に出る。そこで、稚内発の夜行列車「利尻」に乗り継いで翌朝札幌。札幌から特急自由席で函館、函館から青函連絡船に乗れば青森発上野行の夜行急行「八甲田」に間に合う。翌朝東京、そこから昼の普通、快速を乗り継いで夕刻京都へ。駅構内から出ずに、帰り着くことが出来るのだ。
 その年もそうやって帰るつもりだった。だが、天候が少しややこしくなってきた。かなり吹雪いている。情報によれば、天北線はここより北方面へはもう列車は行けず、浜頓別~音威子府間で折り返し運行になっているという。そして今なんとか動いている浜頓別~音威子府間も、次の列車が出たらもうその後は運休になる可能性が高いとか。
 運休になったら、万事休すである。翌日にはこの周遊券はもう使えない。新しく切符を買う金など無く、帰れなくなる。僕はいたしかたなく、遊びを途中で切り上げて15時過ぎのまだ動いている天北線にとにかく乗った。
 音威子府駅には、17時前に着いた。
 ここからまだ旭川方面へ向かう列車はあるのだが、周遊券の期限は今日までである。中途半端に札幌へ向かっても、札幌から函館へ向かう夜行便が無い(当時は「ミッドナイト」も「はまなす」も無かった)。札幌駅の構内では夜を明かさせてはくれまい。しかし駅構内から出たら、切符は無効となってしまう。
 一案として、このあとすぐに音威子府に来る旭川行の急行「礼文」に乗り、旭川で特急「ライラック」で札幌、そこから釧路行夜行下り「まりも」に乗り、途中駅で降りて上りの札幌行き「まりも」に乗り換え(いわゆる「新得返し」)、早朝にまた札幌に戻るという手もある。しかし、乗り継ぎ時間が2分くらいしかないところもあり、雪で少し遅れたら作戦は水泡に帰す。あまりにも危険だ。
 幸いにして宗谷本線はさすがに本線だけあって除雪もしっかりしていて、間違いなくこの後も運行するらしい。僕はハラをくくり、音威子府で札幌行の夜行「利尻」を待つことにした。
 今からだと、約7時間待ちになる。これが、僕が夜行列車を待った最長時間である。

 この「オトイネップ」というかわいい名前の駅には、なんとなしに縁がある。
 夏に、この駅で泊まったことがある。しかも二回。小樽札幌方面から自転車で最北稚内を目指せば、旭川で一泊、そしてこのあたりで一泊すればちょうどいい距離になるため。
 一度は、駅前にテントを張っていたライダーに誘われてその中で寝たが、もう一度は構内だった。夜行が通るために夜通し駅舎を開けているので、駅員の方が親切にも「中で寝ていいよ」と言ってくれたのだ。待合が畳敷きになっていて、そこに寝袋を敷いて寝た。好意で言ってくださったことだが、本当はいけないのだろう。あれから30年経ったので、もう時効だと思い書いている。
 そのときの駅員さんに会いたかったが、もういらっしゃらなかった。

 音威子府駅は、駅蕎麦が有名である。色の黒い、香りの強い蕎麦だ。しかし構内の立ち食い蕎麦屋さんは、閉店準備をしている。こっちは時間がたっぷりあるので、もう少しゆっくりとしたかったのだがしょうがない。とり急ぎ食べた。やはり美味い。しかし、それを食べてしまえばもうやることはない。まだ駅に着いてから10分くらいしか経っていない。
 まだ少し陽がある。風が強いけれども、僕は雪の中を歩き出した。駅から国道に出て、北へゆけば天塩川の河畔に着く。この天塩川の風景には、思い出があった(僕の旅北海道 2004/12/9)。
 あのときとは季節が違う。その冬の天塩川を見ておきたいと思った。
 河畔に着いた。僕は、思わず声を上げた。
 あの大きくうねり流れていた川が、白一色になっている。みなもが結氷し、その上に積雪しているのだ。なんと荘厳な光景であることか。僕はしばし動けなくなった。
 やはり、北海道はすごい。自然と自然がせめぎあって息をのむ姿を生み出している。
 
 陽も落ちた。そのまま佇んでいては遭難するので、駅に戻った。
 しかし駅に居てもやることもないので、町をぶらついてみる。しかし音威子府の駅前は、こう言っては失礼だが何も無い。今はどうかは知らないが、もう相当昔の話なのだ。Aコープが一軒だけあるが、そこももう閉店するという。当時はコンビニもないので、そこが閉まれば買い物も出来なくなる。僕は焦って、安いワインを一本と、魚肉ソーセージとチーズとパンを買った。これで、夜汽車を待とう。
 駅前食堂も閉まった。あとは、明かりがついているのはスナックが一軒。遠めに見ていると、店のママさんが雪かきをしている。入りたかったが、当時はまだ学生でそんな場所に出入りしたこともなく怖い。僕は駅の待合室に戻り、ワインを開けた。
 夜行列車が来るまでまだずいぶんとあるのだが、駅に客はいない。2度ほど列車が着いて、降りてきた人がいたが足早に帰宅してゆく。駅のストーブが僕だけのために焚かれているようで、誠に申し訳ない。そうしているうちに、だんだん陶然としてきた。
 ふらふらとまた駅前に出てみる。町の明かりは、数えるほどしか点いていない。まだ細かな雪が舞っているが、それほど寒さは感じない。酔っているのだろう。漆黒の空を見上げると、なんだか吸い込まれていきそうに思えた。
 ああ僕は旅に出ているんだな。もうそれも終わるんだな。妙に感傷的になってきた。
 ワインも空いて、少しうたたねをしてしまっただろうか。夜も更け、僕は改札を通った。札幌行の夜行急行「利尻」は定刻どおり23時57分に、音威子府駅に滑り込んできた。発車まで5分ある。その待ち時間の間に、周遊券の期限が切れた。
 
 それから5年くらい経った夏。世は平成にかわっていた。
 その夏も、僕は再び浜頓別に居た。夏なので自転車だが、もう学生ではなく無限に時間はない。月曜日の朝にはそのとき住んでいた金沢に居なくてはいけないのだが、土曜の夜にまだ僕はやっばりそこに居て、夕食を食べていた。
 このあと、あのときのように乗り継いで帰ろうと思っている。だが、もう浜頓別から音威子府に向かう天北線は、廃止されていた。僕は前よりもちょっと早く、午後8時半に宿を出た。バスターミナルまで走り、そこで自転車を解体して輪行袋に入れ、音威子府行きのバスに乗った。
 スケジュールは、このあと音威子府駅から札幌行き夜行急行「利尻」に乗って札幌に出るのは昔と同じ。だが、そこからは列車を乗り継ぎ青森までゆく。もう青函連絡船はない。そしてブルトレ「日本海」で金沢へ。早暁5時頃に到着する。家へ帰りシャワーを浴びて出社する。
 バスは、音威子府駅に着いた。
 駅舎が、建て替わっていた。とても綺麗で広い。もう僕が寝たり長く居座ったりした待合も、ない。
 ただ駅前は、以前とあまり変わらない風景であり、灯りの点いている店もあまりない。待ち時間をどう過ごそうかと思ったが、あの時に怖くて入れなかったスナックの灯りはついている。扉を開けてみた。
 店には、ママさんが一人。客はいない。こういうところは常連さんばかりだろうから、空いているのは有難い。「旅のものですがいいですか?」
 そこで、ママさんと馬鹿話をして過ごした。実は駅で2度ほど寝たことがあるんですよ。夜行を7時間待ちしたことも。あのときは、この店には怖くて入れませんでしたよ。何よ鬼が出てくるわけじゃなし、若いヒトには優しいのよ。食べちゃうこともあるわよ。それ逆に鬼っぽくないですか。あらそうかしら。
 勘定は、思ったより安かった。確かに怖くはないわな。僕はほろ酔い気分で、夜行急行「利尻」に乗り込んだ。

 今は、「利尻」はもう無い。「日本海」も事実上廃止となっている。隔世の感がある。
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初詣のことなど

2014年01月13日 | 旅のアングル
 僕は、信心深くない人間である。呆れるほどに。
 日本各地の神社仏閣には、かなり出入りしているほうだと思う。観光的に有名なところ、歴史的に意義あるところから、そうでないささやかなところまで。さらに、いま自分が住む市域の神社には、全て足を運んでいる。
 ところが、訪れた目的である史跡や古い石造物などを見たり確認するだけで、柏手も打たずに出てきてしまうことすらある。もちろん社叢や神木、磐座などには畏敬の念も感じるのだが、ビルの谷間の神社などでは「ほほうこれが谷崎潤一郎が奉納した鳥居か」などと観光して何枚か写真を撮り、満足してそのままうっかり出てしまう。「あっお参りしてないや」しかし引き返したりはしない。
 全くひどいものだが、そんな僕でも初詣くらいは行ったりする。そして今年一年無事であれと祈願する。

 初詣の参拝者数ランキングというものがあって、正月を過ぎるとベスト5くらいはニュースになる。どうやって数えているのかとも思うが、おそらくは主催者側発表というやつだろう。
 毎年トップは明治神宮で、そのあとだいたい成田山新勝寺、川崎大師平間寺、伏見稲荷と続く。他に上位に並ぶのは熱田神宮、住吉大社、氷川神社、太宰府天満宮、鶴岡八幡宮といったところ。当然人口密集地が参拝者も多くなる。名高い伊勢神宮や出雲大社はランキングしない。
 初詣といえば神社だという認識を僕個人は持っているが、寺へゆく人も多い。前述の成田さんや川崎大師、また浅草寺などの寺院は全国でもトップクラスの参拝者数を誇り、他に西新井大師總持寺や佐野厄除大師惣宗寺なども人出は相当に多いらしい。ことに関東に寺院が目立つのは、神仏習合の歴史がそれだけ色濃かったからだろうか。
 関東以外では善光寺、また豊川稲荷妙厳寺などが人を集めているのだろう。今住むうちの近所では清荒神や中山寺、門戸厄神なども多そうだ。

 初詣の最古の記憶を辿ってみると、京都出身の僕はやはり伏見稲荷だった。
 祖父と父が毎年、元旦は伏見稲荷に参拝していた。家の神棚が稲荷社であり、新年に御神符をいただくためであったらしい。まだ小学校にあがるかあがらないかくらいの子供だった僕は、それに「連れて行け」とせがんだ。父は幼児を連れて行くのは面倒だったらしいが、祖父は喜んだとか。
 出発は、夜明け前である。京都の冬は寒い。母は、僕をかなり着膨れさせた。そのときの写真が残っているが、自分がまるで小さい達磨のように見える。
 まだバスの運行時間前で、少し離れた市電の停留所まで歩く。2kmもないのだが、相当に歩かされた気がした。もうこの最初の段階で、僕は愚図ったらしい。後々まで父にそのことを言われる。市電に乗って三条京阪駅へ。そこから京阪電車で伏見稲荷へ。ようやく空も白んでくる時刻。
 現在でも参拝者数が全国ランクインするくらいの伏見稲荷の人出だが、それは昭和40年代でも同じ。あれほどの人の波を見たのは、そのときが初めてだったような気がする。
 本殿にお参りして神札を受け取り、奥の院までゆく。その道は、あの鳥居が連なる稲荷道。当然年賀の参拝客でごったがえし渋滞も生じていたが、初めて見るなんとも神秘的な鳥居のトンネルは強く印象に残った。
 奥の院の茶店で、甘酒をのませてもらう。甘酒をのむのも、そのときが初めてだったような気もする。
 以来、元旦に伏見稲荷へ参るならわしとなった。最初の頃は甘酒が楽しみだったためもあるが、そのうちに自分の中で正月の行事として完全に定着していった。早朝から初詣にゆき、帰ればそれなりに晴れ着に着替えて屠蘇を祝い、雑煮を食べる。僕にとってはその一連の出来事が「ザ・正月」だった。
 祖父が亡くなり、その行事は途絶えた。
 父親もそれほど信心深いほうではなく、伏見稲荷への初詣は祖父の付き添いという面が強かったのだろう。また僕も思春期にさしかかり、祖父や父と初詣にゆくなどということが恥ずかしくなっていた頃と重なっていた。
 その後、神棚の御札はどうしていたのだろうか。よく知らない。今は父母も京都から引っ越して久しく、神棚ももう無い。

 以後しばらく、元旦に初詣には行かなくなった。子供の頃と違って大晦日はたいてい紅白歌合戦を最後まで見て、除夜の鐘を聴いてから寝る。早朝には起きない。京都であり、近くに神社はいくらでもあるのだが、面倒だったのだろう。前述したように信心深くなく、それは家族全員同じだった。せいぜい出かけたついでにどこかに寄る程度。「ちょっとここで参っとこか」「そやな」
 たいていは、元日ではない。
 それすらも無い年もあった。正月休みも明け、登校した帰りに友人らと神社に立ち寄る。中高の通学路には、やすらい祭りで有名な今宮神社があった。そこで手を合わせる。「考えたらこれ初詣やわ」「え、お前初詣まだやったんか」「正月に神社くらい参れや」そうやって揶揄され、いつものように門前の茶屋であぶり餅を食べて駄弁って帰った。
 そういえば一度だけ、高校のとき友人達と上賀茂神社へ行ったことがある。京都の一の宮であり現在は世界遺産としても知られる高名な神社なのだが、僕にとっては近くの神社であり、誘われたから行っただけで、そのグループの中に好きな女の子が居たからということ以外には理由はない。
 元日に初詣に再びゆくようになるのは、正月に旅をするようになってからである。
 
 初めて旅先で正月を迎えたのは、仙台だった。
 その年、12月半ばから周遊券を使って東北を旅していた。乗り放題切符を所持しているので夜行列車等で夜を明かしたりすることも多かったのだが、大晦日にそれではあまりにも寂しいため、仙台の宿に電話を入れた。「正月は空いてますか?」「うんやってるよおいで」
 以前に何度も泊まって気心の知れた宿だったので、僕はそのとき居た岩出山(伊達政宗が仙台に移るまでに拠ったところ)で地酒を一升買い、イルミネーションきらめく仙台へやってきた。
 大晦日の夜。日本中あちこちから(いや海外からのバックパッカーもいたので世界中からか)集まった旅人たちが、自己紹介をしつつ宴会。「どっから来たの?」「いつまで休み?」「○○には行った?」宿に集う旅人の会話は最初は定番化しているが、旅行好きという共通点があるのですぐにうちとける。僕が持ってきた一升瓶も瞬く間にカラになった。
 宴席もひと段落して宿の人が用意してくれた年越しそばをすすっていると、「出かけようぜ」と何人かが立ち上がった。「どこいくんや?」「お参りだよ」年もあと一時間くらいで明けようとしていた。
 宿は「北山五山」と称される寺町に近い。除夜の鐘があちこちから鳴りはじめている。そんな寺をいくつか歩く。東北の師走の夜は冷たく、粉雪も舞っているが、あちこちの寺には屋台も出ていて、温かいものを食べたり酒ものんだり、何より気分も高揚しているのでさほど寒さを感じない。鐘をつかせてもらったりしているうちに、時計が0時を指した。
 「A Happy New Year!」
 一緒に来ていたオーストラリアの旅人とハイタッチ。そのままみんなで青葉神社へ向かう。
 普段なら真夜中の時間。だが、人通りは多い。正月なのだな。僕は忘れかけていた「ザ・正月」の気分を思い出していた。柏手をうち、晴れやかな思いでこの年の安寧を祈願した。

 以来、正月にはだいたい旅の空の下で初詣にゆく。例えば函館なら函館八幡宮へ。博多なら櫛田神社へ。松山なら伊佐爾波神社へ。例外は幾度か沖縄で正月を過ごした年で、たいてい元旦は離島に居たので神社がなく(ウタキによそ者が行くのはさすがにちょっと気が引ける)、本島に戻って波上宮へ行ったり、或いは地元へ戻ってから、ということになったが(尾山神社が多い)。しかし離島ではだいたい初日の出を見ていたので、気分的には同じだった。暗いうちから動くハレの行事としては。

 結婚して後は、妻の実家で元旦を迎えるようになった。雪深い北東北の田舎の村。
 何度も書いているが、津軽の正月は大晦日の昼から始まる。ご馳走を並べ酒を酌み交わし年越しの行事とする。もう日が暮れるころには僕はベロベロになっていて、ストーブの横でぶっ倒れて寝ている。
 夜も更けた頃、紅白歌合戦を見終わった義母に「起きねば」と揺すられて起きる。年が明けるまであと十数分だ。初めてのときはちょっと驚いた。
 長靴を履いて、外に出る。たいていは身が切れるほど寒い。酔いも一瞬でどこかへ飛ぶ。歩いてちょうど0時頃に、神社に着く。小さな村の鎮守さまだ。
 さすが雪国であり、拝殿が完全に密閉されていて、あかりが煌々と灯され中ではストーブが焚かれている。神主さんがいる大きな神社ではなく、氏子総代が参拝者を迎えるために毎年交代で詰めているらしい。
 そこへ、村中から人が集まってくる。拝殿はちょっとした集会所だ。僕も、靴を脱いで上がりこむ。周りで話されている会話は津軽弁なので僕にはさっぱり分からない。そして、お参りをする。お参りも、一人づつローソクを灯したりお供え物をしたり、非常に興味深い。神仏習合が今でも息づいている気配がする。境内には地蔵や、馬頭観音板碑、南無阿弥陀仏の名号碑、また各種の講の碑(二十三夜塔など)などがあり、そういうのにもひとつづつお参りし酒をかけたりする。初めてのときは何とも不可思議であり、僕はあとから民俗学の本などをずいぶんと読んだ。

 そんな初詣をするようになってから、ずいぶん経った。そうしているうちに、少しづつ言葉も理解できるようになってくる。「○○さんちの婿さんか。今年は去年よりいいセーター着てるな」うわぁそんなことまで見られて話題になっていたのか。田舎というところは、怖い。
 なお、これが初詣なのだが、昼に第二弾でもうひとつ神社へゆく。村の鎮守さまではお守りや御札が売っていないから大きなところへゆくのだ。かつては参る神社も決まっていたのだが、僕が来てからはわがままを言ってあちこちいろんなところへ行くようにしてもらっている。今年は岩木山神社だ、今年は猿賀神社だ、今年は善知鳥神社だ、などと。そうやって、少しだけ旅行気分を味わっている。
 
 
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旅の所持品 2

2010年11月07日 | 旅のアングル
 前回の続き。
 昔、若い頃は自転車で旅行をした。体力のあった若い頃が懐かしい。
 以前にも書いたことがあるけれども、最初に自転車旅行を試みたときには、そりゃ大層な荷物を持っていた。着替えなどの通常の旅行に必要なものはもちろんのこと、テントまで積んでいた。それも、山用の三角テントである。これは重かった。
 なんせ、金ペグである。ペグって知らない人も多いだろう。 テントを地面に固定するための金具のこと。こんなのを何本も自転車に積んでいたら重くてしょうがない。そして支柱、ロープなど。まとめるとずしりとくる。
 さらには、コッフェルやバーナー。バーナーも、旧式のポンピングが必要なコンロである。だからガソリンも持っていた。こういうテントや器具は、親戚や知人の不用品をかき集めたものであり(新調するだけの金銭力が無かった)、みな相当に古い。古いものはたいてい、重い。
 これらを自転車にくくりつけ、えっちらおっちらと坂道を登る。若かったから出来たことだと思うが、大いに反省したことも事実。ムダな体力を消耗するだけだった。次からは止めよう。
 まずキャンプ道具を全て削った。ユースホステルなどの宿泊施設も併用するため、そんなに野営ばかりしているわけじゃない。僕は寝袋だけをキャリアにくくりつけた。屋根はどこにでもある。駅でもバス停でも公園でも寝られる。ポンピング式コンロなども放棄した。もう調理は止めた。前回の旅行だって、せいぜいお湯を沸かしてラーメン食べるくらいだったんだ。必要ない。適当に買い食いすればよかろう。食器はごく軽いシェラカップをひとつだけ。アーミーナイフなんてワイン買ってコルクを抜く時にしか使わなかったからこれもナシ。ワイン飲みたければコルク式ではないやつを買えばいい(結局、ワインはラッパ飲みしたのでシェラカップも必要なかった)。
 スリム化すれば、峠が楽になった。サイクリングの楽しさが増した。
 社会人になって、自転車だけで旅をすることが時間的に困難になり輪行(自転車を畳んで小荷物として列車その他に持ち込んで現地で組み立てて走ること)をやるようになり、チャリンコをランドナーからロードレーサーに替えた。さすれば、さらにスリム化した。もう野宿などはしないので、荷物は数日分の着替えと洗面具、雨合羽、カメラくらいで事足りるようになる。僕は全てそういうものを小さなデイパックに詰めて背負った。自転車には、サドルの後ろに輪行袋とタイヤチューブの替え数本、簡単な工具だけをぶら下げ、あとは水筒と空気入れをセットするだけ。日帰りツーリングふうの、自転車旅行とは思えない軽装になり、機動力が増した。坂道など屁の河童になった。

 そんなふうに、前回書いた汽車旅と同様に荷物を削ることばかりずっと考えていたのだが、自転車を引退し(原因はいろいろあるが太ったというのもある)、軟弱にも自家用車で旅行をするようになり、さらに所帯を持ってキャンプを中心とした旅行を始め、旅行の装備がガラリとかわった。
 まず、テントを新調。あんな旧式三角テントなど張るのに時間がかかってしょうがない。当然、ドーム型テント。10分で設営ができる。あとは断熱マットと寝袋。寒いと困るのでさらに毛布も。車だから何でも積める。さらに折り畳み椅子と簡易テーブル。
 昔は山用のコッフェルなどを持っていたが、あれはコンパクトだけれども使いにくいものである。なので、ヤカンと鍋とフライパンを持ち込んだ。食器も瀬戸物などはさすがに避けたが、最初はグラスを積んだ。ビールにはやっぱりタンブラー欲しいよね。
 さらに、七輪を持っていたときもある。キャンプと言えば焚き火が憧れだったのだが、なかなか焚き火可のキャンプ場が少なく、代替品として七輪を使おうと企んだのだ。
 もう何でも積めるので、ありとあらゆるものを積んだ。
 
 だが、そこに落とし穴があった。車で移動すると荷物は無制限に詰めるが、それを出し入れするのが大変なのである。
 僕らは、値が張るのでオートキャンプ場などは使わない。出来るだけ入場料の安いキャンプ場を探す(オートキャンプ場なんてビジネスホテル泊と同じくらいの料金をとられる場合もある)。さすれば、多くは駐車場とキャンプサイトが離れたところにある。
 なので、荷物をそこに運び込まねばならない。これは結構重労働なのだ。リアカーなどを貸してくれるところもあったが、多くはそんなもの無いので車とテントサイトを汗かきつつ何度も往復しなくてはいけない。なんだそりゃ。
 僕らは、鍋釜机椅子を持ったキャンプは見直さねばならなかった。

 最終的な僕らのキャンプでの所持品は以下の如くである。
 テントと断熱マット、寝袋は一応必需品である。さらにガスランタン。明かりは欲しい。テーブル椅子はやめた。養生シート一枚で足りる(遠足みたいだが)。火器は、カセットコンロである。ただ、普通の家庭用のやつではなく焼肉仕様。こういうやつですね。うちのは折り畳みの足がついている。ちゃぶ台みたいになる感じ。これはすぐれもので、もちろんBBQもできるが、魚も焼ける。アルミホイルを持っていれば様々に調理の幅が広がる。鍋釜ヤカンは止め、コッフェルに戻した。そのコッフェルを焼肉コンロにも置くと味噌汁も作れる。火器はこれひとつで十分だった。
 小さな包丁とまな板。まな板はベニヤ板の小切れで代用。シェラカップ適宜。食器は全てこれでまかなう。調味料箱(醤油、塩、胡椒などをコンパクトに詰める)。クーラーボックスはかさばるので保冷バッグ(生ものとビール用)。樹脂製の小さいバケツ(これ重宝する)。蚊取線香。
 これに衣類、洗面具などをプラス。断熱マットを除いては、大きなトートバッグふたつで全て入る。結局、車だもの何でも積めると思っても、コンパクトにしたほうが便利だった。準備と後片付けを伴うことなので。いざというときのために様々なものを積んでおくのは一応いいのだが、出し入れするものは限られたものとなる。
 そんなふうにして、僕らのキャンプ仕様は確立していった。

 さて、年齢を重ねると徐々にキャンプが億劫になった。面倒くさい。自家用車を買い換えたのをきっかけに、僕らはパーキングキャンプに移行していった。テントや寝袋は押入れにしまわれ、車に布団を積んで寝るようになった。
 こうなると、キャンプ場での荷物の出し入れなどはなくなるのだが、なにぶん軽自動車でありスペースも限られているため、さらに荷物は簡略化していった。だいたい、ものぐさになり料理などしなくなった。 
 寝るためには、後部座席を畳み断熱シートを敷いて、その上に布団を敷く。エアマットを使うと快適になるが、堅い寝床が好きな人はなくてもいい(僕も今は使っていない)。それから、枕と毛布。以上は、常に車に積んである(出し入れが面倒なので)。だから、旅に出るときにはシーツだけ持って入ればいい。布団は時々干すが、基本は入れっぱなし。照明も車内灯を蛍光灯にしたので必要なし。
 料理をしないので鍋釜は必要ない。ただ、湯は沸かすのでバーナーと小型のヤカンは積んである。バーナーも昔のようなポンピング式ではなくカートリッジ式のやつ。お手軽だ。
 料理はほぼしないが、テイクアウトはする。なので多少の食器。これはシェラカップとホーローのマグくらい。調味料も以前は箱に詰めて各種取り揃えていたが、今は醤油と塩と七味唐辛子くらいか。刺身買ったりするので醤油は必携。さらに、夜明けのコーヒーも飲みたいが凝った事はできないのでインスタントを持ち込む。重要なのは車内で飲み食いするので粗相をすると大変である。なので縁の高いトレイを使用する。こぼしても大丈夫。あとは、キャンプ場のように水場があるところでは泊まらないので、一応水は何リットルか積んでおく。ただ、迷惑なので食器を洗ったりはしない。ウエットティッシュとトイレットペーパーがあると便利。
 もちろん衣類や洗面具などは当然だが。また車で旅をすると必ずどこかで温泉に入るので、風呂用のキットはまとめて積む(銭湯に行くのと同じ用意)。
 これくらいかなあ。迷ったらなんでも積めばいいのだが、今はあまり迷わなくなった。あとは、書籍と音楽。
 そして、時間がとれればバタバタと荷物を積み込んで出かける。ああ旅行に行きたい。
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旅の所持品 1

2010年10月23日 | 旅のアングル
 僕は、旅行に出る時の荷造りが速い。一泊二日なら5分とかからない。
 これは、悩まないからだろうと思う。経験の成せる技であって、必要なものと不必要なものが瞬時に分かるからだろう。旅行の形態(公共交通機関なのか自家用車なのか)、また日程の長短、季節などの違いを念頭において、頭の中にリストが既に出来ている。そしてそれらが家の中のどこにしまってあるのか知っている(自分の家だから当然だが)。
 なので、朝5時半の列車で旅立つことになっているのに、前夜深酒をして起きたのは5時。しかも全く旅の準備が出来ていない。でも、短い旅程である場合は、二日酔いであっても3分くらいで荷造りが完成する。顔を洗って身支度をして、余裕で起床15分後には戸締りを確認してガスの元栓を締めて出て行く。
 以上のことは呑み過ぎの結果であるので決して自慢は出来ない。スピードアップしようと思えば出来る、というだけの話である。
 本当は、旅の準備そして荷造りも旅行の一部であるから、じっくり時間をかけた方が楽しい。
 今でも、旅行に出る前の「下調べ」の時間は実に楽しい。僕は史跡を歩くのが好きなので、行く先の歴史関係書籍を丁寧に読んだり、メモを作成したりするのは悦楽といっていいひとときである。だが残念ながら、荷造りにおいてはいくら時間をかけようと思ってもそうはかからない。
 これも時間をかけてあれこれ悩んだほうが本当は楽しいのだけれどもな。旅擦れ、というやつか。以前、海外旅行に初めて出たときには、何を持って行ったらいいのか全然わからず、あれこれ考えてリストを作ったものだ。それもまた思い出になっている。そういう気分を味わえないのはちょっと、惜しい。
 
 旅に何を持って行けばいいか。これは、人それぞれである。「好きにすればいい」というのが結論。
 大昔の話。旅行でユースホステル等に泊まると、人の荷物を勝手に点検し「ああこんな荷物要らない」なぞとほざく不逞の輩がよく居たものだ。全くのところ大きなお世話である。何を持って来ようとその人の自由。口出しなどもってのほかである。旅の中途半端な自称ベテランに多い発言で、自己反省を含めてではあるが、こんな不快なマネは止めるべき。
 荷物が少ないと確かに持ち運びが楽だが、必要なものは人それぞれ違う。
 これも昔の話だが、泊まり合わせた旅人で、何とアイロン台持参の人がいた。さすがにそれは要らないだろうと思ったが、聞いてみると彼女は「アイロンをかけてると何故か落ち着く」と言う。そして自前のものでないとどうしてもダメだと言う。なるほど。これも彼女にとっての旅の必需品なのか。
 コンパクトなものとはいえ、アイロンとアイロン台をアタックザックに詰め込み、汗をかいて列車に乗り込むその人を見て、何故か爽快感を覚えた。旅は自由でないといけない。

 海外旅行であれば、絶対に持っていかなくてはいけないものがあるので、旅の所持品リストというものは必要かもしれない。パスポート、航空券、旅行傷害保険証、各種カード、トラベラーズチェックから梅干に至るまで。ツアーに乗っかった大名旅行とバックパッカーでは異なるだろうが。
 日本を旅すること限定であれば、そんな必需品は数少ない。
 よく「財布さえ持っていけば大丈夫」という台詞がある。それは確かかもしれない。ただ、もちろん重要なのは財布ではなく、その中身である。お金やカードが入っていないと何にもならない(当然だが)。
 絶対に必要なものは、現金orカード。それは確かだが、それ以外にも持たなくてはいけないものは、ある。
 切符だって既に入手してあるのなら持って行かなくては。金で解決できるがそんなのもったいないし、指定券は解決できない。そして、金で解決できないもの。保険証などはそうだろう。昔は健康保険証は世帯でひとつであったためコピーしたりしたものだが、今は個人カードになって助かる。運転免許証もあれば持って出たいもの。さらに、常備薬。病気を抱えている人は、処方された薬でないとダメで、これは他で入手するのは困難である。
 どうしても必要なものは、以上かもしれない。もうひとつ、今の時代は携帯電話も必需品といえば必需品である。昔はこんなの無かったのだけれど。
 それより他は、全てバリエーションとなる。時計だって僕は持たない

 公共交通機関を利用しての旅行の場合。旅の荷物は、少ないほうが有難い。いくら「自由にすればいいさ」とは言っても、重い荷物は疲れる。僕個人としては、出来るだけ減らしたい。
 一泊の簡単な旅であれば、着替え(Tシャツとパンツ)、ハンドタオル一枚、歯ブラシと剃刀、ボールペン、カメラ、携帯電話、財布(切符や各種カード証明書入り)。このくらいか。ホテル泊なら歯ブラシなどいらない。カメラもケータイに付いているので、持たないこともある。筆記具も、ケータイをメモ替わりにする人には必要ないかもしれない。僕はボールペン一本は無いと不安。でもメモ帳などは持たず、適当に箸袋などに書いている。
 着替えは基本的に下着だけである。夏であれば着る物は他にズボンだけ。ズボンなんてGパンその他であるから、2日とも同じものを履いている。さらに足元はたいていサンダルなので、靴を履いて出る場合はここに靴下の替えが加わる。
 こういうのは男の特権かもしれない、とは思う。女性はメイク道具なども加わるのだろう。そういうものは、少なくとも僕にはいらない。あとは、天気予報により傘が必要になる場合があるだろうか。晴れそうなら持っていかない。
 これくらいだと、鞄も大きいのは必要ない。ウエストポーチに入ってしまう。実質、手ぶらみたいなものだ。夏の旅は、こんなものである。荷物がないと本当に楽だ。
 冬であれば多少増えるかと思えばそうでもない。セーターを着ても1日じゃ着替えない。二日間同じファッションでは困ると言う方もいらっしゃるだろうけれども、僕はそうでもない。なので、やはりウエストポーチで事足りる。
 問題は、ちょっと大きめのウエストポーチというものを腰につけて歩いている人なんて今はいないので格好悪い、というところか。また流行しないかな(無理か)。なので現在のところ「旅の恥」ということで掻き捨てている。

 以上は短い旅の話だが、長くなってもあまり変わらない。着替えは、その日数分(あまり長くなると洗濯を挟む)が増えるだけ。したがって1週間の旅でも、デイパックで足りる。男で良かったなと思う(男でも毎日同じコートを着ていることに抵抗のある人はいるでしょうが)。
 列車に乗る時間が長いと、音源と書籍が欲しくなる。昔はよくウォークマンを持っていた。最近は、あまり音楽を聴かなくなったので持たない。しかし現在は機器の進化で飛躍的に携帯性が上がったので、音源などは全く荷物にならなくなった。iPodなんて昔は想像出来なかったよな。
 夜汽車の友は、僕はやはり書籍。DSなんて持ったこともやったこともない。ただ本は重いので、あくまでも退屈しのぎとして、要らない処分本を選別して持ち、読み終わればサヨナラし、無くなれば補充する。駅前ブックオフって大好き。
 今の世の中、電子書籍ってのもあり端末ひとつで全てまかなえてしまうのかもしれない。目が疲れそうだけれどもなあ。

 昔の旅行には、ここに「ガイドブック」というものが必ず入っていた。何の情報もなく風の吹くまま旅をする山頭火のような究極のやり方もあるだろうけれども、多くは目的があって旅行するわけであり、現地情報は欲しい。また道にも迷いたくない。なので、「観光ガイド」「旅行地図」「時刻表」などがたいていは荷物に入っていたはず。
 しかし、今はモバイル端末があるからそういうものはいらなくなってきてしまった。時代は変わったか。グルメ情報も列車時刻も簡単に出てくる。道に迷ったとしても、自分が今居る位置を地図上で指し示してくれる。
 旅行ってもっと不自由なものだったのだけれどもね。昔は。
 僕は今でもネットは書籍と併用して下調べ段階しか利用しない。旅行に出ればネットとは隔絶してしまう。ホテルに無料端末があっても、使わないなあ。本当は携帯電話だって持ちたくないくらい。ウザい連絡とかが入ってきたら興醒めである。旅行って日常からの乖離ってのも楽しみのひとつだったはずだから。
 と、格好つけてみる。本当は携帯などの端末をどう有効活用すればいいのかわからないだけである。

 じゃあガイドブック等を持ち歩いているのか、と言われれば、それは持っていない。重いから。
 あくまでも僕の場合だが、さすがに時刻表は持参しない。
 昔、初めて周遊券を持って旅行したときには、ワクワクしつつ大部の時刻表を新調して荷物に入れた。もちろんそれは役に立ったが、重いのでもう持たなくなった。次回は、旅する当該地域を切り取って持参。北海道に行くときは「道内時刻表」を函館で買うが(これは薄いので。廃線の嵐の北海道でまだ道内時刻表はあるのかなー)、それ以外は切り取りやコピーで済ませるようになった。
 今は、堕落したものである。乗るべき列車の時間は事前計画の段階でチラシ裏にメモしておく。途中予定が変わったら駅で時刻表を見る。その程度でなんとかなっている。今は別に周遊券持って1ヶ月も旅行するわけじゃなしね。
 ガイドブックも、最近は細かな旅行が多いので一般的なものではあまり役に立たなくなった。マニアックな史跡等は市販ガイドブックではなかなか対応していない。ただ、地図は欲しい。なので自宅で地図をプリントアウトして必要事項を書き込んだものを持参する。見終われば処分していく。観光地であれば、観光案内所に現地地図があるので、それを貰って動く。今までに不自由したことは、ほぼない。
 こういうアナクロなやり方だと、小型のコンパスがあると便利。財布に入るくらいのものを持っているのでそれをよく使う。知らない街は時として方向がわからなくなるもの。

 ちょっと話はずれるが、今ガイドブックの市場ってどうなっているのかなと思う。これだけウェブに情報が溢れると、もはやガイドブックなど必要がなくなってしまうのではないか。
 昔、アンノン族という人たちがいたと聞く。女性誌an・anとnon-noを片手に、そこに特集された地域をめぐる人たち。そのアンノン族が旅を変えた、とも。それまで旅行と言えば日光や京都奈良、また熱海や伊豆や南紀白浜だったものが、飛騨高山や倉敷、津和野へと移っていったという。雑誌にはそれだけの力があったのか。これら雑誌は調べると'70年くらいの創刊だから、当時20歳くらいの人は今…なるほどあの世代はアンノン族だったのか。
 僕らの世代にはそれほど影響力のあるメディアはなく、選択の時代に入っていたと思う。ムックが登場し定着。ガイドブックでいえば「るるぶ」が各地を網羅していた。
 アンノン族とは比較にならないほどマイナーな流行だが、るるぶを抱えてあちこち歩いている人を「るるばー」と呼んでいた記憶がある。揶揄もそこには入っていたかもしれないな。自戒をこめて書いておく。傾向として「るるぶ」はグルメ情報が充実、ライバルの「まっぷる」は地図や駐車場が詳しい。
 ガイドブック類も買わなくなって久しいが、更新速度があり口コミ情報であるウェブに対抗していくのは難しいだろうと思う。
 
 こんな感じで僕は気軽に出歩いているのだが、交通手段が自家用車になると、かなり様相が変わってくる。積める物は何でも積んでいけばいいのだから。そんな話を、次回。
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餃子あちらこちら

2010年09月25日 | 旅のアングル
 「B級グルメ」という言葉は最近誰でも知っている。B-1グランプリなんて催事もあるからなおさら。僕は文春のB級グルメシリーズが大好きで学生の頃から食べ歩きの指針のひとつにしてきたから、現在の「町おこし」的な盛り上がりには「?」と思う部分も多少はあるのだが、地方の個性が生き、うまいものが増えれば良しとしようか。
 若い頃はもちろんフトコロも寒く「郷土料理」など上等で縁がなかったせいか、旅に出ればこういうものばかり食べてきた。過去麺類丼・ライスについては書いたので、今回餃子について書こうと思う。

 何で餃子かと言えばそれはとりもなおさず僕が好きであるという理由で、だからあちこちで食べてきたのだけれど、実際は餃子という食べ物は個性に欠ける。麺類~うどん、蕎麦、ラーメンそして焼きそば冷麺などは地方色が強く、丼もまた各地千差万別のものがある。カレーライスもそうだろう。
 だが餃子というのは、どこでも基本は同じだ。焼き餃子がメイン。水餃子その他もあるが、地方色という面においてそれはバリエーションという扱いになる。餃子と言えばこの街では蒸餃子を示し他は邪道、またこの街では餡の具には昔から必ずイカが入っている、なんて話はあまり聞かない。形状は餡を半月型に包み、酢醤油とラー油で食べる。「羽根つき餃子」というのを東京で食べたことがあるが、基本の形状はそれでも同じ。だから「ご当地餃子」とはいうものの、どう違うのかはよくわからない。味に店の個性はあったとしても。

 僕が旅に出て初めて餃子の地方色というものを意識したのは札幌だった。'80年代前半のこと。自転車旅行の途中で札幌に立ち寄った。夏休みであり、そこには大学の友人が帰省していて待ち構えてくれていた。当然学生であり海鮮丼や蟹を食べようなどとは思っていない。身の丈にあった札幌らしい食い物を食べに連れてってくれや。
 そういうことで友人がつれていってくれたのはサッポロラーメンであり、居酒屋つぼ八であり(今はつぼ八はどこにでもあるが当時はそうでもなく僕は知らなかった)、そして餃子の「みよしの」だった。
 「みよしの」は札幌周辺でチェーン展開する餃子専門店であり、友人に言わせるとソウルフードなのだという。
 もちろん餃子は美味かった。だが餃子自体は、前述したようにとりたてて地方色のある食べ物ではない。今にして思えば、わざわざ札幌まで来て食べなくてもいいんじゃないかと思う。けれども、その地元で偏愛される餃子店が存在するということに何か感じ入るものがあった。これもひとつの地方色か。
 後になっても、札幌出身の人と会ったときに「初めて北海道に旅行したときに、みよしので餃子食べましたよ」と言うと妙に盛り上がる。ジンギスカンやうにいくら丼の話をする以上に。それもまた、旅情。

 現在餃子で有名な町は、宇都宮と浜松だろう。そのためにわざわざ足を運ぶ人も多く、完全に町おこしに成功している。
 その宇都宮の餃子を、僕も以前食べに行った。餃子だけ食べまくろうとわざわざ宇都宮へ行ったのではないけれども、老舗の「みんみん」「正嗣」など4軒を食べ歩いた。確かにうまい。それ以上に、安いことが素晴らしい。たいてい6個で170~220円くらい。
 浜松が餃子で有名だとはあまり知識がなかったのだか、噂を聞いてある時途中下車して食べた。なんせ浜松は餃子消費量日本一を誇っている。
 一軒しか行かなかったので味の評価も何もないが、ここの餃子は明確に特徴がある。それは餃子そのものではなく、円形に並べられて出てくることと、茹でもやしが添えられていること。もともと浜松の餃子は屋台発祥であり、専用の餃子焼き器ではなくフライパンで焼かれていたなごりで円く並べて焼く。そういうふうに並べれば中心部に空間が生まれ、寂しいのでそこにもやしを置くようになった由。

 現在、B級グルメブームで、あちこちで地方餃子の話を聞く。これには、昔から存在していたものに限らず「地産地消」などを合言葉に新しく観光の目玉としてつくられたものもあるらしい。「上富良野餃子」「志摩餃子」なんて知らなかった。
 情報通によると、これからは「津ぎょうざ」なのだそうである。やたらと大きい揚げ餃子だそうだ。今度食べよう。

 そういう「新しいご当地餃子」も魅力ではあるが、昔からその地に根付いてきた餃子もまた有難いもの。
 そこへ旅行に行けば、必ず食べてしまう餃子がある。例えば、高知の餃子。高知の餃子というより「安兵衛」の餃子なのだが、これは屋台である。ただ現在は店舗もある。
 餃子は廉価であるのが嬉しい存在なのだが、ここのは少し高い(500円くらいか)。けれども美味いので高知では必ずのれんをくぐってしまう。餡がたっぷりで、かなりパリっとした皮。ビールも酒もうまい。餃子だけ食べればいいので、ハシゴの途中に必ず立ち寄ることになる。
 或いは、長崎の餃子。思案橋近くの「雲龍亭」へは何度も行った。ここのは一口餃子である。かなり小ぶりが10個一人前。焼き面がカリっとして美味い。この餃子と名物の「キモニラ(ニラとレバーの卵とじ)」でビール、焼酎というのがまたたまらない。
 また、博多の鉄鍋餃子。これは有名なので説明の必要もないが、やはり小ぶりの餃子だ。九州は小さめが主流なのか。もともとは八幡や小倉方面が元祖と聞くが、まだそちらには行ったことがない。
 こう並べれば、僕は餃子の皮については「モチモチ」より「パリッ」派だなぁと思う。どうでもいいことだけれども。

 別に日本中食べ歩いているわけではないのでよくわからない部分もあるが、やっぱり餃子は基本半月型で、好みはあるにせよ各地でそれほど差があるわけでもない。だが、形状の全く異なる餃子も時々は存在する。
 僕は石川県金沢に長く住んでいたのだが、そこに「第七ギョーザ」という専門店があった。住んでまだ間もない頃、知り合った人に連れて行ってもらったのだが、これは通常僕が持っていた餃子の印象とは全く異なるものだった。
 見た目は、完全に焼き饅頭。丸くて大きい。皮は厚くその点でもマントウに近いような。そして、一応焼き餃子ではあるのだが大量の油を使って調理しているらしく、表面はカリカリである。むしろ、堅い。これは餃子なのか。
 これは「ホワイト餃子」というもので、後に知ったのだが発祥は千葉の野田らしい。好みはあるだろうが、金沢の店はいつも行列が絶えなかった。

 こういう特色のある餃子があることは、ある面うれしい。そういったことにおいて、本当に餃子に地方色があるのは、大阪と神戸ではないかと思ったりもする。
 大阪には「ひと口餃子」の店が多い。小ぶりの餃子というものは九州はじめ各地にあるけれども、大阪のは形状が違う。最初から小さな皮で包むのではなく、通常と同じくらいの大きさの皮で具を少なめに包む。包み方は半月型ではなく、皮を三角形に折りたたむようにする。だから焼く前は餃子というよりワンタンのように見える。これを、パリっと焼く。小さいのでビールを飲みながら30個くらいはペロリである。
 「点天」という店があちこちのデパートに出店しているのでご存知の人が多いだろう。もともとの元祖は「天平」という店で、「南平」「泰平」「天華」などそれっぽい店名が多い。

 神戸は、餃子の基本形は半月型で変わりはない。ただ、タレが違う。餃子は日本中どこでも酢醤油とラー油で食べ、わずかに九州で柚子胡椒を用いたりするが、神戸ではどこでも基本「味噌だれ」である。この味噌だれは各店により秘伝なのだろうが、甘めであったりピリ辛が強かったり。南京町の「ぎょうざ苑」が味噌だれの元祖らしいのだが、今では専門店のほとんどが味噌だれを置く。
 この味噌だれ、どういう経緯で登場したのかはわからない。ただ、台湾料理からの影響であることは想像できる。市内の台湾料理店では餃子に限らず中華腸詰などにもこの味噌だれを添えて供する。美味いっ。
 神戸には専門店が多い。メニューには餃子と酒しかない。こういう店で心ゆくまで餃子を食べていると幸福である。代表的な店に「瓢たん(皮モチモチ)」と「赤萬(皮カリッ)」があり、客側が派閥を形成する勢いである。ちなみに僕は「カリ」が好き。
 
 さて、旅の話からちょっと外れるが。
 僕の餃子の原点というのは間違いなく「餃子の王将」である。これはもういかんともしようがない。なのでどんな餃子を食べても、僕の中には常に王将の餃子が基本尺度としてある。
 なんせ生まれて初めて食べた餃子が王将のそれである。我が家は母親が好きでないせいか、焼売はよく食べても、餃子というものは食卓にあがったことがなかった。おかんがニンニクを避けていたのか。なので餃子はTVドラマの「ありがとう」などでその存在を知るばかりだった。
 そんな僕が、父親と兄と三人で食事をする機会があり、王将西院店に入った。それが、餃子初体験である。小学二年くらいだったか。
 なんと美味いものだろうとその時に思った。以来、母親不在のときは王将へ連れて行けとよくねだったものだ。さらに、駄菓子屋や祭りの屋台を除いて、初めて保護者無しで食事をしに店に入ったのも王将だった。中学生だったと思うが。当時、餃子は120円かそこら。炒飯が250円くらいだったような(記憶あいまい)。これは調べればわかると思うのだが。王将の餃子はその時の京都の市バスの値段とほぼ同じだった。市バスの値段が上がれば餃子も値上がりし、そして180円になって据え置きとなった(はず)。
 やがて近所に王将新大宮店が出来たのでさらに行く頻度が上がり、大学に行けば高校の友人が鍋を振っていた店に入り浸った。その頃にはビールも飲めるようになり餃子の美味さが増した。
 こういうのは、もう美味い不味いを超える。一時期、王将は不味いとよく言われたが、当方全くそんな声には流されず通った。おそらく生涯で最も通った店が王将であり、しばらく行かないと無性に食べたくなる。北陸に転勤になったときは王将が無いかもと不安になったが、野々市店を見つけて安堵したことを思い出す。
 その王将も、不況と外食産業の不振の中で近年めちゃくちゃに成長した。もはや「京都の王将」ではない。日本中に、ある。東京や仙台や博多で王将の看板を見ると奇異な感じが今でもしてしまう。誠に勝手な言い分であるのは承知だが、多少旅情が薄れる。
 石川町の駅を降りれば王将があって、中華街も近いこんなところで何故、と思ったものだ。しかも、関東の王将は関西よりも多少値段設定が高い。
 王将で慣らされているせいか、餃子をあちこちで食べるときには味もそうだが同時に値段も気になる。そりゃ一流の店でフカヒレ餃子など食べたら美味いに決まっている。でも、餃子って一人前200円前後で気軽に食べたいとやっぱり思ってしまうのだ。だから、宇都宮とかはエラいのである。「みよしの」も安い。

 今年もこの季節になれば王将頻度が上がる。それは「ぎょうざ倶楽部」の会員募集によるもので、ついつい行ってしまう。既に旅の話ではなくなってしまった。
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旅先でシャッターを

2009年11月01日 | 旅のアングル
 旅に出るときには、やはりカメラが欲しい。
 よく通人は「カメラなど持っていると旅の印象が薄れる。瞳に焼き付けるんだ」などと言うが、そんな達人の真似など出来ないし、またする必要もない。記録としても記念としてもまたアートとしても、カメラは旅に必携だと思われる。
 僕はもちろん通人ではないが、時々カメラを持たずに旅行に出たことがあった。面倒だし荷物になるわい、と思ってのことだが、必ず後悔した。旅行というものは、旅に出ている時間だけが楽しいのではない。まず計画を立ててワクワクし、そして実際に当地へ行って楽しみ、後でその思い出を反芻して懐かしむ。旅行はこうして三段階の楽しみがある。その思い出の反芻という作業もまた旅の一部だ。しかし写真が無いと、その後の悦びも半減してしまう。人間の記憶なんてアテにならないもの、ということもある。やはり何にせよカメラはあったほうがいい。

 昔の話をする。
 僕は家族旅行や修学旅行など以外で、友人同士などで旅行を始めたのは高校生くらいの時だが、その時はまだカメラなど所持してはいなかった。もちろん友人の誰かが持っていてそれに頼っていたのだが、大学生になって初めて一人旅をやるようになって、ハタと困ってしまった。カメラはどうしよう。
 僕の父親は実は写真マニアで、若い頃はあちこちで入選経験を持ち、時として自ら現像もしていた。当然カメラは家にかなり揃っていたのだが、全て上等の機器であり、僕のように自転車で旅行をしようなどという危なっかしい男には絶対に貸してはくれなかった。まだ廉価のレンズ付きフィルム(写ルンです等)など市販されていない時代。困った僕は叔父にその話を言うと、それじゃ、ということでひとつカメラを僕にくれた。何かの景品でもらったのだが使っていないから、とのことだったが、実に有難かった。僕はそのカメラを持って旅に出た。
 これはいわゆる「ポケットカメラ」というやつである。もう既に所持していないし、どのように説明していいのかもわからないが、樹脂製で軽く横長で平たく、カートリッジ式フィルムを使用する。もうこんなもの生産していないだろう。ピントも何もない。フィルムも実に小さく、粒子が粗い。簡単に言えば、おもちゃだった。
 今にして思えば、こんな安直かつ粗悪な(そう言っては申し訳ないが)カメラで北海道に行ったのはもったいなかったとも思う。しかし当時の僕は、雄大な風景を撮りたいとかそんなことは全く考えてはおらず、ただ記録を残しておきたいだけであったからそれでも良かった。そう、カメラの目的は正しく記録であって、自転車で北海道へと向かう、その証拠写真を残したいだけだった。
 僕はそれを持って旅に出た。まず自転車の進路を北にとる。京都市内から大原を抜けて滋賀県へ。国道の脇に立つ県境表示。その標識に自転車をもたれさせてパチリ。さらに琵琶湖西岸を北上し福井県境。そこでもパチリ。まさに記録であり、ここまで走ったぞという証拠写真である。そうして県境や大きな川、駅舎などの前で写真を撮り続け、最終的に北海道最北端の宗谷岬の前でパチリ。この時はさすがに自転車だけでなく自分も入りたくて、「すいませんシャッターお願いできますか?」と人に頼んだ。
 帰ってきて現像すると、手ブレなのかなんだかよく分からないがボケボケの写真が多かった。これは今でも大切な宝物である。だが、やはりもう少しいいカメラが欲しいと思ったのも確かである。

 また旅行シーズンがやってきた。僕はカメラを何とか手に入れた。小さいコンパクトカメラではあったが、例のポケットカメラよりはずいぶんマシである。それに、普通のフィルムが装着できる。あのポケットカメラ用のカートリッジ式フィルムはあまりあちこちに売っていなかったので不自由したのだ。
 このカメラで、学生時代は旅に出るたび写真を撮りまくった。
 旅行先で撮る写真というのは、大別して二種類ある。「記念写真」と「風景写真」である。どっちも同じじゃね、という意見も聞こえてこようが、僕内では一応区別していた。簡単に言えば、記念写真は自分が写りこんでいる写真、対して風景写真は自分はおろか、基本的に人が写っていない写真である。
 風景写真とはまた大層な言い方になってしまったが、そんな絶景ばかり撮影していたわけでもない。前述したように標識や記念碑も多い。また、なんの変哲も無い写真も多く撮った。
 自転車で動いていた頃は、よくチャリンコを被写体にした。疲れたらペダルを止め、まず一休みの口実にパチリ。そうして空を見上げ水を飲み、遥か旅路でいろんなことを想う。例えばサイドバーに添付している小さな画像は、そんな頃の何気ない写真のひとつである。

 記念写真について少し書いてみる。
 基本的に、僕は旅行先に三脚など持って行かない。荷物は極力減らしたいから。したがって、自分が写りこんだ写真というのは、基本的には人にシャッターを押してもらったものということになる。
 北海道から沖縄まで、ずいぶんとあちこちに足を運んだ。当然、名勝や旧跡にも行く。そのたびに「すいません写真お願いできますか…」と頼む。そして見ず知らずの方にカメラを渡してポーズをとる。Vサインなんかしたりして。
 そうして撮られた写真を後から見ると、どうも満足のいく写真はなかなか無かった。指が写ったり手ブレだったりするのはまあしょうがないとしても、たいていの方は「僕」を撮ろうとして下さるからだ。結果、熊本城の前で撮れば城が写っていない。坂本龍馬像の前で撮れば龍馬はんの下半身しか写っていない。これは実に残念なことである。
 アングルを指定したりもしてみたが、そんな初めて会った人にいろいろ注文も付けにくい。徐々に僕は、人にカメラを託すのを諦めるようになった。別に僕が写って無くてもいいじゃないか。自分で撮ろう。
 そんなわけで、絶景や記念碑とともに写る自分、というアングルは僕のアルバムの中から消えていった。しかし、記念写真が無くなってしまったわけでもない。それは何かと言えば、集合写真である。

 僕は、基本的には一人旅派である。ことに学生時代を含む独身の頃、つまり旅行をしまくっていた時代はまず一人だった。では何故集合写真が撮られるのか。それは、旅先で友達を作るからである。
 このブログではよく書いていることだが、若い頃の旅行での宿泊先は、野宿や車中泊を除いては多くをユースホステルやその他旅人宿に頼っていた。こういう宿では、必然的に旅行者同士の交流が盛んになる。同じ旅人だもの、すぐに仲間になってしまう。一夜明けて、それぞれの行き先へ散っていくときに「じゃみんなで記念に写真でも撮ろう」ということになる。
 また、それぞれの行き先へ散らない場合も多い。前日夜に話が盛り上がり「じゃみんなで行こうよ」てなことになる。そんなこんなで、つかの間の団体旅行化。それは登山のパーティになったり、おいしいラーメン食べようツアーであったり。必然的に、皆で写真を撮り合う。旅は道連れの楽しいひとときである。
 こうして撮りあった写真。それぞれが自分のカメラを皆に回して撮るので、同じようなアングルの写真を全員が撮っていることになる。にもかかわらず、「帰って現像したら送るから」と約束を交わす。本来その必要はないはずなのだけれど。
 これは一種の約束事であり「言い訳」である。写真を送るためには住所その他を聞いておかなければならない。そして、帰ったら写真を焼き増しし、手紙を添えて郵送する。その手紙を出す口実が写真なのだ。旅を終えた後の交流。いや、まだその旅はそんな交流の中で継続していると言ってもいい。余韻が長い旅は思い出もまた濃いものだ。
 もちろん写真を送った送られただけで終わってしまう場合もある。けれども、これが長い文通のきっかけになったりもする。そうした中から、一生付き合える友人も生まれる。冒頭に旅行の三段階の楽しみ、思い出もまた旅のひとつであると書いたが、そんな付き合いが一生続いたならば、その旅もまたずっと終わらないのと同じであるかもしれない。
 しかし、こういう交流は楽しいけれども、なかなかに大変な場合もある。
 ある夏の北海道。僕は旅で出会った人たちと遊んでばかりいた。宿に連泊し、皆といろんなところで遊ぶ。もちろん楽しすぎるくらい楽しく、そうした中で写真を山ほど撮った。もちろん「帰ったら送るから」と約束をして。
 その旅は約1ヶ月間続いた。家へ帰れば、もう旅の始めの頃に出会った人たちからは既にあの時の写真が送られてきていた。あらら待たせてしまっているな。早く僕も返事を、そして写真を送らなくては。
 だがその作業は、僕を途方に暮れさせることになる。山と溜まったフィルム。これを現像し焼き増して送る。その予算が、旅を終えたばかりで尽きていたのだ。計算すれば、この作業には万という単位の金額が必要となる。僕はまず即金性のあるバイトを探すことから始めなければならなかったのだ。いやはや。
 僕が、その夏の旅で出会った人たちに全て返事を出し終えたのは、もう秋も深まった頃になってしまっていた。手元には、沢山の人から送られてきた手紙と写真たち。同じアングルのものが何枚もある。これは当然なのだが、その一枚一枚の少しづつの違いにもまた思い出がこもる。
 そんな時代もあった。

 今はもう、旅先ですぐ友達を作るような若さもない。ただ、旅に出ては黙々と一人で写真を撮っている。妻が同行していれば妻を被写体にもすることはあるが、主として人を撮らなくなった。本当にもう自分の写真などいらない。せっかくの風景の調和を乱すだけのように思える。おっさんになっちゃったもんなあ。
 所持するカメラも変遷した。社会人になってしばらくして一眼レフをついに手に入れ、かなり凝っていた時代もある。いいカメラを持つと自分でも信じられないくらいの神業写真を撮ることが出来たりするので、あるときは相当に嵌っていた。太陽待ち、人払い待ちなど当たり前。長い長い時間をかけてシャッターチャンスを狙う。そして、引き伸ばしたくなるようないい写真も数多く撮った(実際何枚も引き伸ばしてしまった)。
 でも、それが故障したときに、僕は修理にも出さずに放置してしまった。もういいか、こういうのは。一眼レフはデカく、付属備品を加えるとカバンの半分を占めてしまう。それに、あんまり写真の才能もないし。やっぱり小さいのを持とう。そうして、また小型カメラに逆戻りした。僕にとって写真はアートではなく思い出。
 そんな感じで、写真との付き合いが今も続いている。

 時代は変わった。世の中はデジカメが完全に主流。老若男女みなカメラ付きケータイでスナップを撮る。もうじゃんじゃん撮る。つまんなかったら消去すればいいんだもん。
 そして今は空前の、人が写真を撮る時代。ケータイに付属しているから、いつでもどこでもシャッターを切る。デジカメもまた小型のものが多い。昔は、カメラなんか旅行か、せいぜい行事の時にしか持たなかったもんだ。だが今は違う。そもそも、もう写真とは言わない。「画像」だ。
 そうして画像を撮る。もはや旅先に限らずいつでもどこでも。撮ったら「郵送してあげる」ではなく「転送してあげる」だろう。その場で赤外線転送。もしくは「アドレス教えて」で済む。ブログにアップしておくから勝手に持ってって、とまで言う人も。住所を教えあい、手紙を書き、現像焼き増しと郵送代を稼ぐためにバイトまでした時代を思えば彼岸のことのようだ。若い人にはこんな話は理解してもらえないかもしれない。だが、あれも時代の味であり旅の過程のひとつだった。
 今は、僕もデジカメとフィルムカメラを併用している。デジカメは確かに便利だ。一発勝負の緊張感もなく、失敗したら即撮り直しが利く。だがまだフィルムカメラを手放せない。なんでかなと思う。ひとつ言えるのは、これもまた「旅の気分」の小道具だということか。 
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旅行とコレクション 3

2008年07月06日 | 旅のアングル
 前回の続き。
 コレクションという定義からは多少外れるかもしれないが、旅行に一つの目的を設定して、それを求めて出かけている人たちは数多い。
 前回書いたスタンプラリーなどもそういう類だが、あれはコレクションとして残るものである。しかし対象が「場所」であると、手元に残るものはせいぜい写真くらいになる。コレクションであれば、最終的にはいやらしい話「換金」可能であることもあるが(旅行と関係ないけど「切手」「コイン」さらには「骨董全般」のコレクターは財産を持ってるようなもんだ)、こういう「行った・行きつくした」満足感というものは、他人には全く値打ちのないものである。自己の興味関心と達成感だけ。前述したようにこれはコレクションではないが、その心情は純粋なコレクターと相似形だろうかと思う。

 こういうパターンで有名なのは、鉄道全線完乗だろうか。
 国鉄(現JR)の路線を全て乗りつくすというのは、鉄道ファンの中では古くからなされていたことなのであるが、宮脇俊三著「時刻表2万キロ」で広く世に知られ、国鉄も「チャレンジ20000㌔」キャンペーンを始めた。始めた、と言って、これってもう30年くらい前の話になってしまうのだろうか。もちろん当時20000km程度あった路線も廃線の嵐により減少しつづけ、国鉄ももちろんいまや無くキャンペーンも終了し、今JR全線完乗も価値が下がってしまったとも言える。
 しかし、ことJRに限るとそうかもしれないが(いや現在のJR全線だって大変なことではあるけれど)、私鉄を含めて全ての鉄道の線路を乗りつくそうとすればこれはまた大変なことになる。コンプリートは困難になってくるのではないか。
 もちろん困難である、ということは、路線が私鉄を含めると急速に膨れ上がるということだけではなく、定義付けが難しいこともあるらしい。JR、私鉄各線(東急や西武や名鉄や南海や阪急や西鉄、また第三セクター等)は当然のこととして、例えば路面電車は含むのか。線路があって、客を乗せて走るものであれば全て、という定義をすればもちろん含むことになるが、じゃ拠り所を「線路」にすると、モノレールはどうなるのか。ケーブルカーは。トロリーバスは。「軌道」とした場合はロープウェイやリフトまでも含める考え方もある。どんな人でも運賃さえ払えば乗車可能な軌道と規定したら、例えばスキー場で冬だけ稼動するリフトまで含んでしまうことにもなりかねない。もしかしたら遊園地のジェットコースターもそうか。何がなんだか分からなくなってしまう。
 また、これにはバリエーションルートの世界も存する。例えば、JRの全ての駅に降りる、という凄まじいことを自分に課して、既に達成した人もいる。凄い。ここまでくれば、何のために、などと聞くのは野暮の極みだろう。僕などはただその努力と執念に対し敬服するのみである。
 軌道だけではなく「道路」に目をむける人もいる。ライダーでよく「国道走りつくし」の人がいる。国道○号線、という標識の画像を網羅している人がいる。僕もやってみたい。

 旅行に様々な目的を設定している人はたくさん居る。ご当地ラーメン食べつくし、B級グルメ食べつくし、などなど。僕も食べるのは大好きだが、何でも食べつくせるわけがない。讃岐うどんならなんとか…と思ってカウントしているが(一覧)、香川県在住でなくとてもとても。
 温泉入りつくしもそうだろう。亡くなった美坂哲男さんは、温泉めぐりのパイオニアで日本中の温泉を巡り歩いておられた。3000湯は超えられていたかと。その後、温泉マニアはどんどん増殖し、HPを持つ人は1000湯は当然の如く記録している。こんなの一日一湯毎日でも3年かかる。どんだけなんだ。僕も影響を受けて数えてはいるがレベルが全然違う(温泉はいいなあ一覧)。これは専門で旅行しないと無理だろう。ついでで出来ることではない。
 しかもこれはコンプリート出来ない。体力の問題もあるが、今はどんどん都市部でもボーリングして温泉を掘り当て新施設が次々と登場。一体日本には何湯の温泉が存在かも掌握が難しく、全湯制覇は永遠のテーマだろう。

 場所、ということで言えば、例えば灯台だけを目指して旅している人もいる。岬めぐりだ。いいなぁと思う。僕も「日本最○○端」という場所へは出来るだけ足を運んでいるが(日本のはしっこを歩く)、岬に立つと爽快なのである。地図を歩いている感覚、と言えばいいのだろうか。また、離島専門の旅人たち。これには「SHIMADAS」というバイブルのようなガイドブックがあり、交通手段のある有人島にはほとんど足を運んだ、なんて剛の者も居る。凄い。
 目的を決めた名勝めぐりというのは他にも多い。景勝でいけば、滝の専門家。湖沼ばかり行く人。また建造物としては、国宝の建物めぐり。神社と聞けば村の鎮守様まで足を運ぶ人。あるいは城跡・天守閣めぐりをしている人はよくいらっしゃる。城については、僕もそれと意識はしていなかったがカウントすればそこそこ足を運んでいる(城を観に行く一覧)。
 僕の祖父は、天皇陵めぐりをしていた。天皇陵は近畿地方だけではなく、かなり広範囲に広がっており、現在のように交通至便の時代ではなく、祖父もかなり苦労したようだが、驚くことにコンプリートしている。ずいぶん前に死んでしまってアルバムが一冊残っているだけだが、そのアルバムは僕が形見分けしてもらって保管している。数多い孫の中で、こういうことの素養を一番受け継いでいるのはおそらく僕だろうということである。もちろん大切にしているが、保管だけではなくなぞってみたい欲求に駆られる。血脈なんかなぁ。

 ただし、以上のようなものは範囲が広大であることが多く、また増殖するもの、規定があいまいなものもありなかなか「完璧」を期しにくい。マニア向けである。もう少し簡単に達成できる枠組みとして、例えば「日本三大○○」などがある。
 旅に出て、もしも天橋立へ行ったとしたら、宮島や松島にも行ってみたいもの。兼六園に行けば後楽園や偕楽園にも…。それは人情というものだと思う。有難いことに三ヶ所で済むので、簡単にコンプリートということになる。
 それより数が増えて、近江八景など八景シリーズ。全国小京都巡り(全国小京都会議加盟都市は54都市だが流動的)。それらの頂点には、「○○百選」シリーズがある。
 最もパワーを必要とするのが「日本百名山」全登攀をされている人たちである。深田久弥氏の同名の名著をもとに、老若男女数多くの人たちがチャレンジされている。僕には無理だな。
 その他にも、「日本の滝百選」「さくら名所百選」「渚百選」など様々。百名山は深田久弥氏が独自に選んだものだが、新聞社や官庁が選定したものも多い。基準があいまいなのが難点だが、指針にはなりうる。
 「名水百選」というのは有名である。僕も、近くへ行けば寄ることにしている。一応、北は利尻島甘露泉水から南は屋久島湧水、沖縄垣花樋川(カキノハナヒージャー)まで行った。全部で三割程度は足を運んだだろうか。以前、名水百選を全て飲むと言っていた人がいたが、湧き水ばかりじゃないからなぁ。我が兵庫県に「千種川」という選に入っている川があるが、どうも見た感じ飲んだらおなか壊しそうなのだけれども(源流に行ったわけじゃないので誤解だったらごめんなさい)。
 さて、僕の場合、名水百選は「見つけたら寄る」程度なのだが、実はコンプリートを目指しているのもあるのだ。それは「日本の道100選」である。

 そもそもはこれも、前回書いたように妻のスタンプラリー好きから始まるのだが、きっかけは沖縄への旅行である。今を去ること10何年前、僕らは沖縄の八重山諸島にある黒島という島を旅していた。ここは人口200人に牛2000頭という実にのんびりした島で風景の素朴さと美しさは白眉なのだが、この島のメインストリートがその「日本の道100選」に選定されていた。
 珊瑚礁の島であり、道はその珊瑚から出来た石灰岩の石垣と赤い瓦の屋根に囲まれたそれは美しい景観なのだが、写真を撮ったときに妻が「ねぇ、全国の道100選に行ってみたいと思わない?」とのたもうたのだ。
 そんなこと今更言うなよ、というのが僕のその時の本音。だって、もう僕らは日本中旅行しまくっているのだ。もっと早く言ってくれていたらいくらでも寄れたのに。駅のスタンプだってようやく終わったところじゃないか。これからまた、イチからあちこち出かけようって言うのか。そんな殺生な。
 僕は、くれぐれもコンプリートなぞ目指さないぞ、とそのとき念を押したのだが、それでも別に旅行を止めるわけではない。それからももちろんあちこち出かける。その度に、旅に出れば最寄の近くの「道100選」にはつい寄るようになり、写真も徐々にたまってきた。こうなると本気になってしまうのが僕の悪い癖である。またもや高速を途中で降りたり、100kmも余計に走ったり、なんてことをやり、かなり足跡を残してきた。
 この「道100選」で最も問題となるのが「顕彰碑」というものの存在である。
 この選定をしているのは建設省(現国土交通省)であり、選定した道には顕彰プレートを配布して、各々がそのプレートを当該の道のどこかに設置しているはずなのだが、その顕彰プレートを探すのが一苦労なのだ。
 何のことか分かっていただけないかと思う。顕彰プレートというのはこういうものである。一部画像を出してみる。→これ
 道のどこかにこういうものがあるのだ。道は数100mの短いものもあれば、数10kmに及ぶものもある。その道のどこかに、このプレートが隠れているのである。日本の道100選の旅というのは、ひとえにこのプレートを探す旅なのである。なんだよいったい。
 始めた当時は、このプレートがどこにあるのかを示す資料は皆無だった。今では、ぎょうせい発行の資料書籍もありネットもあるので場所の特定にはあまり苦労はしないのだが、当時はそんなものはなく(書籍はあったが場所特定資料の記載が無かった)、どうするかと言えば、とにかく目を皿のようにして歩き、車を走らせ自力で探すしかなかったのである。しかも、全ての道に設置してあるとは限らなかった。自治体の判断で、碑を設置せず仕舞ってあるところもあった由。僕はよく出かける前に当該自治体の管理部に電話で問い合わせたりしたが、たいていはお役所仕事でたらい回し、明確な回答が得られることなど稀だった。観光課なども役に立たない。自力で駆けずり回るしかなかったのである。
 こんなことをツラツラ書いても、分かってくれる人など殆どいないだろう。遠い地に出かけて、頑張って探したのに見つからなかった徒労感など、同じことをやっている人にしか理解してもらえないに違いない。

 以来10数年。現在では約8割の顕彰碑の写真を収めている。本当はもっと行っているのだ。しかし、顕彰碑が見つからずすごすごと帰った場面が幾度あったか。悔しい。だが、その顕彰碑は今ではほとんどの道に設置されたという話である。また遠い場所へ行かねばならない。九州に二ヶ所、北海道にも一ヶ所残してしまっている。しかし、ここまで来たら絶対にコンプリートするぞ。全部揃ったら、大々的に画像をネットにアップする予定でいる。そのためにHPを作ってもいい。ああ宝くじが当たって毎日が日曜日にならないものか。

 旅行とコレクションについての、病膏肓のアホな話を終わります。
 
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旅行とコレクション 2

2008年06月28日 | 旅のアングル
 前回の続き。
 旅に出てコレクションがつい集まってしまう、という話を書いたが、コレクションというものの問題は「かさばる」ということである。僕は蒐集癖のある性格であることは自認していて、ついつい家にモノが堆積してしまう。そりゃ広い家と無限の資金力があればそんなのどこ吹く風であるが、マハラジャじゃあるまいしいつも同居人の文句と戦いながらということになってしまう。精神衛生上よろしくない。
 ならば、かさばらないものであればいいのではないか。だが、追憶を除いて、蒐集に場所をとらないものなどない。しかし限りなく少なくてすむ蒐集品もある。それは「スタンプ」の類である。

 旅の記念スタンプというのは観光地どこにでもあって、パンフレット等に押してはつい四散してしまうものである。でも、あれもきちんととっておけば立派な旅の記念品と成りうる。なんと言っても「現地でしか手に入らない」ものであるから。
 あれを集めている人などあまり居ないが、時々イベント的に「スタンプラリー」などという催し物があったりする。スタンプラリーというのは、用紙に空欄があって、全部集めれば記念品がもらえる、といったゲーム。探し当てて一つ一つ押し、景品と交換するわけだが、それがしばしば旅行に絡まる。よく道の駅が主催したりする。北海道の道の駅のスタンプを15個集めれば記念品贈呈、抽選でグルメセットプレゼントなんてやつね。
 どういう思考回路であるかはよくわからないが、うちの奥さんはやたらそういうのが好きである。見かければ必ずやる。押して歩くのが楽しいらしい。デパートや祭りなどのイベントでこういうのはよくやるが、その度に押して回っている。どうせ賞品など大したものはもらえないのだが、押すという行為が愉悦だという。まあ反対する理由もないので勝手にやりなさい、であるが、これに旅行が重なると少々相乗効果も現れたりしてしまう。前述の道の駅のスタンプなど長距離移動を伴うものであり、その予定も当初なかったのに、もう10km行けば道の駅があるよ、ということになるとわざわざ車を走らせたりする。こうなると旅の目的にスタンプラリーが加味されてしまう。どんどん旅が捻じ曲がってくる。
 それで、集まると景品と交換、ということになるのだが、僕なんかはそういう機会に押したスタンプを交換して取られるのが惜しくなったりする。僕の蒐集癖の部分が首をもたげる。オマエこれ渡すの止めて持って帰ろうよ、何言ってんの何のために押して回ってるのよ、なんてそこで初めて揉め事が起こったりもする。どちらも根本の主張は浅はかであり、以降は保存用と二つづつ押し始めてしまったりする。もはや阿呆である。
 まあこんな話などかわいいものである。実はこのスタンプ蒐集というものは相当に奥深い。高じると、そのうちスタンプを押すためにだけ旅立つような按配になったりもする。それはそれで立派な旅の目的だ、と言う事も出来るが、まず病膏肓の部類だろう。

 それはともかくとして、旅に出て知らず知らずのうちに集まってしまうスタンプというものもある。でも後から見て大切な記念となるもの。コレクションのつもりでは無かったが、中には人に見せて自慢できるものもある。その最もグレードが高いものとして「パスポートに押されるビザ」がある。
 海外旅行にいくと、国毎にパスポートにスタンプが押されていく。これが沢山たまると、記念だけでなく立派な旅のコレクションとして誇れるものになる。それぞれに思い出がこもりつい見返してしまうものらしい。旅行通のステイタスみたいなものだな。僕は海外は全く門外漢なのでちと羨ましい。
 国内であるとこういうのはそう多くはない。昔は、途中下車の際に切符に押される下車印というものがあって、これをコレクションしている人を見たことがある。今はどうなのだろう。下車印なんてもう滅びたのか。頼めば改札で押してくれるのだろうか。しかし切符があんな打ち出しのものになってはもはや集める価値もないかもしれない。
 もっと規模は小さくなるが、僕には大事に保管しているスタンプ帳がある。それはユースホステルの宿泊印である。ユースホステルとは何か、と問われると話が長くなるのでこちらを参照していただきたいが、この全国ネットの宿泊施設では、泊まるたびにひとつスタンプを会員証に押す。それぞれの宿で特徴のあるスタンプが用意されていて楽しい。そして旅が長くなるとどんどんこれがたまり、会員証のスタンプ欄を溢れて補助カードを繋げていく。その補助カードがまたそれぞれの場所で凝ったものを供してくれる。集まるとなかなか楽しい。僕も若い頃はよくこの施設を利用し、宿泊数が300泊を超え、相当量のスタンプが集った。理解してくれる人は少数だと思うが、これは僕にとっては宝物である。思い出が詰まっている。火事になったら当然持って逃げる。だが何が起こるかわからないので、念のためコピーしてネットにアップしてある。それがこれである。同好の士以外見られてもしょうがないものだとは思うけれども。
 ユースホステルの会員でなくなってもう10年以上経つ。今はどうなっているのだろうか。

 以上のようなスタンプは、それと意識しないで集まってしまうものである。スタンプを押してもらうためにユースホステルに泊まるわけではない。だが、コレクターはだんだん病が高じる。そして、スタンプ目的であちこちに顔を出し蒐集を始める。そのひとつに「旅行貯金」というものがある。
 レィルウェイ・ライターの種村直樹氏の著作「きまぐれ郵便貯金の旅」等で有名だが、これは全国の郵便局を巡って少しづつ貯金をし、その郵便局のはんこを押してもらってコレクションするというもの。局によっては個性溢れるはんこを用意しているところもあり、旅の記念にはもってこいとも言える。しかも貯金も出来て一石二鳥か。
 しかし、これを日本中全局にわたってやろうと試みている人も多いのである。調べてはいないが、全国に貯金可能な郵便局は2万や3万はあるのではないか。民営化で簡易郵便局がなくなり業務委託となりかなり減ったと思われるが、それでも数多いはず。非常に壮大な趣味になってくる。しかも増減がある(市町村合併も影響した)ので永遠のテーマのようになってくる。しかもさらに難しいのは、平日でしかも4時までしか通常は貯金が出来ない。なかなか厳しいのである。
 うちではスタンプラリー好きの妻がこれを試みようとしたのだが必死で止めた。こんなものコンプリートは到底無理だろうし、やり始めたら家へ帰ってこなくなってしまう。だが珍しいところはやっておきたい、と言うので一応、日本の東西南北(珸瑶瑁郵便局、与那国郵便局、波照間郵便局、大岬郵便局)は済ませた。次の目標は全県制覇ということになるが、付き合うのも大変である。夏に長期で自動車旅行をしているときなどがチャンスだが、平日四時までという制限があるため、丁度金曜昼過ぎに鹿児島に居たときに「あ、明日土曜だ」と妻が言い出し、必死になって宮崎まで車を飛ばしてギリギリ四時前に県境の郵便局に滑り込んだこともあった。高速で移動中も「降りてっ! 貯金する」などと言い出す。全く何をやっているのか時々分からなくなる。

 この旅行貯金と同様のものに、「りそめぐ(つまり全国のりそな銀行への預金)」に代表される全国規模の金融機関の預金めぐりがある。また「住基ネット巡り」。住民基本台帳ネットワークが成立して、全国の市町村役場で自分の住民票を取ることが出来るためにあちこちで申請しコレクションするというもの。住民票用紙って各自治体で個性があるものらしい。何でもやる人はいるのである。旅行コレクターの道は実に多岐にわたる。機関や施設だけではない。全国のミスタードーナツの店名付きミスドカードを集めている人だって居る。可能性は無限にある。その中で最も過酷なのが「旅行献血」だろうか。
 献血をすると献血手帳に血液センターの印を押してもらえる。これを各地で集めるのが旅行献血。旅行貯金などより遥かに数は少ないものの、文字通り身を削ってやらないと集まらないものである。しかし献血は誰かの役には必ずたっており、ただの無益な趣味とは違うのがミソではあるのだが。しかしながら、これの最大の難点は、2週間に一度しか献血は出来ないというルールである。なのでまず一旅行に一回しか出来ない。貯金のように次々と増殖していくことが無理なのだ。でもやっている人は居る。ここまで来ると尊敬に値する。

 こんな旅行におけるスタンプ蒐集など奥が深すぎて完結するはずもない世界なのだが、実はひとつだけ「コンプリート」に近い完成度にまで高まったものがある。それは、「駅スタンプ」の世界である。この駅スタンプについては詳しい方も多く、例えばこちらのサイトなどはその素晴らしい蒐集実績に唸るが、最も古い歴史は戦前から始まったものもあるそうだ。全国で大々的に設置されたのはあの40年ほど前になる「ディスカバー・ジャパン」キャンペーンの時に全国に置かれたもので、その数1400に至るという。その後、「一枚のキップから」「いい日旅立ち」など国鉄のキャンペーン毎に新しくなり置き換えられる。かと言って古いものが完全に撤去されたかといえばそうとも限らず、実数はなかなか掌握できない。
 現在一応の指標となるものは、1980年に国鉄が設置した「わたしの旅スタンプ」である。専用のスタンプ帳が発行され、その「わたしの旅スタンプノート」には全国のスタンプ設置駅の一覧が載っていた。その数740駅。
 それを元にして記念スタンプを押す旅を、後に妻になる女性がやっていた。その事は以前に千葉県の旅に書いたことがある。しかしこれは、前述したように全てのスタンプを網羅しているわけではなく、その総実数というのは把握が出来ない。しかし、彼女がやりだしたときはそんな情報など探してもなく、その一覧に載っているスタンプを指標として蒐集していたようなのである。それだけでも700を超える数なので、とてもやり切れないと当時は思っていたようだ。ただ押すのが趣味の人なので、コツコツとあちこちで押し続けた。
 彼女がそれを始めたのは80年代末。もうキャンペーンが始まってからずいぶんと時間も経過していて、一覧に載っているスタンプも磨耗、盗難などで失われている場合もあり、せっかく足を運んだのに無い、と駅員さんに言われてしまったことも多かったらしいのだが、とにかく一覧を頼りに押し続けていた。
 そのうちに「これは完成できる」と思ったのだろう。彼女はそれだけを目的に旅行に出るようになった。何度も言うが病膏肓である。僕にも「協力してくれ」と言ってきた。以前書いた北海道旅行の際にも、彼女が僕の車に同乗した理由の半分ははスタンプを押すためにだったようだ。北海道など列車本数が少ないので車でないと追いつかないのである。それでも旅行中には達成できなくて、僕より休みが2日ほど早く終わるため先に帰らねばならなくなったとき「白老と長万部残っちゃったから押しといて頂戴」などと言ってスタンプ帳を僕に預ける始末である。完全に巻き込まれてしまった。
 結婚してからも、「ちょっと九州に旅行にいくわ」とか言って二週間ほど留守にする。コンタンはスタンプを押すためである。まあそれはかまわないのだけれども、スタンプだけじゃなくてちゃんと旅を楽しまなきゃダメだよ。さらに、四国へ車で行かない、と誘う。スタンプが引っかかっているのである。思えば90年代前半はスタンプに明け暮れたなと思う。そうして全国へ出かけた。
 苦労も多い。スタンプは盗難に遭うことが多いので、駅員さんが保管している場合が多い。頼んで出してきてもらう。だが、夜になって訪れるともう駅舎が閉まっていることもあった。また出直しである。山形の楯岡駅などは、よっぽど不法侵入しようかと思った程だ。しかし、浜頓別駅などは天北線廃止でもうスタンプも失われただろうと諦めていたら、バスターミナルに置いてあったりして。念のために訪れて良かった。
 いろんな挿話があり、これだけでHPを作れるのではないかと思う。そうして苦労し、大船渡線の陸中松川を最後にようやく完成に近い状態になった。失われたものはしょうがないが、少なくとも昭和の国鉄の時代に発行されたスタンプノートに記載されている駅には全て行った。もう完結と言っていいだろう。全国制覇だ。
 しかし、前述したように記載以外にもスタンプはあったりする。また発見するかもしれず、一応は永遠のテーマにもなっている。でも妻からは憑き物が落ちたようである。ホッと一息である。

 最近妻は「お遍路」に行こうと僕をいつも誘う。信心深さなど微塵もないくせに。しかし何故行きたがっているかはよく分かる。なるほどね。ありゃスタンプラリーに確かに似ている。四国八十八ヶ所や西国三十三ヶ所。参拝して、各札所のお寺の納経所でご朱印をいただく。88ヶ所でコンプリート出来るのだからそりゃ血が疼くでしょうよ(不信心な物言いお許し下さい)。しかしもう少し待ってくれ。今忙しいんだわ(汗)。

 次回に続く。
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旅行とコレクション 1

2008年06月24日 | 旅のアングル
 先日、いらないものを整理するを書いたけれども、その中で整理しきれないものがあった。それは、格好よく書けば「思い出」である。
 でもまあそう書くと恥ずかしいので、もう少し形而下的に言えば「記念品」だろう。いろいろな思い出の「品」である。これにはもちろん様々なものがあって、長く生きていれば思い出も蓄積されることは自明であるし、それに伴って品数は増える。
 こんなもの幼稚園時代からあるのでたまる一方であるが、その中でも旅行に関わるモノがやっぱり多い。思い出が濃い分、量も増えるのだろう。
 だが、これは本当に思い出という理由だけから残しておいているのか? と疑問になるものも出てくる。確かに旅先で手に入れたものばかりであるので思い出はもちろんあるけれども、どうも蒐集癖の産物ではないのか、と思えるものも多い。
 旅行に数多く行くと、いろいろな物が記念として残る。当然の事だ。その最たるものは写真だろうとは思うのだが、それ以外にも何か記念として持ち帰ったり、購入してしまったりする。次の旅で、また同様のものを手に入れてしまったりする。 3回目からは意識して探し出し、それが高じて「コレクション」ということになってしまう。
 それが「ついで」のうちはまだいい。徐々にそれが旅の目的ともなってくる場合があってしまったりする。病膏肓とはまさにこのことだろう。
 そんな話をちょっと書いてみたい。

 旅の記念としてまず思いつくのは、いわゆる「地名入りの土産物」だろう。
 ペナント・キーホルダー・ちょうちんなど各地の名所旧跡の名前を冠した記念品は数多くある。最近だと携帯のストラップかな。もはやペナントなんてのは無くなってしまった感もあるが。よく、家の鴨居にズラリと観光地のちょうちんが並んでいるのはしばしば見かける。思い出がこもっているんだろうなと思う。しかし、あれは結構かさばったりするものであり、そこが難点かもしれない。
 僕はこういうものは蒐集する癖を持たなかったのは幸いだった。集めていたらどれほどの量になったかと思うと恐ろしい。蒐集しなかったのには訳があって、僕は自分で旅行が出来る年齢になるまでに既に大量の「旅行記念キーホルダー」を所持していたからなのである。
 父母に兄弟が多いこともあって僕には親戚が多い。おじさんたちは、旅行でなくても出張などもあってあちこちに出歩く。そうすると、この年端もいかないガキの甥などは(僕のことね)、「えーおみやげないの? おみやげおみやげ」と騒ぐのである。面倒臭い子供である。あるとき一人の叔父がキーホルダーを僕に買ってきてくれた。すると僕はものすごく喜んだそうなのである(全然記憶にないけど)。それからは、「アンタにはキーホルダーね」と定番化して、親戚一同どこへ行っても僕にはキーホルダーを買ってきてくれるようになった。今考えてみると、アイツには○○、と決まると考える手間が省けていいのである。土産物を選ぶっていう行為も時間がかかるものだ。
 キーホルダーなんていうものは、一個あればいいものなのである。これを僕は小学生の頃には既に100個近く持っていた。それも重い金属製の「磐梯朝日」だの「三瓶山」などとネーミングされている類である。もううんざりしていた。そもそも、自分が行ったところであれば愛着も沸くのだろうが、当時は「天竜川」などと刻印されていてもどこか知らないし興味もない。当然持て余してしまい、母親を通じて以後のことはやんわりと断ってもらった。まあ自業自得なのだ。ガキの分際で土産などをねだったのが生意気なのである。
 その大量のキーホルダー群は今どこに行ったのか。知らないや。申し訳ないけれども。

 土産物の話に戻れば、ペナントやキーホルダーよりももっとかさばるものが店には並んでいる。それはそれで記念品として否定はしないけれども、どこで買ったのかわからなくなるようなものもよく並んでいる。不思議だと思う。「根性」とか「愛」とか彫りこんである石とか木刀とか。本人に思いがつまっていればそれも結構なんだけどねえ。みうらじゅん氏はこういう意味不明のものをコレクションしていて面白いのだが、そんな奇特な人はそうは居まい。
 どこのうちにもあるのは、アイヌの木彫りの熊である。これも定番なのだけれども。ある人の家で、この熊さんが7、8個並んでいるのを見たことがある。「くれた人のことを考えると処分出来なくてね…」とおっしゃっていたが、話を聞かないとコレクターだと勘違いしてしまうところだった。確かにね。あれは実は結構値が張るものなのだ。僕の家にも一頭居る。処分しにくいけれど、もう誰に貰ったモノだかは忘れてしまった。
 その他にもこけしなどはあちこちにある。工芸品として立派なものもあるけれども、裏に「伊勢志摩旅行記念」とか彫ってあったりして。あれ、あそこってこけしで有名だったか? 所持者に聞いてみると「貰ったものなんです」との由。
 結局、人に差し上げる土産物などというのは、残るものより食べて消えるものの方がいいのではないか。是非買って帰ってきて、と頼まれたもの以外は。木彫りの熊がたくさん並んでも困るだろう。北海道へ行けば熊さんより白い恋人。沖縄に行けば星砂よりちんすこう。住宅事情を考えればそちらの方が後々有難がられると考えられる。
 
 しかしながら、人に貰ったものは有難味も徐々に薄れるものだけれども、自分で手に入れたものには愛着も沸いてくる。コレクションというのは、旅行土産に限って言えば、自分で現地で購入した、或いは採集してきたものにこそ値打ちを感じるし大切に思う。石ころひとつでも、名石というわけではないにせよ、これは苦労して登った富士山頂の石だ、と思えば、思い出の一片として残るものなのだ(富士山で石を勝手に取ってきていいのかという問題はさておき)。甲子園の土と同じ。
 我が家にも沖縄の星の砂が幾つもあった。かわいい小瓶に入れられてかつてはよく販売されていたのである。小柳ルミ子が「星の砂」という歌をうたってヒットして以降かなり流行ったものだ。あちこちで貰ったものだが、先日実家の母に聞いたところ、もう皆どこに行ったか分からない、という。そんなもんだろう。だが僕は、一瓶だけいまだに大切に保存している。それは、自分で採集してきたものである。
 初めて沖縄に行ったのはもうずいぶん前になる。二十歳の頃だ。
 八重山の島々を巡り歩いて、竹富島へ行ったときのこと。ここは星砂の島だと聞いていた。ルミ子ねえさんの歌も流行ってしばらく経った頃。あまりにも美しい竹富のコンドイ浜で泳ぎ、手を砂浜に着いて、掌に付着した砂を眺めてみる。すると、いくつか確かに星の形をした砂があった。これはもともと有孔虫の殻が堆積したものではあるが、そんな即物的なことを思うより青春時代の僕はやはりロマンを感じた。
 掌に付着した幾粒かの星砂を丁寧に包んで持って帰ろうと思ったけれども、隣の西表島にはもっとたくさんの星砂があるよ、と教えてもらい、僕は西表島に渡った。
 そこには、その名もずばり「星砂の浜」という名のビーチがあった。リーフに囲まれたあまりにも美しい海に、僕は砂のことも忘れてゴーグルとシュノーケルでスキンダイビングに熱中してしまったのだけれど、泳ぎ疲れて浜に戻れば、確かにその浜の砂は、竹富島よりも星砂含有量がずっと高かった。これはもしかしたら海中はもっと多いのではないかと思い当たり、僕は潜ってフィルムケースにひとすくいの砂を採った。細かく見るまでもなく、星砂が相当量含まれていることがわかった。
 旅を終えて帰宅し、その砂を真水で洗って乾かし、丁寧に選り分けると、ほぼ半分が星砂だった。少し洒落た小瓶に移し変え、今も大切に所持している。それを見ると、あの時の若かった自分が思い出される。焼け付く太陽。どこまでも見通せるかと思われた透明度の高い海。きらびやかな珊瑚。美しい熱帯魚の群れ。疲れを知らなかった自分。同宿した全国から集まっていた旅人との交歓。そこで友人になった同年齢の女性の、眩し過ぎる水着姿に鼓動の高鳴りを覚えたこと。この星砂を見れば、全てのことが一瞬にしてフラッシュバックし甦る。土産物の星砂と見た目は同じではあるのだが、追憶が詰まったものはまた違うのだ。これは、コレクションとして処分など出来ない。
 今は、あの西表の星砂の浜はもう採集禁止となったらしい。乱獲が原因だそうな。業者がトラックで積んでいくのとは規模が違うけれども、その乱獲の一端を担ったことは申し訳ないと思う。でも、いつまでも大切にするから。もう四半世紀ほど前の話である。

 コレクションは、つまり蒐集ということで、星砂なんかは単発であるからコレクションとは言わないかもしれない。
 でも、キーホルダーで懲りている僕は、もうかさばるものはあまり集めたくないのである。特に昔は長旅が多かったので、荷物が増えることに閉口してしまうのでなるべく買い物はしなかった(金銭的余裕がなかったということもある)。
 それでもかつては、地方紙なんてのはよく持ち帰っていた。珍しいのでつい、なんてことである。北は宗谷新報から南は八重山毎日新聞、八重山日報まで。でも、こういうのってキリがないし、マイナー紙だけ集めようと思ってもどこまでがマイナーなのかもわからない。福島民友新聞はなかなかこちらでは目に触れないけど河北新報はメジャー紙なのか(どちらも関西人には珍しい)。また、特定の政治団体が発行しているものも多いので、もうややこしくなって止めてしまった。
 でも、わざわざ買うんじゃなくてなんとなしに持ち帰り集まってしまうものってあるようで。
 駅弁の包み紙なんてのはそうだろう。つい持って帰った(畳めばかさばらないため)のが今では結構な量になっている。この世界はコレクターが凄く自慢できる量ではもちろんないが、もはや捨てられない。いずれ駅弁の話はまた書いてみたいと思うのでこれ以上は記さないが。ただ、あくまでも旅行の記念であるので、デパートの駅弁大会などには行かない(行っても蒐集に加えない)。
 その他に集まってしまうものは、入場券の半券や切符の類である。
 観光地の記念館なり施設の入場券は、捨ててしまう人が大半だろうが、案外記念になる。日付も入っていたりして判りやすいし薄いものなので残しやすい。ただ整理はしていない。きちんとアルバムに貼ったりファイリングしたりしている人がよく居るが、偉いなと思う。いずれちゃんと整理しよう(いつもの台詞)。
 鉄道の切符も記念になるものだ。だが、基本的に列車に乗ったら最後は回収されてしまうものなので、様々に工夫して隠匿する(悪用はしていない)。昔使った周遊券などはまだ手元に残っている。下車印をわざわざ押してもらったりして、あちこちの駅名で埋まった切符には思い出が残る。
 しかし、周遊券も廃止され、更に今はほとんどの切符が機械打ち出しとなり、時間が経てばプリントされた記載事項は消えてしまう。これではコレクションにならない。そうして、切符を残しておく趣味は自然消滅してしまった。硬券の時代が懐かしい。

 硬券といえば、入場券やそれに類した切符もよく昔は蒐集していた。鉄道マニアではないので、難読地名や面白いものに限ったことだが。土産にも出来るが(受験生に「学」駅の入場券など)、以前髪の不自由な人に増毛駅の入場券を差し上げて怒られてからは控えるようにしている。
 最もポピュラーなものと言えば、北海道広尾線の「愛国→幸福」の切符だろう。これは現在でも土産物として販売しているらしいのでつまらない話なのだが、当時は、1987年に広尾線が廃線になると聞き、もう買えなくなると思って、この地を丁度訪れた際に5枚購入した。5枚でも、当時は貧乏旅行だったので大した出費だったことを憶えている。
 このうち1枚は自分で保存。あとの4枚は誰かにプレゼントしようと思っていた。しかしその時は、もう手に入らないものだと思っていたので、バラ撒かず大切な人にあげようとそのときは取り措いた。
 以来、この人に、と思い込んだ女性に渡していったのだが、残念ながらさほど効果はなかったようだ。別れる時に返せとも言えず、1枚また1枚と切符は減って残り1枚になってしまった。これは自分用だからもう誰にもあげない。
 と思っていたら、ある女友達と呑んでいる時にうっかりそんな話をしてしまい、欲しいと言われて後にも引けず、呑んだ勢いでプレゼントしてしまった。あーあ。これじゃ僕にはもう幸福は来ないよ。後から惜しい事をしたなぁと後悔したものである。
 結局その女友達と僕は数年後に結婚することになったので、まあ最後の1枚を取られたとしても結果的には良かったことになるのだが、その切符を妻はまだ所持しているのかどうかは、あれからずいぶんと時間が過ぎたのに確認していない。おそらく無くしちゃったんじゃないの? まあいいけど。

 コレクションの話、次回に続く。
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旅の移動手段 その7 船舶・飛行機

2007年11月17日 | 旅のアングル
 船旅が好きだ。
 初めて旅行手段として船に乗ったのは多分小学生の時の家族旅行で、神戸から別府までの船旅だったと思うが、この時は子供が幼かったせいもあろう、親父は奮発して個室を用意していた。確かベッドに寝たのもその時が初めてであったと記憶しているし、非常に高揚したことを憶えている。船中一泊の、さほど長くない瀬戸内の旅で、ほぼ乗っている間は夜だったので船外の風景などの記憶もないが、幼い僕には充分に印象に残った。

 次に乗るのはもう一人旅だっただろうか。青函フェリーだったか。いや待てよ、その前に宮島航路があった。
 航路、と言っても、この船の乗船時間は約10分に過ぎない。広島県の宮島口~宮島を結ぶ連絡船であるわけだが、この宮島行きの船というのは、国鉄(現JR)が就航させている。であって、この船は列車の切符の延長線上で乗れるのだ。扱いとしては普通列車に準ずることになっている。こういう鉄道連絡船は昔はいくつかあった。青函連絡船(青森~函館)。宇高連絡船(岡山県宇野~高松)。仁堀連絡船(広島県仁方港~愛媛県堀江。これは連絡船かどうかは怪しいが国鉄の運航)。これらは普通切符で乗船できた。懐かしい時代。さらに昔の関門航路などはもちろん知らない世代ではあるが。今は青函にも宇高にも橋がかかり、仁堀航路は廃止された。こういう船はもう宮島にしかない。
 宮島口駅から桟橋までは少し歩く。乗船すると、もう目的地の宮島は目前に見えている。海中に浮かぶ威風堂々とした厳島神社の大鳥居が徐々に近づいてくる。そうしているうちにすぐ下船。鹿たちが群れ集まってくる。
 この約10分の乗船時間の間に、ビールを一本飲み名物のあなごめしを食べる悦楽を知ったのは後年大人になってからのことである。これは美味いのだよなぁ。

 こんなふうにして、短い連絡船、例えば桜島フェリーであったり串本~大島の巡航船(これは無くなっちゃったな)であったり、はたまた佐渡行きや対馬行きなどちょっと長めの船便であったり、島に渡るときはたいてい船に乗る。むろん飛行機という手段を持つ大きな島もあるが、やっぱり船で行ったほうがいい、と僕は考える。ワクワク感が出るような気がするのだ。飛行場to飛行場というのは点で結ぶ旅行のような気がしてしまう。
 昨今、近距離の島にはどんどん橋が架かっている。前述の串本大島の「今日も行く行く巡航船」が無くなって久しいが、明石海峡大橋やしまなみ海道をはじめ、どんどん繋がっていく。これは実に便利になる話であり地元の方々にとって慶賀であるのだが、旅行者にとっては半々である。車で旅するぶんには渡りやすいが、自分の交通手段を持っていないとかえって不便になる。バスの本数だって少ないこともあるし、近距離だとアホらしい。でも歩くと長い。以前平戸大橋を歩いていて風に吹き飛ばされそうになった。
 併用が最も有難いのだけれどもなぁ。でもそれは贅沢というものだろう。でも尾道~向島の船が無くなったらイヤだなぁ。旅情ばかり追い求めるよそ者は厄介なのだ。

 僕は、船舶で一泊するのが好きだ。
 ヘンな話だが、なんとなしにゆったりとした気分を味わえる。時間がかかると思われるかもしれないが、夜に出て朝着くのであればさほどでもない。飛行機のダイヤ次第では、ずっと船のほうが便利である場合もある。
 例えば関西から五島列島に行く場合。飛行機だとまず長崎か博多へ行くことになるが、金曜の夜に乗るには時間が合わない。そして五島行きの便が不便である。乗り継ぎが難しい。結局途中どこかで一泊しないとたどり着けない。
 最も効率的な行き方は、博多~福江間のフェリーに乗ることである。夜のうちに博多まで新幹線で行ってしまう。博多発フェリーは深夜0:00くらいに出るのだ。博多で一杯やってからでも充分間に合う。そして乗り込んで朝には福江島に着いている。フェリー料金はホテル一泊分より若干安い。そして朝からレンタカーを借りれば、ゆっくり教会や隠れキリシタン関係の史跡を巡ることが出来る。船中一泊で時間も生み出せるのだ。急がば回れ、みたいなものである。
 
 僕は北海道にすら飛行機で行ったことがない。もう旅行では20数度も訪れているのだけれども、一度も無い。そのうち船で行ったのは…7~8回ほどを数える。
 学生のときは、もちろん金銭的にそっちの方がずっと安かったからではあるが、社会人になってからも車を持ち込む際はフェリーを利用した。飛行機で行ってレンタカーよりずっと安上がり、という利点もあるが、時間がさほど変わらなかったというのもある。僕は金沢に10年ほど住んでいたのだが、小松空港から北海道便は昼間に一便あるのみである。東京で乗り継ぎ、という手段もあるがそれは贅沢すぎるし、休みの前日に出発してもどのみち東京で一泊せざるを得ない。
 船であれば、新潟の直江津港から室蘭(岩内)までの便が出ている(現在休航)。これは深夜発であり、金沢~直江津は高速で2時間ちょいで行ける。乗り込めば、日が暮れる前には上陸である。さほど変わらない(余談だが、日本海側を回るフェリーの料金というのは異常に安い)。それに、のんびりと船旅が出来るではないか。

 この記事は「移動手段」の記事であるのだが、船に関して言えば単純に移動手段と割り切ることが僕には出来なくなる。上記の北海道便だって、そんなに時間は変わらない、と言いつつやっぱり時間はかかるのだ。ただ、この船に乗っている時間というのが愉悦なのである。船旅の悦楽というのはやはり捨てがたい。
 と言って、別に豪華客船に乗ろうとかそういう話ではない。そんな経験などしたことがないし、これからも多分やることはないだろう。宝くじに当たって世界一周の船旅、てな機会が絶対に巡ってこないとは限らないが、なんだかそれは面倒臭そうで。豪華客船の本は何冊か読んだが、食事ひとつにしてもネクタイを締めなければならない。タキシードも必要だったり。いやそういう楽しみがあってもいいのだが、育ちの悪い僕には堅苦しくて。僕が好きなのは、長時間船に乗ることによる「何もしなくてもいい、何も追いかけてこない」時間の確保であるからだ。そのたまらない自由な感じ。
 北海道に行く舞鶴~小樽間フェリーのことを考えてみよう。この船は、かつては一日半かかったのんびりした船だった(夜出て船中二泊で翌々朝とか)。しかし、今では20時間程度である。短くなったのはむしろ残念という気持ちさえある。深夜発であり、休前日でも充分に間に合う。料金は安い。一人一万円前後(繁忙期には高くなる)、車航送の場合はその料金に大人一名は含まれる。僕の車は軽であり4m未満だから概して安い。
 出航までの時間に、僕は既に宴会を始めてしまう。2等船室の一画を占め、持参している弁当を広げる。手作りでもいいしスーパーで買ってもいい。そしてクーラーボックスにはビールと酒。たいていは花見の宴会風である。これから旅が始まるという高揚感が全身を覆っている中で呑む酒は美味い。
 そうして酒がまわった頃、出航の時間となる。船はゆっくりと岸壁を離れてゆく。デッキに出て、街明かりが遠くなるのを見ながらウイスキーのラッパ呑みをしているのはたまらない。旅情が極まるときというのはこういう時間ではないのか。そして酩酊して就寝。
 翌朝は好きなだけ寝坊。そして起きたら一杯のコーヒー。余談だが、船というのはレストランも併設しているがたいてい高い。そしてメニューが少ないので好みのものがあるかどうかわからない。なので基本的に「持ち込み」である。有難いことに、お湯だけは提供してくれる。なので、カップ麺などを持ち込めば安く上げることは出来る。僕はと言えば、朝のコーヒーもインスタントを持参して勝手に作っている。レストランでもコーヒーくらいは飲めるが、僕はデッキに出て風に当たりながら喫したいのだ。レストランのカップを持ち出すわけにはいかない。
 そしてブランチ。ワインを一本開け、パン、生ハム、チーズ、缶のレバーペーストなどを広げて(フォアグラを買いたかったが高かった)悠々と食べる。お湯を注げばスープも出来る。結構極まりない。
 晴れていればデッキに出て、或いは展望室のソファーでゆっくりと読書。音楽を聴きながら読みかけの小説を広げつつ、ビールを一本。かもめが舞いトビウオが跳ねる。陸地はかすかにしか見えない。電話もかかってこない。こんな贅沢があろうか。そしてこの先には北海道が待っているのだ。
 昼を過ぎればアルコールの摂取を止める。夜には着いて運転しなくてはいけないからだが、ここがちょっと不満。昔は翌日の朝着だったのでまだ飲み続けられたのだが。まあそんなことはいい。着けば小樽の美味い魚が待っている。そうしているうちに壮大なサンセットを堪能し、船が港に入る。船旅は楽しい。

 今まで最も長かった船旅は沖縄便だっただろうか。神戸を夕方に出て、直通ではなく奄美列島を経由して那覇に行く最も時間のかかる船に乗った。学生ならではだっただろうが、この船が冬のことでもあり遅れて、翌々日のお昼到着のはずが夕刻になった。48時間である。退屈はしなかったが、荒れる海で三半規管がやられてしまったようで、上陸してしばらくは身体が揺れていた。歩道橋に上がって思わず「この橋揺れている」と思いあわてて手すりを持ったが、なんのことはない自分の頭の中だけが平衡感覚を失っていたのであった。
 余談だが、僕は有難いことに船酔いというものには強い。こんな状況でも気持ち悪くなることはなく、せいぜい前述のように揺れに順応してしまう程度だ。だから船旅が好きなのかもしれない。船酔いの経験はただ一度、以前与那国島への旅で書いたようなダッチロール式揺れの時だけだ。

 長い船旅というのは愉しいものの、やはり時間がどうしてもかかるので断念せざるを得なくなってくる。沖縄に行くのはやはり船が一番だろうとは思うが、これだけ時間がかかっていたのでは今では無理である。それでも果敢に滞在時間を削って船で旅立ったこともあったが、今では沖縄に行くのは船より飛行機の方が安いのである。昨今のダンピング、格安航空券の出回り方はすごい。というわけで、現在では約2時間でひとっ飛びである。味気ないと言えば味気ない。
 飛行機というものには、沖縄便以外は、数えるほどの海外経験を除きプライベートで乗った記憶がほとんど無い。小松~羽田というのは何度か仕事で乗ったことはあるが、個人的にはほとんど飛行機には乗らない。
 別に怖いというわけではないが、面倒なのである。飛行場はたいてい離れているのでアクセスに時間がかかる。発ギリギリに飛び込むわけにもいかず待ち時間が長い。それなら新幹線に乗ってしまえ。そんなんで飛行機とはあまり縁がなく語るほどの材料が無い。
 飛行機で乗っていて楽しいのは、晴れた日に窓際を確保出来たときだけだろう。富士山を眼下にする感動を知る人は多い。数少ない経験から言えば、沖縄便でエメラルドグリーンの海に浮かぶ島々を眺めつつ高度を上げ、そして屋久島、種子島を真下に見る。あああの川は安房川だ、さすれば宮之浦岳のピークはあそこだな、じゃ縄文杉はあのへんか。はたまた四国上空。おお高知平野じゃないか。桂浜も見えるな。鏡川が糸のようだ…。一応地理には強いので楽しめる。そして飛行機は徐々に高度を下げ、旋回する。おお、中百舌鳥古墳群が真下だ。仁徳陵古墳はやっぱり凄い。あっ大阪城だ。もう降りてきてるんだなあんなに大きく見えるぞ…と言う間に伊丹空港着。今は神戸空港なので、うわ明石海峡大橋だ、てな具合。だから席確保のために早く空港に行かなくてはいけない。すると待ち時間が長い。うーむ。
 
 やはり飛行機について語ることは出来なかった。まあいいか。旅の移動手段についての話はこれで終わり。
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旅の移動手段 その6 乗用車

2007年11月11日 | 旅のアングル
 子供の頃は、キャンピングカーに憧れたものだった。
 いや、正確に言えば、「バニング」「トラッキング」というやつ。これは、バンやトラックの後部座席や荷室をカスタマイズして、居住空間を生み出すというやつ。簡易キャンピングカーみたいなもの。小さい頃はよくその手の写真を見て憧れを持った。
 まあしかし現実は、車を改造するのは新車を買うよりコストがかかり、車に居住空間を生み出すというそのものについての憧れはずっと続いたものの、それほど重要な要素ではなくなり、いつの間にかアタマから飛んでいた。

 僕が初めて自分の乗用車を所有したのは、社会人となった年の冬。車が便利だということは分かっていたのだが、ローンというものが嫌いで一括で払えるようになるまでに時間がかかった。買ったのはスズキの「ジムニー」。軽自動車である。
 独身であり大きな車は必要なかったためだが、軽とは言え、この車はそうナメたものではなく、つまりジープ型の四駆であり、なかなかに勇ましかった。ターボ付きなのでさほどパワーに問題もなく、どんな林道にも入っていける。思い切りアクティブに使おうと思って購入した。女の子を隣に乗せてドライブ、などということは全く念頭になく、旅に出るために特化して所有したと言っていい。セダンなど全然考えなかった。
 この車で、僕は相当あちこちに行った。西日本はみんな踏破し(車で踏破っておかしいかな?)、東は太平洋側にはあまり行っていないものの、結構走った。北海道はフェリーで航送し(自走で一度行ったこともある)、足を踏み入れていないのは岩手、宮城、茨城、栃木、埼玉、東京、千葉だけである(あ、沖縄もそうだ)。僕の旅行のかなり大きな部分を占めた車だった。

 乗用車で旅行をする利点には何があるのか。
 まずは、自明のことではあるが、自分が好きなところへ行けるということ。これはバイクにも言える事だが、全天候型でツナギも着なくていい気楽さなのがありがたい。鉄道、バス、徒歩の組み合わせではなかなか限界もある。自転車もそうそう山奥には入っていけない。車は便利なのだ。
 そして「待ち時間」というのが無い。電車に乗ってバスに乗って…だとどうしてもロスタイムというのが生じる。歩きも挟まなくてはいけないのでどうしても「5ヵ所見たい」と思っていても3ヵ所で終わってしまうこともある。ところが車だと8ヵ所行けたりする。
 史跡めぐりをするにしても、例えば長崎市内や奈良市内など集中しているところは歩いて回るのに適しているが、これが「龍馬はん脱藩の道を辿ろう」とかになると、もう公共の交通機関では難しくなってくる。自分の足を持っていたほうが有利である。本当に細やかに観光できる。
 ケースバイケースである。街歩きには車は邪魔になる。駐車場を確保するのも難しい。東京観光など車ではとてもとても。渋滞にも巻き込まれる。しかし、例えば讃岐でうどん屋巡りをしようとするときには、公共の機関ではほぼ無理である。山奥のバスも行かない一軒のうどん屋を目指すのに、足がないとどうにもならない。「琴電○○駅下車、徒歩五時間」なんて場所もあるのだ。行けても午前中に一軒、午後に一軒とか。生まれたてのうどんに会いたければ、午前中に五軒くらいまわりたいではないか。こんなときに車は威力を発揮する。もちろんうどん食べるためだけに車を所有しているのではないが。
 都会は公共機関及び徒歩。地方は車。そうして使い分ければ、かなり快適な旅行が楽しめる。なんと言っても細やかに回れるのですよ。

 次に、荷物の心配をしなくていいということ。旅にあまりたくさんの荷物は持っていきたくない。どこに行ってもコインロッカーはあるが、一ヶ所集中ならともかく移動を伴うと大変だ。僕は一人であればウエストバッグひとつで旅立つこともあるけれども、女性であればそうはいかないだろう。
 その点、車はそんな心配をしなくていい。積める物はじゃんじゃん積む。史跡巡りのときは資料を山のように積む。衣類はもとより、寝袋や毛布、さらに包丁とまな板だって持って行けばいい。あらゆる場面を想定できる。選択しなくてもいいのだ。以前、バッテリー式の冷蔵庫まで持っていたこともあった(これはさすがにムダで、クーラーボックスがあれば足りるので放棄したが)。

 そんなふうにして、僕は自分の車で旅を広げた。
 車に欠点があるとすれば、それは自分で運転しなくてはいけないという一点に尽きるわけで、運転が嫌いな人は辛いかもしれない。幸いにして僕は運転がさほど負担にはならないのでその点はいいのだけれども、気分のいい旅の朝などでは、「ああこれが列車とかだったらまずこの風景を見ながらビールの一本でも飲むのになぁ」と思ったりもする。難点と言えばそのくらいか。

 そのあちこち旅した相棒のスズキ・ジムニーは、結婚して後も乗り続けた。後部座席などほぼ形だけという形態であったので、ガキでも生まれれば乗り換えにゃならんなとは思っていたが、結局それ以上家族は増えなかったのでずっとそのままだった。
 しかし、さすがに10年を過ぎる頃からガタがきだした。乱暴な扱いをし続けて酷使したからなぁ。ちょうどその頃、走っていたら不埒にも斜め前方からぶつかってきたヤローが居て、ジープ型で頑丈であるはずの我が相棒もさすがにひしゃげてしまった。うーむ。まあ保険金も入るので修理しても良かったのだが、思うところあり新車にしようと思った。ジムニー君とはそこでお別れとなった。
 次に僕が購入した車は、軽の1Boxである。カッコよくもなんにもない。商用車であり、配達などによく使用されるやつ。なんでそんな車を、とよく言われたが、これは完全にパーキング・キャンプを意識して買ったものである。それについては以前書いた。→旅の宿 その7「パーキングキャンプ」
 これは改造もせず、僅かにカーテンと室内灯を付けたくらいであったが、後部をフラットにしマットを敷くと、かなり快適な居住空間が出来上がった。かなり縮小してしまってはいるが、これは子供の頃夢見た「バニング」の実現でもある。三つ子の魂百までだな。
 そして、以前とは違った車旅をしている。遠くにももちろん行くが、この車はターボも付いていないので急坂だと失速する。高速道路を走っていてもパワーが足らない。そもそも長距離ドライブには適していない。まあしかし、急ぐ旅などもう必要ない。日本中見渡せばまだまだ未踏のところはたくさんあるけれども、焦る必要もない。ゆっくりのんびり行こうじゃないの。
 てなわけで、時々ふらりとまた車に乗って旅に出る。

 さて、車を持っていない人も乗用車利用が有効な場合もある。また、遠隔地で地元から車に乗っていくのは大儀だが、旅先では欲しい場合もある。免許さえ持っていれば、レンタカーの活用ということになろう。
 僕もしばしばレンタカーは利用する。しかし、レンタカーというのは意外に高い。基本料金はもとより、保険、そしてガス代(最近異常に高いねぇ)をあわせると結構な出費となる。まあ人数が多いときは割安になったりするが、それでも「なんとかならんのか」と思うようなこともある。
 以下のことは、将来的にもOKの事柄なのかはよくわからないのだけれども、現時点での話である。レンタカーは現地で飛び込んで借りると損である。レンタカーは予約して借りろ。それも、事前にネット予約しなさい。
 僕は沖縄で、日帰りで基本料金1000円の車を借りたことがある。もちろん小さい車ですよ。しかし、この値段だとレンタバイクよりずっと安いのだ。どんどんネットで検索しよう。例えばこんなサイトとか。地域別で検索すればもっと出てくる。現地へ行ってから車が欲しくなったとしても、いきなり電話せずに手持ちのPCやホテルのPCで確認すべし。さらにネットカフェでお金を払っても元がとれる場合だってある。格安物件は、車に限らず切符でも航空券でもなんでもネットに転がっている。探せ~。少しでも安く上げればそれで一杯呑めるではないか。こんなところは節約したほうがいい。

 さて、免許も無い場合の最終手段として「タクシー」もあるが、貧乏人の僕は、街で呑んでホテルに帰るまでのワンメーターかそれに毛が生えた程度しか利用したことはありません。したがって、おトク情報など知らない…。
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旅の移動手段 その5 バス

2007年11月03日 | 旅のアングル
 今度のバスで行く 西でも東でも

 ペドロ&カプリシャスの「ジョニーへの伝言」を聴いていると、なんだかバスで動くのって実に欧米風で格好がいいような気がしてくる。外国を旅しているみたいだな。日本だと旅行の風景といえばやはり「終着駅」であったり「波止場」であったりして演歌風になったりするのだが、バスであるとちょっと雰囲気が違うような気がしてくる。あまりウェットじゃない、砂埃舞うバスストップのちょっと愛想のない舞台。

 Kathy, I said as we boarded a Greyhound in Pittsburgh
 Michigan seems like a dream to me now

 「キャシー、今じゃミシガンの事なんてもう夢見てたみたいだよ。」ピッツバーグでグレイハウンドバスに乗るとき僕はそう言ったんだ…僕の大好きなS&Gの「America」の一節だが、やはり街を抜け広い荒野を走るバスの遠景が目に浮かぶようだ。軌道がないところが寂しさを助長するのだろうか。旅好きのバイブルでもある沢木耕太郎の「深夜特急」はバス旅の話だ。なんだか乾いた風景が感じられてくる。
 もっとも、こういうのはアメリカとかメキシコに似合うのであって、日本だとどうもピンとこない。日本では長距離移動はやはり鉄道のものであって、バスは駅から目的地に向ってちょっとだけ乗るもの。それは都会であっても田舎であっても同様、停留所がたくさんあって直ぐに停まり昇降が激しく、常に「次は○○前~」とアナウンスが流れてピンポンとボタンを押して整理券と表示画面を見比べ小銭をポケットから出す。そういう風情が普通である。旅行にはあくまで補助的なもの。
 ずっとそう思っていたのだが、昨今の「夜行長距離バス」の隆盛はそんな感情などどこかへ押しやってしまった。日本でもバスだけで旅行は出来る。バスを乗り継いで北海道でも鹿児島でもどこだって行ける。そういうご時世になった。 

 昔は、長距離バス、夜行バスと言えば首都圏と関西を結ぶ「ドリーム号」がその代名詞だった。僕も若い頃に幾度も乗った。これは国鉄バスであり周遊券でも乗れたので、東京ミニ周遊券の場合には大垣鈍行よりも直通であるだけマシ(直角クロスシートよりリクライニングする座席が寝やすいなどの理由も)ということで、列車よりもバスを選んだものだ。
 しかし、四半世紀前のバスの座席は狭かった。まあ観光バスより少しボロい感じであって、トイレは付いているものの形だけであり、座席も隣と密着していてちょっと太ったおっちゃんが隣に座ろうものならもうその圧力でひしゃげてしまうようだった。暑苦しい。なので夜行バスにはあまりいいイメージを持たなかった。ただ安いという理由だけ。
 今は違う。座席はたいてい三列シートでひとつひとつの席が独立している。カーテンで間を仕切る。ちょっとB寝台かフェリーの特二等を連想させる。初めて金沢~博多間のバス「加賀号」に乗ったときは驚いた。夜行バスってこんなに乗り心地がいいのか。もちろん寝台列車と比べてはいけないが、リクライニングも相当傾く。限りなく寝た姿勢に近くなる。バスで熟睡などかつては考えられなかったのだが、このときはよく寝た。
 それ以来、バスを見直した。もちろん疲れることは疲れるが、昔の比ではない。夜行バスのいいところは、もちろん夜行列車と同様夜に移動してくれる点で、朝になれば目的地に着いている。行動時間が確保できる。僕は若い頃ずいぶんと活用した。
 今はあまり乗らなくなってしまったが、それでも利用するときもある。またバス網が非常に発達して、ありとあらゆるところへ行ける。乗車にはかつて都心のバスターミナルへ行かなくてはいけなかったものだが、最近ではあれっという場所からも発着している。僕の住む最寄の阪神甲子園駅からも、なんと鹿児島行き夜行バスが停まる(甲子園発というわけではないが停留所となっている)。なのでこれは利用しない手はないと思いあるとき乗ってみた。自宅から5分でバス停、そして鹿児島の繁華街天文館まで直通である。ドアtoドア。なんだか信じられない気がした。昨夜自宅で食事をしていて、今日は朝早くから西郷隆盛や大久保利通の住んでいた鹿児島の加治屋町をブラブラしている。飛行機でもこの感触は味わえない。

 僕はバスに可能性を見出し(たつもりになって)、ある年の冬の三連休、バス旅だけで東北を旅行しようと思った。当時住んでいた金沢から新潟へ、そして山形へとバスを乗り継ぎ、最終的には盛岡まで足を伸ばした。そして盛岡から夕刻、仙台行きのバスに乗った。これは約2時間半で着く。着いたらゆっくり酒でも呑んで金沢行き夜行バスに乗って帰ろう。そんな算段だった。
 バスという乗り物の怖さは、交通事情によって遅滞がかなり広範囲に及ぶということである。
 僕は仙台行きのバスの車中、眠りこけてしまっていた。どうせ終点下車だからのんびりと、というつもりだったのだが、ふと目を覚ますとあたりの様子が一変していた。
 その冬は暖冬で、雪などほとんどなかった。だからここまで順調にバス旅を続けてきたのだが、天候が一転して豪雪となっている。バスは渋滞の中で立ち往生していたのだ。時計を見るともうニ時間が経過している。いったいここはどこだ? 何、北上だと?! 
 運転手に聞いてみたら「いつになれば仙台に着けるのかはわかりません。のろのろ運転ですから」とのんびりした答え。うーむ。僕は心底焦った。明日の朝には金沢に居ないとまずいのに。
 バスが一般道を走っていて(高速は通行止めになったのか)のろのろ運転であることを幸いに僕は「下ろしてくれ」と叫んだ。運ちゃんはちょっと渋い顔をしたが緊急事態なのでしょうがない。ただしバス停はないので、北上駅に最も近い場所で、と頼んだ。「ああもうここが近いですよ」わかりましたありがとう。それじゃ。
 それから約1kmくらい僕は雪道を走るように歩き(焦っていたのだ)、北上駅にたどり着いた。新幹線は…と見ると、みんな相当の遅れを出している。ただ駅員に聞くと、ここより南は雪も少なく除雪も進んで比較的順調であるという。盛岡周辺の局地的豪雪であるようだ。とにかく僕は来た新幹線に飛び乗った。
 乗った新幹線車内は、乗客が皆憔悴しきった顔をしている。この新幹線も既に二時間遅れである由。ただ、その後は遅れを取り戻すとまではいかないものの比較的順調に走った。僕は仙台で下車せずそのまま乗り続けた。仙台発の夜行バスなんてとてもこの天候ではアテにならない。大宮で下車して、そこから夜行急行「能登」に乗った。これにもギリギリの時間だった。ふぅ。なんとか助かったぞ。(余談だが、この新幹線の特急料金、列車が二時間以上遅れたので払い戻しの対象となった。僕が乗り込んでからは少ししか遅延していないのでいいのかな、とも思ったのだが細かいことは問い合わせなかった。バス代が浮いた)
 バスという乗り物は怖い。雪などの天候でもこのように左右されるが、その他にも事故などの交通渋滞で時間の振れ幅が大きい。僕は結構懲りてしまって、行きはいいが帰りに使うのはやはり時間に余裕がないと躊躇してしまう。夜行バスはまだ柔軟に対応してくれるが、昼行バスで接続させる場合は相当の余裕が必要であることを学んだ。(しかし僕はこんなことばっかりやっているな)

 さて、長距離バスなどはともかくとして、旅行先ではやはりバスに乗らないといけないときが出てくる。バスはあらゆる地域を網羅している。鉄道はそんな細かい地域まで面倒を見てくれない。
 しかし、バスは知らない街で乗るのはちょっと怖い。バスターミナルを併設している大きな駅から乗るのならともかく(こういう場合はたいてい始発だ)、田舎でバス停を探したりするのはなかなか慣れない。雪の降る県道でいつ来るかわからないバスを待っているときなど相当に心細くなる。バスはたいてい時間通りにやってこない。もしかしたらもう行ってしまった後では、と不安になったりする。
 都会でも不安は同じだ。まず、繁華街などバス停がいくつもあって、どこから乗って良いのかわからない。また、知らない街でバス路線図など読み解くのは至難のワザで、どのバスに乗ればいいのかまず分からない。目的地も「○○団地前」とか聞いたことのないものばかりだ。よほど地理に精通していないと無理である。
 また地方によってバスの作法も違う。東京などは料金先払いだ。均一料金だから先に払えと言われても、旅行者は料金を知らないのにどうするんだ。回数券などもちろん持ってないぞ。オタオタしちゃうじゃないか。また沖縄では手を上げないとバスが止まってくれない。タクシーじゃないんだから。直前にならないと目の悪い旅行者は目的のバスかどうかわからんじゃないか。うーむ。
 僕は京都育ちなので京都市内を走るバスには精通しているが、旅行者は戸惑うだろうな。よく泣きそうな顔で「晴明神社に行きたいんですけどどれに乗ったらいいんでしょうか」と尋ねる人が居る。そうだろう。バスには「晴明神社行き」なんて書いてはいないもんな。あっちのバス停から堀川通り上賀茂神社行きに乗ってください。一条戻り橋で降りればいいですから。そうすっと出るようになるには京都に精通しないと無理だよ。これが僕も旅先だと「すいませんけど…」と人に尋ねることになるのだ。かくして、歩いたりレンタサイクルの方が早いや、と思ってしまいだんだんバスには乗らなくなってしまう。

 なんだかバスの問題点をあげつらったみたいになってしまった。決してそんなつもりじゃなかったのだが。
 路線バスというものは、道路さえあればありとあらゆるところへ入っていってくれる。それが都市部では路線が多すぎることに繋がり旅行者はどうしていいのかわからなくなるが、当然ローカルな山間部などにも入っていってくれる。よく晴れた渚の道も走ってくれる。有難い乗り物なのである。
 最近過疎地を中心に路線バスはどんどん衰退している。時代の流れではあるが、旅行者としては惜しい。本当にローカルバスに乗ると、昇降客は最初だけであとは延々運転手と二人きりなんてことはしばしばある。「どちらまで行かれるのですか」などと話しかけられたりして。○○温泉ですよ。ああそれなら終点ですからどうぞごゆっくり。もうすぐ紅葉が綺麗なところへ差し掛かりますよ…てな会話もまた楽しい。地元の人の足はもう乗用車となり路線バスの命脈もあとどれくらいか。しょうがないことだけれども、もう少し乗ってみたいと勝手な旅行者は考えてしまうのである。
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