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日本を馬鹿(馬鹿文系)が叩く、だが、それはどの程度正しいのか?非常に疑問である。

マツコの怒り新党に出ていた「大泉滉」さん、知らない人に伝えたい「日本のバスター・キートン」の一面を

2017年02月15日 23時54分58秒 | 先の無いおっさんの改革案

マツコの怒り新党に出ていた「大泉滉」さんは「誰?」と思われるだろう。

大泉滉と言うと一番印象があるのは1980年代の三菱電機の冷蔵庫のCMである。

彼は、その頃、もう半分引退していた。

元々ボードビリアン(舞台喜劇役者:渥美清などがそう)であり、記憶をたどると、ロシア系の血が入った子供で、片親だったと思う。

彼は、立川談志と同じで、何時も腹を減らしていた。

彼は本当に食うだけの為に、働いて、ロシア系の、小柄の矮小な人間が戦後の荒波で生きるには、もう仕事を選んでいられなかった。

その点は談志とは違っていた。

マツコの怒り新党に出ていた「大泉滉」さんはサングラスをしていたが、碧眼である事を隠す為だが、それ以前に彼は人が嫌いなようだった。

彼は一財産を築いて、芸能界からセミリタイヤをすぐにした。

その後は東京近郊に大きな自宅と広大な畑を手にした。

元々芸能活動をしている時から農業には並々ならない興味を持っていた人だった。

人と話すよりは、野菜や土に向かっている時間が多く、好きなようだった。

彼の素顔はググれば見られると思うけど、それは捕まえられた野犬が殺処分の前に置かれるケージの中で戸惑って、ただ目を見開いる様子に見える。

それは、彼が人を恐れて恐れて生きてきた中で身に沁みついた癖のようなものだった。

彼はドキュメンタリーに出たこともあるが、その時、カメラを見て話す様子は殆どなかったと記憶している。

それはアメリカの喜劇王の一人「バスター・キートン」のそれと良く似ている。

大泉滉氏自身、それを意識していたのだろう。

晩年の立川談志師匠もそうだったが、何か寂しそうだった。

この時期そんな人が多かった。

東八郎もそうだし、伴淳三郎もそうだった。

とぼけた感じだったが、とぼけていなければやっていられない時代でもあったろう。

そうそう、おヒョイさんも、大泉滉の流れに近い。

トボけた様子だったが、それは母親か祖母の言いつけに従っていたのだと言う。

「怒られたなら、兎に角頭を下げなさい、頭を下げれば、頭の上を、道理が通り抜けていくよ。」

つまり、道理は「いちゃもん」である。

おヒョイさんは、コスモポリタンな様子が有り、1960年代に、どう言うつもりが会ったのか、あの人はヨーロッパを半年ぐらい旅行をした。

左翼の糞馬鹿が歴史を消そうとしているが、この1960年代から1993年になるまで、ヨーロッパは爆弾や誘拐のテロがよく起きていた。

そんな中を、まさにヒョイヒョイと気転も利いたのだろうが、何気なくすり抜けいていった。

今回のマツコの怒り新党では「バブルスター」のCMが取り上げられていた。

朝日ソーラーは販売方法の問題で警察が入って、その後名前を余り聞かない。

その40代の俳優の豪快さは、やっぱり、大泉滉氏のオドオドしているような、ムンクの叫びの様な不安感と逆の方向を向いていた。

だが、大泉滉氏や、伴淳三郎氏、おヒョイ氏(さんの方が良いですかね?)、東八郎氏は、強力な個性を受け流す、そんな、海藻のような感じの人たちで、それは無くてはならないものであった。

マツコさんには、その辺をもっと掘って欲しかった。

何か、東マックスなんか、もうちょっと、その東八郎時代のボードビルって奴を見せて貰いたいね。

それって、ちょっとボケている爺さん婆さんの記憶の底の原風景を見せる物じゃないだろうか?

それは、今、早朝や深夜を彷徨う、老人に一番、染みる番組ではないだろうか?



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