富田林百景+ 「とんだばやし」とその周辺の魅力を発信!「ええとこ富田林」

大阪の東南部に位置する人口10万ちょっとのごく普通の町、富田林。その魅力を、市民の手で発見していきます。

池底ツアー2024

2024年02月24日 | イベント

〈画面をクリックすると拡大します〉

今年で4回目になる狭山池の池底ツアー(5回中1回がコロナ禍で中止)、なんと443名の応募がありました。抽選で当選された約200名の方が2月11日のツアーに参加されました。

狭山池は出土した東樋の樋管の年輪年代法などで約1400年前に造られた日本最古のため池とわかっています。

 

〈まずダイジェスト版として、見どころをご案内します。〉

①2024年2月11日 12:46 狭山池南側の池底

池の半分くらいが干上がっています。地形的なこともあり全部水を抜くことはできないそうです。

 

②12:37 池の南側にある人工のわんど(湾処)。

池底ツアーの時だけ、特別中に入れます。1年でこの日だけ。

 

③14:01 龍神社を対岸から、鳥居と社が一直線に並びます。

龍神社は「りゅう じんじゃ」ではなく、「りゅうじん しゃ」が正しい呼び方。

 

④13:40 龍神社と龍神淵。

龍神淵は直径27m、深さ5mのすり鉢状の窪みで、その最初は安政の改修(安政四~五年 1857~58)の時に造られました。

 

⑤14:14 狭山池博物館と狭山池北堤。

春のお彼岸のころ、越乃彼岸桜がいち早く咲き誇ります。

 

⑥14:34 狭山池博物館 狭山池の堤防の断面と池底ツアー

高さ15.4m、幅62mの堤体はかつて存在した中樋付近から採取されました。

 

ここからはツアーの様子をご案内します。

11:20 全体朝礼 さやか公園に50名近くのスタッフが集合。

9:30からすでに、事務局、「さやか観光会」、富田林土木事務所の方は配置に付かれています。

本部・受付・同行解説(リーダー・サブリーダー)・警備・記録・救護/救急・アンケート係に役割分担してスタート。

私は記録係として、富田林観光ボランティア「とんだばやし観光会」として毎年参加しました。

ここさやか公園はもともと狭山藩一万石の北条家の下屋敷があったところで、北条氏は小田原の戦国大名の末裔。五代藩主 氏朝の時に藩士が増え、ここに下屋敷を建設。敷地は自領でなく半田領でその藩主小田原藩大久保氏より年三石六斗で借りていました。

 

11:22 同行するメンバーの朝礼 13班に分かれ、リーダー・サブリーダーが15名見当で参加者を案内します。基本12時からの受付、受付待ちが多い時は11:40より開始。

戦前の昭和13年(1938)に狭山遊園として開園。戦時中は芋畑。昭和27年(1952)に競艇場「狭山競走場」として利用されましたが、都心部から遠いため昭和30年(1955)に競艇場は住之江競艇場に移転。

その後、昭和34年(1959)に狭山遊園が再開しましたが平成12年(2000)に閉園しました。

 

南側半分はほぼ干上がった状況。

南側に西除川(天野川)、南西側に三津屋川が流入します。

 

11:58 さやか公園よりまず第1班出発。タイムキーパーの指示で4分おきに13班が出発します。

 

東岸から狭山池の説明。

北堤の高さは18.5mもあります。飛鳥時代(616年頃 推古天皇24年)の最初の堤の高さは5.4m。幕末 安政の改修(1857~1859)では13.8m。

農業用水の不要な時期、去年の10月13日から池の水を抜いていて、現在も継続中。2月末まで抜くそうです。

 

池の周りの遊歩道は2850m。農業用水180万㎥、洪水調整機能100万㎥、総貯水量280万㎥。

昭和57年(1982)8月に大雨で西除川下流部が氾濫し三千戸を超える浸水被害がありました。これを契機に狭山池を治水ダムに改修する工事を行ない、百年に一度の大雨にも耐えれるようになりました。(時間雨量80ミリ、24時間雨量230ミリに対応)

 

12:29 南側の干上がった池底を歩きます。

工事は昭和63年(1988)に着手、平成14年(2002)に完成、実に14年にわたる大改修が行なわれました。(平成の改修)

 

南側の遊歩道にある記念碑「緑と平和」像。ダム本体工事竣工記念として建之されました。

 

広大な池底。足場はかなりしっかりしています。砂がしっかり固まった感じ。

池の水を抜く理由は2つあります。

ひとつは水質改善のため。夏場のアオコの発生を少なくすることが目的です。池底に日光を当てておくと池底に貯まった窒素化合物などの栄養分が水中に溶け出す量を減少させることができるそうです。それでも昨年夏はアオコが発生していました。

ふたつ目は上流から流れてきて溜まった土砂を撤去するためです。

平成26年から毎年されています。

 

12:37 平成の大改修でつくられた人工のわんど(湾処)。

本来「わんど」は川の本流と繋がっているが、河川構造物などに囲まれて池のようになっている地形のこと。明治期に淀川に設置された水制群に土砂が堆積しできたよどみを「わんど」と呼びました。

ここのわんどは平成の改修の時に、池の水が干上がっても水生生物が生き残れるように、また野鳥が休める場として人工的に作られました。

 

13:18 池中央部西側の西除常用洪水吐

ここと隣りの西除非常用洪水吐が狭山池ダムの治水機能で100万㎥の洪水調節容量を持ちます。

ここが越流するまでは180万㎥の農業用水を貯水し、それ以上は放流する越流堤。さらに水位が上昇すると西除非常用洪水吐から越流します。

もっと急激に水位が上昇すれば東除洪水吐からも合わせて越流します。

 

放流ゲートよりの放流。2月末までは放流されています。

 

龍神社は幕末、嘉永六年(1853)に雨乞いの神様「善女大龍王」が狭山池の西堤の祠に勧請されました。

あとの時代の民話として狭山池の龍が雌の龍とされるきっかけはこの「善女大龍王」から来ているようです。

龍神淵は安政の改修(安政四~五年 1857~58)でけが人がが出たとき、西除の滝壷を埋めたのが原因とされました。このため池が干上がっても水が残るよう「龍神淵」を掘り、ここに「如意宝大龍王」を祀り、淵の底に壷を埋めたことが狭山藩の藩医をしていた壷井家の文書に記されています。

コンクリートのない江戸期は西除が何度も崩壊したり、滝壷のようにえぐられたりして水害の要因となったようです。副池は付替え前の西除で、えぐられた谷筋をせき止めた池になります。

 

 

現在のように池の中に移されたのは安政四~五年(1857~58)からで、大雨で崩壊した西除を修復した安政の改修の時でした。なお現在の龍神社は平成の改修の時に建て替えられました。

狭山池 龍神社 神事2023  2023.6.8

 

平成の改修の時、日本の城郭建築の算木積みや切込み接ぎ(はぎ)で作られた石垣。

向こうに見えるのは龍神社の鳥居。

 

平成の改修の時に、淵の底から壷が発見されました。その壷は開けられることなく、新しい龍神淵が完成後再度そこに納められたそうです。

 

対岸のさやか公園からの遠景。参加者が小さく見えます。

二上山からの日の出~狭山池2021.4 2021.4.12

 

北堤を狭山池博物館の方に向かう参加者。

 

狭山池博物館のことやここからの景色についてお話をされています。

ここの標高は85.7mとかなり高いのであべのハルカスはもとより、空気のきれいな時は太陽の塔も見えるそうです。

 

ここは写真スポットなので、こうなりますね。

 

逆に反対側から撮るとこれまたおもしろい。

 

巨大な堤体を見上げながらの解説。

北堤をはぎ取る形で保存処理がされています。

 

各班ごとに約1時間の館内解説。2時間も歩いた後でしたが、熱心に解説に耳を傾けられていました。

 

各班の解説状況。館内には国重要文化財がいくつもあります。

中樋の取水部分も重要文化財のひとつ。

 

大和川付替え(宝永元年 1704)前の狭山池の水利についての説明図。

仁徳陵や四天王寺付近までの農業用水を供給し、平野川、第二寝屋川を経由して最終的に大阪城の東で大川(淀川)に至り、最終的に大阪湾に注ぎました。

 

中樋(重要文化財)について説明するリーダー(解説者)

3時間にも至る池底ツアーと博物館の展示解説、お疲れ様でした。

参加者の皆さんはこの後、アンケートに答えられ、記念品を受け取られました。

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撮影:2024年2月11日

2024年2月24日 (HN:アブラコウモリH )

 

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