平和への道

私の兄弟、友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」(詩篇122:8)

カイザルのものと神のもの(2016.2.3 祈り会)

2016-02-04 09:40:37 | 祈り会メッセージ
2016年2月3日祈り会メッセージ
『カイザルのものと神のもの』
【マルコ12:13~17】

はじめに
 私が沼津教会に着任した2013年の春、当時の私は牧師としての経験はまだ1年しかありませんでした。今でもまだ4年しかありません。年齢的には50代の後半ですが、牧師としてはまだまだ若手です。そのような若手の牧師である私が会堂問題に本格的に取り組むことになり、いろいろ学んでいることは本当に感謝なことだと思っています。やはり会堂問題に取り組まなければ分からないことがあるなと強く感じています。会堂問題は教会全体で取り組まなければなりませんから、私の個人的な信仰だけではどうにもなりません。そこに難しさを感じていますが、多くのことを学ばせていただいてもいますから感謝に思っています。

個人と教会との違い
 私個人に関しては、私は神様との関係が築けていると思っていますので、どうなろうと既に神様にすべてお委ねした身ですから、自分の思い描いていた方向と違う方向に進んだとしても、お委ねするしかないと割り切っています。8年前までは私は東京で働いていて、自宅は高津駅の近くのマンションを購入して快適な暮らしをしていました。しかし神様に召し出されて自宅のマンションを売却し、持ち物の大半を処分して聖宣神学院の男子寮に移り住み、古い二段ベッドの下の段に身を横たえた時から私は神様にすべてを委ねましたから、どうなろうと御心なら受け入れる心境になっています。二段ベッドの下の段は、横たわると目のすぐ上に上の段の板があります。ですから最初は圧迫感を感じました。その時に私は快適なマンション暮らしとは決別したのだということを強く感じました。
 ですから私個人については、この先どうなるかわからないけれど神様にお委ねしていますから、それほど不安には思っていません。しかし教会に関しては、そういうわけには行きません。教会に関しては、私一人の思いで動いて行くわけではありませんから、この先どうなるかわからないことに大きな不安を持っています。私一人のことなら、どうにもならなくなって困ったとしても自分で引き受けますが、教会がどうにもならなくなって教会の皆さんが困ることになったら大変ですから、不安があります。ですから皆さんと共に祈り、そして話し合って合意を形成しながら教会運営をして行かなければなりません。
 特に会堂問題の場合は多額の資金を動かさなければなりませんから、本当に難しさを感じます。その中で学ばせていただいているのが、御霊の一致を保つにはどうしたら良いかということです。このことは、常に話していることですから、きょうは触れません。きょう話すのは、今回、新たに気付かされたこととして、お金の動きに関することです。教会の働きは、お金の動きがある程度はあることも必要なのだなということを、最近にわかに意識するようになりました。
 私は理工系の出身なので経済のことはあまり良くわかりません。それで日銀による大胆な金融緩和ということに関しても、あまり理解していませんでしたし、それほど関心もありませんでした。しかし最近の「マイナス金利」という話になって来ると、耳慣れない言葉ですから「おやっ?」と思っていささか興味を引かれますし、住宅ローンの金利が下がって会堂建設資金の融資も受けやすくなるかもしれませんから、自ずと関心を持つようになりました。とは言え、大胆な金融緩和について、そんなにすぐによく分かるようになるわけではないのですが、要するに日銀も政府も日本国内でお金がもっと使われるように、あの手この手でいろいろやっているのですね。お金の流れを良くすることで国の経済が良くなりデフレから脱却して景気が良くなるということのようですが、今回私は、教会の経済も同じなのかなと感じ始めています。

お金の動きも必要な教会運営
 どういうことかと言うと、最近、当初は予期していなかった出費がいろいろと発生して来ています。玄関の看板が壊れて新調したり、隣の土地の固定資産税を分担しなければならなくなったりしました。或いはまた、隣の整地が完了しましたが、地面が柔らかい土の状態ですから、雨の日にはぬかるんで車が出られなくなるかもしれませんし、晴れた風の強い日には土ボコリが大量に舞い上がってご近所に迷惑を掛けるかもしれません。ですから、その対策のために砂利を入れる必要がありそうです。これらの出費は少し前まではぜんぜん考えていなかったことですから、まったく頭の痛い問題です。
 けれどもお金を使うことで、それが伝道につながって行くのだということも私は思うようになりました。ギデオン協会の聖書配布もそのための資金が捧げられることで初めて成り立ちます。多くの献金が捧げられれば、それだけ多くの聖書を配布できて伝道の働きが回って行くことになります。チラシを見て教会に人が来るのも、チラシにお金を掛ければこそのことです。きのう看板屋さんの若い職人さんが二人来てくれて駐車場の看板と玄関の看板を取り付けてくれました。この二人の職人さんは「キリスト教会」と書かれた看板の表面を傷つけないように、とても丁寧に扱っていました。そしてプロの仕事で、しっかりとキリスト教会の看板を設置してくれました。私はそれを見て、とても貴いことだと思いました。こうして二人とキリスト教会との接点ができたわけです。これは看板にお金を使わなければできなかったことです。
 これまで私たちは会堂のことに、あまりお金を使わないで来ました。修繕もできるだけ自力でして来ました。屋根のペンキ塗りも私がしました。それはそれでお金を節約しながら大事に使うことは必要ですから良いのですが、節約ばかりでは教会と地域社会とのつながりが広がって行かないのだなと思いました。今回、看板屋さんに看板を発注して、お金を媒介にして地域と教会とがつながって行く側面もあるのだということに改めて気付かされました。もちろん、私たちが第一にしなければならないことは、聖書のみことばを宣べ伝えることですが、ただそのことだけに専心してお金をなるべく使わないようにすることが必ずしも良いわけではなく、使うべき時には使ってお金の流れを良くすることも教会には必要なのだなということを私は今回、学ばせていただいています。

カイザルのものはカイザルに
 短くみことばに目を留めます。マルコ12章13節と14節をお読みします。ここで「彼ら」というのは、祭司長、律法学者、長老たちです。

12:13 さて、彼らは、イエスに何か言わせて、わなに陥れようとして、パリサイ人とヘロデ党の者数人をイエスのところへ送った。
12:14 彼らはイエスのところに来て、言った。「先生。私たちは、あなたが真実な方で、だれをもはばからない方だと存じています。あなたは人の顔色を見ず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです。ところで、カイザルに税金を納めることは律法にかなっていることでしょうか、かなっていないことでしょうか。納めるべきでしょうか、納めるべきでないのでしょうか。」

 13節に「わなに陥れようとして」とあります。当時のユダヤはローマに支配されていました。ですからユダヤ人はローマに税金を納めなければなりませんでした。このことをユダヤ人は屈辱的に思っていました。ですから、もしイエスさまが「カイザルに税金を納めるべきです」と答えれば、イエスさまは取税人のように人々から嫌われることになりますから、祭司長たちにとっては都合が良いことです。一方、もし「カイザルに税金を納めるべきではありません」と答えればローマに対する反逆だとして捕らえられることになるかもしれません。これも祭司長たちにとっては好ましいことです。これが罠です。
 さてイエスさまの答はこうでした。15節から17節、

12:15 イエスは彼らの擬装を見抜いて言われた。「なぜ、わたしをためすのか。デナリ銀貨を持って来て見せなさい。」
12:16 彼らは持って来た。そこでイエスは彼らに言われた。「これはだれの肖像ですか。だれの銘ですか。」彼らは、「カイザルのです」と言った。
12:17 するとイエスは言われた。「カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」彼らはイエスに驚嘆した。

 イエスさまは「カイザルのものはカイザルに返しなさい」と答えてローマに税金を納めることを否定しませんでした。当時、ローマは地中海沿岸一帯を支配していました。このローマの支配の下で平和が保たれ、交通網も整備されていて、このことに税金も使われていました。この平和が保たれ、交通網が整備されていたおかげでパウロの時代には広い範囲にキリスト教が広まって行くことができたのですね。ですからローマに税金を納めることは後にイエス・キリストの福音が広く宣べ伝えられることに、とても役に立ちました。
 私たちの教会も、これからいろいろな出費が発生します。予期せぬ出費も発生することでしょう。それは大変に頭の痛い問題ですが、支払うべき所には快く支払ってお金の流れをよくすることで伝道の働きもまた祝されるのだということも覚えておきたいと思います。

神のものは神に
 最後に、イエスさまはもう一言付け加えました。「そして神のものは神に返しなさい」とイエスさまはおっしゃいました。「神のもの」とは私たちのことでもあります。お金は世俗の支配者に返し、神に似たものとして造られた私たちは神のもとに帰る。この神のもとに帰るということが大事なことなのだというイエスさまのメッセージを、しっかりと受け留めたいと思います。
 私たちは地域の方々が神様の御もとに帰ることができるよう、伝道の働きに励まなければなりません。そのためにはお金を使うことも必要です。しかし、いったいどれくらい使えば良いのか。新しい会堂を建てるにしても、どれくらいの大きさの会堂が私たちにふさわしいのか。いろいろとわからないことばかりです。神様が私たちに知恵を与えて下さり、導いて下さるようにお祈りしたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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