平和への道

私の兄弟、友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」(詩篇122:8)

1:6-8(ヨハネの福音書注解)私たちの心の自由さ加減を試すヨハネ

2017-10-08 15:22:15 | ヨハネの福音書注解
ヨハネ1:6-8 私たちの心の自由さ加減を試すヨハネ

神から遣わされたヨハネという人が現れた。この人はあかしのために来た。光についてあかしするためであり、すべての人が彼によって信じるためである。彼は光ではなかった。ただ光についてあかしするために来たのである。(ヨハネ1:6-8)


 このヨハネ1章6~8節は、私たちの心がどれだけ自由であるかを記者のヨハネに試されているかのような箇所だ。「ヨハネという人」の「ヨハネ」を単に「バプテスマのヨハネ」と考えるだけなら、私たちの心は全く自由になっていない。しかし、心が自由を獲得するなら、この「ヨハネ」は「使徒ヨハネ」でもあり、「1~21世紀のクリスチャン」のことでもあることが見えて来るであろう。
 既に述べた通り、記者のヨハネはこの福音書で「霊的イエス」を描いた。その手法は、「人間イエス」に「霊的イエス」を重ねるというものである。従って、霊的な目が開いていない者には「人間イエス」しか見えないが、霊的な目が開いた者には「霊的イエス」も見える。ただし、心の自由が十分に得られていないなら「霊的イエス」はあまり見えないかもしれない。
 「ヨハネ」も同様だ。霊的な目が開いていない者には「バプテスマのヨハネ」しか見えないが、霊的な目が開いて心の自由を獲得した者には「使徒ヨハネ」や「1~21世紀のクリスチャン」が重ねられていることが見えるだろう。ただし心の自由が十分に得られていないなら、「バプテスマのヨハネ」以外にはあまり見えないかもしれない。
 21世紀のクリスチャンの私たちもまた「ヨハネ」だ。私たちもイエスの証人になるために神から遣わされた者たちだ。それは、私たちの証言によってすべての人が信じるためだ。21世紀の人々に対しては、21世紀の私たちがイエスの証人にならなければならないのだ。
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1:5(ヨハネの福音書注解) 私たちの心を自由にしてくれるヨハネの福音書

2017-10-08 15:15:15 | ヨハネの福音書注解
ヨハネ1:5 私たちの心を自由にしてくれるヨハネの福音書

光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。(ヨハネ1:5)


 この「光はやみの中に輝いている」は霊的な世界における光景だ。霊的な目が開かれた人にはイエス・キリストが放つ光が見える。しかし、神との関係が絶たれたままの人には、この光は見えない。
 霊的な目が開かれるためには、御子イエスについての証言を信じる必要がある。他者が語るイエスについての証言を聞いて、イエスが神の子キリストであると信じるなら、その人は聖霊を受けて霊的な目が開かれる。
 マタイ・マルコ・ルカの福音書には、このイエスについての証言が書かれているから、霊的な目が開かれるためにはマタイ・マルコ・ルカの福音書を読んでイエスが神の子キリストであると信じれば良い。ヨハネの福音書には、信じた後の、さらにその先のことが書かれている。
 イエスを信じたユダヤ人たちにイエスは次のように言ったとヨハネは書いている。

そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」(ヨハネ8:31-32)


 ここにいるイエスを信じたユダヤ人たちとは、この福音書の読者の私たちのことでもある。私たちがイエスを信じてイエスのことばにとどまるなら、私たちはイエスの本当の弟子になる。そして、私たちは真理を知り、真理は私たちを自由にする。この自由を獲得するなら、私たちは心の深い平安を得ることができる。
 ヨハネの福音書の「霊的イエス」はあらゆる時代を自由に行き巡っている。この自由な「霊的イエス」を理解すればするほど私たちの心も自由になる。「霊的イエス」を描いたヨハネの福音書が「人間イエス」を描いたマタイ・マルコ・ルカの福音書とはまったく異なる書であることのサインは、最初の段階から随所で示されているので、私たちはそれらのサインを見落とさないようにしたい。
 次の6節の「ヨハネ」もまた、そのサインの一つだ。
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