●ヨハネ1:6-8 私たちの心の自由さ加減を試すヨハネ
このヨハネ1章6~8節は、私たちの心がどれだけ自由であるかを記者のヨハネに試されているかのような箇所だ。「ヨハネという人」の「ヨハネ」を単に「バプテスマのヨハネ」と考えるだけなら、私たちの心は全く自由になっていない。しかし、心が自由を獲得するなら、この「ヨハネ」は「使徒ヨハネ」でもあり、「1~21世紀のクリスチャン」のことでもあることが見えて来るであろう。
既に述べた通り、記者のヨハネはこの福音書で「霊的イエス」を描いた。その手法は、「人間イエス」に「霊的イエス」を重ねるというものである。従って、霊的な目が開いていない者には「人間イエス」しか見えないが、霊的な目が開いた者には「霊的イエス」も見える。ただし、心の自由が十分に得られていないなら「霊的イエス」はあまり見えないかもしれない。
「ヨハネ」も同様だ。霊的な目が開いていない者には「バプテスマのヨハネ」しか見えないが、霊的な目が開いて心の自由を獲得した者には「使徒ヨハネ」や「1~21世紀のクリスチャン」が重ねられていることが見えるだろう。ただし心の自由が十分に得られていないなら、「バプテスマのヨハネ」以外にはあまり見えないかもしれない。
21世紀のクリスチャンの私たちもまた「ヨハネ」だ。私たちもイエスの証人になるために神から遣わされた者たちだ。それは、私たちの証言によってすべての人が信じるためだ。21世紀の人々に対しては、21世紀の私たちがイエスの証人にならなければならないのだ。
神から遣わされたヨハネという人が現れた。この人はあかしのために来た。光についてあかしするためであり、すべての人が彼によって信じるためである。彼は光ではなかった。ただ光についてあかしするために来たのである。(ヨハネ1:6-8)
このヨハネ1章6~8節は、私たちの心がどれだけ自由であるかを記者のヨハネに試されているかのような箇所だ。「ヨハネという人」の「ヨハネ」を単に「バプテスマのヨハネ」と考えるだけなら、私たちの心は全く自由になっていない。しかし、心が自由を獲得するなら、この「ヨハネ」は「使徒ヨハネ」でもあり、「1~21世紀のクリスチャン」のことでもあることが見えて来るであろう。
既に述べた通り、記者のヨハネはこの福音書で「霊的イエス」を描いた。その手法は、「人間イエス」に「霊的イエス」を重ねるというものである。従って、霊的な目が開いていない者には「人間イエス」しか見えないが、霊的な目が開いた者には「霊的イエス」も見える。ただし、心の自由が十分に得られていないなら「霊的イエス」はあまり見えないかもしれない。
「ヨハネ」も同様だ。霊的な目が開いていない者には「バプテスマのヨハネ」しか見えないが、霊的な目が開いて心の自由を獲得した者には「使徒ヨハネ」や「1~21世紀のクリスチャン」が重ねられていることが見えるだろう。ただし心の自由が十分に得られていないなら、「バプテスマのヨハネ」以外にはあまり見えないかもしれない。
21世紀のクリスチャンの私たちもまた「ヨハネ」だ。私たちもイエスの証人になるために神から遣わされた者たちだ。それは、私たちの証言によってすべての人が信じるためだ。21世紀の人々に対しては、21世紀の私たちがイエスの証人にならなければならないのだ。