平和への道

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聖書信仰とヨハネの創作の受け入れについて

2017-07-07 16:56:15 | 折々のつぶやき
【聖書信仰とヨハネの創作の受け入れについて】

1.C.S.ルイスの『キリスト教の精髄』(柳生直行・訳)を何年ぶりかで読み返した。第4部3章の「時間と時間の彼方」には私の「『ヨハネの福音書』と『夕凪の街 桜の国』」に似た時間観が書かれている。私は『キリスト教の精髄』を参考図書に挙げなかったが影響を受けていたかもしれない。

2.ルイスは、人と神の時間の違いを面白い例で説明する。彼が小説で「メリーは針仕事を置いた。すると、ドアをたたく音が聞こえた」と書いたとすると、小説の中のメリーはこれらが短時間の中で起きている。しかし彼はこの文章を何時間も掛けて書くこともあるのだと。ルイスが神でメリーが人だ。

3.「神の時間」と「人の時間」が全く異なることをルイスは良く理解している。しかし、そんなルイスも『ヨハネの福音書』の独特の時間構造には気付いていなかった。もし気付いていれば、この『キリスト教の精髄』の「時間と時間の彼方」の章で多少なりとも『ヨハネの福音書』に言及する筈だ。

4.なぜ私たちはこれまで『ヨハネの福音書』の独特の時間構造に気付くことができなかったのか。これは是非とも解明しなければならない問題だ。だから私は多くの人々と共に、この問題を考えたいと願っている。なかなか仲間が増えないのが何とも歯がゆいが、希望を持って考察して行きたい。

5.なぜ『ヨハネの福音書』の重層構造に気付かなかったのか、とりあえず21世紀の私たちに絞って考えてみたい。私は2001年から教会に通い始めたので、2~20世紀の教会のことを直接は知らない。まずは自分が知っている時代から考察を始めるのが良いだろう。20世紀以前はその後だ。

6.なぜ『ヨハネの福音書』の重層構造が気付かれなかったか、近頃話題の「聖書信仰」が関わっていそうだ。「聖書信仰」が重層構造に気付くための前提であるが、逆にこの「聖書信仰」が気付きの邪魔をしている面もある。ヨハネが創作を取り入れていることを「聖書信仰」を持つ人は受け入れ難いだろう。

7.聖書信仰を持つ人は聖書の記述に誤りはないと信じている。すると創作があることを受け入れ難くなるだろう。一方、聖書信仰を持たない人は創作があることを受け入れるだろうが、イエスの復活を本気で信じていないから聖霊を受けていない。聖霊を受けないとヨハネの重層構造に気付くことは難しい。

8.例えばイエスがナタナエルを見て「これこそ、ほんとうのイスラエル人だ。彼のうちには偽りがない」(ヨハネ1:47)と言ったことをヨハネは創世記32:28で神がヤコブに「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ」と言ったことと重ねている。これはヨハネの創作だ。

9.ヨハネはこの1:47の創作を通して、御子イエスが創世記の時代から父と共にいて神の言葉を人に伝えている様子を描いている。聖書信仰を持つ人はこの創作に気付かない。一方、聖書信仰がなくて聖霊を受けていない人は、創世記の時代に霊的な御子イエスが父と共にいることを感じられないだろう。

10.或いはまた、イエスが水をワインに変えたヨハネ2章の「最初のしるし」は、モーセがナイル川の水を血に変えたことと五旬節の日にガリラヤ人の弟子たちが聖霊を受けたことの両方が重ねられている。この三層構造が三位一体の神の霊を表すことに、聖書信仰を持つ人も持たない人も気付かないだろう。

11.まとめ。聖書の記述を疑う人は聖霊を受けないので神の霊を感じることが難しく、従ってヨハネの福音書の重層構造に気付かなかったことは理解できます。一方、聖書信仰を持つ人は聖霊を受けますから重層構造に気付いても良さそうなものですが、創作を受け入れ難い問題があったのだろうと考えます。
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