平和への道

私の兄弟、友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」(詩篇122:8)

受け継がれる信仰(2016.10.26 祈り会)

2016-10-27 05:17:36 | 祈り会メッセージ
2016年10月26日祈り会メッセージ
『受け継がれる信仰』
【ヘブル11:8~10】

11:8 信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。
11:9 信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに相続するイサクやヤコブとともに天幕生活をしました。
11:10 彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です。

はじめに
 前の2週間ほどはノアとアブラハムの間の期間についての箇所について、思いを巡らしました。今週からはアブラハムの時代に入って行きたいと思います。ヘブル11章ではアブラハムについて、かなり長い記述がありますから、何回かに分けてアブラハムの箇所を見ることにしたいと思います。

イサクとヤコブに引き継がれたアブラハムの信仰

 きょうは11章の8節から10節までをご一緒に読みました。この箇所で私は9節の後半の、アブラハムが同じ約束をともに相続するイサクやヤコブとともに天幕生活をしたという箇所に目がとまりました。どうして、この箇所に私の目がとまったのか、それは多分、つい最近、召天者記念礼拝と教団創立記念礼拝があって前の世代から今の世代への継承、そして次の世代への継承について考えたからだろうと思います。そして、つい先日の幹事会においても、新会堂の問題について、融資の返済は次の世代が責任を持って引き継いで行くということが意識されました。これまでに新会堂の問題について数え切れないぐらい話し合いを重ねて来ましたが、次の世代が責任を持って返済を引き受けるということがハッキリと意識されたのは、今回が初めてではなかったかと思います。このことは、非常に良いことだったなと思います。どれくらいの融資を受けるかによらず、新会堂は次の世代が受け継ぐことになります。たとえ融資がゼロであったとしても、会堂の維持管理と修繕は次の世代が引き継いで行くことになります。ですから、今回の幹事会で次の世代が責任を持つということが意識されるようになったことは、とても良かったなと思います。
 イサクもヤコブも親の世代から信仰を受け継ぎ、次の世代へと引き渡して行きました。そうしてヤコブの次の世代がイスラエル12部族の祖先になりました。創世記を読むならイサクの時代にもヤコブの時代にも、それぞれにドラマがあったことがわかります。特にヤコブを興味深く思います。ヘブル書からは、はずれますが(ヘブル書はアブラハムの信仰について書いているので)、ヤコブについて少し考えながら、今の私の問題意識について語らせていただきたいと思います。

元気だった若者から元気がない若者へ

 ヤコブは、本来は兄のエサウのものであった長子の権利を横取りしてしまいました。そういう意味では革命児的なところがあると思います。父親のイサクの場合は、アブラハムがモリヤの地でイサクを全焼のいけにえとして捧げようとした時に抵抗せずに従順に従いました。その時のイサクの心情がどうであったか聖書は記していないのでイサクの内面のことはわかりませんが、表面上を見る限りでは大人しくアブラハムに従いました。しかし、もしアブラハムの息子がヤコブであったなら、ヤコブが大人しく従ったとは思えません。ヤコブは上の者たちが言うことに黙って従うタイプではない、革命児的なタイプの人間でした。ヤコブも年老いた時には角が取れたように思いますが、若い時には反骨精神が旺盛でした。
 日本が大きく変わった幕末から明治維新に掛けて、そして第二次世界大戦の敗戦後も、ヤコブのような若者たちが活躍した時期であったと思います。この時期は日本におけるキリスト教の宣教が大きく伸びた時期でもあります。明治の初期にキリスト教が広まった時期には新島襄や内村鑑三など士族出身の若者たちの働きが大きく貢献しました。71年前の敗戦後の時代も若い人たちが大勢教会に押し寄せました。良くも悪くも若い人々に元気があり、暴れていました。しかし、戦後、歳月が流れるにつれて若者は社会の中では段々と大人しくなって行ったように思います。
 たとえば日米の安保条約に関しては1960年と1970年に、これに反対する学生デモが大規模に行われました。私は70年と80年の間の、75年から78年に掛けて高校時代を過ごし、大学生の時に1980年を迎えました。あれは確か77年の高校3年生の時だったと思いますが、70年の安保条約改定の反対デモに学生時代に参加した経験がある若い社会科の教師が、私たち高校生に向かって、「80年のデモは君たちが行うんだよ」とあおっていました。しかし、1980年には何も起こりませんでした。

おとなし過ぎた80年代の若者
 今、あの頃を振り返ってみると、私たちの世代はもしかしたら、おとなし過ぎたのかもしれないという気がしています。この1980年頃から、当時の若者のことが「新人類」と言われるようになり、60年と70年にデモを行った世代と大きく違うということが言われました。そうして今の若者たちは新人類の子供たちの世代になりました。そうして今の若い世代には、野党ではなくて与党を支持する若者が多いようです。一昔前までは、若者と言えば権力に反対して野党を支持する者が多いのが普通だったと思いますが、今の若者は与党を支持する者たちが多いようです。それは、つまり現状で良いということで、世の中を変えようという思いがあまり無いと解釈して良いのではないかと思います。そうして、最近では与党の自民党の総裁が、これまでは2期6年までしか務められなかったのを延長することになったそうです。一昔前までだったら、そんなことは党内の若手が猛反対したことと思いますが、今は上の言うことに大人しく従うようになってしまっているようです。
 そして、こんな世の中になってしまったのは、今の若者が悪いのではなく、私たち80年代に学生時代を過ごした世代がおとなし過ぎたせいではないだろうかと、いま私は思わされています。
 キリスト教会も、私たちの上の世代が大きく増やした教会員を、私たちの世代は維持するだけで、そうして私たちの次の世代に引き渡そうとしています。これでは教会が縮小するのも当たり前だという気がします。私たちの世代がしっかりしなかったせいで今日を招いているようで申し訳ないような思いがしています。

今こそが挽回の時
 いま私たちの世代は50代です。昔なら引退が視野に入っている時期です。しかし、私はここへ来て私たちの世代の活躍が目立ち始めているように感じています。私たちの上の世代が若い時から元気だった分、私たちの世代が目立つのが遅れましたが、上の世代が引退して行ったからでしょうか、大きな働きをしているように思います(50代なら当たり前かもしれませんが)。
 私も、神様が教えて下さった、ヨハネの福音書がどういう書であるかということを世の人々に宣べ伝える働きを、11月に入ったら加速させたいと思います。9月に原稿を書き上げ、この1ヶ月は映画をたくさん観たり、私が少額出資している映画の応援をしたりしていましたが、11月からは再びアクセルを踏み込んで行きたいと願っています。
 このことが新会堂の建設にも良い方向に影響を及ぼすと良いなと思っていますが、会堂の建設は教会員の皆さんが主体となって決めて行くのが良いと思いますから、そのための霊性を皆さんが整えられるよう、貢献できたら幸いだと思っています。

おわりに

 アブラハムの信仰がイサクとヤコブに受け継がれて行ったように、私たちの教会の信仰も次の世代に受け継がれて行くよう、神様は教え導いて下さいますから、神様の御声に耳を傾けて行きたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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