平和への道

私の兄弟、友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」(詩篇122:8)

地域のために祈る教会(2015.3.18 祈り会)

2015-03-19 10:51:21 | 祈り会メッセージ
2015年3月18日祈り会メッセージ
『地域のために祈る教会』
【詩篇65:1~4】

はじめに
 これまで祈祷会で何度か見て来た出エジプト記は、2ヶ月前の1月14日の祈祷会から始めました。出エジプト記の学びをしたいと思った動機は、モーセが様々な迷いや思い悩みの中で主の命令を受け入れ、イスラエルの民を率いて行ったことから学んでみたいということでした。
 私たちの教会も思い悩みの中にあります。新会堂を建設したいという強い気持ちはありますが、そんなに簡単なことではないということを、誰もが感じています。その中で私たちは、この会堂問題にどのように取り組んで行ったら良いのか、大きな悩みがあります。もちろん私たちは、主が何とかして下さるであろうという信仰を持って祈っています。しかし、ただ祈っているだけでは、なかなか主の御心が見えて来ないということも段々と学んで来ました。ただ祈りながら主の御業を待ち受けるだけでは物事が良い方向に動くことはなく、私たちが何らかのアクションを起こし、その行動の中に主の御業が現されるのだということを学んで来ています。そうして、少しずつ小さな一歩を踏み出している私たちは常に、次のアクションは何か、次の一歩はどの方向に踏み出すべきなのか、そのことに思い悩みながら歩んで行かなければなりません。
 モーセは死ぬまで苦労が絶えませんでしたから、その苦労に伴う思い悩みも当然ありました。しかし、「迷い」があったのは最初のうちだけで、苦労やそれに伴う悩みはあっても、迷うことなく主の御声に聞き従って行きました。出エジプト記を読むと、主が為された御業がモーセの迷いを無くしていったことがわかります。
 私たちの教会の会堂問題も、これからもずっと苦労や思い悩みが絶えることはないと思いますが、迷いについては段々と無くなっていくのであろうと思います。出エジプト記の学びを始めてからの、この2ヶ月の間だけでも随分と事態が動いています。それは背後で主が動いて下さっている、すなわち御業が為されているということだと思いますから、それに伴い、私たちの迷いは無くなっていくのかなと思います。

地域のために祈る教会
 それで、ここまでに主がどのような御業を為して下さっているのか、期日としては少し行ったり来たりしますが、いま私の頭の中にあることを、お話ししたいと思います。
 まず今私は、4月12日の礼拝説教をどのようにしたら良いか、祈り求めています。次の聖日の3月22日の礼拝説教は前回の続きですので、もう決まっています。その次の29日はDVD説教ですので、私は担当しません。その次の4月5日のイースター礼拝ですから、イースターに因むものです。そして、その次の4月12日の礼拝をどうするかということですが、この日は午前中の礼拝からシオン教会の兄弟が出席して下さるということです。この日の午後に、私たちの教会では会堂問題に関する特別勉強会を、兄弟をお招きして実施することにしています。その兄弟も出席して下さるという午前の礼拝の説教では、何が語られるべきか、祈り求めています。
 そうして今の段階で示されつつあるのが、地域のために祈る教会でありたいということを、皆さんと確認し合いたいということです。
 4月12日の2日前の4月10日は、昨年、片浜の信号の無いT字路で起こった交通事故により、小学5年生の男の子が亡くなった日です。この事故があった時、私はそれまでの祈祷会で地域のために祈って来なかったことを悔やみました。祈祷会で何を祈ったかは、週報の3ページ目に記録されていますから、過去の週報を見れば、祈祷会で何を祈ったかがわかります。そして去年の4月10日より前の祈祷会の記録を見ると、地域のために全く祈って来なかったことがわかります。このことを私は悔やみ、事故の後の最初の4月16日の祈祷会では、祈祷課題として

「地域の方々のため、特に子供達とお年寄りの安全が守られるように。地域伝道の中心となる教会の会堂が与えられるように」

を挙げたことが昨年の週報を見るとわかります。
 つまり、昨年の4月のお祈りで私たちは、地域の方々のためのお祈りと会堂問題とを、一つのセットにしてお祈りしていました。そして週報によれば、翌週の4月23日の祈祷会でも、同じ課題で祈っています。つまり地域のための祈りと会堂問題とをセットにして祈っています。次の4月30日は葬儀がありましたから、祈祷会はお休みをして、その次の5月7日も、やはり地域のための祈りと会堂問題とをセットにしています。

教会の二つの大きな柱
 そうして、この去年の5月に会堂問題が大きく動き始めました。去年の5月25日の幹事会で配布した会堂の屋根の状態に関するレポートによれば、私は昨年の5月22日に会堂の屋根に上がり、屋根の腐食が相当に進んでいることがわかりました。そして、このことを幹事会で報告し、幹事以外の教会の皆さんにも報告し、静岡教区の主事とBAにも報告し、さらには教団の会堂委員会の委員長に報告し、代表にも報告しました。そうして7月の13日に第1回の会堂建設委員会を開いて、屋根の葺き替えは行わずに、新会堂に向かって歩み出すことを確認し合いました。
 こうした経緯を見ると、祈祷会で地域のための祈りと会堂問題とをセットにして祈り始めたことで事態が動き始めたのだなと私はいま、改めて思っています。そして、地域のために祈る教会であることが、この教会の大きな柱であるのだと改めて思っています。つまり、私たちの教会の大きな柱は二つあり、一つは平和のメッセージを世界に向けて発信することと、もう一つは地域のために祈ることです。一つめの平和のメッセージを世界に向けて発信することは、教会がどこにあってもできることです。しかし、地域のために祈ることは、地域に溶け込んでいないと、なかなかできないように思います。どこに教会があっても地元のために祈ることはできますが、教会が地域に馴染んでいるかいないかでは、祈る私たちの祈りの深さも違って来るのではないかなと思います。この教会では、廣瀬先生のご一家が32年前に越して来て、そして二人のお子さんが地元の幼稚園、小学校、中学校に通って地域の方々と交流をして来ました。そのように地域に溶け込んだ教会です。私としては、この地域のために祈る教会でありたいという願いと、これまでこの教会がこの地域に馴染んで来たこととは、切り離せないことのように感じています。どこの教会であってもイエス・キリストの福音を宣べ伝えることは求められており、それは教会がどこにあってもできることだと思いますが、地域のために祈ることは、地域に馴染んだ教会のほうが祈りに深さが増すように思いますが、いかがでしょうか。
 こんな話をしているのは、実は理由があり、少し話しておくことにします。
 (省略)

おわりに
 最後に聖書を見ましょう。詩篇65篇の1節と2節を交代で読みます。

65:1 神よ。あなたの御前には静けさがあり、シオンには賛美があります。あなたに誓いが果たされますように。
65:2 祈りを聞かれる方よ。みもとにすべての肉なる者が参ります。

 私たち肉なる者は、祈るために集います。そして私たちは地域のために祈りたいと思います。続いて3節と4節を交代で読みましょう。

65:3 咎が私を圧倒しています。しかし、あなたは、私たちのそむきの罪を赦してくださいます。
65:4 幸いなことよ。あなたが選び、近寄せられた人、あなたの大庭に住むその人は。
 私たちは、あなたの家、あなたの聖なる宮の良いもので満ち足りるでしょう。

 最後の聖句の「あなたの家、あなたの聖なる宮」は、この詩篇の詩人にとってはエルサレムの神殿のことですが、私たちにとっては教会の礼拝堂です。私たちは礼拝堂で礼拝を捧げ、祈りを捧げることで、神様の霊と交わり、神様の恵みに満たされ、満ち足りたいと思います。そして、この素晴らしい恵みを地域の方々と分かち合うことができるようになりたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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