平和への道

私の兄弟、友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」(詩篇122:8)

8月6日(水)の祈り会について

2014-08-04 09:15:59 | 祈り会メッセージ
8月6日(水)の祈り会はありません(林間聖会のため)
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みことばの源泉「神の愛」に浸ろう(2014.8.3 礼拝)

2014-08-04 09:12:21 | 礼拝メッセージ
2014年8月3日礼拝メッセージ
『みことばの源泉「神の愛」に浸ろう』
【ヨハネ3:1~16】

はじめに
 私たちは一つにならなければなりません。私たちが一つになることの重要性を、私はこれまで何度となく話して来ました。そのためには私たちは霊的に成長する必要があります。 
 一つにならなければならない私たちとは、まずは私たちの教会のことですが、私はもっと大きな単位においても、一つにならなければならないと考えています。随分と大きなことを言うようですが、私はキリスト教は一つにならなければならないと考えていますし、できることなら宗教も民族も一つになって世界が一つになれば良いなと思います。聖書にも私たちが一つになるべきことが書いてあります。
 世界が一つになるのに、一体どれだけの時間が掛かるのか、それはわかりません。その前に主の再臨が来るのかもしれません。この先、私たちの住む世界が一つになる方向に向かって行くのか、或いは、ますます分裂する方向に向かって行くのか、それもわかりません。しかし、世界は一つになる方向を目指すべきであるという思いを持ち続けて、働きたいと願っています。
 さて世界が一つになることの難しさに比べるなら、教会が一つになることのほうが容易でしょう。しかし、それすらもそんなに簡単なことではないことを、私たちは知っています。そのように簡単ではなくても、私たちは教会が一つになる努力をしなければなりません。それにはやはり、私たちが霊的に成長して御霊の一致を得る必要があるのだと思います。
 私たちがどうしたら霊的に成長することができるか、これまで私は様々に思いを巡らし、その都度、皆さんにお話しをして来ました。聖書には御霊に関する記述があちこちにありますから、それらの箇所を引用しながら話して来ました。そうして、これらの繰り返しによって幸いなことに私の思い巡らしも深まって来て、最初は様々な聖書箇所を断片的に捉えることしかできていませんでしたが、次第に総合的に捉えることができるようになって来た気がします。
 聖書の記者は、神様に霊感を与えられて記事を書いていますが、記者にはそれぞれ個性がありますから、記者によって神様の捉え方が異なるように見えます。例えばヨハネとパウロでは、随分と違うように見えます。しかし、ヨハネもパウロも優れた霊性を持つ使徒ですから、表面的には違うように見えても深い部分では同じ筈なのですね。私は以前から、そういう深い部分がもっと見えるようになりたいと願っていましたが、ここへ来て、ようやく深い部分が見え始めた気がしています。もちろん、まだまだではありますが、きょうはそういう深い部分を皆さんと少しでも分かち合うことができたらと願っています。
 
みことばの糸
 私はここ二、三年の間、聖書について私が感じていることをどうしたら教会の皆さんや牧師の先生方と分かち合うことができるかについて思い悩んで来ました。そうしたところ、最近になって、聖書のみことばを養蚕業のカイコが吐き出す「糸」に例えたら上手く説明できるのではないかというアイデアが与えられました。私たちが使っている聖書は、みことばが何万行にもわたって書かれていますが、これらの行が、創世記から黙示録まで、一本の糸でつながっていると考えるわけです。そして養蚕業のカイコは、この糸で繭(まゆ)を作りますが、人は、この「みことばの糸」で聖書を作りました。
 人は、カイコが作った繭の糸をほどいて拠り合わせて生糸を作り、生糸を編んで布を作り、布から衣服などの布製品を作ります。同様にして聖書の記者は「みことば」の糸から聖書の記事を書き、聖書の編者は記事を編んで聖書という布を作り、そうして様々な人々が聖書という布を加工して信仰書や注解書などの本を作ります。きょう私が皆さんに訴えたいのは、このような「みことばの糸」や、糸を編んでできた布や衣服は神様の愛を感じるための入門書のようなものであるので、この入門の段階で満足していてはならないということです。聖書や信仰書を読んで頭で理解してわかったつもりになるのでなく、もっと神様の愛を全身全霊で感じることができるようにならなければなりません。
 そのことを分かっていただくために、再びカイコの例えに戻ります。カイコは繭を作る時に口から糸を吐き出しますが、カイコの体の中に糸があるわけではなく、カイコの中にあるのは粘液状の蛋白質です。その粘液状の蛋白質がカイコの口を出る時に糸になります。この蛋白質はカイコの体の中にある時は定まった形を持っていませんが、カイコの口を通る時に糸という形になって外に出て来ます。
 「みことばの糸」も同じです。「みことばの糸」の源(みなもと)は神の愛です。神は霊ですから(ヨハネ4:24)、神の愛も定まった形を持っていませんが、預言者の口を通して語られる時にみことばという形になります。そして神の愛を「みことばの糸」にする働きを担っているのが、「ことば」であるイエス・キリストです。きょうの聖書交読でご一緒に読んだヨハネの福音書のプロローグにあるように、イエス・キリストは「ことば」です。私たちは天の父に直接お会いすることはできませんが、その代わりにイエスさまが私たちに天の父の愛をことばにして私たちに伝えて下さいます。そして、イエス・キリストは旧約の時代の初めからおられますから、旧約聖書の神のことばも、新約聖書の神のことばも全てイエス・キリストが「みことばの糸」として預言者や聖書の記者に供給したものだと言えるでしょう。
 私が聖書のみことばを「糸」に例えるアイデアが与えられたのは、旧約の時代の律法のことばが非常に長いものだからです。律法のことばが長ければ、糸の長さも長くなります。そして、この糸の長さは時間の長さでもあります。長い律法のことばを人に伝えるには時間が掛かります。あまりに長いので退屈に感じて疎かにしたり、律法のことを人間を縛る縄(ロープ)のように誤解してしまったりします。しかし、律法は元々は「神の愛」です。神は永遠の中にいますから、神の愛もまた永遠の中にあります。しかし、ことばにすると時間が付随して来ます。
 ここで理性と霊性の違いについて話しておきたいと思います。きょうのメッセージで私は、私たちはもっと霊的に成長する必要があるということを言っています。私たちは、もっと霊性を育てなければなりません。霊性とは神の愛のような時間の無い(或いは過去・現在・未来が一体の)永遠の世界を感じ取る力であると言えるでしょう。一方、理性は物事を論理的に処理して理解する力です。論理的に理解するとは、物事をきちんと順序立てて理解することと言えます。順序立てることには、時間が付随します。ですから、時間が付随しているみことばとは、神の愛を理性によって論理的に理解できるようにする試みであると言えるでしょう。
 神の愛を理性によって論理的に理解することは、もちろん必要なステップです。なぜなら、生まれながらの私たちは、まだ霊性が眠った状態にありますから、神の愛を霊性によって感じることができません。ですから、先ずは理性によって神の愛の存在を知る必要があります。そうして神の愛に気付くようになると聖霊が働いて私たちの霊性が目覚め始めます。つまり、みことばは霊性を目覚めさせるためには不可欠です。しかし、みことばはあくまで理性に訴えるものですから、みことばを理性で理解することに励み過ぎると、みことばの源泉に遡り、神の愛を霊的に感じることが、なかなか出来なくなってしまいます。
 ですから、きょう私が皆さんに訴えたいことは、もっと神様の愛にどっぷりと浸かろうではありませんか、ということです。みことばには時間が付随しているので、そのままでは私たちの霊性はほとんど育ちません。私たちが霊性を育むには、時間が存在しない神の愛の源泉にまで遡って、神の愛にどっぷりと浸からなければなりません。そうして神様に私たちの霊性を育てていただきたいと思います。
 みことばの糸の源流を遡って霊性を育むことは、非常に大切なことです。みことばに依らずに単に霊性だけを育てようとすると熱狂主義に陥ったり悪霊に取り憑かれたりする危険性があります。ですから霊性を育むには、正しくみことばの源流を遡る必要があります。

ヨハネ3:16の「神の愛」にどっぷり浸かろう
 そのための聖書箇所として示されているのが、きょうの聖書箇所であるヨハネの福音書3章の前半の部分です。このヨハネ3:1~16にはニコデモとイエスさまとの間で交わされた、聖霊についての会話が記されており、その会話に続いて「聖書の中の聖書」とも呼ばれるほどに重要な聖句であるヨハネ3:16があります。この宝石のようなヨハネ3:16は、なぜ3章に置かれているのでしょうか。1章でも2章でもなく、或いはまた4章以降でもなく3章に置かれているのは何故でしょうか。これから、じっくりと見て行きたいと思います。そうして時間を越えた神の愛を共に分かち合うことができたらと願っています。
 この3章の箇所ではニコデモが登場します。このニコデモはパリサイ人でユダヤ人の指導者であることが1節に書かれており、10節でイエスさまはニコデモに、「あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか」と言っています。この10節のイエスさまの言葉には、イスラエルの教師であるニコデモに対するイエスさまの苛立ちの感情が感じられます。イエスさまと天の父とは一つですから(ヨハネ10:30)、イエスさまの苛立ちは天の父の苛立ちを反映したものです。そして、もし私たちが「神の愛」にどっぷりと浸かっているなら、この苛立ちを他人事と感じるのでなく、父とイエスさまの苛立ちに共感することができるでしょう。
 昨年からの説教で説明して来たように、ヨハネの福音書のイエス・キリストは永遠の中を生きており、紀元30年頃の「イエスの時代」だけではなく、「旧約の時代」と「使徒の時代」も同時に生きています。それゆえニコデモと会話しているイエスは紀元30年頃にいると同時に「旧約の時代」にも「使徒の時代」にもいます。では、ヨハネ3章のイエスとニコデモの会話の場面は「旧約の時代」と「使徒の時代」のどの辺りに相当するでしょうか。それは、この3章の箇所の前後を見ることでわかります。
 まず「旧約の時代」は、前のヨハネ2章でイエスが水をぶどう酒に変えた場面がモーセがナイル川の水を血に変えた場面に相当し、続く2章後半の過越の祭りはモーセがイスラエルの民を率いてエジプトを脱出した場面に相当します。そして23節の、

2:23 イエスが、過越の祭りの祝いの間、エルサレムにおられたとき、多くの人々が、イエスの行われたしるしを見て、御名を信じた。

は、出エジプト記14章31節の(週報p.3)、

14:31 イスラエルは【主】がエジプトに行われたこの大いなる御力を見たので、民は【主】を恐れ、【主】とそのしもべモーセを信じた。

と重なりますから、ヨハネ2章まででエジプト脱出を完了して、ヨハネ3章からは荒野に入って行くことになります。また、ニコデモの箇所の後ろの3章14節にあるモーセが荒野で蛇を上げたことは民数記に記されており、また3章22節の「ユダヤの地に行き」はヨシュア記でイスラエルの民がヨルダン川を渡ってカナンの地に入ったことを示します。これらのことから、ヨハネ3章のイエスがパリサイ人のニコデモと会話を交わす場面は「旧約の時代」にあっては、「律法の授与」ということになります。
 もう一つの「使徒の時代」は、ヨハネ2章のカナの婚礼がペンテコステの日にガリラヤ人たちに聖霊が注がれた出来事、そして先ほども引用したヨハネ2章23節の

2:23 イエスが、過越の祭りの祝いの間、エルサレムにおられたとき、多くの人々が、イエスの行われたしるしを見て、御名を信じた。

は、同じペンテコステの日にガリラヤ人たちに次いでユダヤ人たちにも聖霊が注がれたことと重なっています。また、ヨハネ4章でサマリヤ人たちがイエスを信じた場面は、使徒8章でサマリヤ人たちに聖霊が注がれた場面と重ねてありますから、ヨハネ3章でイエスがニコデモに聖霊について話している場面は「使徒の時代」にあっては、ユダヤ人に聖霊が注がれてからサマリヤ人に聖霊が注がれるまでの間の期間ということになります。

「神の愛」に鈍感な私たち
 では、ヨハネ3章で聖霊についての説明をニコデモにしたイエスが見せたニコデモに対する苛立ちは何を意味するのでしょうか。それは、「旧約の時代」にあっても「使徒の時代」にあってもユダヤ人たちが「神の愛」に無理解であったことへの神の苛立ちであると私は感じます。「旧約の時代」のイスラエル人たちは「神の愛」の表れである律法が授与された後も、何かと言えばすぐに神から離れてしまう者たちでした。モーセがシナイ山で神から律法を授けられている時、イスラエルの民は金の子牛の像を作って礼拝しました(出エジプト32章)。また荒野を放浪している間は水や食べ物のことで不平不満を言ってばかりいました。モーセが荒野で蛇を上げたのも、民の不満がきっかけでした(民数記21:4~9)。
 そしてまた「使徒の時代」のユダヤ人たちもイエスを信じた者たちもいましたが、大半はイエスを信じるには至らず、かえってイエスを信じた者たちを迫害していました(使徒4~7章)。「旧約の時代」のユダヤ人たちは律法を守らず、「使徒の時代」のユダヤ人たちは律法を守ってはいても「神の愛」のことをわかっていませんでした。それは、律法が理性に訴えることばで綴られているために、霊性で感じるべき「神の愛」を感じることができなかったからだと言えるでしょう。
 このような「神の愛」がわからない人々のためにイエス・キリストは十字架に掛かり、「神の愛」を示して下さいました。ヨハネの手紙第一4章9節と10節は、次のように書いています(新約聖書p.469)。

4:9 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。
4:10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

 つまり、神がこれほどまでのことをして下さらなければ、私たちは神の愛に気付かないほど霊的に鈍感であるということです。人はみことばを理性で理解しようとしますから、霊性が育たずにいて、その結果、せっかく預言者たちを通してみことばが語られたにも関わらず、そこから神の愛を見出すことができずにいました。それほど鈍感な者たちでも神の愛に気付くことができるように、御子は十字架に掛かって下さったと言えるでしょう。そうして、一部の人々は神の愛に気付くことができるようになり、霊性を育むことができるようになりました。しかし、相変わらず理性だけが働いていて霊性が育たない人々も多くいます。現代の教会の問題として、イエス・キリストを信じて洗礼を受けても教会生活が長続きせずに教会から離れてしまう人々が多いということをよく耳にします。私は、それは神の愛を理性でしか理解しておらず、霊性で感じていないからであろうと考えます。

旧約と新約の多重の「神の愛」を感じよう
 さて、ここで改めて「聖書の中の聖書」と呼ばれるヨハネ3:16をじっくりと眺めてみたいと思います。

ヨハ 3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

 このヨハネ3:16をじっくり観察するなら、ここには御子を信じる者でも滅びる場合があるということが書いてあるのだと私は読み取りたいと思います。それは一つには、御子が十字架に掛からなかった場合ですね。御子イエスが神の子キリストであることを信じても、もし御子が十字架に掛からなかったなら、御子から離れて行く可能性があります。信じた者と御子とのつながりがあまり強くはないからです。或いはまた、御子イエスが十字架に掛かって死んだままであったとしても、やはり躓いて信仰から離れて行ってしまう可能性があります。ですから、このヨハネ3:16を味わう場合には、イエスが十字架で死んだ後によみがえって天に上り、私たちに聖霊を注ぐということまで含めて考えなければなりません。ヨハネ3:16が聖霊の注ぎまで含めて理解しなければならないことは、ニコデモに聖霊の説明がされた後に書かれていることからもわかります。また、16節の直前の14節ではモーセに言及していますから、律法の恵みも含めて考えなければなりません。
 すると、このヨハネ3:16には律法と聖霊という「旧約の時代」の「神の愛」と「新約の時代」の「神の愛」の両方が含まれているということになります。ヨハネ3:16を味わう時には、ぜひこのような律法と聖霊という多重の神の愛を感じることができるようになりたいと思います。

源泉は全ての聖書記事に通じる
 この旧約の神の愛と新約の神の愛についてはエレミヤの預言ともまた重なって来ます。私がよく引用する箇所ですがエレミヤ31章の31節から33節までを交代で読みましょう(旧約聖書p.1302)。

31:31 見よ。その日が来る。──【主】の御告げ──その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。
31:32 その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった。──【主】の御告げ──
31:33 彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。──【主】の御告げ──わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。

 33節の「律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす」とは聖霊のことです。ですからエレミヤの預言は成就しました。このように旧約の時代のエレミヤの預言が新約の時代に成就することは、時間に縛られている人間の感覚では不思議なことに感じますが、みことばの源流を遡るなら、もともとは過去・現在・未来が一体の神の愛の中にあることですから、預言の成就は不思議なことではありません。
 パウロはローマ人への手紙の中で「私たちは律法は霊的なものであることを知っています」(ローマ7:14)と書いていますから、パウロもまた律法が神の愛の表れであることを感じていたのだと思います。或いはまたパウロは「福音のうちには神の義が啓示されている」(ローマ1:17)とも書いています。私はパウロにとっての「神の義」はヨハネにとっての「神の愛」に近いものであったのではないかという気がしています。
 このように、もし私たちが「みことばの糸」の源流である「神の愛」に遡り、その中にどっぷりと浸かるなら、聖書のみことばは旧約・新約の区別なく、記者の区別もなく、元々は一つなのだということを感じることができるようになります。「ことば」であるイエス・キリストが神の愛を「みことばの糸」として私たちに供給して下さったのは、私たちが生まれながらの状態では霊性が目覚めていないからです。ですから、私たちがイエス・キリストを信じて聖霊が注がれ、神の愛のことを少しでも感じることができるようになったなら、私たちは、みことばの源泉に遡って神の愛にどっぷりと浸かるようにならなければならないと思います。いつまでも時間に縛られていてはならないと思います。
 永遠の中を生きる神の恵みをしっかりといただくためには、私たちは、みことばの源流に遡って「神の愛」にどっぷりと浸かる必要があります。そこに温泉のように浸かって全てを神に委ねるなら、神の平和に満たされます。
 私たちが温泉にどっぷりと浸かり、体の力を抜くなら、自分の体が軽くなるのを感じます。それはお湯からの浮力が働くからです。同様に神に全てを委ねる時、私たちの心は神の浮力を受けてとても軽くなるのを感じます。また神は永遠の中にいますから、時の流れに流されて漂流する感覚が無くなり、心の安定を得ることができます。

おわりに
 最後に、ここもまた私がよく引用する箇所ですがルカ10章のマルタとマリヤの箇所をご一緒に読みたいと思います。イエスさまのみことばに耳を傾けていたマリヤはみことばの源流を遡り、源泉の「神の愛」にどっぷりと浸かっていたのだと思います。ルカの福音書10章の38節から42節までを、交代で読みましょう(新約聖書p.134)。

10:38 さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村に入られると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。
10:39 彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。
10:40 ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」
10:41 主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。
10:42 しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」

 お祈りいたしましょう。
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