平和への道

私の兄弟、友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」(詩篇122:8)

わたしと父とは一つです(2014.3.2 礼拝)

2014-03-03 07:29:31 | 礼拝メッセージ
2014年3月2日礼拝メッセージ
『わたしと父とは一つです』
【ヨハネ8:26~30、10:26~30、12:49~50】

はじめに
 礼拝のメッセージでは、ここしばらくはマタイとマルコの福音書を「ヨハネの永遠観」を通して観ることを続けて来ました。きょうは再び、ヨハネの福音書そのものに戻りたいと思います。ヨハネの福音書の読み方で、まだお伝えしていない大切なことがあったことに気付いたからです。
 ヨハネの福音書は永遠の中を生きるイエスを描いた書であることを、私はこの礼拝メッセージで繰り返し説いていますが、その根拠となる聖句である「わたしと父とは一つです」(ヨハネ10:30)について、まだあまりしっかりとは説明していなかったように思いますので、きょうは、その説明をすることにします。
 イエス・キリストが「わたしと父とは一つです」と言った時、それは紀元30年頃のイエス・キリストが父と一つであっただけでなく、旧約の時代においても、また使徒の時代においても、そして現代においてもイエス・キリストと御父とは常に一つであることを示しています。
 そしてまた、今回私はこの説教を準備する中で、「わたしと父とは一つです」は、新約聖書と旧約聖書とは一つの書であることも言っているようだということを示されました。 きょうはそれらのことを、ご一緒に感じていただくことができることを願っています。

御父のことばをそのまま告げるイエス
 さて、きょうの聖書箇所は3箇所もありますから、ちょっと多いのですが、 それはヨハネの福音書のイエスさまがいろいろな箇所で、同じことを言っていることを意識していただきたいために、少し多すぎるとは思いましたが、敢えて3箇所を聖書箇所としました。
 まず、8章の26節から30節までを、ご一緒に見ましょう。26節、

8:26 わたしには、あなたがたについて言うべきこと、さばくべきことがたくさんあります。しかし、わたしを遣わした方は真実であって、わたしはその方から聞いたことをそのまま世に告げるのです。」

 きょうのメッセージで、先ずしっかりと感じ取っていただきたいことは、イエス・キリストは御父のことばをそのまま話しているのだということを、複数の箇所で繰り返し表明しているということです。それは、つまり今日のタイトルにもあるように、「御父とイエスとは一つである」ということです。
 ですから、それは紀元30年頃だけのことではなくて、旧約の時代においても、使徒の時代においても、そして現代においても、イエスは御父と一つであって、イエスは御父の話すとおりに話しているのだということです。

悟らない「彼ら」
 続いて27節、

8:27 彼らは、イエスが父のことを語っておられたことを悟らなかった。

 ここにいるイエスは、永遠の中を生きているイエスです。私は再三に亘ってヨハネの福音書のイエスは紀元30年頃のイエスだけではなくて、旧約の時代にも使徒の時代にも、そして現代にもいると、皆さんに説明して来ました。
 ということは、この27節の悟らない「彼ら」というのも、イエスの時代のユダヤ人たちだけではなく、旧約の時代のユダヤ人たちのことでもあり、使徒の時代のユダヤ人たちでもあり、現代の私たちのことでもあるということです。
 旧約の時代のイスラエルの民は、ご承知のように、ほとんどの時代において預言者たちが語る御父のことばに耳を傾けずに、不信仰の道を歩んでいました。モーセと共に荒野を放浪していたイスラエルの民もそうでしたし、アッシリヤに滅ぼされた北王国の民もそうでしたし、バビロニアに滅ぼされた南王国の民もそうでした。イスラエルの民がモーセやイザヤ、エレミヤなどの預言者たちの語る御父のことばに耳を傾けなかったことは、イエスのことばに耳を傾けなかったのと同じことです。なぜなら、イエスは御父と一つであって旧約の時代も生きているからです。
 ですから、27節の悟らない「彼ら」とは、旧約の時代のイスラエルの民のことでもあります。同様に、この悟らなかった「彼ら」は、使徒の時代のユダヤ人たちのことでもあります。使徒たちは、ユダヤ人に対してイエスを信じるよう熱心に伝道しました。そうして一部のユダヤ人たちはイエスを信じるようになりましたが、多くの者は信じませんでした。

パウロの失望
 異邦人への伝道を熱心に行ったパウロも、ユダヤ人たちがイエスを信じることを強く望んでいました。しかし、イエスを信じようとしないユダヤ人たちが多くいることを嘆き、失望していました。そのパウロの失望は、イエスの失望でもあります。
 ここで、使徒の働きの一番おしまいの方を見てみましょう。使徒の働き28章16節を見て下さい。

28:16 私たちがローマに入ると、パウロは番兵付きで自分だけの家に住むことが許された。

 この16節の「私たち」というのは、この使徒の働きを書いたルカとパウロたちの一行のことです。パウロはエルサレムで囚われの身となった後にローマに送られて来ました。その時、使徒の働きの記者のルカもパウロに同行していました。そして、パウロは囚われの身ではありましたが、牢屋に入れられたのではなく、番兵付きの自分の家に住むことが許されたとルカは記しています。
 そして、17節にあるように、パウロはローマにいるユダヤ人のおもだった人たちを呼び集めました。その時、このユダヤ人たちは、次のように言いました。22節、

28:22 私たちは、あなたが考えておられることを、直接あなたから聞くのがよいと思っています。この宗派については、至る所で非難があることを私たちは知っているからです。

 このようにユダヤ人たちがパウロの話を直接聞きたいと言ったので、日を定めてパウロは彼らに話をすることにしました。23節、

28:23 そこで、彼らは日を定めて、さらに大ぜいでパウロの宿にやって来た。彼は朝から晩まで語り続けた。神の国のことをあかしし、また、モーセの律法と預言者たちの書によって、イエスのことについて彼らを説得しようとした。

 パウロはユダヤ人たちがイエスのことを信じるよう、懸命に説得しました。そして24節、

28:24 ある人々は彼の語る事を信じたが、ある人々は信じようとしなかった。

 信じるユダヤ人もいましたが、信じようとしないユダヤ人もいましたから、パウロは失望しました。25節から28節に掛けての記述からは、パウロの失望が、ひしひしと伝わって来ます。そしてこの、パウロの失望はイエスさまの失望でもありました。25節から28節までをお読みします。

28:25 こうして、彼らは、お互いの意見が一致せずに帰りかけたので、パウロは一言、次のように言った。「聖霊が預言者イザヤを通してあなたがたの父祖たちに語られたことは、まさにそのとおりでした。
28:26 『この民のところに行って、告げよ。あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが、決してわからない。
28:27 この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、その目はつぶっているからである。それは、彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟って、立ち返り、わたしにいやされることのないためである。』
28:28 ですから、承知しておいてください。神のこの救いは、異邦人に送られました。彼らは、耳を傾けるでしょう。」

 こうしてパウロだけでなくルカや多くの者たちの働きによって異邦人たちにもイエスの教えが宣べ伝えられた結果、今や日本人の私たちにもイエス・キリストの教えが届くようになりました。しかし、パウロにとってはユダヤ人たちの一部しかイエスを信じなかったことが残念でなりませんでした。
 そして、その残念な思いはイエスの思いでもありますから、永遠の中にいるイエスは、現代を生きる私たちの多くの者もイエスを信じようとしないことを残念に思っています。ヨハネの福音書を読む私たちは、イエスさまが現代の私たちのことも残念に思っているということも、是非感じ取りたいと思います。

悪い牧者のエホヤキム王
 ヨハネの福音書の8章に戻りましょう。28節、

8:28 イエスは言われた。「あなたがたが人の子を上げてしまうと、その時、あなたがたは、わたしが何であるか、また、わたしがわたし自身からは何事もせず、ただ父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話していることを、知るようになります。

 イエスは、ここでも「父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話している」と言っています。そして29節、

8:29 わたしを遣わした方はわたしとともにおられます。わたしをひとり残されることはありません。わたしがいつも、そのみこころにかなうことを行うからです。」

 御父は御子イエスとともにおられるのですね。だからイエスは御父が教えたとおりに話すことができました。それは、この紀元30年頃のイエスの時代だけでなく、旧約の時代や使徒の時代においても同様でした。
 今度はヨハネ10章を見てみましょう。ここでは旧約の時代に注目することにします。ヨハネ10章の1節と2節、

10:1 「まことに、まことに、あなたがたに告げます。羊の囲いに門から入らないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です。

 このヨハネ10章の背後にある旧約の時代は、エルサレムが滅亡寸前の状態になっていたエホヤキム王の時代であることは、これまで何度か話して来ました。それは、この10章の前後の9章と11章から考えても、間違いのないことです。一つ手前の9章で盲人の目が開いたことの背後にある旧約の時代は、ヨシヤ王の時代の律法の書の発見のことであり、一つ後ろの11章でラザロがよみがえったことの背後には、滅亡してしまったエルサレムがエズラ・ネヘミヤの時代に再建された出来事があります。
 ですから、この10章の1節でイエスが言っている、羊の囲いに門から入らないで、ほかの所を乗り越えて来る盗人と強盗とは、エホヤキム王の時代にエルサレムに攻め入った外国人の略奪隊のことです。
 こうしてエルサレムは滅亡寸前になっていました。王であるエホヤキムはこの国の牧者として民を守らなければなりませんでしたが、この王は民を守ることができない牧者でした。このエホヤキム王の時代の預言者がエレミヤでした。きょうの聖書朗読で読んだエレミヤ書の23章には、その時の状況が書かれています。
 もう一度、エレミヤ書の23章を見てみましょう(旧約聖書p.1284)。1節と2節、

23:1 「ああ。わたしの牧場の群れを滅ぼし散らす牧者たち。──【主】の御告げ──」
23:2 それゆえ、イスラエルの神、【主】は、この民を牧する牧者たちについて、こう仰せられる。「あなたがたは、わたしの群れを散らし、これを追い散らして顧みなかった。見よ。わたしは、あなたがたの悪い行いを罰する。──【主】の御告げ──

 それゆえエルサレムはやがて滅亡してしまいます。

良い牧者であるイエス
 しかし、その後に主は良い牧者を立てて、復興させることをエレミヤは預言しています。3節から6節までを、今度は交代で読みましょう。

23:3 しかし、わたしは、わたしの群れの残りの者を、わたしが追い散らしたすべての国から集め、もとの牧場に帰らせる。彼らは多くの子を生んでふえよう。
23:4 わたしは彼らの上に牧者たちを立て、彼らを牧させる。彼らは二度と恐れることなく、おののくことなく、失われることもない。──【主】の御告げ──
23:5 見よ。その日が来る。──【主】の御告げ──その日、わたしは、ダビデに一つの正しい若枝を起こす。彼は王となって治め、栄えて、この国に公義と正義を行う。
23:6 その日、ユダは救われ、イスラエルは安らかに住む。その王の名は、『【主】は私たちの正義』と呼ばれよう。

 預言者のエレミヤは、このように預言しました。御父はこのように預言者たちの口を通して民に向かって語り掛けました。そしてイエス・キリストと御父とは一つですから、エレミヤが語った御父のことばはイエスのことばでもありました。今ご一緒に読んだエレミヤ23章3節からエレミヤは、良い牧者について語っていますが、実はこれはイエス・キリストがエレミヤの口を通して、ご自身について語っていることばであるのだ、というのがヨハネの福音書が言っていることです。
 ヨハネ10章に戻りましょう。10章の10節と11節を交代で読みましょう。11節を皆さんで読んで下さい。

10:10 盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。
10:11 わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。

 イエス・キリストは良い牧者ですから、このイエスのことばの背後には、滅亡寸前のエルサレムで御父のことばを語っていたエレミヤの姿があります。しかし、イエスのことばを信じない人々がエレミヤの時代にも、イエスの時代にも、多くいました。
 少し飛ばして今日の聖書朗読の箇所の26節と27節をお読みします。

10:26 しかし、あなたがたは信じません。それは、あなたがたがわたしの羊に属していないからです。
10:27 わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。
 そうしてイエスを信じる者には永遠のいのちが与えられます。28節と29節、
10:28 わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。
10:29 わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。

 永遠のいのちが与えられた者は、決して滅びることがないとイエスさまは言いました。永遠の中を生きるイエスさまが、このようにおっしゃるのですから、これほど心強いことはありません。30節、

10:30 わたしと父とは一つです。

 万物を創造し、私たちに命を与えて下さった天の御父と一つであるイエスさまが、私たちは決して滅びることがないとおっしゃって下さっています。こうして私たちの心には絶大な安定感が与えられています。この素晴らしい恵みを与えて下さっている主をほめ讃えて、心一杯感謝したく思います。

新約聖書と旧約聖書とは一つ
 最後に、今日のもう一つの聖書箇所の12章の49節と50節を見ましょう。ここでも、イエス・キリストは、御父と一つであり、御父の言われた通りを話しているのだということを繰り返し述べていることを確認しておきたいと思います。
 49節と50節を交代で読みましょう。

12:49 わたしは、自分から話したのではありません。わたしを遣わした父ご自身が、わたしが何を言い、何を話すべきかをお命じになりました。
12:50 わたしは、父の命令が永遠のいのちであることを知っています。それゆえ、わたしが話していることは、父がわたしに言われたとおりを、そのままに話しているのです。

 この後のヨハネ13章からは、最後の晩餐の場面になります。これ以降、イエスが教えを説いたのは、弟子たちに対してだけです。ですから、このヨハネ12章は、イエスを信じようとしない人々に対してイエスさまが最後の説得を試みた場面です。その最後の説得の場である12章でヨハネはパウロと同じようにイザヤ書の6章を引用しています。
 ヨハネ10章の39節から41節までをお読みします。

12:39 彼らが信じることができなかったのは、イザヤがまた次のように言ったからである。
12:40 「主は彼らの目を盲目にされた。また、彼らの心をかたくなにされた。それは、彼らが目で見ず、心で理解せず、回心せず、そしてわたしが彼らをいやすことのないためである。」
12:41 イザヤがこう言ったのは、イザヤがイエスの栄光を見たからで、イエスをさして言ったのである。

 ですから、イエスを信じない人々に対するイエスの失望はパウロの失望でもあり、ヨハネの失望でもあり、イザヤの失望でもあり、エレミヤの失望でもあります。そして、イエス・キリストはイエスを信じようとしない現代の人々に対しても失望しています。それはまた私たちの失望でもあります。私たちイエス・キリストを信じる者は、イエスさまと失望を共有しています。しかし、伝道の働きが十分にできていないのは、もしかしたら私たちが、御父とイエスとは一つであることを私たちが十分に理解できていないからなのかもしれません。
 私たちは旧約聖書と新約聖書を別のものとして捉える傾向があるように思います。神様はお一人ですから、本当は旧約・新約などという区別は無くて聖書は一つであるのに、ついつい別の書であると考えてしまうということは、イエスが言った「わたしと父とは一つです」が十分に理解できていないからではないかという気がします。そのために、神の愛を人々に十分に伝えるきることができていないように思います。

おわりに
 ヨハネ13章1節には、「世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された」とあります。このイエスの愛は、御父と一つであるイエスの愛ですから、人知を遥かに越えたスケールの大きな愛です。このスケールの大きな愛を私たちは、できる限り減らすことなく人々にお伝えできる者たちでありたいと思います。
 人知を遥かに越えた愛ですから、その愛を残るところなくお伝えすることは、もちろん無理なことです。それでも、できる限り残るところなく、大きなままでお伝えすることができる者でありたいと思います。そのために御父と御子イエス・キリストが一つであることを、しっかりと理解できる私たちでありたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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