平和への道

私の兄弟、友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」(詩篇122:8)

今、この世を支配する者を追い出す(2013.12.29 年末感謝礼拝)

2013-12-30 05:28:19 | 礼拝メッセージ
2013年12月29日年末感謝礼拝メッセージ
『今、この世を支配する者を追い出す』
【ヨハネ12:27~33】

12:27 今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ。この時からわたしをお救いください』と言おうか。いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。
12:28 父よ。御名の栄光を現してください。」そのとき、天から声が聞こえた。「わたしは栄光をすでに現したし、またもう一度栄光を現そう。」
12:29 そばに立っていてそれを聞いた群衆は、雷が鳴ったのだと言った。ほかの人々は、「御使いがあの方に話したのだ」と言った。
12:30 イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためにではなくて、あなたがたのためにです。
12:31 今がこの世のさばきです。今、この世を支配する者は追い出されるのです。
12:32 わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます。」
12:33 イエスは自分がどのような死に方で死ぬかを示して、このことを言われたのである。

はじめに
 きょうの礼拝は年末感謝礼拝です。いよいよ2013年の最後の礼拝となりました。欠けだらけの私の奉仕を皆さんが補い、支えて下さったことに心より感謝いたします。手漕ぎのボートに例えるなら、全員がオールを持って、ここまで漕いで来て、この年末感謝礼拝に辿り着くことができたと感じています。それは、もちろん私たちの主イエス・キリストが私たちに力を与えて下さったからこそ、できたことです。きょうは、このことを神様に心から感謝したく思います。お祈りいたしましょう。

「ハレルヤ。主に新しい歌を歌え。聖徒の集まりで主への賛美を。
 主は、ご自分の民を愛し、救いをもって貧しい者を飾られる。」(詩篇149:1,4)
(祈り)

 きょうのメッセージのタイトルは『今、この世を支配する者を追い出す』で、中心となる聖句は12章31節の二つ目の文の「今、この世を支配する者は追い出されるのです」です。「この世を支配する者」とは悪魔のことです。悪魔は様々な手を使って私たちが神への信仰を持たないようにします。多くの人々は、この悪魔の働きに妨げられて信仰を持つに至りません。それでも、幸いにも信仰を持つことができた者もいます。悪魔は、そのように信仰を持つに至った者に対しても執拗に攻撃を続けて、信仰から引き離そうとします。悪魔は、様々な汚い者を私たちの心に注入します。それらの例は、先週の礼拝でも言いましたが、イエス・キリストがマルコの福音書の中で言っているようなことですね。イエス・キリストは次のように言いました(マルコ7:20-23)。

7:20 「人から出るもの、これが、人を汚すのです。
7:21 内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、
7:22 姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、
7:23 これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。」

 悪魔はこれらの汚いものを人の心の中に注入して、人が神の方を向くことを妨げます。まだ信仰を持っていない人は、それゆえに、なかなか神の存在を信じることができませんし、神を信じた人でも、これらのものが心の中を占拠するなら再び神が見えなくなって、神から離れて行きます。

創り主を信じることを妨げる悪魔
 悪魔はさらに、人が神を創り主であると信じることの邪魔もします。先週の説教では、神を創り主(造り主)であると信じることはキリスト教の根幹であり、極めて大切なことであるという話をしました。
 盗みや殺人が悪いことであることは、信仰を持っていなくてもわかります。社会通念でそのようになっています。しかし、社会通念だけだと突きつめて考えて行った時に、どうして盗んだり人を殺したりしてはいけないのか、そんなに明快ではありません。新聞や雑誌の相談コーナーのような所で、「どうして人を殺してはいけないのですか」という質問をたまに見ることがあります。命の大切さや、周囲の人が悲しむことや、社会秩序のことなど、回答者はいろいろことばを尽くして答えますが、それらの答にも、さらに「どうして?」と突っ込むことができる突っ込み所が満載なように思います。
 しかし、聖書信仰を持つ私たちの場合は、どうして盗んだり人を殺したりしてはいけないかの理由は単純明快です。それは、神が「盗んではならない」(出エジプト20:15)、「殺してはならない」(出エジプト20:13)と言っているからです。 私たちは、この神の戒めを守らなければなりません。なぜなら、神が私たちの創り主だからです。神が私たちに命を与えて下さったのですから、私たちは神の戒めを守らなければなりません。
 この、神が私たちの創り主であるという信仰がしっかりとあるなら、信仰は揺るぎないものになると思います。逆に、この神が私たちの創り主であることを、しっかりと信じることができていないと信仰は揺らぎ易く、神から離れて行き易いと思います。また、神が私たちの創り主であることを信じることができないから信仰を持つに至らないという人も多いでしょう。悪魔は巧妙ですから、私たちが神を創り主として考えることを妨げようとします。

永遠の時間観を持つことを妨げる悪魔
 その悪魔の巧妙な戦略の一つが、私たちが永遠の時間観を持たないようにしていることでしょう。この悪魔の戦略は非常に上手く行っていて、私たちは未だに永遠の時間観を持つに至っていません。私たちが永遠の時間観を持っていないために、神が万物を創造した「初めの時」を遠い過去のことと感じてしまい、信じることを難しくさせています。もし私たちが【過去・現在・未来】が混然一体となった永遠の時間観を持っているなら、神が万物を創造した「初めの時」も、身近な出来事として感じることができますから、神が創り主であることを信じることは難しいことではありません。
 私たちが永遠の時間観を持つに至っていないのは、私たちが【過去→現在→未来】という従来型の直線的な時間観に強力に支配されているからです。人類がこの従来型の時間観の支配から脱出して【過去・現在・未来】が一体の永遠の時間観を持つに至るなら、世の中は相当に上手く行くはずです。報復の連鎖によって戦争を繰り返す世界から脱出して、平和な世界を実現することができるでしょう。しかし、今の所、人類は従来型の時間観にがっちりと支配されています。悪魔の戦略は非常に上手く行っているのですね。ですから、私は、従来型の直線的な時間観が悪魔そのものだとさえ言えるのではないかと思っています。ヨハネ12:31の「今、この世を支配する者は追い出されるのです」の追い出されるべきものは、従来型の直線的な時間観であると私は言いたいと思います。この悪魔の時間観さえ追い出すことができたなら、悪魔そのものを追い出したと言えるほどに、世界は相当に良い方に変わるだろうと思います。

父が既に現した栄光とは何か
 きょうの聖書箇所の中には、私たちがいかに従来型の時間観に支配されているか、が良くわかる箇所が含まれています。従来型の直線的な時間観の悪い所は、過去のことを必要以上に遠い過去にしてしまうことです。永遠の時間観を持つなら何千年・何万年・何億年もの過去や未来のことでも身近に感じることができるはずなのに、私たちは従来型の時間観に支配されていますから、たかが何千年か前の出来事であっても、遠く離れた時代の出来事としてしまっています。その、私たちがいかに従来型の時間観に支配されているかが分かる箇所とは、12章の28節です。私が27節を読みますから、皆さんで28節を読んで下さい。ここは、イエスが人々に向かって話している時に天から父の声が聞こえた箇所です。

12:27 今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ。この時からわたしをお救いください』と言おうか。いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。
12:28 父よ。御名の栄光を現してください。」そのとき、天から声が聞こえた。「わたしは栄光をすでに現したし、またもう一度栄光を現そう。」

 28節で天の父は、「わたしは栄光をすでに現したし、またもう一度栄光を現そう」と言いました。この28節の前半の「わたしは栄光をすでに現した」の「すでに現した栄光」とは、どの栄光のことを指しているでしょうか。皆さんはどの栄光のことだと思いますか。このヨハネ12章の28節の天の父の声の箇所は、イエスが既にエルサレムに入京していて(13節)、十字架に掛かる直前の箇所ですから、ここまでにイエスは弟子たちと宣教の長い旅を続けて来ました。すると、どうしても、父が既に現した栄光を、イエスの地上生涯の出来事から探そうとしてしまいます。それは、当然そうなりますね。このヨハネの福音書の中だけでもイエスは12章に至るまで長い旅をして来ましたし、しかも、このヨハネの福音書は新約聖書の中では四番目の福音書ですから、マタイ・マルコ・ルカの福音書でそれまでに3回、イエスの地上生涯が繰り返されています。また、マタイの福音書の前のマラキ書との間には、400年以上もの空白の期間がありますし、マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネはギリシャ語で書いてありますが、その前の旧約聖書はへブル語で書いてあります。ですから、私たちは、この空白の期間を必要以上に長く感じてしまっているようです。
 実は、この28節で父が言った「すでに現した栄光」とは「旧約の時代」の栄光のことなのですが、私たちは皆、「すでに現した栄光」をイエスの地上生涯の中に見出そうとします。12章に至るまでも、ヨハネの福音書のイエスは様々な奇跡を行って見せていますから、その中から「すでに現した栄光」を見出そうとします。12章に近い箇所から順におさらいしておくと、11章ではラザロをよみがえらせ、9章では盲人の目を開き、6章では五千人の給食の奇跡を行い、5章では38年間病気であった人を立って歩かせ、4章では離れた所にいる王室の役人の息子の病気を直し、2章ではきよめの水を良いぶどう酒に変えました。父が既に現した栄光は、これらの奇跡の中のどれのことだろうかと、どうしても考えてしまうでしょう。しかし、実は父が既に現した栄光とは「旧約の時代」の栄光のことです。
 従来型の直線的な時間観だと、「旧約の時代」の出来事は遠い過去の話になってしまうので、「すでに現した栄光」は何かと考えた時、どうしてもイエスの地上生涯の中という非常に近い出来事の中から探そうとしてしまうのですね。しかし、永遠の時間の中にいるなら、「旧約の時代」も身近な出来事として感じられます。

ヨハネ12:28はブレイクスルーの起点
 実は、このヨハネ12章28節は、私がヨハネの福音書の独特の時間構造に気付くというブレイクスルーがあった起点の箇所です。これまでの礼拝説教の中で私は、ヨハネの福音書の永遠の時間観のことを繰り返し、しつこく語って来ましたが、この永遠の時間観に気付くようになった経緯については、まとまった形では話していなかったと思いますから、今日のこの2013年の最後の礼拝という機会に話しておくことにします。
 ヨハネの福音書の背後に「旧約の時代」が隠されていることに私が最初に気付いたのは2011年の6月で、それは私が神学生の4年生で関西の教会にインターン実習生として遣わされていた時のことでしたが、私はそれ以前から、ヨハネの福音書のことが大好きでした。2009年の秋、神学生の2年生の時に、神学院の男子寮での祈祷会の説教でヨハネの福音書からの連講をすることにして、それ以来、この福音書の魅力に魅せられ続けています。翌年の神学生の3年生だった2010年の夏、夏期実習で2ヶ月間、関西の教会に遣わされた時には、私は祈祷会の説教を8回、礼拝の説教を2回担当したと思いますが、全ての説教をヨハネの福音書からしました。それぐらい、私はヨハネの福音書のことが好きでした。しかし、その時にはまだ私も、ヨハネの福音書はマタイ・マルコ・ルカの共観福音書と同じ、イエスの地上生涯だけを描いた福音書だと思っていました。
 そうして、神学生の4年生になってインターン実習で関西の教会に滞在している時に、これは既に話したことですが、朝、聖書通読でレビ記1章を読み始めて間もなく、涙が溢れて来て止まらなくなるという経験をしました。レビ記は律法のおきての「~しなければならない」、「~しなければならない」ということばが延々と続きますから、それまでの私にとってレビ記は、ただひたすら退屈な書でした。高津教会の一般信徒だった時には、このレビ記のせいで聖書通読に2度失敗していました。レビ記の前の出エジプト記の後半の幕屋の作り方で既に「~しなければならない」のオンパレードが始まっていますから、出エジプト記の段階で既に退屈しています。そして、ようやく出エジプト記の「~しなければならない」が終わったかと思ったら、レビ記でまだ「~しなければならない」が続くので、それ以上読み進める気力が無くなってしまうのですね。私にとって、レビ記とはそれぐらい退屈な書でした。しかし、2011年の6月17日の朝にレビ記を読み始めた時には、そこから父の深い愛が感じられて、涙がボロボロ出て来てしまいました。これは間違いなく聖霊体験であると言えます。私がレビ記で涙するなど、それまでの経緯から考えると考えられないことだからです。これは間違いなく聖霊によって魂が揺さぶられた聖霊体験でした。そうして、私は律法には父の愛がたっぷりと詰まっていることが分かり、律法は恵みなのだということが分かりました。
 このようにして律法は恵みなのだということを聖霊によって教えられたことで私は、それまでヨハネの福音書の中で、どう解釈して良いか分からないでいた箇所が分かり始めました。最初に分かったのは、ヨハネの福音書1章の16節と17節です。お読みします。

1:16 私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。
1:17 というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。

 この16節の「恵みの上にさらに恵みを受けた」の、さらに恵みを受ける前の恵みがモーセの律法の恵みだということに確信を持てたのですね。もし律法が恵みではないのなら、16節の「恵みの上にさらに恵みを受けた」は、新約のイエスの恵みを強調する表現として「恵み」を2回繰り返していることになります。しかし、律法が恵みであるなら、モーセの律法の恵みの上に、さらにイエスの恵みを受けたということになります。それで私はレビ記で涙したことによって律法は恵みなのだと聖霊に教えられましたから、16節は、モーセの律法の恵みの上にイエスの恵みを受けたのだと確信しました。
 そして遂に、12章28節の解釈というブレイクスルーのポイントの所に思いが至りました。ブレイクスルーというのは、突き破るという意味で、研究の世界では良く使われることばです。そこを突き破ることで新しい世界が開けた時に、ブレイクスルーがあったという言い方がされます。12章28節の父が「既に現した栄光」については、どの注解書を見ても、それが「旧約の時代」の栄光であると解説している書を私はまだ見たことがありません。しかし、この父が「既に現した栄光」とは「旧約の時代」のことなのだと聖霊体験を通して確信が与えられました。レビ記で涙して天の父の愛を霊的に深く理解したことで永遠の時間観が与えられたのでしょうね。私にとって「旧約の時代」は身近な時代になっていましたらから、父が「既に現した栄光」は「旧約の時代」のことだと確信しました。
 そこまで分かったら、後は芋づる式に次々と、背後に隠された「旧約の時代」のことが見えるようになりました。本当に次々と新しい発見があったので、まさにこういうことを、ブレイクスルーがあったと言うんだな、と実感した幸せな時でした。

従来型の時間観に強く支配されている私たち
 しかし、私は幸せな気分に浸る一方で、人に話しても分かってもらえないことで失望も味わいました。背後の「旧約の時代」の存在理由を上手く説明できなかったので、人にも分かってもらえませんでした。私としては、「旧約の時代」が存在すること自体は、人にも問題なくすぐに分かってもらえると思っていました。そうして、「旧約の時代」が存在するという事実を皆に分かってもらった上で、「旧約の時代」の存在理由については私一人が無い知恵を絞るより、皆で考えるべきだと思っていました。しかし、「旧約の時代」の存在をなかなか人に理解してもらえなかったので、存在理由も自分で考えなければならなくなりました。ただし、その時はまだ私も「使徒の時代」の存在にまでは気付いていませんでしたから、「永遠の時間観」という考え方に辿り着くのは、もっとずっと後のことです。この「永遠の時間観」というキーワードに辿り着くまで私は悶々と悩み続けました。この悶々と悩んだ期間がありますから私は、人がいかに従来型の「直線的な時間観」に縛られているかが、ものすごく良くわかります。私たちは従来型の時間観に支配されていますから、私たちは「永遠の時間観」に気付くことができていません。「直線的な時間観」を私が「悪魔の時間観」であると考えるのは、こういう経緯があるからです。

今が悪魔の時間観を追い出す時
 この「悪魔の時間観」は本当に人々を強力に支配しています。今話して来たように、私が人にヨハネの福音書の背後の「旧約の時代」のことを少し話したぐらいでは全然分かってもらえません。それで、私は少し長めの説明もするようにしたのですが、それでも分かってもらえません。そうして私は、これは本を一冊書かなければダメだなと思うようになり、最近になって、ようやく本一冊分の文章を書き上げました。いろいろと修正しなければならない箇所がありますから、まだ完成とは言えませんが、もう少しで、人に読んでもらえる所まで来ています。来年の1月の後半か2月には人に読んでもらい、コメントをもらって修正を加えることで、何とか出版できるレベルにまで引き上げて、世に出すことができたらと願っています。来年の中頃までには、何とか出版できるところまで辿り着けないだろうかと思っています。そうして、このヨハネの永遠の時間観について書いた本が出版に至るなら、その時が、ヨハネ12章31節の、「今、この世を支配する者は追い出されるのです」とイエス・キリストが言った時になるのだと思いますし、この教会にとっては、今がその時です。

永遠の時間の中を生きている私たち
 私たちは見かけ上は【過去→現在→未来】の直線的な流れの時間の中を生きていますが、実際は【過去・現在・未来】が一体の永遠の時間の中を生きているのだということを、私自身は強烈に感じています。というのは、今ちょうど私のヨハネの永遠の時間観の本が完成しつつある時に、日本の情勢が急速に悪くなって、今や日本の平和が脅かされているからです。
 私が伝道者となるよう召し出された2008年の春は、今と比べれば、まだ平和な時代でした。与党の自民党もそんなに強くありませんでしたから今のような強引な政治はできませんでしたし、野党の民主党も、まだ政権交代ができる所までは行っていませんでした。しかし、私が神学生になった翌年の2009年に民主党への政権交代があり、今にして思えば、これが却って今の自民党の一強時代を作ることになってしまいました。今の政権は平和を脅かすことを次々と行い、その結果として東アジアでは緊張が高まり、今や偶発的な軍事衝突が起こりかねない状況になっています。
 いま私は、世界が平和を実現するための切り札は、ヨハネの永遠の時間観に皆が慣れ親しむようになることしか無いであろうと考えます。人類はこれまで延々と戦争を繰り返して来て、これからも、やはり延々と戦争を繰り返すことでしょう。しかし、1世紀の聖書の時代にヨハネが提示していた永遠の時間観に皆が気付き、皆がこの永遠の時間観を深く理解することができるようになるなら、平和を実現できる可能性が大いにあります。
 これまでも話して来たように、永遠の時間の中を生きるなら、人は誰でも被害者でもあると同時に加害者でもあります。この誰もが被害者であると同時に加害者でもあるという認識を皆が共有するなら、人は互いに赦し合い、互いに愛し合うことができるようになるでしょう。それによって直ちに平和が実現できるとは私も思っていませんが、少なくとも平和実現へのスタートラインには立つことができるでしょう。従来型の時間観のままではスタートラインにすら立てないのですから、大きな違いです。スタートラインに立ってから本格的な平和の実現までに100年は掛かるとしても、今まで二千年掛かってもできなかったことなのですから、100年で出来るなら感謝なことです。今の子供たちの世代に、この重要な役割を託し、今の子供たちがまた次の世代にこの役割を引き継ぐなら、やがて必ずや世界の平和を実現することができるでしょう。

今が永遠の時間観を宣べ伝えるスタートの時
 今の緊張が高まっている時代は、平和を実現する永遠の時間観のことについて人々に耳を傾けてもらうには、むしろ良い時代なのかもしれません。私が2008年の春に召し出されたのは、今の危険な時代に合わせて、平和の時間観を訴えるためだったのだと、いま私は感じています。神には今のことが見えていて、2008年から、それに向かって備えられていたのだという気がします。永遠の中を生きるとは、そのようなことなのだと今、私は実感しています。また、さらに遡るならば、私が、かつて大学の留学生センターで外国人留学生たちと親しく交わっていたことや、その前には理工系の研究者であったことも、全部、今に至るまでの準備の期間であったのだと思います。
 留学生センターで私は韓国人留学生の教育プログラムに携わっていましたから、韓国人の考え方も多少知ることができました。韓国人にとって、日本人の悪者と言えば朝鮮に出兵した豊臣秀吉と、日露戦争後にできた朝鮮統監府の初代の統監の伊藤博文で、韓国の二大英雄と言えば、豊臣軍を撃退した将軍の李瞬臣と、伊藤博文を暗殺した安重根なのだそうです。日本人としては、豊臣秀吉の時代のことを持ち出されても困ってしまうのですが、韓国の人々にとっては、根深い恨みがあるようです。そのような韓国人と比べると、日本人はどういうわけか淡泊というか、お人好しというか、何故だか良く分からないのですが、例えば原爆投下について考えてみると、原爆という核兵器のことは強く憎んでいますが、原爆を投下したアメリカ人のことはそんなに激しく恨んでいるわけではありませんね。ですから、私は神がヨハネの永遠の時間観を発信する発信地として日本を選んだのは、それなりの理由があるのではないかと考えます。日本人は民族全体で何百年も前のことについて他の民族に対して恨みを持ち続けることはないように思いますから、従来型の時間観から脱しやすいのではないかという気がします。悪魔の時間観を追い出して、永遠の時間観を持つためのスタートを切るのに、日本という場が最もふさわしいと神様は考えていらっしゃるのではないか、いま私はそのように感じています。

おわりに
 まもなく2013年が終わって2014年になります。2014年は人類が永遠の時間観に慣れ親しむためのスタートラインに立つ年であると私は考えます。永遠の時間の中を生きるイエス・キリストは、「今、この世を支配する者は追い出されるのです」(ヨハネ12:31)とおっしゃっています。私たちはその最前線に立つのだという覚悟を持って2013年を終えて2014年を迎えることができたらと思います。
 そのためにお祈りさせていただきます。
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