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虹色教室通信

遊びや工作を通して 子どもを伸ばす方法を紹介します。

「若者たちはなぜ、社会に対して何かを訴えたり行動したりしないのか」という内田樹氏への質問 9

2011-10-27 16:37:28 | 番外(自分 家族 幼少期のことなど)

「若者たちはなぜ、社会に対して何かを訴えたり行動したりしないのか」という内田樹氏への質問 8

の続きです。

 

息子の話に何度かウィトゲンシュタインの名前が挙がることがあって、 

きちんと読めていないけれど、その内面世界の広がりに共感する、魅力を感じる、といった

感想を耳にしていました。

 

それをきっかけに息子が次のようなことを言いました。

息子  「最近の若者は内向的で外に目が向かないって声をよく聞くけど、

内向することは必ずしも悪いことばかりじゃないよ。

確かにぼくの周囲にも内面世界の安定を何より優先している人は

多いと思う。

内面世界が広がり過ぎたゆえに、いままで効果がなかったイメージ戦略が

重要視されてるとも言えるよね。

この水の何パーセントかが海外ボランティアへの募金につながります~なんて

言葉にぼくたちの世代が惹かれることを、

単なる世間知らずやゆとり教育が作りあげた弱々しい人間という枠でだけ捉えるのは

どうなのかな?

小さな損害に騒ぎ立てて、攻撃しているように見えるときにも、

裏を返せば、私利私欲をもさぼる人への嫌悪感と

ぼったくらずにまともに商売している人を守りたいという

潔癖な気持ちが動いていたりするもんだよ。

 

ネットの掲示板を見ていても、

心の奥へ奥へと内面世界に目を向ける人は確実に増えていて、

解決をそこに求める人々も多いのがわかる。

ただ、内面世界が広がるばかりで、

その世界が成長するすべを持っていないんだ。

純文学を読んでいると、ひと昔前の若者も、

内向することを選んだけれど、そこには成長するための確固とした

基盤や背景があったのを感じるよ。

 

今、ぼくたちが自分たちの内面世界を成長させる活動は

商業主義の社会とか日常の慢性的な忙しさに邪魔されているように思うな」

 

母 「自分の内面世界を広げることに価値を見出す若い子たちは、

内面世界を切り捨てて、外界に目を向けるより先に、

内面世界を成長させるすべを求めているのね」

 

息子 「発展途上国の子どもたちがさ、学者になりたい、宇宙飛行士になりたいという

夢を語る一方、日本の子らは夢がない、夢が小さいと嘆かれがちだけど。

でも、ある面、今の日本の子らは『本質的なもの』を見ているともいえるんだよ。

あれになりたい、これになりたいという元々の夢が安易すぎるという点もある。

お金もいになりたい、大金持ちになりたいという夢よりも、

自分自身の日常生活や心の状態の安定を第一に考えるようになっていることを、

単に志が低いという一言で言い表すだけで正しいのかな。

 

本質を見ているということは、職業とか車や家や持ち物よりも

心や内面世界の安定を大事にしているってことだよ。

もちろん、そこに批判されるような欠陥がないわけじゃない。

でもそれは志を同じにするもの同士がネット上のつながりを通して

いくつもの人の集まりを作っているわりに

そこにリーダーがいないこともあるんだと思う。

つまり、話が戻るけど、内面世界の成長が阻まれているから、

集団のひとりひとりの思いをていねいに拾って、

ひとつの創造的な解決法に向かって方向付けていく力が

育っていないんだと思う。

でも、それが起こる必要がある場は、

必ずしも外の世界の先にアウトプットして団結することからはじまる活動ではなくて、

内面世界の本当のみんなにとっての最善を議論し、熟考して練っていく場から

生まれる活動なんだと思う。

さまざまな事象が複雑に絡まり合う今の世界では、

考えるよりまず行動とばかりに

攻撃や暴力を全面に出して動けば

必ずとばっちりを受ける誰かがいるはずで、それはたいてい

何の落ち度もない普通の人のはずだよ。

だから、ただ若い人が内向的な態度を改めて、外に目を向け、車を買い、流行の商品を追いかけ、

不満に対して互いに共感しあって何か行動を起こせばいいってわけじゃないと思う。

今、多くのぼくたちの世代が内面に目を向けているとしたら、

それには大事な意味もあるんじゃないかな」

 

母 「確かに、思い当たるわ。お母さんの母の世代、★(息子)のおじいちゃん、おばあちゃんたちというのは、

何か根本的ない内面世界の大事な部分が欠けているように見えるところがあってね。

たとえば、おばあちゃんはクリスチャンになって日曜礼拝に通っていたけれど、

まるで『クリスチャンである』ということを、

他と自分を分類するためのレッテルや記号のように認識しているように感じるときがあったわ。

聖書は読むけれど、聖書を読んでいる自分という図に満足して、

その内容に少しも近づいていないという感じかな。

まるで、CMで流れる清らかな1シーンを自分のイメージにかぶせるために

クリスチャンになったかのような。

おそらくおばあちゃん、おじいちゃんの親世代が敗戦のショックから立ち直るために

ひたすら外に目を向けて、

自分の内面世界と向き合うことを極端に避けていたこととも関係があるんじゃないかしら。

そんな風に内面世界というか、アイデンティティーというか、

そういうものがまるで空洞であるかのように感じるのは、

母(祖母)だけではなかったの。

あの時代の大人たちの会話のなかにある、

すごく表層的で、美しいものを求めているのに神経症的で、

清潔で完璧で強くてすばらしい世界のイメージの背後にある

人間の不在のようなものを、

子どもの頃、身近な人の死に遭遇したときに

実感したわ。

そういうお母さんも、そうした祖父母世代のもとで育って、

欠如感だけ抱いて成長した後で、

20歳くらいの頃は自分がさっぱりない状態で病んでていてね、

結婚してから長い期間をかけて、自分の全体性を取り戻してきたのよ」

 

息子 「外に向かう心と同じように

内に向かう心も大事にしなきゃならないってことだね。

そんな風に外に向けて何かをアウトプットするのと同じように

内面で起こることも大事にしてくってさ、

こういうことだと思うんだ。

ほら、マザーテレサは、自分で動いて、社会に働きかけて、

多くの人々を助けたことで有名だから、外に向けてアウトプットされた

行動だけが評価されがちだよね。

でもぼくは、マザーテレサが内面に持っていた

人を助けることに喜びを感じることができるという感性の方に

魅力を感じるんだ。

マザーテレサは、他人を助けることが良い行いだからとか、

道徳的な行動を率先してすべきだからという理由で

活動していたんじゃないと思う。

自分の内側に育ててきた

人を助けると自分も気持ちいい、自分まで喜びを感じる、

人を助けることは自分の内なる神への奉仕であると感じていた

感じ方そのものが、マザーテレサを動かし続けたんじゃないかな。

人は多かれ少なかれ、人を助けたときに、

純粋に自分が喜びを感じる側面を持っていると思うよ。

それは、自分のためにしている行為だから、道徳的な正しい行為より

劣るってことはないはずだよ。

内面世界は、外の世界と同じように

価値を認めて、大切にして、成長させていかなければならない

世界だと思うよ」

 

 

 


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